#11 There Will Come Soft Rains part2優しく雨ぞ降りしきる 後編

「なッ――!?」
 勝利した安堵から来る余韻に浸っていたせいで、ズオ・ラウは反応が遅れた。思いっきり肩を突き飛ばされてしまい、怯んだまま後方へとバランスを崩してしまう。受け身の取り方は軍営にいた頃にさんざん訓練を受けたので、ズオ・ラウは背中から転がるようにして床に倒れ込んだ。その拍子に、剣を取り落としてしまう。
 金属音が響くのと同じくして、ナマエがズオ・ラウの体の上に馬乗りになった。のしかかった体重が腰を押さえつけてくるが、ズオ・ラウが力任せに突き飛ばそうと思えば出来る重さだ。それでも突き飛ばすのを躊躇していると、ナマエはズオ・ラウの外套ごと胸倉を掴んだ。肩周りを抑えるベルトの金具が音を立てる。首周りを締め付けられ、その苦しさに絶えきれず、ズオ・ラウは顔をしかめる。
「っ、何のつもりですか!」
 ズオ・ラウが声を荒げるが、ナマエは話を聞いているように見えなかった。わなわなと体を震わせ、ズオ・ラウの胸倉を掴む手に一層力を込める。これ以上は耐え切れないと、ズオ・ラウが両手を持ち上げた時だった。
「なんで……」
 ナマエが俯きがちになる。そのまま力なくズオ・ラウの胸に額を埋めて、声を絞り出す。
「なんで、あの子を助けてくれなかったの」
 ズオ・ラウの心臓の真上で、そう言った。
 ズオ・ラウは何も言わず、持ち上げた両手をゆるゆると下ろして、天井を見つめた。
 理不尽な八つ当たりの対象になっていることはわかっていた。このままナマエの無礼な態度に怒って、彼女を突き飛ばして場を離れる選択もできたが、ズオ・ラウはしなかった。
 ナマエの行動を批判するのは簡単だ。だが、そうしたところで、ズオ・ラウの手元には何が残るのだろうか。きっと、何も残らない。
 そして、ナマエの考えが、ズオ・ラウには漠然と理解できた。
 抱えた悔しさや、拠り所のないやるせなさををなにかにぶつけないと、明日を迎えるのが辛いこともある。
 ――引きずられないように。
 いつかドクターに言われた言葉を、ズオ・ラウは頭の中で復唱する。
 ナマエが求める答えは、ズオ・ラウには出せない。むろん思いつく言葉はいくつも見つかったが、答えずに押し黙っていた。
 いつしか、胸倉を掴むナマエの手が震えている事に気が付いた。ズオ・ラウは逡巡したのち、右手を持ち上げて重ね、包み込む。ズオ・ラウの手は温かいが、ナマエの手は冷たかった。ひどい温度差が浮き彫りとなって、皮膚を通して伝わってくる。
 そのままの状態で、落ち着くのをじっと待った。
 何秒経ったか、何分経ったのか――ナマエがのろのろと上体を起こした。胸倉を掴んだ手を解くのをきっかけに、ズオ・ラウも右手を下ろした。
 目が合ったが、さっきまでのような敵意は感じられない。そして、わざとらしく逸らされるような事もなかった。
「……ごめん。最悪なことをした」
 ずいぶんと素直に謝るものだから、ズオ・ラウは面食らった。叱られた犬のような表情を見つめていると、ナマエの表情は徐々にいたたまれなさそうなものへと移り変わっていく。ズオ・ラウは思わず苦笑を浮かべた。
「なんだか、最近のあなたには謝られてばかりな気がしますね」
「……だって、そういう事しかしてない」
「私は気にしていませんよ」
 ナマエはのろのろと膝立ちになり、身体を脇にずらして退いた。それでようやく、ズオ・ラウも上体を起こす。
「落ち着きましたか?」
「うん」
「違いの区別は?」
「ついた」
「なら、良かったです……」
 安堵の息をついて、ズオ・ラウは立ち上がった。すぐ近くに転がっている自分の剣を拾い上げると、壁際へと鞄を取りに向かう。ナマエの追い縋るような視線を背中に感じたが、振り返りもせず足を進めると、そのうち感じなくなった。
 立て置いた鞄を持ち、ズオ・ラウはあらためてナマエの方を振り返った。座ったまま俯いてじっとしている。ズオ・ラウは小さなため息をつくと、踵を返してナマエの元へと戻る。
 ズオ・ラウが真正面に来てようやくナマエは顔を上げた。鞄と剣を置いてその場に座り込むズオ・ラウに対し、ナマエは怪訝と不安が混ざった複雑な表情を浮かべる。
「私が戻ってきたのがそんなに意外ですか?」
「だって、もうここにいる必要ないでしょ」
「ありますよ。……傷、見せてください」
 ナマエは目を見開き、首を横に振った。
「いいよ、自分でやるから」
 拒否の言葉は聞かないふりをして、ズオ・ラウは鞄から救急セットと、剣の手入れをする布も取り出した。
「ではこうしましょう。私があなたの傷の手当をしますので、あなたは私の剣の手入れをしてください。血がついた剣を鞘に収めてしまうと、鞘も駄目になりますから」
「……」
「まさか、手入れの仕方がわからないとでも?」
 ズオ・ラウの挑発めいた発言に、ナマエは眉をひそめた。
「わかるけど、……自分の剣でしょ。大事なものじゃないの?」
「それを、あなたに預けると言っているんです。大事な剣を預けて丸腰になるという意味、察してください」
 そう言ってから、ズオ・ラウは剣を持ち直し、ナマエが柄を掴みやすいように差し出した。
 ナマエは不満をあらわにしながら、右手で柄を掴み、左手を剣に添えるようにして、両手で受け取った。あぐらをかいた膝の上におそるおそる剣を寝かせると、ズオ・ラウが差し出した布も受け取る。
 ナマエは丁寧に剣身の汚れを拭きながら、刃に親指の腹を当てた。皮膚を切り裂かないよう細心の注意を払いながら、欠けがないか確かめるようになぞっている。ズオ・ラウの予想通り、扱いに慣れた者の手つきだった。
ナマエさん」
「……うん」
 ズオ・ラウが声をかけると、その意図を察したナマエが自分の尻尾を持ち上げ、ズオ・ラウの眼前へと晒した。いまだ血が滴っている事にズオ・ラウはぎょっとし、慌ててナマエの尻尾を両手で掴むと膝の上に横たわらせた。途端にナマエの尻尾から力が抜け、膝の上に重みがかかる。
 ズオ・ラウはまず鱗の溝に沿って血が流れているのを拭き取った。軽い出血が続いているので布にくるんで圧迫する。
「ズオくん、ちょっといい?」
「なんでしょう」
 顔を上げると、ナマエが刃の一点を指先でつついている。
「ここ、刃こぼれしてる」
「えっ」
 前のめりになって覗き込む。目を凝らすと、ほんの僅かな欠けを見つけた。
「あとで研いだほうがいい」
「……はい」
 刃付けの必要がないのが幸いだが、研ぎ直すにも時間がかかるのでズオ・ラウは軽い目眩を覚えた。とはいえ、あれだけ剣をぶつけ合ってこの程度で済んだと思えば僥倖だろう。と適当な言い訳を見繕って溜飲を下げながら、ズオ・ラウはナマエの尻尾の手当を続けた。
 数分もすると、傷口の出血は止まった。あらためて傷口を見聞すれば、思っていたより傷は浅かった。がむしゃらの一突きだったため力加減など出来るわけがなく、神経はおろか骨まで達していたらと気を揉んでいたが、余計な心配だった。ズオ・ラウは安堵のため息をつくと、乾いてこびりついた血も丁寧に拭いてから、包帯を強めに巻いて固定する。
 尻尾の手当が一段落つくと、ナマエもちょうど手入れが終わったらしく、ズオ・ラウに向けて剣を差し出してきた。
ナマエさんはこれからどうするつもりですか?」
 剣を受け取りながらズオ・ラウが尋ねると、ナマエは首を傾げる。
「どうするって?」
「まだ仇を討ちたいと?」
「……わかんない」
 ナマエは浮かない表情で言う。
 ズオ・ラウは剣身を一通り眺め、一切の不備がない事を確認してから鞘に収めた。そして顔を上げ、ナマエをまっすぐに見据える。
「報復というのは、そこまで固執しなければならないほど、ナマエさんにとって魅力的なものなのですか?」
 そう尋ねると、ナマエは表情に怒りを滲ませた。しかしそれもほんの一瞬の事で、すぐに暗い影が差す。
 数秒の間をおいて、ナマエはささやかな動作で首を横に振った。その浮かない表情を見るに、否定することすら後ろめたいようだった。
「……ナマエさんは昔、妹さんに『嫌な事は無理しなくていい』と言ったと本人から伺いました。あなたの表情から察するに、ナマエさんにとって仇討ちは嫌な事なんですよね? なのにやるだなんて、おかしな話だとは思いませんか?」
「……でも、こんな事、他の誰にも頼めない」
「では、あなたはこの先も無理を重ねていくつもりですか?」
 ナマエはたちまち返答に詰まってしまう。
 何か言おうとしては口を閉ざし、それを何度も繰り返してようやく、
「我慢していれば、いつか報われると思っていたから……」
 ぽつりと、小さな声で呟いた。
「それは絶対に違います。我慢し続けるだなんて、やがて倦み疲れるだけです。今以上に報われなかったら、あなたは一体どうするつもりだったんですか?」
「わからない。どうしたらよかったんだろう……」
 ナマエは震える声で言うと、目を伏せてうつむきがちになる。感情の行き場をなくしてうなだれる姿を見ていると、ズオ・ラウは胸が締め付けられるような感じがした。
「自分の行動が正しいかどうかは、結果で示すほかありません。何が間違いで何が正解なのかという答えは、始めから存在しません」
「……じゃあ私は、最初から間違ってたっていうの」
 ズオ・ラウに尋ねるような口ぶりだったが、自分に言い聞かせているようにも取れた。そんなナマエの痛切な迷いを見て取ったズオ・ラウは、内心気の毒に思いながらも口を開く。
「今から残酷なことを言います。腹が立ったら叩いてもらってかまいません」
 一つ呼吸を挟んで、覚悟を決めて言う。
「あの時ああしていればだなんて考えたところで、おそらくあなたの妹さんは同じ結末をたどっていました」
 ナマエは表情を歪ませ唇を引き結んだが、ズオ・ラウはためらうこと無く言葉を続ける。
「たとえ過去の報復を成し遂げたとて、胸がすくような満足感は一時のものでしかない。それが消え去ったあとに残るものは自失です。前よりも後ろばかり見ているのですから、当然の帰結でしょう」
 数瞬の間を置いてから、ズオ・ラウは言った。
ナマエさん。あなたは一体、何のために生きているんですか?」
 そう問いかけられ、ナマエは目を見開いた。焦点のあった視線で、ズオ・ラウをまっすぐに見つめ返す。
「誰のために己の命を使っているのか……今一度、よく考えてみてください」
 徐々に、ナマエの顔に怒りが宿った。眉間に皺を寄せ、顔を歪ませて、ズオ・ラウを睨む。凄みを利かせたその顔は、裏を返せば滅茶苦茶になった感情を押さえ込もうとして失敗しているかのようにも見える。
「しばくぞ」
「しばかれたのはあなたの方ですよ」
「腹立つ」
 悔しそうに捨て台詞を吐いた。そして小さく喉を鳴らし、ボロボロと泣き出した。
 堰が決壊し、はけ口に集積するように涙があふれ続ける。漏れ出そうになる嗚咽を何度も何度も飲み込んで、抑制できずに声を漏らす。
 予想外の事態にズオ・ラウはぎょっとした。頭が真っ白になって、身動きの一つも取れなくなる。
 ズオ・ラウは他人を慰めるのが苦手だった。ましてや同年代の異性に対して、どうすればいいのかやり方がわからない。それにズオ・ラウには兄弟もいないし、両親は存命しているので家族を亡くした気持ちもわからないし、生半可な気持ちで、上辺だけの慰めの言葉を口にするのが一番許せなかった。
 だからズオ・ラウは、情けなくも見ていることしか出来なかった。
 と、ナマエが拳を振り上げた。ズオ・ラウは殴られると直感して身構えたが、ナマエは顔の横に拳を持ち上げたまま固まり、ぶるぶると震えている。
 ズオ・ラウはおそるおそる構えを解いてナマエの奇妙な葛藤を伺うと、そのうちゆっくりと拳が振り下ろされるのが見えた。瞬時に身構えたが、肩にぶつかる拳の感触は思っていた以上に軽いものだった。
 ナマエはそのままぽかぽかと肩を殴り始めるが、ズオ・ラウにとってはまるで痛くない。ナマエなりに手加減しているのが伝わってきた。まるでじゃれつくような力加減はもはや肩叩きのようで、ズオ・ラウの胸中で安堵と呆れが混ざり合う。
「……気が済むまで叩いてもらって構いません。それで憂さ晴らしができるならば、甘んじて受け入れます……」
「ズオくんのサンドバッグ」
「今だけですよ」
「ズオくんのバカ」
「一番星ですね」
 一瞬固まった後、小さくしゃくりあげてから、
「……おたんこなす……」
「茄子は……油で揚げてから、薬味酢をかけて食べるのが好きです……」
 ナマエは存外悪口のレパートリーにかけるらしい。稚気じみた罵倒を最後に殴るのをやめ、黙りこくってしまった。ただ単に、真面目くさった調子で斜め上の返答をし続けたズオ・ラウに呆れただけかもしれない。
 静かな部屋の中に、ナマエのむせび泣く声だけが響く。ズオ・ラウは目の前の光景をぼうっと眺めながら、どうしたらいいかわからず固まっていると、ふいに既視感に見舞われた。
 あの暗がりの中、立ちすくんで泣いている子供の姿。脳裏に思い描いた瞬間、軽い目眩を催した。耳の奥が引っ張られるようにキリキリとして、ひどい焦燥感から思わず歯噛みする。それでも急かされるような感覚は消えず、何か出来ることはないかと思案を巡らせ、ズオ・ラウは意を決して手を伸ばした。
「いつまで泣いてる、いい加減にしろ」
 唐突に、低い声の叱責が聞こえ、ズオ・ラウは驚きから手を引っ込めた。
 声がした方に顔を向けると、見るからに目上の人間だと断言できるようないかつい男性が、ちょうど二人のもとへ近寄ってくる所だった。
 剃り込みの入ったドレッドヘアが特徴的で、一度見たら忘れられないような風体だ。服の上からでも鍛えているのがわかる。そして武に精通した者特有の、余計なものを全て削ぎ落としたような鋭い寡黙さが漂っていた。何者かはわからないが、少なくとも只者ではないだろう。
「……Sharp隊長」
 ナマエが小さな声でぼやくと、Sharp隊長と呼ばれた男は右手に持っていたタオルをナマエに向かって放り投げた。
「顔を洗ってこい」
「……はい」
 タオルを受け取ったナマエは素直に頷くと、数秒ほどタオルに顔を押し付けるようにして涙を拭った。そしてズオ・ラウに一度だけ目配せすると、すぐに立ち上がって小走りで駆け出して行く。
 あのナマエが反発もせず大人しく従っているのを見て、彼が直属の上司だろうとズオ・ラウは察した。ナマエの対応の差を比較して複雑な気持ちを覚えながら、荷物を鞄にしまって立ち上がる。服についた埃を軽く払ってから、ズオ・ラウはSharpに向き直った。
「いつから見ていたんですか?」
「途中からだ。私闘を止めて欲しいと頼まれた」
 そう言ってSharpは訓練室の出入り口を振り返る。ズオ・ラウは釣られてそちらにに目を向けると、見知らぬ少女が不安そうに部屋の中を覗き見ていた。服装から察するに、治療のため一時的に滞在をしている患者のようだった。
 Sharpが手を払うように動かすと、少女は頷いて立ち去ってしまう。
 そしてSharpはズオ・ラウに向き直ると、
「ところで君、怪我はないか?」
 と気遣ってくるので、ズオ・ラウはすぐに首を振った。
「ありません」
「ならいい」
 Sharpは安堵したように息を吐くと、軽く肩を竦めて言葉を続ける。
「しかし、あんなのに付き合うとは、君はずいぶんと情け深い性格をしているな」
「放っておけなかったんです……」
「それはよくない傾向だ。君は今自分がどんな顔をしているかわかるか?」
「……え?」
「はっきり言ってひどい顔をしてるぞ。そうまでして赤の他人に親身になる必要はない」
 断固として強く言い切られ、ズオ・ラウは内心戸惑った。
 この場に鏡なんて物はないから自分の顔は見られない。だが、今の自分がどういう顔をしているか、ズオ・ラウにはおおよその想像がついた。
 今の状況は少なくとも楽しい気分ではない。そして、そんな心情があからさまに表情に出てしまうのはあまりにも修練不足で、ズオ・ラウの悪癖だ。
「自分から恩情を振りまくのは大いに結構だがな、哀れみから優しさを向けるのはやめたほうが良い」
「……」
 ズオ・ラウは何も言い返せず、閉口するほかなかった。
「善悪の判断がつくならば、己の優しさを向ける相手の良し悪しもきちんとつけろ。君はナマエを見て可哀想だと思ったかもしれんが、あれより酷い境遇なんてごまんといる。君はそいつら全員に同じように接するのか? 今のままではその優しさにつけこまれて、いつか痛い目を見るぞ」
 ついには相手をまっすぐ見ることも出来なくなった。ズオ・ラウは目線を下へ下へと下げていく。
「死なない程度の事は大体なんとかなるものだ。……次からは放っておけ」
 その言葉を聞いてズオ・ラウはふいに、大荒城の外で小さな牧獣を拾った事を思い出した。
 草を幾重にも重ねて織り込んだ丈夫な巣の中で、寄り添い合ってもじもじと身動ぎしていた。周りに親の気配がないから、てっきり育児放棄されたものと勘違いして拾ってきてしまったあの牧獣。あの二匹はまだ元気だろうか。
 サルゴンの町でザクロをくれた老人にしてもそうだ。果物を返そうとして、余計に多く貰ってしまった。あの時は、老人はぼけているというナマエの言葉を鵜呑みにしてしまったが、今になって思い返せば、それはナマエが見たままの意見であり、ズオ・ラウが老人と言葉を交わして得た情報ではない。実際のところ、果物を余計に渡したのは老人の親切だったかもしれない。
 自分にとって都合の良い意見を選別し、それだけを信じ込むのはよくない事だ。しかし目の前で、誰かが苦しんでいるのはズオ・ラウには見過ごせない。助けられるのであれば手を差し伸べるべきであり、それがもっとも良い行いだという道徳を叩き込まれた。
 そうやって、ズオ・ラウが自分勝手な正義感から助けが必要だと決めつけて、よかれと思ってやったことは裏目に出る。
 ――今回もそうだったのだろうか?
 考えて、目線を上に向けた。
「……忠告痛み入ります。自分が配慮に甘い未熟者だということは、私自身がよく理解しています。ですが私は、自分が間違った事をしたとは思っていません。彼女のいち友人として必要な行動だと思いましたし、それを咎められる謂れはありません」
 言い始めたら止まらなくなった。ズオ・ラウは勢いに任せて捲し立てる。
「それに、あなたも似たようなものでないのですか? 私に放っておけと言いながら、なぜ様子を見に来たんですか?」
 ほとんど悔し紛れの言い分が、大の大人に通用するわけがない。ズオ・ラウは説教が飛んでくると身構えたが、しかしSharpの反応は意外にも、
「そこを突かれると、俺も苦しいな……」
 苦笑を浮かべるに留まった。
「殆どは君と同じ理由だ。だが君と違う点は、俺の方がナマエとの付き合いが長い事と、あいつがここで働けるよう手引したのが俺だからだ。ナマエが起こした問題の責任は、俺も被る羽目になる」
 その言葉を聞いた途端、ズオ・ラウの脳裏に資料室で得た情報が蘇った。
「……そうでしたか。あなたがナマエさんを推薦した匿名の……」
「わざわざ調べたのか?」
「資料室で調べ物をしていた際、偶然にも入職者名簿を見つけ、中を覗きました……。下賎な真似をしたとは思っています……」
「資料室においてある書類は全て職員が自由に閲覧できるものだ。下賤も何もないだろう」
 Sharpの返事はまるで咎める様子がなく、ズオ・ラウはほっと安堵の息をついた。
「……それで、あなたに伺いたいことがあります」
「なんだ?」
「なぜあなたは、ナマエさんをロドスのオペレーターとして推薦する気になったのですか?」
 Sharpはため息をついた。
「そんなことを知ってどうする?」
「どうもしません。ただ、個人的な疑問を解消したいだけです」
「せがまれただけだ。詳しい事はあいつ本人に聞け」
 Sharpの突き放すような物言いに、ズオ・ラウは思わず眉をひそめる。
「せがまれただけで、あなたは誰彼構わず推薦するのですか? それに、付き合いが長いというなら、あなただってわかるはずです。まともに聞いても応じてくれないと……」
「確かにあいつは踏み込まれるのを極端に恐れる。だがな、君の個人的な疑問を解消したいだけなら俺ではなくドクターに聞け。ドクターならなんでも答えてくれるぞ」
 フェイスガードで覆われた人物を思い返し、ズオ・ラウは納得しかけたが、その考えを打ち消すように首を横に振った。
「確かに、ドクターなら答えてくれるでしょう。ですがドクターの見解は、報告書を擦り合わせた上での理解にすぎず、私が学舎で学んだ『世界史』と同じ意味合いのものでしかない。第三者が言語化した情報は、私にとっては無価値です」
 そう言って、Sharpを見据える。
「私は、当事者であるあなたの口からお聞かせ願いたいんです」
 きっぱり言うと、Sharpは面食らった様子で硬直し、
「……失礼な事を聞くが、君、我が強いと言われたことはないか?」
「ありません。……と言いたいところですが、似たような意味の悪口を叩かれた経験はあります……」
「……だろうな」
 Sharpはフッと笑い、しばらく考え込む素振りを見せると、
「今から三年前、サルゴンの北方地域で盗賊団の拠点を潰した。その時、ロドスの他に現地の傭兵団も参加していてな、ひどい乱戦状態だった」
 静かに語り始めた。
「屋敷の奥の大広間で、頭目に食って掛かる子供がいた。それがナマエだった。殺されそうになっていたから引きずり離し、俺が応戦した。あの頭目はそれなりに手強かったが、ひと目で感染者とわかるくらいの有り様でな、おまけに利き腕と足に怪我を負っていて動きは鈍かった。応戦しているうちに、鉱石病の発作を起こして死んだ。呆気ない最後だった」
 そう言って肩を竦めて見せた。ズオ・ラウは流暢な話に聞き入りながら、目の前の男は寡黙なようでいて実際は違うのだと認識を改めた。
「頭目が死んだとわかると、ナマエに理不尽に憤慨された。別に俺がトドメを刺したわけでもないのに、仇を横取りされたと思ったんだろうな。ナマエが妹を助け出しても、わざわざ俺に文句を言いに来て鬱陶しかったもんだ」
 まるで思い出し笑いでもするかのように口元を緩めたが、それはほんの一瞬のことだった。
ナマエの妹は見るからに重度で、早急な治療が必要だった。現地の拠点に連れてきてすぐ投薬治療を行い、それからナマエの傷の治療にあたった。感染者と剣を交えたからてっきり発症しているものと思っていたんだが簡易検査じゃ陰性だったから驚いた。付き添いの老女が、身を守る知恵も戦いの才も叩き込んだと言うから納得した」
 長話をして少し疲れたのか一息ついてから、Sharpは口を開く。
ナマエは俺が夜警してる場所にまで文句を言いにきた。本当に鬱陶しかったが、熱意に感服して話相手をしてやった。別れ際、どうしたらあなたみたいに強くなれるかと尋ねられた。次の日の朝、隊員と話し合って、傭兵団を辞めさせ妹と一緒にロドスに連れてきた。……こんなところだ」
 最後にそう付け足して、話を締め括った。
「話してくださって、ありがとうございます……」
「いい。あいつの相手をしてくれた礼だ」
 そう言って笑みを作ったかと思えば、Sharpは神妙な面持ちになり、
「登用まで漕ぎ着けたはいいが、あいつにはロドスに対する忠誠心が微塵も生まれなかった。おまけに目標まで見失い、諦観のままここを離れたら何をしでかすかわからん」
 と言うので、ズオ・ラウは目を瞬かせた。
「……離れる? ここをですか?」
「おかしいか? あいつは妹の治療に付き合って一時滞在していただけに過ぎない。ここにいる理由がなくなった以上、サルゴンに帰るほかないだろう」
 Sharpの語る道理はズオ・ラウにとって納得がいったが、しかし唖然としてしまう。帰るということは、このロドスから退去するということだ。ズオ・ラウは何の言葉も返せずにいると、Sharpはふっと小さく笑い、
「人には帰る場所ってものがある。俺にとって帰る場所はここだが、君にとって帰る場所はどこだ? ここか?」
「……いえ、炎国の玉門です」
「そうだろう? ナマエだって帰る場所はロドスじゃない、家族がいるあの村だ」
 ズオ・ラウはたまらず視線を逡巡させ、
「その……客観的に見れば、ロドスの待遇はサルゴンよりもずっといいはずです。治安を筆頭に、医療設備の充実、安定した衣住環境、そして学びの門戸も別け隔てなく開かれています。この環境はどれだけ願ったとて簡単に手に入らないものです。なのに、そう安々と手放せるものでしょうか?」
「それは君の主観にすぎない。世の中の見え方は皆が皆同じではない。君とナマエは違う、無論俺ともな。ナマエにとって、ロドスはそこまで価値がない。ここで身を粉にする気も、骨を埋める気もないという事だ。価値観が違うんだ」
 そうはっきりと言われてしまい、ズオ・ラウは返答に窮してしまう。
「経験からくる精神的な刷り込みってものは、とにかく大きい。生まれ育った環境、経験、そして絶対的信頼を寄せられる親の有無……。例えばの話だが、ナマエがサルゴンではなく君の出生地で育ったらどうなるか想像できるか? 逆に、君がサルゴンで育ったら君は今の君のままでいられるのか? おそらく、君が求めるものだって違ってくるだろう?」
 おまけに諭すように言われてしまい、成すすべが見つからない。
「あいつの理想は報復だ。だが、その相手を見失った今、矛先はどこに向ければいいんだ? 抜いた剣を鞘に収めるように、向ける先がなければしまうしかない」
 ズオ・ラウは無言のまま、ただただ視線を下げるばかりだった。
「ただ、あいつの理想は環境によって作られたもので、自分の意志なんて介在してない事を本心ではわかっているんだ。ああ見えて、口を開けば思いをも寄らないことを知っているからな……。あいつの興味は、理想の外側に向いているのが救いかもしれんな」
 一縷の希望のような言葉に、ズオ・ラウは視線を持ち上げた。
「だからこそ、君になんのために生きてると聞かれたのは、相当堪えただろうな」
 ズオ・ラウは一瞬言葉に詰まり、
「……やはり私は余計な事をしたんでしょうか……」
「さっきの威勢はどうした、自分の行いが正しいと思うなら胸を張れ」
 Sharpは呆れながらも、ズオ・ラウを励ました。
「他人に自分の目的や理想を仮託した人間の末路ってのは悲惨なもんだ。あいつがそれにようやく気付けたのは喜ばしい。君には礼を言う」
 それでも浮かない顔のままでいるズオ・ラウに対し、Sharpはふっと笑みを見せ、
「人ってのは存外、環境に流されやすい生き物だ。むろん、俺だって例外ではない。君がナマエの価値観を解体してくれたからこそ、何かしら進展はあるだろうと思いたいな」
 そう言った。
「今回の私闘は目撃者も少ないのが幸いだった。上には黙っておくから、君も他言無用で頼むぞ」
「……見逃して下さるんですか?」
 ロドスの違反行為の一つである私闘を見咎められたのだから罰則は免れないだろうと思っていたので、ズオ・ラウは驚きに目を見開いた。
「皆が黙っていれば追及はされない。それに、ドクターも甘いところがあるからな」
「入り口に立っていたお嬢さんにはどう説明づけをしたんですか?」
「友人同士のいざこざだと伝えた」
「……友人」
 復唱して、何度も目を瞬かせる。
「自分で言ったことを忘れたのか?」
「いえ……ですが、それは勢いに任せた発言であり、実際友人と呼べる間柄かはわかりません……」
 そう言うと、Sharpはふうとため息をつき、
「ついこの間あいつと話した時、頭でっかちの分厚い辞書みたいな男の子がいると喋っていた。どうせ君のことだろう?」
「……、おそらく……」
 頭でっかちの分厚い辞書――そう思われていたのかとズオ・ラウは軽いショックを受けた。それを表情にありありと出してしまうズオ・ラウに対し、Sharpはフと小さな笑みを作ると、
「君のことについての語り口は好意的だった。あいつもお前を友人と思っている。なら、これはただの喧嘩だ」
 そう言って、Sharpはズオ・ラウの肩を軽く叩いた。
ナマエの事は心配するな。最悪、ドクターにまかせておけばなんとかなるだろう。今日はもう部屋に戻って休め、真剣の打ち合いは疲れるからな」
「……はい。ありがとうございます」
 ズオ・ラウは自ずと頭を下げた。
 身支度を整え、再度Sharpに一礼してからズオ・ラウは踵を返した。その途中、ナマエの剣が床に転がっているのを見つけて拾いに行こうとしたが、本人が取りに来るだろうと割り切って、出入り口へ足を向ける。
 扉を開けて訓練室を出る。一歩踏み出してから、扉のすぐ右脇にナマエが座り込んでいるのに気がついた。全く予想もしていなかったので、ズオ・ラウは驚愕にビクッと肩を跳ねさせた。
 ナマエは壁に寄りかかった三角座りの状態で、抱えた膝の上にタオルを乗せ、そこに顔を埋めていた。ズオ・ラウの気配に気づくと、のろのろと顔を上げる。本当に顔を洗ってきたようで、前髪が少し濡れていた。
「……何をしているんですか?」
「だって二人して、ひとの話をしてるんだもん。入れるわけないよ」
「それは、……申し訳ありません……」
「ひとのこと、根掘り葉掘り聞いて面白い?」
 ナマエはそう言って、恨みがましそうにズオ・ラウを見上げる。
「……面白くはありません。むしろ後ろめたさを感じます」
「なら聞くな」
「では、ナマエさんに尋ねたら答えてくれますか?」
「……」
 ナマエはバツが悪そうに目をそらした。
 ズオ・ラウはナマエのそばにしゃがみ込み、目線の高さを近付けた。ナマエは気まずさが残った複雑な表情になる。
「以前サルゴンでナマエさんの家族構成を尋ねた時、妹さんのことを話してはくれませんでしたよね?」
 そう尋ねた途端、ナマエの瞳が揺らいだ。
「その結果、私は第三者の手を借りる事になりました。ですが、ナマエさんが最初から教えてくれたなら、回り道をせずに済んだはずです」
 ナマエは徐々に目を伏せがちにするが、ズオ・ラウは言葉を続ける。
ナマエさんが包み隠さず答えてくれたら、私は余計な後ろめたさもやましさも感じる事はありません」
 一度呼吸を挟んでから、ナマエの顔をまっすぐに見つめ、
「あなたにそう求めるのは酷でしょうか?」
 対するナマエは返事もせず、ただ顔を俯かせた。
 ナマエはいつの間にか、床に放りっぱなしだった自分の尻尾をふくらはぎに添わせるように巻き付けていた。
 ズオ・ラウがまだ小さい頃、怒られた時や萎縮した時、何か収まりが悪い時は、こうして足に尾を巻き付けた事もあったのを思い出す。
 つまり、ズオ・ラウの求めをナマエは好意的に受け止めていない。むしろ不快に思わせてしまっている。
 それでも――と、あれこれ思考を巡らせる。
「嫌ですか?」
「……その……」
 ナマエは何かを言いかけて、もどかしそうに口ごもる。
 いつもはあんなに無礼千万で威勢がいい応答が返ってくるのに、今は打って変わって別人のように大人しく、反応も鈍い。
「何も、全て話せと言っているわけではありません……」
 もはやナマエに緩衝地帯は不要だと悟った。
 言葉での欺瞞や煙に巻く言い回しより、できるだけ直接的に伝えたほうがいい。簡潔に、わかりやすく、どうしたら相手に伝わるかのみを考える。
 そんな思考の裏側で『こんな事をしている場合ではない』と理性が警鐘のように訴えかけてきたが、分別のつかない衝動がねじ伏せた。それは徐々に膨れ上がって、ズオ・ラウを突き動かす。
 どうしてこうなったのか、納得のいく理由が欲しかった。根っからの探究心も手伝って、判然としないものを探し集めた。ひたすらにわからない事の理由を求めた。
 そうして千々に散らばる欠片を集めてつなげた結果が、今の状況だ。
 なにか他に上手いやり方があったかもしれない。ただ、今更そんな事を考えてもどうしようもない。この場で取り戻せるものがありそうなら取り戻す、それだけの話だ。
「おしゃべりは苦手ですか?」
 やや間をおいてから、ナマエが首を降った。ズオ・ラウの予想通りの反応だった。
 誰にも干渉されたくないのであれば、対話は拒むはずだ。人嫌いを極めて厭世家に転身し隠居するという手もある。実際、そういった人物にもズオ・ラウは心当たりがある。
 しかしナマエはそうではない。掴みどころもないようで、突き放すようでいて、でも変にからかったりと、他者への寄る辺はきちんと整えている。
ナマエさん」
「……なに」
「私は、あなたと話をするのは嫌ではありません。楽しいと感じた時の方が多いくらいです」
 沈黙が長く続けば言葉を発するのも難しくなるので、矢継ぎ早を心がけた。
「砂漠で釣りをしたこと、覚えてますか?」
「……うん」
「あの時は初めて見る景色ばかりで、気持ちが高揚しました。幼少の頃はああいった児戯に身を投じていたのも思い出しました。そして、ナマエさんが語ったあの地に古くから伝わる伝承も、そういった高揚感を大きくさせてくれたんです」
 夕飯の時間になるまで都市の中をあてどなく彷徨い、自分だけの秘密の場所を見つけに行くような、稚拙さのフィルターを通して見た情景に浸る感覚。壁伝いに一番高いところにのぼり、地平線に沈む夕焼けを見つめて、移動都市のなかでこの景色を見ているのは自分たった一人だと目を輝かせたあの頃の記憶。
 あれがまだ自分の中に残っているとは、ズオ・ラウは思っても見なかった。
「あの夜みたいに、また話せたらいいと思っています」
 夜の砂漠で、美しい砂紋を跳ねるように踏み荒らして戻ってきた時のしてやったりな顔。
 子供じみていて楽しそうだったし、ズオ・ラウだって押し込めていた楽しさを攫われた。
「そして、その延長で、少しでもいいから――あなたの事を聞かせて欲しいんです」
 返答をじっと待つ。
 ナマエは難しい顔をしているが、目ぼしい反応は返ってこない。どうして黙っているのかわからない。
 相手が何を考えているのか考えても、ズオ・ラウにはわからない。
 ――答えを、示してくれない。
 いよいよ困り果てていると、
「おっと……」
 近くで声がして、ズオ・ラウは跳ねるように顔を上げた。
 ちょうどSharpが訓練室から出てきたところだった。Sharpは二人の姿を認めるなり心底驚いた様子で動作を止めた。
「まだいたのか?」
「あっ、はい……」
 その返事を皮切りに、ズオ・ラウの中で積み上げていたものが一気に崩れ落ちた。
 あまりにも間が悪すぎる。あと少し時間が欲しかったが、文句を言っても仕方がないのはわかっている。たが、あとほんの少しでいいから、時間が欲しかった。
 そんなズオ・ラウの不満を汲み取ってしまったSharpは、ひどくバツが悪そうに口を開く。
「話の途中で悪いが……おい、剣の鞘はどこだ」
 Sharpが言うと、ナマエはのろのろと顔をそちらに向け、
「……ごみばこの後ろに置いた」
 すぐにSharpが訓練室に戻っていくが、しばらくしてまた出てきた。今度はきちんと消灯もしている。
「忘れ物だ」
 Sharpは革製の鞘に収まった剣をナマエに向かって差し出した。ナマエはそれを受け取ると、ズオ・ラウへ申し訳無さそうに目配せしてから、Sharpを見上げる。
「……隊長は何か用事でもあったの?」
「数日後の任務に参加して貰う。その書類を渡したい」
「……わかった」
 先ほどとは打って変わったSharpの厳粛な態度にナマエは小さなため息をこぼすと、やおら立ち上がった。
「ズオくん、ごめんね」
 何に対する謝罪なのか、ズオ・ラウにはいまいち判別がつかない。手合わせに対してか、話を打ち切る事になったせいか、それともさっきの問いかけに対する答えなのか。
 もしそうなら――考えるだけで気分は沈んだ。
「あと、尻尾、手当してくれてありがとう」
 包帯が巻かれた尻尾の先端を示すようにゆらゆらと左右に揺らすものだから、ズオ・ラウは慌てて立ち上がった。
「無理に動かさないで、なるべく安静にしてください。縫う必要はなさそうでしたが、明日にでも医療部できちんと手当してもらってくださいね」
「うん」
「……それでは、失礼します」
 ズオ・ラウは割り切れなさを振り切って一礼し、踵を返して廊下を進む。すぐに後方からせわしなく移動する足音が聞こえた。
 しばらく歩いてから気になって振り返ると、二人はいなくなっていた。
 ズオ・ラウはすぐに正面を向き、足を進める。
 いつの間にか宿舎に近い区画まで来ていた。というより、ぼんやりしたまま自動的に歩いていたらたどり着いていたというのが正しい。
 この後の予定はなんだったか思い返す。タオルと着替えを持って大浴場に足を運び、風呂を済ませたら日誌を書いて早めに寝る。日課である早朝の訓練をおろそかにしないためだ。
 でも、なんだか億劫で仕方なかった。
 ズオ・ラウの言葉はナマエには響かなかった。言葉の選び方が中途半端だったのか、もっと勇気を出して踏み込むべきだったかすらわからない。こうして必死に思考を巡らせて喋っても、相手に届かなければ、ただただ滑稽だ。
 他人の感情に寄り添えない事を自覚した中途半端さが招くものは、結局のところ恥ずかしさと惨めさだけだ。上手にできなければするべきじゃないと忌避感が芽生え、人を慰めるのがどんどん苦手になっていく。悪循環だとズオ・ラウは自嘲した。
 ナマエに関する一連の出来事は詮ない事だと処理したくはないのに、そうせざるを得ないこの状況が、ズオ・ラウにとってはもどかしい。

「おい。なに通路のど真ん中に突っ立ってんだ、邪魔くせえぞ」
 と、後ろから聞き覚えのある声がして驚きのまま振り返ると、やはり見覚えのある顔が立っていた。
「ニェン……ここで何をしているんですか?」
「それはこっちのセリフだっての」
 そう言われ、ズオ・ラウはあらためて周囲を見渡す。ニェンの言う通り、気付かぬうちに足が止まっていたらしい。ズオ・ラウは自分の不甲斐ない有り様に、思わずため息をついた。
「……申し訳ありません。少し考え事をしていました……」
 そう言うとズオ・ラウは壁際に寄った。どうぞ、とニェンを先に行かせようと促すが、ニェンはその場から動かない。
「……どうかしましたか?」
 怪訝に思って尋ねると、ニェンはじーっとズオ・ラウの顔を見つめ、
「オメー、何かあったな?」
 と言った。
「……なぜそう思うんですか?」
「反応が鈍い。しつこく付き纏ってくるような勢いがない。場を白けさせるような覇気もない」
 きっぱり言い切るニェンと、しばし顔を見合わせる。
「……それでは失礼します」
 先に動いたのはズオ・ラウだった。ニェンの横を通り過ぎて足を進めると、何故かニェンが小走りで追いついてきた。そのまま二人で横並びになって歩く。
「で? 何やらかしたんだよオメーは。腹抱えて笑ってやるから話してみろ」
 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。その仕草はまるで道行く人を見れば率先して絡みに行くたちの悪い酔っ払いのようで、ズオ・ラウはすこぶる不快な気持ちになった。
「何もしていません」
「しらばっくれんな」
「心当たりがありません」
「嘘つけ。オメーが何を言っても、その辛気臭いツラでわかんだよ」
「……」
「なんでそこで意味深に黙るんだよ。そういうとこが詰めが甘いんだよ」
 揶揄混じりのニェンの発言を、ズオ・ラウは冗談として受け止め切れなかった。自分の詰めの甘さを自問し、先程のナマエへの対応を思い返し、そうして一人で勝手に落ち込んでしまう。
 ニェンの目から見ても、ズオ・ラウの視線が下がっていくのがわかった。
「……はー。ちょっとこい」
 ため息混じりにニェンは言い、ズオ・ラウの腕を強引に掴んだ。
「……遠慮させていただきます」
 断り文句とともにその腕を振り払うと、
「いいから来いっての!」
 今度は乱暴な力加減で腕を引っ張られるので、ズオ・ラウはたまらず声を上げた。
「ちょっと……やめてください、人を呼びますよ!」
「その言い方やめろ! 誰かに変な誤解されたらどうすんだ!」
「そのつもりで言っていますが……」
「たち悪ぃな!」
 二人でああだこうだと言い合いながら廊下を歩く。階段の踊り場近くの少休憩スペースに差し掛かると、ズオ・ラウは強引に連れ込まれてしまった。
 備え付けのソファに強引に座らされてしまい、挙句の果てに自販機から温かい飲み物まで渡され、ズオ・ラウは逃げ場を失った。
 ニェンはズオ・ラウの隣にどっかと座り、足を組んで不敵な笑みを浮かべる。
「で? 言ってみろよ」
 話さないと帰してくれそうになかった。それでもズオ・ラウは視線をそらして話すのを渋り、ニェンが諦めるのを待ってやり過ごそうとした。しかしニェンは紙コップに口を付けて、話すまでは梃子でも動かないという雰囲気を醸し出している。
 結局、手元の紙コップがぬるい温度まで下がった頃になって、ズオ・ラウは喋ってしまった。ズオ・ラウにしてはかなりの時間をかけて、言いふらすなとしつこく念を推して。
 誰かに聞いてほしかったのかもしれない。実際、話せばズオ・ラウの気持ちは少し楽になった。
 ズオ・ラウは話している最中、ニェンがいつ大げさに笑い出すのかを伺っていたが、存外ニェンはそんな事はしなかった。最初こそ茶化す気満々だったようだが、数分のうちに済まし顔になって静かにズオ・ラウの話に聞き入り、たまに「ふーん」と相槌を打っていた。
 そうして話を聞き終えると、
「しょーもねー悩みだな」
 盛大に呆れただけだった。
「しょ、しょうもない……?」
「ああ、マジでしょーもない」
 一蹴された衝撃から戸惑うズオ・ラウに対し、
「んなもん、時間が解決するほかねーだろ」
 しごくあっさりと、それが道理であるかのようにニェンは言う。
「だいたいなぁ、オメーだってそうだろ。あんだけ事務的だったのに、今やこうして膝を突き合わせてるわけだ」
 ニェンが自分の膝を指差すので、つられて視線がそちらに向かった。その指先が今度はズオ・ラウの顔を指差すので、ズオ・ラウはその指先の中央からニェンの顔へと視線を移す。
「ここに到るまで私らがオメーに何かしたか? 媚びへつらったわけでもねぇ。オメーが何らかの気付きを得て態度を変えた、たったそれだけだろ」
 ズオ・ラウはニェンの言葉を受け止めながら、目を瞬かせた。
 不覚にも、暗澹たる風景の雲間から光が差し込んだような錯覚を覚えてしまう。
「人が人を理解しあうなんて土台無理な話だ。でもな、オメーが誠心誠意こめて喋ったなら、少なくとも何か響くものはあるはずだろ。まあ、相手がきちんと聞いてりゃの話だけどな。そうして、相手が変わるよう祈っとけ」
「……何に対して祈れと?」
「知らねーよ。無神論者は兄貴でも拝んどけ」
 ズオ・ラウの脳裏に、あの豪快さと静けさを併せ持った武の達人の姿が浮かんだ。
 確かに拝むにはちょうどいいかもしれない――と納得しかけてしまい、下手な考えを慌てて振り払う。
「話して気は楽になったかよ?」
「……ええ、まあ」
「そこは嘘でも楽になったって言っとけ」
 皮肉気味にニェンは言い、
「他人ってのは簡単に御せるもんじゃねぇのは、オメーも重々わかってんだろ。悩みの種になってる奴が何でも自分の意の向くまま、思いのままだったら、こんな片手間に一心託すくらい拘ってたか?」
「……」
「ま、せいぜい謳歌しとけ」
 最後にそんな言葉を付け足して、不敵な笑みを浮かべた。
「楽になりました、感謝いたします。……それで、私にこの対価を求めるのですか?」
「対価ねぇ……あ、三顧の礼でいいぞ。きちんと床に頭をなすりつけて、盛り物用意しとけよ」
 意地の悪い笑みを浮かべている。代理人と持燭人のどちらの立場が上なのかはっきりせず、しかも三度願ってこの代理人をどこに迎え入れるのか甚だ疑問に思ったが、ズオ・ラウはふっと鼻で笑い、
「そんなことでいいんですか? では明日の朝にでも伺います」
「いや冗談だっての、いちいち本気にすんな」
 ニェンは不満そうに眉を寄せた。
「……そういやオメー、後で麻雀のツケ払えよ」
「……、後日伺います」
「伺う気さらさらねーだろ。言い方でわかんだよ」
 ニェンはそう吐き捨てると、おもむろに立ち上がって手元の紙コップをゴミ箱に突っ込んだ。
「んじゃあな」
 後ろ手にひらひらと手を振って、ニェンはのんびりと去っていく。
 置いてけぼりになったズオ・ラウは、しばらくその場にとどまった。あの代理人は一体何をしたかったのかわけもわからぬまま、まだ温さを保っている紙コップに口をつける。数回に分けて飲み干すと、おもむろに立ち上がってゴミ箱に近づき、静かに紙コップを入れた。
 何の気なしに壁際の大窓に近づき、ガラス越しに空を見上げた。
 分厚いガラスを通して広がる景色はどこか濃淡がかっている。おそらく地上と空との温度差で生じた薄い靄がかかっているのだろう。空に広がる星空はぼやけて鮮やかさを失い、高いところから随分と低いところまで複雑な形をした雲がいくつか浮かぶ。
 その合間、天高くにはっきりと、一等星が瞬いているのが見えた。