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#3 The disastrous accident大椿事

 車に揺られて一時間ほど経った頃、蜃気楼の向こうに歪んだテントの群れがぼんやりと見えた。運び屋が立ち寄る予定のキャラバンのようで、車はその入口でゆるやかに停車した。
「降りたほうがいい?」
 ナマエが尋ねると、運び屋は一度頷いてから、
「ああ。どっかで休憩しててくれ」
 そう言って車のエンジンを切った。途端にエアコンの冷風も止まってしまう。数分後の車内は蒸し風呂状態になるのが容易に想像できた。
「これから積荷を下ろすんですよね? 何か手伝うことはありますか?」
「いい。手伝いはここのキャラバンの奴らに頼むから、お前らは休んでろ」
「うん」
「わかりました」
 二人の返事を聞くと、運び屋は運転席の横の収納箱から何かメモを取り出して確認を始めた。それを尻目に、ズオ・ラウはいつも腰に携えている鞄だけを手に取り車を降りる。
 地面に降りると、一度だけ背伸びをした。長時間座っていたせいで身体が強張っている。それから軽い柔軟運動を終え、腰に鞄を括り付けていると足元に小さな影が落ちた。
 最初は気にも留めていなかったのだが、影はこのあたりをうろちょろと移動している。ズオ・ラウはだんだん気になってきて、たまらずに頭上を見上げた。
 周囲を旋回する影の主を目で追う。鳥かと思ったが太陽光を反射するので、どうやら違うとズオ・ラウは悟った。
 警備用のドローンだった。流線型のボディには銃火器などは取り付けられておらず、炎国ではあまり見ない形式だ。じっと見上げていると、ドローンはその場に滞空し続けた。まるでズオ・ラウを監視しているかのように動かない。
 そうしていると、いつの間にかナマエが隣に並んで立っていて、ドローンに手を降りはじめた。するとドローンは警戒すべき対象ではないと判断しらしく、まるで興味を失ったかのようにどこかへ飛んでいく。
「あれは自動巡回でしょうか」
「どうだろ、わかんない」
 ナマエはそう言って肩をすくめて見せる。
 原始的かつ牧歌的なキャラバンだというのに、最新鋭の防衛装置が備わっているのがいささか奇妙だ。裏を返せば、治安が悪い事の証明でもある。
 ナマエの先導で、ズオ・ラウは野営地の内部に足を進めた。
 ざっと見回した所、人数は二十人にも満たない。キャラバンは一時的にここで休憩を取っているだけのようで、大仰な荷物などは広げていない。明日にはここを出発するだろうことが伺えた。
 ちょうどテントの日陰になっているところを見つけ、そこに二人で腰を下ろした。しばらく地べたに座って休んでいると、近くのテントで休んでいた年配の女性が見かねて折りたたみ式の椅子を貸してくれた。
 そのまま談笑に花が咲くのを、ズオ・ラウは黙って眺めた。ナマエが異国の言葉で軽妙にやり取りを交わしているが、やはりどこか外連味のようなものを感じ取ってしまう。とはいえ、ズオ・ラウが知っているロドスでのナマエは大人しい性質だからそう感じるのかもしれない。
 空に目を向けると、太陽はまだ傾いた位置にある。昼前だ。やることもないので、ズオ・ラウは持参した水を口に流して嚥下する。
 やがて女性はテントに戻っていき、ナマエはふうと一息ついた。
「……お話長かった」
 ぽそっと呟く。
「なんの話をしていたんですか?」
「私達がどこから来たのかと、目的地とか。あとさっきの賊の話」
「そうですか」
 話の内容はズオ・ラウの予想の範疇だったので、特に興味は惹かれなかった。
「ズオくんの言葉が通じたら丸投げできるのにな」
「年長者は無碍にするものではありませんよ」
「頭ではわかってるんだけどね」
 そう言ってナマエは苦笑を浮かべると、手荷物から水を取り出して飲み始めた。
 ささやかだが、態度が軟化しているようにズオ・ラウには感じられた。何がきっかけなのかわからないし、ただの気のせいかも知れない。
「ああ、いたいた」
 聞き慣れた声に揃って顔を上げる。用を済ませたらしい運び屋がこちらに歩いて来るのが見えた。
「もう出るの?」
「いや、少し早いが飯にしよう。わけてくれるってさ」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうする」
 それもそっか、とナマエは独りごちて立ち上がり、椅子をたたみ始めた。その意図を察してズオ・ラウもてきぱきと椅子をたたむ。女性に椅子を返却し、礼を言ってから運び屋の後ろをついて行った。
 案内された場所には簡単な天幕と敷物がしいてあった。中央に木製のテーブルが置いてあり、商人たちが賑やかに昼食を摂っている。彼らは三人の姿を視界に入れた途端、友好を示すかのように破顔し、座る場所を確保してくれた。
 テーブルの上には、乾燥した豆を煮込んだものと、小麦粉を水で捏ねた生地を平べったく伸ばして焼いたものだけが並べられている。ズオ・ラウには名称がわからないし、食べ方にしてもおおよその目星はつくが、それが正しいのかあやふやだ。
 どうしたものかと考え込んでいると腕を軽くつつかれ、ズオ・ラウはそちらに目を向ける。ナマエだった。人口密度のせいで、肩が触れそうな距離にいる。
 ナマエはズオ・ラウの顔を見て、
「これね、こうやって食べるんだよ」
 穏やかに言うと、生地に豆を煮込んだものを乗せてくるくると折りたたむように巻く手順を見せてくれた。それに習い、ズオ・ラウも見様見真似で口に運ぶ。
 小麦の生地は炎国の煎餅果子よりはしっかりとした食感だったし、豆の煮込みはおそらく乾燥した豆と野菜を煮込んだものだろうが、肉が入っていない割に味は濃厚だった。
 ズオ・ラウが二枚食べる間に、ナマエは一枚をゆっくりと食べている。商人たちにもっと食べろと言わんばかりに小麦の生地の皿を勧められ、ナマエは苦笑して首を横に振った。そうなると、彼らの矛先は当然ズオ・ラウと運び屋に向く。運び屋が笑顔で受け取る傍ら、言葉はわからないがもっと食えと言わんばかりに押し付けられた三枚目を、ズオ・ラウはなんとか平らげた。
 ありがたいことに、商人たちは食後の茶も用意してくれた。香りが良く、飲むと満ち足りた気持ちになる。
「そういえば、荷下ろしを手伝ってくれた商人が昔お前の世話になったって言ってたぞ」
 ナマエが驚いた様子でカップから口を離す。ズオ・ラウも興味を惹かれ、視線を二人へ向けた。
「ほんと? いつ頃だろ……」
「そこら辺は聞かなかったが、傭兵に戻らないのか、ってしつこく聞いてきた」
 傭兵という不穏な単語にズオ・ラウは内心驚きつつ、黙って二人の話に耳を傾ける。
「そう言われても、困るな……」
 言葉を濁し、ナマエは視線を泳がせる。その先にズオ・ラウの顔があって、視線がかちあうとナマエはあからさまに目を逸らした。
「お前、まだロドスにいるつもりか? 俺としても、気の置けない奴を用心棒として雇えると助かるんだが。最近のやつは足元見てくるからどうしようもねえ」
「交渉の努力をしろ」
「それが嫌だから言ってんだろ」
「甘えるな」
 悪態をつき、ナマエは再度カップに口をつける。
ナマエさんは以前、傭兵をされていたんですか?」
 頃合いを見計らってズオ・ラウが尋ねると、ナマエは小さく頷いた。
「期間はどれくらいですか?」
「五年」
 ズオ・ラウは面食らった。戦闘経験は自分の倍以上だ。
 驚くのと同時に、自分よりも戦闘経験は少ないだろうと無意識のうちに相手を見下していたという事実に気付き、ズオ・ラウは気まずさのあまり何も言えなくなった。
 そんなズオ・ラウの複雑な胸中を知る由もなく、ナマエは言葉を続ける。
「でも、駆け出しの頃はほとんどばあや頼みだった」
「雇い主に買い叩かれてたな」
「うるさいよ」
 先ほど運び屋が「気の置けない」と言っていたように、本当に付き合いが長いのだろう。二人のやり取りを聞きながら、ズオ・ラウはなんともいえない疎外感に襲われる。
「ロドスはまだやめるつもりはないよ」
 ナマエがきっぱりと意思表示すると、運び屋は眉間に皺を寄せ、
「製薬会社をうたってはいるが、戦争屋だろ。大丈夫なのか?」
 随分と踏み込んだ話を持ちかけるので、ズオ・ラウはぎょっとした。
 運び屋の疑問はズオ・ラウにとっても密かな懸念事項だった。ロドスは人道支援を掲げる傍ら、あらゆる事変に介入している。何が目的なのかはいささか不明な点が多く、ズオ・ラウが所属している司歳台もこれには少々懐疑的な姿勢を見せている。ロドスという組織が信用できるか否かを、ズオ・ラウを派遣することで見極めている最中といったところだ。
「今のところは大丈夫」
「本当か? 例えばの話だけどよ、一介の花屋が武装しときながら、私は純粋な花屋です怪しくないですって、そんな理屈が何処に通用するんだよ」
「……まあ、それはそう」
 ナマエは気まずそうに視線をそらし、カップに口をつける。
「お坊ちゃんはどう思うんだ? はっきり言ってまともじゃないだろ」
 いきなり話を振られてズオ・ラウは内心戸惑った。正直に語れば運び屋の背中を押すことにもなるが、ズオ・ラウはロドスに滞在させてもらい、おまけに給金を貰っている立場でもある。無碍には出来ない。
「……私の主観ですが、職員に対する福利厚生もしっかりしていますし、衣食住のサポートも徹底管理がなされています。今のご時世、あれだけの組織はそうそうないですよ」
 とズオ・ラウが言えば、運び屋はにわかに目を細めて、
「ふうん。なら炎国の高官であらせられるお坊ちゃんが、賊に狙われるかもしれないという危険性を見越してサルゴンの辺境くだりまで派遣されたのも、ロドスの手厚い福利厚生の一環ってことか?」
「……」
 反論も何もできず、ズオ・ラウの目線は自然と下がった。そして、炎国にいた頃からの疑問がもたげる。
 なぜ自分はきつい物言いをされることが多いのか。若輩者ゆえの言動の甘さから軽く見られやすいという自覚はあったが、炎国にとどまらないとは思いもよらなかった。もしや自分は無料で殴れる砂袋か何かと思われているのではないか――などという被害妄想すらも芽生えたところで、ナマエが身を乗り出した。
「ズオくん、気にしないで。こいつ意地が悪いから」
 顔に嫌悪をにじませながら、運び屋に食って掛かる。運び屋はバツが悪そうに視線をそらし、
「……悪かったよ」
「ともかく、この話はこれでおしまい。せっかくのお茶が不味くなる」
 それを皮切りに、さっきの息苦しいような空気はどこへやら、ただの雑談に戻った。
 お茶を飲み終えると商人たちに礼を言ってキャラバンを後にした。三人で車に乗り込んだ。出発時と同じようにシートベルトをしたのを運び屋が確認すると、車は走り出す。
 目的地まで数時間かかるというナマエと運び屋の会話を聞きながら、ズオ・ラウはぼうっと外の景色を眺めていたが、いつしか眠りについていた。

 ふいに軽い振動が身体を襲い、ズオ・ラウは目を覚ました。見るとナマエが車外からドアを開け、ズオ・ラウの肩を揺すっている。半覚醒の状態でしきりに瞬きをしていると、
「起きた? ついたよ」
 気遣うようなナマエの言葉を聞き、ズオ・ラウの意識は瞬時に覚醒した。無防備な寝顔を臆面もなく晒してしまった事にあたふたとする。
「す、すみません……」
「別にいいよ。荷物下ろすの手伝って」
「はい」
 荷物と鞄を手に車から降りると、目前に広がる景色にズオ・ラウは自ずと息を呑んだ。
 ズオ・ラウが今踏みしめている街道はもちろん舗装されているが、周囲の土壌は砂地ではなく赤褐色の地面で、それもかなりの硬度を保っているように見えた。
 帯状の道路の先を視線で辿っていくと渓谷があり、車が一台通れるか怪しい幅の橋が掛かっていた。橋の向こうにはまばらに木が生え始め、雑草も生い茂るようになり、やがて林、森、連なる山々へとグラデーションのように切り替わっていく。山々の奥には濃い霧がかかって白く澱んでおり、その先は目視も危うい。
 車の荷台から必要な物資を全て下ろし、背嚢を前後ろに背負った挙げ句、両手にも抱える。ロドスからの物資の他に運び屋の荷物も委託され、かなりの重量となった。
「お兄さんはこれからどちらに向かうんですか?」
「隣の村だ。そっちに荷物届けなきゃなんねえから」
「お忙しいですね」
「まあな」
 そう言って、運び屋はにっと笑みを浮かべた。自分の仕事に誇りを感じているからこその表情だ。
「んじゃ明後日の昼過ぎ、ここに迎えに来る。遅れんなよ」
「うん」
 運び屋が車に乗るのを合図に、ナマエはズオ・ラウに向き直る。
「行こっか」
「はい」
 ナマエの先導のもと、橋を渡る。コンクリートで出来ており頑丈そうに見えるが、風によってところどころ傷んでいるのが伺える。かなり昔に施工されたもののようだ。しかし生活するにあたっては申し分ないし、修理するほどのものでもないのだろう。
 無言のまま、しかし周囲を見回しながら、ズオ・ラウはナマエの後ろをついていく。まばらに木が生えていた幅広い道はどんどん細くなっていき、最終的には荷車が通れるくらいの狭い林道となった。地面は土と砂利が混ざり、落ち葉も積み重なっていて歩きづらいことこの上ない。加えて荷物の重量もあるので、足を取られないかと肝を冷やした。
「ここ滑るかも。気を付けて」
 ナマエは腐葉土になりきらない落ち葉を蹴りながら、鬱陶しそうに言う。ズオ・ラウがおそるおそる足を踏み出すと、確かにふかふかとした足の裏に感触が伝わってきた。
 しばらくは順調な道のりだったが、立ち止まらざるを得ない状況に出くわした。
「うわっ……」
 倒木が道を塞いでおり、ナマエは露骨に顔をしかめた。ズオ・ラウも顔に苦いものを滲ませる。平時ならば軽々と飛び越えられるが、今は荷物を抱えている状態だ。
「迂回するしかないかな」
「そのようですね……」
 といっても、迂回路なんて親切なものは存在しない。道から外れ、雑草が生い茂る斜面を下りるように進んでいく。幸い、草は膝下ほどの高さで生い茂ってもいないので、歩くだけなら困らない。
 行きは下りとなれば、街道に戻るには自然と上りになる。勾配は緩やかだか、足元は草や腐葉土に隠された石があり、少し厳しいものがあった。それでも前を行くナマエが足元を確かめながら、注意が必要な場合は声をかけてくれるので、ズオ・ラウは安心して歩みを進める。
 ナマエが狭い木々の合間を通り抜けるので、ズオ・ラウも何の気もなしについていく。
 と、腰に携えた鞄がぶつかった。危うく転倒しかけ、たたらを踏んだ時だった。
 ボン、と音を立てて、ズオ・ラウの頭に何か落ちてきた。ぶつかった拍子にズオ・ラウの頭を揺らし、頭部を転がるように落ちていく。そのまま足元に落下したが、その衝撃で原型を留める程度に潰れてしまった。
 落ちてきたのは、鮮やかな黄色をした柑橘類の実だった。どうやら熟しすぎていたのか、皮がところどころ茶色く傷んでいる。
 ズオ・ラウは目を白黒させながら足元の果実を見下ろした。頭頂部にやや湿った感覚が残って気持ち悪い。そして柑橘類特有の甘酸っぱいような爽やかな匂いが、鼻腔をくすぐる。腐敗臭がないのがせめてもの救いだろう。
「ズオくん、どうかした?」
 ナマエが振り返り、怪訝そうに尋ねる。
「頭に実が落ちてきて、少し驚いただけです」
「……実?」
「私の足元にある、これです」
 ズオ・ラウはそう言って右足のつま先で潰れた果実を示すと、ナマエは視線をそちらに向ける。瞬きを繰り返し、やがてまずいものを見るかのような顔つきになった。
「なんですかその顔は……」
「……えーと」
 ナマエは視線をそこかしこに彷徨わせ、言葉を濁す。なにか含みのある態度にズオ・ラウが眉間に皺を寄せると、ふいに、顔の正面を何かが横切った。ズオ・ラウは驚いて身を引く。
 蝶だった。ひらひらと覚束なく飛んでいる。黒と青を基調とした色だったが、差し色の橙色が鮮やかに映えている。初めて目にする蝶だったのでズオ・ラウはしばらく見入ってしまったが、顔の周りをしつこく飛び回るので、じわじわと奇妙な違和感が芽生えてくる。
「……」
 右手の荷物を置き、片手で振り払う仕草をしても、蝶はしつこいくらいに纏わりつく。ズオ・ラウが困惑をあらわにしていると、どこからかまた一羽の蝶が増え、もう一羽と数を増していく。これには埒が明かないと、ズオ・ラウは右手を下ろした。
ナマエさん、これは一体……」
 そう言ってナマエに縋るような眼差しを向けると、ナマエは苦笑を浮かべた。
「今はね、この蝶の繁殖期」
「は、はあ……」
「この時期になると、そこの柑橘類の木に群がるようになる」
 ナマエの言葉を聞き終え、ズオ・ラウは先程ぶつかった木を見上げた。背丈の高い木の表面はつるりとしていて、幹に棘がある。枝分かれした先には濃い緑色の葉と橙の実が成っている。そして、鳥肌が立つほどの蝶が群がっていた。
 嫌な予感がした。
「……えーと、つまり……」
「ズオくんも同じ匂いがするから集まってきてる」
 ナマエはそう言って右手の荷物を置き、前かがみになって地面に落ちている果実に手を伸ばした。人差し指だけで、果実の表面をしつこくなぞる。
「見てて」
 そう言って人差し指をてっぺんに向けると、ややあってから一匹の蝶が吸い寄せられるように止まった。ナマエは手を下ろし、目を細めて手元の蝶を見つめると、それをズオ・ラウの眼前に差し出した。蝶はナマエの指から飛び立ち、案の定、ズオ・ラウの顔の周りをふらふらと彷徨い始める。
「この実はとても苦いし酸っぱくて食べられないんだけど、健康に害はないから大丈夫。薬効は定かじゃないけど煎じて飲む人もいるし、薬味に使う人もいる」
「……それ以外には害があるということですか?」
「うん。……ふふ」
 ナマエは頷いて、小さな含み笑いをする。
「ど、どうして笑ってるんですか?」
「ズオくんの頭に蝶がたかってるから面白い」
 ズオ・ラウは数秒固まったのち、恐る恐る頭上に手を伸ばした。広げた手をゆっくりと彷徨わせると、さわさわと何かに触れる感触がある。
 蝶の羽だ。しかも一匹ではなく無数にいる。それが、ズオ・ラウの頭に集まっている。
 幸い、ズオ・ラウは蝶は苦手ではなかったので、平常心を保てた。しかしこれが不快害虫の類だったらと思うと悲鳴を上げていたかもしれない。
「何か手立てはありますか?」
 尋ねると、ナマエは首を振った。
「ない。村についたら急いでお湯の準備するから、それまで我慢して」
「……、わかりました……」
 ナマエが地面に置いた荷物を持って歩き始めるので、ズオ・ラウも気を取り直し、荷物を持ち直してついていく。斜面を上り、ようやく林道に戻っても、ズオ・ラウの周囲を蝶が飛び回っていた。
 ズオ・ラウは気にしないようにと自分に言い聞かせながら歩くが、そうもいかなくなってきた。さっきまで先導するように歩いていたナマエが、いつしかズオ・ラウの隣を歩くようになったからだ。
 ナマエはしきりにズオ・ラウの頭上を見つめ、たまにくすっと笑って見せる。呆れ半分、微笑ましさ半分のナマエの表情が、ズオ・ラウにはたまらない。まじまじと観察されているのもわかるので、無性に恥ずかしさを煽られた。
「そんなにおかしいですか?」
 堪えきれずに話しかけると、
「うん。そんな事になってる人、初めて見た」
 ナマエが嬉しそうに答えるので、ズオ・ラウはさらに居た堪れない気持ちになる。
「……私だって初めてですよ、こんな事……」
 ごく普通に応じたつもりだったが、ズオ・ラウの口調はどこかいじけた調子だった。ナマエはさらにくすっと笑って、正面に顔を向ける。
「お互い初めてで良かったね」
「よくないです……」
 どうしようもない疲労感に見舞われながら歩いていると、ズオ・ラウの視界にまた例の蝶が映り込んできた。忌々しく思いながらも視線で追いかけると、何故かナマエの方へ飛んでいき、右手の甲に止まって落ち着いてしまった。ナマエも果実に触れていたので、その弊害のようだ。
 ナマエは手に止まる蝶の存在にすぐ気付いたが、別段追い払ったりもせずそのままにしている。その一連の仕草を眺めていたズオ・ラウの視線に気づいたのか、ナマエはズオ・ラウを見て、
「もう少しでつくから。もうちょっと頑張って」
「はい」
 気遣われたことに面食らいつつ、ズオ・ラウは返事をした。
 果たしてナマエの言う通り、数分ほどで足場の悪かった林道の状態がよくなった。脇道の雑草なども取り払われ、木々も少なくなり徐々に視界がひらけてくる。
 なだらかな斜面にぽつぽつと家が点在しているのが見えるようになってようやく、村落の入口にたどり着くことが出来た。

 木製の門はいかにも手作業で組み立てられた雰囲気があり、華美な装飾は一切施されてはいなかった。門扉は開放されていて、誰でも自由に行き来が可能だという事を伺わせる。そして門の左右には、木材で組まれた柵が村の端まで広がっていた。
 門を通り抜けた先には短い橋がかかっており、その下には水路が通っていた。流れる水は透き通っており、水質は良さそうだ。
 ナマエの後ろをついていきながら、ズオ・ラウは左右に広がる畑を眺める。雑草は取り払われ、鳥よけの案山子がまばらに並んでいる。水路に隣接した農道には柵が設けられていたりと、丹念に手入れされているのがわかった。
 農作業に勤しんでいる女性が来訪者の気配に顔を上げ、ナマエだと気付いて手を振る。そして後ろのズオ・ラウの方を見て盛大に吹き出す――というのを何度か繰り返しながら、なだらかな傾斜の砂利道を登っていく。
 やがて、とある家の前でナマエは足を止めた。目的地についたらしい。
 村落の中では少し高い位置にある一軒家だ。外壁は砂岩煉瓦を積み上げ、屋根は木材でできている。正面には柱が四本建てられていて、簡易的なデッキも取り付けられていた。庭はこまごまと植物が植えられていて、濃い紫色の花をつけたシソ科と思しき植物が面積の半数を占めている。
 ラベンダーだろうか、とズオ・ラウが予想を立てていると、
「ズオくん、ここで待ってて」
 ナマエはそう言って、勝手知った様子で敷地に入っていく。玄関前の階段を登ってデッキに上がると、両手の荷物を脇に置いてから玄関のドアを叩いた。
 かすかな返事が聞こえ、ドアが開く。
 家の中から出てきたのは若い女性だった。面立ちはどこかナマエに似ている。おそらく彼女がナマエの言っていた実姉だろう。
 女性はナマエの顔を見るや否や、満面の笑みを浮かべた。ナマエの両手を取って顔を近づける。左頬、右頬、最後におでこ同士を軽く押し当て、最後に長い抱擁を交わす。
 ズオ・ラウにとって、この所作は初めて見るものだった。何か意味があるものだろうし、この地域特有の挨拶だろうという事は容易に想像できる。
 二人はやがてどちらともなく身体を離した。ナマエはズオ・ラウを振り返ると手招きを繰り返す。ズオ・ラウは軽い緊張を覚えつつ、足を踏み出した。
 デッキに上がり、ナマエの近くまでたどり着くと、
「普通に喋って大丈夫だよ。お姉ちゃん、公用語わかるから」
「はい」
 やはり姉のようだ。ズオ・ラウは納得しながら、間近からあらためて女性を観察する。異国という文字そのままを姿形にしたような格好で、奇妙な神秘性すらたたえていた。
 対する女性も友好的な眼差しをズオ・ラウへ向けたが、すぐズオ・ラウの頭上に視線を移動させた。わずかに首を傾げながら「あら」と小さく呟いて、困ったような表情になる。
 そういった反応だろうとズオ・ラウは予想していたので、もう恥ずかしくなることは無かった。
「こっちは同行者のズオくん」
「初めまして。ズオ・ラウと申します」
「で、こっちはお姉ちゃん。……それでは三日間、お世話になります」
「こら、そんなにかしこまるとかえって緊張させちゃうでしょう?」
 たしなめるような言い方はナマエと比べると温厚だった。実際、顔つきも剣呑さがない。
「ズオ・ラウさんね、遠路はるばるご苦労さま。私はこの村で族長を務めている者だけれど……特に序列もないし、威厳もないから、気楽にしてください」
 ナマエの姉とは思えない対応に、ズオ・ラウの胸中で奇妙な感動が湧き上がった。
「はい。お世話になります」
 その返答に族長は満足そうに頷き、再度ズオ・ラウの頭上を見た。まじまじと見つめた後、ナマエに顔を向け、ほとほと困ったような顔になる。
「……ナマエちゃんは、彼に何か悪戯でもしたの?」
「し、してないよ。ただの偶然」
 そう答えるナマエはひどく焦っている。しかし族長の目つきが胡乱なものを孕むので、ナマエはピクッと怯えるように体を震わせる。
「……本当?」
「本当!」
 珍しく声を荒げて言うので、端から聞いていたズオ・ラウは内心驚いた。姉妹の力関係が明確である。
「ズオ・ラウさんはどう? この子に困るような事されてない?」
 いきなり矛先がこちらを向いたものだから、ズオ・ラウも小さく肩を震わせた。この女性、穏やかそうに見えるが、有無を言わせぬ圧力を発している。
「いいえ。これは私の不手際によるもの……で……」
 いいえ、と言ったあたりで首を降ると、その挙動で頭上の蝶が一気に飛び立った。視界いっぱいに蝶が映り込み、ズオ・ラウの言葉は徐々に尻すぼみになる。
 内心ため息をつきたい気持ちでいっぱいになっていると、一匹の蝶がナマエの人差し指に移動するのが見えた。まとわりつく蝶をナマエは鬱陶しそうに払いのけるが、蝶は結局ナマエの手に止まった。ナマエは不満そうにそれを見つめ、おもむろにズオ・ラウの頭へ手を伸ばした。
「何をするんですか」
「元いた場所に戻した」
「それはあの木であって、私の頭ではないはずです」
 ナマエは無言でズオ・ラウの外套をつまみ、そのまま指を拭き始めた。
「あの、上着に指をこすり付けないでください……」
「やだ」
「それはこちらの台詞です……」
 そんな二人を見て族長はくすっと笑みをこぼし、
「まずは荷物を置きましょうか。ナマエちゃん、倉庫に運んでくれる?」
「うん。それよりズオくんにお風呂貸したい。匂いをなんとかしないと話にならない」
「そうね。でも、お湯は夜にしたいから、シャワーでいい?」
「かまいません」
 ズオ・ラウは荷物をナマエに引き渡すと、玄関前で蝶を追い払った。身体に一匹もついていない状態になった頃合いを見計らって、ナマエが無理やり家の中に押し込んだ。遅れて族長も家の中に滑り込む。
「ズオさん、こっちよ」
「はい。お邪魔します」
 族長に案内されるままズオ・ラウは廊下を進む。不躾と思いながらも視線をさまよわせていると、居間で本を読んでいる子供と目があった。
 女の子だ。歳の頃は二、三歳くらいに見える。子供はズオ・ラウを見るなりぎょっとした様子で目を見開き、近くの椅子の後ろに隠れてしまった。
「ごめんね、人見知りで」
「いいえ。……お子様ですか?」
「ええ、そうよ。一人娘なの」
 一瞬、ご主人はどこにいるのだろうかとズオ・ラウは考えたが、あえて触れなかった。こういう話題を嫌がる人はいるし、そうでなければ自然と相手から話をしてくれるものだ。その機会を待ったほうが賢明だろう。
 案内された脱衣所でタオルを拝借し、浴室を借りた。山中の小さな村落の割に設備は整っているようで、浴室は古いながらも真新しいシャワーがあり、おまけに温水が出たのでズオ・ラウは驚いた。
 髪を乾かして作業着に着替える。さっぱりとした気持ちで廊下を歩いていると、あの小さな子供が壁に隠れるようにしてこっちを見ている。
 しばし見つめ合う。手を振ってみようかと右手を持ち上げた瞬間、子供はパッとどこかにいなくなってしまった。警戒心の高さに思わず苦笑を浮かべ、持ち上げた手を下ろす。
 ナマエの姿を探すが見当たらない。居間のテーブルで乾燥したさやから豆を取り出す作業をしている族長に一声かけてから、ズオ・ラウは鞄を持って外に出た。
 周囲を見回したが、やはりナマエの姿はない。どこにいるのか考えるも全く見当が付かず、ズオ・ラウはウッドデッキの階段に腰を下ろした。やる事もないので鞄から日誌を取り出しメモを取っていると、後方でドアが開く音がした。
 振り返ると、ナマエが足で玄関ドアを閉めるのが見えた。相変わらず行儀が悪いと思う一方で、家の中にいたのかと微かに安堵した。
「見事にいなくなっちゃったね」
 ナマエはそう言って、ズオ・ラウの隣に腰をおろした。
「……残念そうに言わないでください」
「だって、面白かったから」
 つい思い出し笑いでも始めそうな調子で言う。そんなナマエの態度にズオ・ラウは驚いたが、すぐに不平不満のもやもやとした感情に覆われてしまった。
「私としては一大事だったんですよ」
「ごめんね。……それよりこれ、飲めそうなら飲んで。少し蜂蜜が入ってる。残してもいいから」
 そう言って、湯気が立つカップを差し出してきた。
「え? あ、ありがとうございます」
 差し出されたカップを受け取る。中には木製のスプーンと赤褐色の透明な液体が入っていて、底には砕いた木の実が沈んでいた。
 ズオ・ラウはスプーンでかき混ぜながら、一口飲んだ。風味は独特としていて、ほんのり甘い。底に沈んだ木の実を掬って口に運んでみる。歯で噛むとすぐに砕け、強い甘みが口の中に広がった。どうやら砂糖で煮込んでいるようだ。
 親しみのない不思議な味は、ズオ・ラウにとっては好ましいものだった。
「全部飲めそう?」
「はい。美味しいです」
 ズオ・ラウが頷くと、ナマエは安堵したように微笑み、
「よかった」
 正面を向いてちびちびと飲み始めた。
 ズオ・ラウはしばらくナマエの顔を眺めていたが、だんだんと奇妙な居心地の悪さが芽生えてきて、正面を向く。
 農作業や軽作業に勤しむ人がまばらに見えて、ひどくのどかな光景が広がっている。それは炎国の農村とほとんど変わらなかった。国境をいくつも離れても、皆やることは同じなのだ。
「それで、明日の予定なんだけどね」
「はい」
 唐突に話しかけられ、ズオ・ラウはそちらに顔を向けた。
「早くて四時、遅くても四時半にはここを出たい。起きられそう?」
「いつもそのくらいには起きていますから平気ですよ」
「えっ、……いつも四時に起きてるの?」
「はい」
 なぜかナマエは不思議そうにズオ・ラウの顔を見つめている。何かおかしな事でも言ったかとズオ・ラウが怪訝に首を傾げると、
「おじいちゃんかな……」
「……おじいちゃんではありません」
 ナマエの独り言じみた呟きを、ズオ・ラウは穏やかに否定した。
「じゃあ、寝るのはいつも何時ころ?」
「……九時ころです」
 正直に話すことに迷いが生じたが、ズオ・ラウは馬鹿正直に答えた。
 数秒の間をおいて、
「おじいちゃんじゃん」
「ですから、おじいちゃんではありません……」
 端から聞けば奇妙なやり取りを交わしているとズオ・ラウは思った。
「なんでそんなに早寝早起なの?」
「武の鍛錬がありますので」
「一人で?」
「いいえ、指導者のもとで行います。もちろん私以外にも参加者がいますよ」
 むろん、ズオ・ラウが言う指導者とは、宗師と慕うチョンユエのことである。
 彼がロドスで武の指導をしている事に、ズオ・ラウはひどく驚いた反面、納得もした。念の為に軽い聞き込み調査を行ったが、悪影響を与えていることは無かった。そんな現状を目の当たりにし、素直な気持ちを言うとズオ・ラウもあやかりたくなったので、次の日から毎日参加し続けていた。
 そうこうしているうちに、生活リズムがチョンユエと同じ早寝早起きに変わってしまったのは、また別の話である。
「そ、そうなんだ。知らなかった……」
 本当に知らなかったようで、ナマエは口元に片手を添えて考え込んでいる。
ナマエさんも興味がありますか?」
「……やってる所を見てみないとわからない」
「では、ロドスに戻ったら参加してみてはどうですか?」
 ズオ・ラウが提案すると、ナマエはむうと口をとがらせた。
「……朝早く起きられないからいい」
ナマエさんは、いつも何時に起きてるんですか?」
「六時すぎ」
「訓練は五時からです。いつもより一時間早く起きるだけですよ」
「無理。というか、だったらズオくん四時に起きる必要ないじゃん……」
「早めに行くと、指導者の方の胸をお借りできますから」
「ふうん。熱心だね」
 ナマエは呆れとも感心とも取れる調子で呟くと、
「とりあえず、遺跡についたらビーコンを回収しながら新しいビーコンを設置して、ついでに遺跡内を少し見回ってから戻る。昼すぎには村に帰れる予定だから」
「わかりました」
「それでね、もう少し休んでからでいいんだけど、来る途中に道を塞いでた倒木があったでしょ? あれを今日中に撤去したい。手伝ってくれる?」
「はい、構いませんよ」
 それを皮切りに「他に手伝える事はありますか?」とズオ・ラウが尋ねると、ナマエは「色々ある」と困ったように言う。ナマエが手伝って欲しい事を羅列するので、何を優先すべきなのか二人で話し合っていた時だった。
 道の向こうから、一人の男の子が走ってきた。勝手知った様子で家の敷地を跨いだかと思えば、二人の正面までやって来た。
 男の子はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべながら話しかけてくるが、ズオ・ラウには言葉がわからない。首を傾げてみせると、男の子は手にしていた木の枝を突き出してきた。
 枝の先端には、二匹のかたつむりがぐにゃぐにゃと絡み合うようにくっついていた。貝殻は淡い黄緑色で、体は半透明の餅のように透き通っており内臓が透けて見える。ズオ・ラウが今まで見たことがない種類だった。この地域のみに生息する固有種だろう。
「――! ――!!」
 子供がにこやかに喋るものの、当然ズオ・ラウにはわからない。困惑をあらわにしていると、傍らに座っていたナマエがゆっくり立ち上がった。
 子供に近寄るなり、軽く頭をはたいた。ズオ・ラウはぎょっとして目を瞬かせる。
「――!!」
 ナマエが眉をひそめて叱責する。途端に子供は半泣きになり、ナマエに暴言のようなものを浴びせ掛けると、どこかへ走り去ってしまった。
「まったく……」
 ため息とともに独りごちて、ナマエはズオ・ラウの隣に戻ってきた。
「な、何も叩くことは……」
「何を言われたのかわからないから、そういう事が言えるんだよ」
 呆れ眼で言うので、ズオ・ラウは首を傾げた。
「あの子供はなんと言っていたんですか?」
 ズオ・ラウが尋ねた途端、ナマエはさっと目をそらす。
「知らないほうがいいと思う」
「せっかく話しかけてくれたんです。できれば知っておきたい」
 そう言うと、ナマエはズオ・ラウに視線を戻した。疑うような、胡乱な目つきだ。
「本気?」
「はい」
「……後悔しない?」
 くどいほど確認してくるので、ズオ・ラウは眉間に皺を寄せた。
「たかが子供の戯言でしょう? どうして後悔する必要があるんですか?」
 そう言うと、ナマエは少しためらう様子を見せる。やがて、観念したように口を開いた。
「見て見て兄ちゃん、カタツムリが交尾してる。僕はいつ交尾できるのかな、兄ちゃんはやった事ある? だって」
「ゴフッ……」
 想像の斜め上の発言に驚くあまり、ズオ・ラウはむせた。口元を手で覆って咳き込むズオ・ラウの隣で、ナマエがあたふたし始める。
「だから言ったのに……。大丈夫?」
「だっ、……大丈夫です……」
 なんとか言葉を絞り出しながら、体を揺らして咳を繰り返す。そんなズオ・ラウを不憫に思ったのか、ナマエは気遣うようにズオ・ラウの背中に手を回した。気道のあたりを軽く叩いては上下にさする、という動作を何度も繰り返す。
 咳き込みが落ち着くと、ナマエは手を降ろした。
「すみません……」
「気にしないで」
 本当になんでもないことのように言ってから、
「村唯一の男の子だからって甘やかされてああなったのかな。みんなも、もうちょっと怒ってくれたらいいのに」
 そんな不満を溢している。ズオ・ラウはその言い方に少し引っかかって、村落の景色を視線だけで見渡した。
「……そういえば、村の人は女性が多いようですが」
「男は村の外に出稼ぎにいってる。でも、その人達を含めても人口の半数以上が女」
「……偏っていませんか?」
「色々あってこうなった。男手は願っても畑から生えてくるわけじゃないし、空から降ってくるわけでもないから仕方ない」
 ナマエはしみじみと言う。
 村の合併併合だとか、若者の出郷、人口減少の影響で男女比のバランスが崩れるのは炎国にもみられる事例なので、ズオ・ラウも特に詮索はしなかった。
 それから倒木の撤去の手伝いに向かった。村の人が既に木をチェーンソーで解体していたので、ズオ・ラウとナマエは木を道端に運び、その中でも使えそうな木を村へ持ち帰った。
 次に用水路が壊れていないか見回りをする。その際、あまりにも水が透き通っているのを疑問に思い尋ねると、地下深くの鍾乳洞から水を組み上げているとの事だった。
 村はずれの小屋の中には水を汲み上げる機械が設置されており、ズオ・ラウは驚いた。機械のフィルターを取り替え、動作が不安定な発電機のパーツを取り替える。そして周囲のゴミを取っ払ったりしているうちに、晩課の鐘が響き渡った。
 鐘の音は、人々に日が暮れる時間だと知らせるには程よい音だった。ズオ・ラウは一息ついて、暮れなずむ空を見上げる。
「ズオくん、帰ろう」
「はい」
 忘れ物などの確認をしてから、小屋を出て鍵をかける。ナマエはぐっと背伸びをしてから、ズオ・ラウに向き直り、
「お疲れ様」
「そちらこそ」
 ズオ・ラウがそう返すのを合図に、どちらともなく歩き出した。

 家に戻ると、ズオ・ラウがそれまで感じていなかった倦怠感と空腹感がどっと押し寄せてきた。思っていたよりも相当疲れていたらしい。それはナマエも同じようで、どこか頼りない足取りで廊下を進んでいる。
 ナマエの後ろを何気なくついて行くと、居間に見慣れぬ老婦がいた。その姿を認めた途端、ズオ・ラウはぎょっと目を見張ってしまった。
 歳の頃は六十かそこらに見える。彼女は廊下を過ぎ去りゆくナマエを視線だけで追いかけると、ズオ・ラウに目を向けた。
 視線を交わす。さながら錐で突き刺すような圧を感じ、ズオ・ラウの背筋に怖気に似た感覚が這い上がってきた。こちらの内情の全てを見透かし掌握するような威圧感に、気圧されそうになってしまう。
 ズオ・ラウが口腔内に溜まった唾液を嚥下すると、老婦はズオ・ラウに対して一切の興味を失ったようで、何事もなかったかのように手元の本に目を落とした。それを皮切りに、身にまとう雰囲気が一気に弛緩した。とはいっても、柔らかながらも接触を避けたいような、異質なものをたたえている。
 そして、ズオ・ラウに対して歓迎も警戒も見せないという微妙な雰囲気のせいで、話しかける事を躊躇した。
 ズオ・ラウは散々迷った末、失礼がないよう拱手で一礼し、罪悪感を抱えながらナマエの方へと向かう。ナマエはちょうど食卓テーブルの水差しを持ち上げ、カップに水を注いでいるところだった。
「ズオくんも飲む?」
「いただきます」
 頷くと、ナマエはもう一つカップを持ってきて水を注いだ。ズオ・ラウは差し出されたカップを受け取って、喉の渇きを潤した。
「あの女性、客人ですか?」
 飲み干してからズオ・ラウが小声で尋ねると、
「ううん。ばあや」
 ナマエがさらりと言う。
「……あの方が?」
「うん。怖そうに見えるけど、一割くらいは優しいよ」
 つまり、怖い人のようだ。ナマエが剣の師匠だと言っていたが、武芸に精通しているかどうかはひと目見ただけでは計り知れなかった。
 ナマエは水を飲み終えるとズオ・ラウに風呂に入るよう促し、夕飯の支度を手伝うと言って台所へと向かっていった。ズオ・ラウはお言葉に甘えて風呂に入り、湯から上がって身支度を整えた。ズオ・ラウが脱衣所を出るのと同じくして夕食の準備が整ったので、そのまま相伴に預かる事となった。
 食卓についてから着席している面々を見回し、ズオ・ラウははたと気づいた。ここにいる面々は女性しかいない。
 てっきり主人が帰って来るものだと思いこんでいたのだが、どうやら不在らしい。つまりこの家は女所帯で、男はズオ・ラウただ一人だけである。なんともいえない気まずさがのし掛かってきた。
 食前の作法が始まると、ズオ・ラウは見様見真似で済ませた。族長が何か挨拶を喋っているが、何に対して祈りを捧げているのかその意味すらわからない。あらかじめ聞いておけばよかったと後悔していると、隣りに座っていたナマエが目ざとく気付いて、
「平穏がありますようにって意味」
 小声で教えると、大皿の料理を取り分け始めた。
 雑穀を茹でたものに野菜を混ぜたマリネ、スープ。そして黒くて平べったいパンのようなもの。そしてあのザクロが、食べやすいように切り分けられている。
 年長者と族長が料理を口にするのを待ってから、ズオ・ラウは食べ始めた。やはり馴染みのない味だったが美味しかった。空腹に身を任せてがっつくなんて真似はしないが、味に対する細やかな機微を感じ取るのも忘れる程度に勢いよく食べた。
 食後の後片付けを済ませ、食休みのお茶を淹れている最中、老婦がおもむろに席を立った。
 族長と二言三言会話をしたのち、玄関へと向かっていく。そして食後の余韻に浸る間もなく、家を出ていった。
 ナマエが慌ててその背中を追いかけ家を飛び出していったが、ものの数秒で戻ってくる。
「どうかしたんですか?」
「帰っちゃった……」
 心なしか落ち込んでいるように見える。ナマエが心底あの老婦を慕っているのが伝わってきた。
 聞けば、老婦は別に家があるとの事だった。ズオ・ラウはてっきりこの家に住んでいるものと思っていたので、驚きが先行し、その後にゆっくりと不安のようなものが這い上がってきた。
「外はもう暗いですよ。お一人で大丈夫なんですか?」
 言いながら窓の外を見る。村には街灯なんてものはなく、家々から漏れる明かりも頼りないので、ほとんど真っ暗だ。
「お前より強いから心配するなって」
 ズオ・ラウは閉口した。似たような流れで見送りを断られたのを思い出したからだ。
 とりあえず、ここで立っていても仕方ないので、二人で食卓へと戻った。
 お茶は三人分用意されていたが、族長の姿が見当たらない。怪訝に思って部屋を見回そうとしたところで、
「さっき歯磨きしてた。今、寝かしつけてるんじゃないかな」
「ああ……なるほど」
 納得してから、ズオ・ラウはお茶に口をつけた。昼に飲んだものと同じお茶のようだが、甘くはない。
 半分ほど味わって飲んでから、ズオ・ラウはナマエに顔を向けた。視線に気づいて、ナマエが小首を傾げる。
ナマエさんに伺いたい事があるのですが」
「何?」
「お姉さんの旦那さんは戻ってこられないんですか?」
「うん。移動都市にいるから」
 ナマエの話によると、族長の夫は考古学調査隊の一人らしい。調査のためにこの村落を訪れた際、笑えることにお互いに一目惚れし、手に手を取り合ってそのまま結婚してしまった。
「久しぶりに家に帰ったらこうなってたから、正直よくわかんない。話をしたのもほんの数回だし。でも、休暇のタイミングになればちゃんと帰って来るって」
「そうでしたか……」
 他にも何か聞きたいことがあったような気がしたが、うまく思い出せない。頭がだんだん働かなくなってきているのを感じる上に、瞼も重くなってきた。
 そんなズオ・ラウを見て何かを察したのか、
「ズオくん、もう寝る?」
 ナマエが気遣うように声を掛ける。
「……ええと、そうします」
「わかった。用意するね」
「流石にそれくらいは自分でやります」
「じゃあ、そうしてもらおうかな」
 ナマエはそう言ってぐいっとお茶を飲み干すと、
「私、今からちょっと出るから、何かあったらお姉ちゃんに聞いてね」
「えっ」
 その言葉を聞き、ズオ・ラウは驚きに目を見張った。
「今から? お一人で? どこにです?」
「砂地。ドクターにサンドフィッシュ釣ってくるよう頼まれた」
「……はい?」
「どうしてもサンプルがほしいんだって」
 ズオ・ラウは驚きのあまり目を瞬かせる。昼間にあんな事があったのに一人で出歩くだなんて、とても正気とは思えない。
「危険です。明朝ではだめなんですか?」
「夜行性だから今からじゃないと釣れない。すぐそこだから大丈夫」
 何を言ったところで、ナマエは自分の意思を曲げそうには見えなかった。
「……私も同行します」
 今度はナマエが驚きに目を瞬かせる番だった。
「おじいちゃんはもう寝る時間だよ」
「……ですから、おじいちゃんではありません……」
 脱力しながら応じると、ナマエは首を傾げ、
「本当にいいの?」
「いいから言ってるんです」
 数秒ほど拮抗し、
「……じゃあ、お願いする。急いで行って、すぐ帰ってこよ」
「はい」
 ナマエが降参するように肩をすくめた。
 それから二人で部屋の中を忙しなく移動し、身なりを整えた。
 昼間とは打って変わって寒いとのことなので、外套もきちんと羽織った。日頃軽装のナマエも、きちんと外套を羽織っている。本当に寒いのだろう。
 必要な持ち物をそれぞれ分担して持つ。捕獲したサンドフィッシュをいれる虫かごとタコ糸をズオ・ラウが持って、ナマエが木かごと火ばさみ、最後に明かり用のランタンを尻尾で器用に持つ。
「まあ、二人してどうしたの?」
 物音に気付いて寝室から出てきた族長にひどく驚かれたが、ナマエが事細かに経緯を説明すると、すぐにニコニコと柔和な笑顔を見せる。
 そして族長に見送られながら、二人で家を出た。