#12 The Time of Going Away旅立つ時
あれから数日が経過した。その間、ナマエとは一度も会っていない。そもそも、任務に行って、本艦に戻ってきたのかさえズオ・ラウは知らない。その事をわざわざドクターに確認しようとも思わなかった。
「さてズオ・ラウ。どちらが食用かわかるかい」
「ええと……」
窓の外から差し込む日差しは目に眩しすぎるわけでもなく、日光に当たってじっとしていると心地よさを覚えるような、そんな長閑な午後だった。
テーブルの上に二種類の高黍の穂だけが並べられている。そしてドクターからの簡単な出題に、ズオ・ラウは頭を悩ませる。
なんでこんな事になっているのかというと、ズオ・ラウが手伝っても手伝っても一向に減らない書類の山を前にして現実逃避を極めたドクターの思いつきによるものだった。ドクターはため息混じりに「ちょっと出てくる」と言って退出し、しばらくして荷物を提げて戻って来た。その荷物の中に、この二種類の黍があった。
一体この人は何をしに行ったんだ、とズオ・ラウが怪訝そうな表情になると、ドクターは「これはロドスで栽培しているものだよ」と斜め上の事を告げた。
ズオ・ラウは最初こそ混乱したが、すぐに順応した。ズオ・ラウがロドスで過ごすようになってどのくらい経ったのか――ドクターの意味不明な行動に関してとやかく言ったり、理由を求めるのは野暮だとすでに理解していた。
ズオ・ラウは黍を交互に見る。黄褐色と赤茶色。片方は飼料用で、もう片方は食用とのことだが、その境界はひどく曖昧だ。飼料用も食用に転化させる事は可能であり、この茎葉から糖を作ったり、果ては蒸留酒になることもズオ・ラウは知っている。
つまり、どちらがどちらなのかと問われると、まったくわからなかった。
ズオ・ラウはやがて、いつも持ち歩いている手記を取り出した。
以前、大荒城にいた時に小麦と高黍の違いを挿絵付きで書き留めたのだ。食用の高黍についてホーシェンとシャオマンに教わったので、この高黍も同じではないかと思った。だが、該当のページにある絵心のない奇怪な落書きを見つめ、結局ズオ・ラウは自分の記憶を頼ることになる。
「こちらが食用でしょうか?」
一か八かで赤茶色の方を指差すと、
「おお、正解だよ」
ドクターは嬉しそうに頷いた。
「黄色のほうは主にクルビアで栽培されている飼料用品種で、成長が早いぶん食用に不向きになっている。まぁ、食べられない事はないけれど消化不良を引き起こす。こっちの赤い方は大荒城で栽培されている食用品種で、小粒ながら弾力性のある食感だ。君にとっては馴染み深いだろう。よくわかったね」
「以前メモを取ったので……」
そう言ってズオ・ラウは手記のページを開いて見せる。ドクターはそれを覗き込むと、小さく吹き出した。
「流石に麦と黍の違いはわかるだろう?」
「この時はわからなかったんです。恥ずかしながら、この手の分野には理解がありませんでしたから……」
「まさか、小麦粉そのものが実だと勘違いしているタイプじゃないだろうね?」
「流石にそこまで無知ではありませんよ」
「でも、今はわかるようになったと」
「……髭が生えているか生えていないかくらいで判断するほかありませんが」
「まあ、特徴を捉えられたという事でよしとしよう。それじゃ食べてみようか」
「……え?」
困惑をあらわにするズオ・ラウをよそに、ドクターは持ってきた荷物の中からアルミ製の鍋を取り出した。そこに、あらかじめ用意していた大粒の高黍と、食堂からくすねてきたと思しき、小分けになったパン用のバターを入れる。そして炊事場から携帯コンロを持って来ると、鍋に蓋をして火にかける。
まるで学舎にいたころの、科学の授業を彷彿とさせた。
「これが今日のおやつだよ」
「……ポップコーンですか?」
「コーンではなくてソルガムだけどね」
ズオ・ラウはこういった菓子を食べたことはあるが、自分で作る経験は無かった。興味を隠しきれず、どうなるか見入ってしまう。
ほどなくして鍋から破裂音が聞こえてくると、
「ほら始まったよ」
ドクターが嬉しそうに言う。フェイスガードで顔は見えないのに、全身から楽しんでいるのが伝わってくるのが奇妙だ。
破裂音がいっそう激しくなる。ズオ・ラウは少し身体を引いて様子を伺っていると、徐々に音は小さくなっていった。そして、とうとう破裂音がしなくなると、ドクターはコンロの火を止め、鍋を五徳から下ろした。
蓋を開ければ、もこもこと膨らんだポップソルガムが見事に出来上がっていた。
それを皿に盛り付け、ドクターがお茶を淹れ、二人で出来立てを食べた。
ポップコーンとほとんど似ているような食感だ。どこがどう違うかはズオ・ラウには言葉にしにくい。
「その手帳、いつから書き記しているんだい?」
唐突に尋ねられ、ズオ・ラウは食べる手を止めた。
「持燭人の職についてからずっと記録をつけています」
「よかったら、少し見せてくれないかな?」
「……え?」
「嫌ならそれで構わない。プライベートな内容だろうからね。ただ、君がどういう道筋を辿ったのか知りたいんだ」
ズオ・ラウは暫し考え込み、卓上の布巾で手を拭くと、手記を取り出してドクターに差し出した。
「あなたが興味を引く内容があればいいんですが」
「心配しなくていい。麦と黍の違いについてメモを取っている時点で十分興味深いよ」
からかい半分の言葉に、ズオ・ラウは苦笑で応じた。
「結構な量だね」
ページをパラパラとめくりながら、ドクターは感心したように言う。
「一日くらいなら預けても構いませんよ」
「なら、お言葉に甘えようかな」
そうして業務終了時間を迎えると、ズオ・ラウは一礼して退室した。
夕飯を適当に済ませ、鍛錬に時間を費やそうかと思ったが、図書室で本を借りた。
すぐに部屋には戻らず、近くの休憩室で読み耽る。
「あっ」
誰かの声が聞こえて、ズオ・ラウは顔を上げる。
見れば、部屋の入口にナマエが立っていた。思わず目を見開く。
対するナマエも目を丸くして、ぽかんとした表情でズオ・ラウを見ていた。
なんだかものすごくしばらくぶりな気がして、いつもどうやって声をかけていたのか思い出せない。錆びかかった思考をなんとか動かし、ズオ・ラウは口を開いた。
「お……お久しぶりですね……」
「……うん」
お互いにぎこちないやり取りだった。ナマエはまごまごした様子を見せた後、一度だけ周囲を見渡してから休憩室に入ってきた。
「いつ本艦に戻ってきていたんですか?」
「昨日」
まっすぐにズオ・ラウの方にやってきたかと思うと、
「ズオくんにこれあげる」
そう言って大事そうに丸めた手を差し出してくるものだから、さすがのズオ・ラウもきょとんと目を丸くした。
読んでいた本を閉じて右手を差し出すと、手のひらの上に何か落とされた。
「……これは?」
「鼻かんだティッシュ。ポケットに入ってた」
「……」
「私だと思って大事にしてね」
「……」
ズオ・ラウは盛大にため息をつき、無言で投げ返した。
「あっ、わっ、わぁっ」
あっでナマエの額に当たり、わっで跳ね返って明後日の方向に飛んでいき、わぁっで床に転がったそれを追いかけていった。
ナマエはゴミを拾い上げると、壁際に設置されているゴミ箱に捨てた。そのまま振り返りもせず入口へと足を向ける。休憩室から立ち去る気配を感じ、ズオ・ラウは思わず「あ」と口を丸くする。ナマエが退室する間際になって、ズオ・ラウの方を振り返った。
視線が交錯して数秒後、ナマエはパタパタとした足取りで戻って来た。ズオ・ラウは慌てて口を閉じ、ごまかすように小さく咳払いをする。
「ふざけるのは程々にしてください」
「ごめん……」
静かに怒ると、ナマエは肩をすぼめて謝った。
「今の、他の人にやったら間違いなく嫌われますからね」
「うん。でもズオくんなら大丈夫かなって」
「……」
日常動作におけるズオ・ラウの沸点が低い事を見越しての行動と自白され、ズオ・ラウは閉口した。なんだか手のひらの上で転がされているような気がして、無性に気に食わない。
とはいえ、普段と変わらない態度にズオ・ラウは安堵した。
正直、このまま疎遠になると思っていた。でも、こうして取るに足らないやり取りを交えたおかげで、漠然と抱えていた不安や、胸の奥に残った寂寥感がすっかり消えてなくなってしまっている。ナマエの顔を見てこんな感慨に浸るなど思っても見なかった。
嬉しいかと聞かれれば嬉しい。が、さっきのやり取りで相殺されてしまい、ズオ・ラウの胸中は複雑だった。
「それで、何か私に用でも?」
「……今大丈夫? 迷惑じゃない?」
「おや、いまさら何を気遣うことがあるんですか?」
「本読んでたから」
「本はいつでも読めますよ。それで?」
ズオ・ラウが促すと、ナマエはあちこちに視線を向ける。長い逡巡の果てに、おずおずと口を開いた。
「ズオ・ラウってどういう字で書くの?」
「……、唐突にどうしたんですか?」
ズオ・ラウが首を傾げると、
「トランスポーターを目指すと、いろんな国の人と接しなくちゃいけなくなる。公用語の他にも色々な言語を学ぶのが良いってドクターに聞いたから、手当たり次第に触れてみようと思って」
ズオ・ラウは面食らい、無言でナマエの顔を見つめた。ナマエはいたって真面目な表情だ。冗談で言っている雰囲気は感じられない。
恨みの対象を見失い、ロドスに対する忠誠心もなく、半ば諦観に身を浸した状態のままでは何をしでかすかわからない――あのエリートオペレーターが語った不安はすぐに解消されるのではないかと、ズオ・ラウは淡い期待を抱く。
「そういう事でしたか。それならば、図書室で本を探したほうがいいのでは? よろしければ探すのを手伝いますよ」
そう言ってズオ・ラウが立ち上がろうとするのを、ナマエは慌てて制した。
「それはそうだけど……、最初にズオくんの名前を覚えておきたくて……」
「……私の名前を?」
「うん。いいとっかかりになると思ったから」
「取っ掛かり……?」
ズオ・ラウが怪訝そうに復唱すると、ナマエは追従するように頷いて、
「炎国は覚える文字がたくさんあって難しいって聞いた。だから、ズオくんの文字を覚えれば、それが出てきた時ちょっとは楽しいかなって」
子供じみた物言いなのに、政府要人の小難しい言葉よりも理解するのが難しい。というよりも、頭が理解を拒んでいると言ったほうが正しいような気もした。
頭の中で復唱して言葉を噛み砕いて、ズオ・ラウはようやく意図を理解した。
ナマエは文字を読み解く際、『左楽』の二文字を見つけられれば、勉学を楽しめるのだという。
ズオ・ラウはゆっくりと静かに深呼吸をする。そうでもしないと、色んなものが緩んでしまいそうだった。
数瞬の無言をはさんでから、ズオ・ラウはいつも持ち歩いている手記を取り出そうとし、ドクターに貸している事を思い出した。
「手記をドクターに預けているのを失念していました……何か書けるものを探してきます」
「いい。手で十分」
「手?」
「うん」
ナマエは首を縦に振ると、
「ここに指で書いて欲しい。頑張って覚える」
パーに開いた右手を差し出すものだから、ズオ・ラウは戸惑いがちにナマエの右手と表情を交互に見やった。
ひとしきり迷いを見せたが、意を決し、
「失礼」
そう声をかけてから、ナマエの手を取った。指先はおろか、触れたところ全てから伝わる感触を気にしないよう努める。
右手の人差し指で、横線、ななめ線、横縦横となぞり、ナマエの手のひらに『左』の文字を描く。
「これが私の姓であるズオを表す文字です。諸外国ではファミリーネームともいいますね」
するとナマエは目を瞬かせて、
「……ズオくんって、ズオくんが名前じゃなかったの?」
心底驚いた様子で言うので、ズオ・ラウもつられて驚いた。数秒見つめ合い、方や気まずそうに目を逸らし、方や苦笑を浮かべる。
「私の名前はラウの方です。炎国では姓名が逆転していますから」
「今までずっとズオくんが名前だと思ってた……ごめん」
己の世間知らずを恥じながらも申し訳無さそうにしているナマエを見て、ズオ・ラウは目を細めた。
「謝る必要はありませんよ。炎国はもちろんロドスの方々も私を姓で呼ぶことが多いですから、ナマエさんが勘違いするのも致し方ないでしょう」
「それじゃあ、これからはラウくんって呼んだほうがいい?」
ズオ・ラウはことさらに面食らった。
助走をつけ、垣根を壊して飛び込んでくるような勢いの親しみを向けられ、ついつい相手の顔を伺う。しかしナマエからは無知ゆえの純粋さしか伝わってこない。
炎国において、人名を呼び捨てに出来る関係の範囲はごく狭い。今やズオ・ラウを名前だけで『ラウ』と呼ぶのは両親や親族くらいのもので、むろん学舎での友人に名前だけで呼ばれる事はあったが片手で数えるほどの回数しかなく、『ズオ・ラウ』と呼ばれる事が殆どだった。ここ最近は姓に敬称をつけて『ズオさん』、大仰に『ズオ公子』と呼ばれるのが常で、ごく一部から『燭台くん』とへんてこなあだ名を付けられたりもしたが、名前だけで呼ばれる事は滅多にない。
これをナマエに説明すればきっと分かってくれるだろう。その次には、とんでもない申し出をしたと謝罪してくるだろう事も、ズオ・ラウには想像に難くなかった。
ただ、どうしてか躊躇が生まれた。なぜ躊躇するのかズオ・ラウは自問し、答えを見つけるよりも先にじわじわと奇妙なはがゆさに見舞われた。
ズオ・ラウは炎国の公職の身である。だが、司歳台にいるというだけで半人前の自覚は大いにある。衣食住だってひとりではままならないし、両親もズオ・ラウの知らぬところで間接的に世話を焼いている。周囲の人間の力に頼ってこまでやって来たのだ。
そんな責任を背負っている以上、あらゆる私情も切り捨てた公平さを保ち、きちんと線引きをしなければならない。ましてや今は重要な任についているのだ。いついかなる時も官僚としての心構えと矜持を忘れてはならないし、持燭人としての責任と信念を貫き通す心もしっかり持たねばなるまい。
そう思っているのに、
「……お好きにどうぞ」
口から出たのは真逆の言葉だった。
不思議と後悔はない。もちろん適当な事を言ったつもりもない。
そして、相手の動向にはしたなくも期待すら抱いてしまっている。ずいぶんと馬鹿な事をしている自覚があるにも関わらず、それを改める気がこれっぽっちも湧いてこないので、相当だ。
そんな自問を交えながら身構えるようにじっと待っていると、ナマエがほのかに笑うような空気を感じた。
「ラウくん」
「は、はい」
本当にささやかだが上擦った声が出て、ズオ・ラウは無性に情けない気持ちになった。
「どんな字を書くの?」
「……あっ、……そうでしたね……」
温度差を感じ取った瞬間、すっと冷えていく。何を思い上がっていたのかと自分を叱責し、ズオ・ラウは気を取り直す。
手のひらに視線を落として字を書き始めると、ナマエが小さく身じろぎをする。
「やっぱりちょっとくすぐったい」
「我慢してください」
「うん」
奇妙なもどかしさに襲われたが、かといって急ぐわけにもいかず、ズオ・ラウは丁寧に『楽』の字を書き終える。
「炎国の言葉で左に楽と書いてズオ・ラウ。これが私が両親から賜った名です」
「うん。ちゃんと覚えてるか確認してもらっていい?」
「かまいませんよ」
返事をするなりナマエに右手をとられ、ズオ・ラウは何をするのか察して手を広げた。人差し指がするすると手のひらの上を滑り出す。
思っていたよりもくすぐったくて、自然と息が詰まった。さっきまで気にしないようにと努めた自戒の念はどこかに放りだしてしまって見つからない。
くすぐったさを必死に我慢しながらナマエの書き筋を確かめていると、不意にズオ・ラウはある事に気付いた。
「あの、字が逆さまです……」
「さかさま……?」
「はい……」
ナマエはしばらく硬直し、やがて迷子の子供みたいな顔になった。
「ごめん、わかんなくなっちゃった。……せっかく教えてもらったのに……」
しゅんとしながら言うので、ズオ・ラウは慌てて首を横に振る。
「いえ、私の方こそ配慮が足りていませんでした」
「もう一回最初から教えてくれる?」
「もちろんですよ」
ズオ・ラウが言うと、ナマエは何故か迷う素振りを見せた。そして思い切った動作で、ズオ・ラウの左側に腰掛けた。腕がぶつかるほど距離が狭まり、ズオ・ラウは内心戸惑った。
無言でナマエが右手を差し出してくるので、ズオ・ラウはもう一度同じように字を書き留めた。それが終わると今度はナマエがズオ・ラウの手に文字を書きはじめる。やっぱりくすぐったくて、ズオ・ラウは歯噛みする。
「ズオは簡単だけど、ラウはむずかしい。あってる?」
「あってますよ」
「よかった……」
ナマエは口元を緩ませながら、ほっとしたような口調で言う。
それを見ていると、無性に照れくさいような気持ちにさせられてしまう。
「このズオって字は、どういう意味なの?」
「ええと……みぎひだり、の左ですね」
ほかに、証左や補佐の左などいくつか由来があるのだとズオ・ラウは父親から聞いていたが、無粋だろうと判断し説明は省いた。
「じゃあ、ラウは?」
「楽をする、楽しいとか、あとは……音楽のことも指します」
「へー、なるほど」
ナマエは納得したようにひとつ頷いて、
「つまり、ラウくんは左側だけ楽なんだね」
ズオ・ラウは一瞬、反応に遅れた。
「……ええと、いや、ちょっと……だいぶ、かなり違うような気がします……」
「右も楽だったら良かったのにね」
「……まあ、それは、……そうなんでしょうか……?」
曖昧でふわふわとした地に足のつかない謎の理論に惑わされ、ズオ・ラウは頭上にいくつものハテナマークを浮かべた。ある種の注意散漫を発症しそうになっていると、
「じゃあ、ラウくんの苦しいの私が肩代わりする。そしたらきっと右も楽になるよ」
そんな、自己完結から始まる感覚的で抽象的な言葉は、噛み砕いて飲み込むのにそれなりの時間を要した。
ナマエが何を伝えようとしているのか、ズオ・ラウにははっきりとはわからない。ただ漠然と、ナマエにとってズオ・ラウは何か重要な位置にいるのだと、ナマエなりの言い方で伝えようとしているのは理解できた。
自分にそこまでする価値があるのか? なんのために? 疑問に思えば思うほど胸の奥がむず痒くなってしまう。
「なぜそのような事を?」
尋ねると、ナマエは何故か困惑げになり、
「……なんとなく?」
「質問に疑問で返さないでください……」
ズオ・ラウは肩から一気に脱力した。予想はしていたが、期待の反動は大きかった。そんなあからさまな落胆を目の当たりにしたナマエは、焦ったように視線を彷徨わせ、
「……うまく言えない。ちょっとまって……」
ナマエはそう言うと、長い尻尾の先をぷらぷらとさせはじめる。難しそうな顔して、必死に思考を巡らせて、言葉を選んでいるようなそぶりだった。
ズオ・ラウの胸中で、くすぶっていた期待が再燃する。
沈黙は長かったが、ズオ・ラウは大人しく待った。待ち続けた。返答がないことに、困り果てることもなかった。
何秒経ったのか、それとも何分経ったのか――時間の感覚が曖昧になってきた頃になって、ナマエはようやく口を開いた。
「この前、ラウくんが、釣りした時楽しかったって言ったの、覚えてる?」
ズオ・ラウは目を見開き、
「はい」
すぐに返事をした。
「私も、あのとき楽しかった。普通に笑えてたと思う」
ナマエは思い出し笑いでもするかのようにふっと微笑んだのもつかの間、僅かに目を伏せて、
「あの後ね、私もいろんなこと考えた。ラウくんの話の中身とか、なんで悲しそうだったのか」
もごもごと気まずそうな口調で、いつもの威勢のよさはない。
「途中で、なんでズオくんの事ばっかり考えてるんだろうって馬鹿臭くなってやめたりもしたけど……結局、頭から離れなかった」
いつ途切れるかもわからないくらい弱々しいので、ズオ・ラウは言葉を促すため、無言で相槌を打った。
「隊長とも話したんだ、これからの事とか色々。好きにしろって突き放されるかと思ったけど、全然そんな事なかった」
ナマエは自嘲気味に笑い、
「これ以上追い求めても無駄だって言われた。たとえ成し遂げても、ちっぽけさに幻滅するだけだって。そんなものより手が届く身近なもの、家族とか友人とかを大切にしろって。その時は馬鹿にしてるのかって怒っちゃったけど、隊長はきっとそういう虚しさとかわかってたのかな」
ナマエは言葉を区切って一呼吸挟むと、まっすぐにズオ・ラウを見つめる。
「それでね、ラウくんが悲しそうにしてる時は、私も悲しくなるのに気付いた」
どこか自信なさげに一度視線をさまよわせてから、
「だから、ラウくんにはずっと笑ってて欲しい」
媚びもへつらいもなく、混じり気のない純粋さを向けてくる。
ズオ・ラウは咄嗟に反応を返せなかった。胸の奥から無性に込み上げて来て、息が詰まって仕方がない。ひとしきり堪えてようやく、大きなため息をついてみせた。
「……あなたの主張は、余りが過ぎます」
「あまり?」
「簡潔に言えば、独りよがりなんですよ、あなたは」
ズオ・ラウがそう言うと、ナマエは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になった。
どこか気の抜けた表情についつい笑ってしまいそうになるのをこらえつつ、ズオ・ラウは言葉を続ける。
「人間万事塞翁が馬という言葉があります」
途端にナマエは嫌そうな顔になった。
「……難しい話はやめよう?」
「いいから聞いてください」
「やだ」
あからさまに顔を背ける。
「いいから」
念を押すと、ナマエは渋々と言った様子でズオ・ラウの方に向き直った。心底面倒臭いと言わんばかりの眼差しを向けられるが、こっちを向いてくれるだけでもよしとする。
「もとは故事から派生した言葉です。吉凶や苦楽は相反する要素でありながら表裏一体であり、隣り合わせにあるものです。本来は幸不幸その都度一喜一憂すべからずという意味を持ちますが、今の状況おいてはどうでもよい事でしょう」
ナマエはふんふんと頷きながらも、わかったようなわかってないような曖昧な顔でズオ・ラウを見つめている。本当に聞いているのか不安に思ったが、ズオ・ラウは話を続けた。
「似たような言葉で、禍福は糾える縄のごとし、とも言ったりします。縄が交互に編み込まれているように、苦楽も交互に転じてこそ人の一生なのです」
「う、うん」
「あなたが私の苦しいのとやらを肩代わりするというのは理にかなっていません。そもそもどうやって肩代わりすると言うんですか?」
「……そこまで考えてなかった」
肩をすぼめてしゅんとしてしまう。さっきまでパタパタ揺れていた尻尾もどこか元気をなくして、重力に従うかのようにだらりと床にこぼれおちている。
「私に悲しい顔をするなと言っておきながら、なんでそんな顔をするんですか?」
「だってラウくんねちっこい」
「ねちっ……、断じてそんな事はありません」
「あるよ。ねちねちしてるよ」
あからさまに拗ねた口ぶりだった。
ナマエの機嫌を損ねてしまったのは重々承知のうえだが、それでも冗談めかした軽口を叩き合える余裕がある事に、どうしてかひどい安堵を覚えてしまう。
ズオ・ラウはそんな気持ちをごまかすように、「ともかく」と前置きしてから、
「いずれにせよ、あなたが私の苦を引き受けるというならば、私もそうするべきではありませんか? そうでもしないと、釣り合いが取れませんから……」
ナマエが目を丸くして、何度も目を瞬かせる。
「どうやって?」
「ただこうやって話す、それで十分ではありませんか?」
ズオ・ラウには、たった一つの冴えたやり方みたいなのは思いつかない。
ニェンが言うように、人は人を完全には理解できない。気持ちの全てが伝わることはないし、わかりあっているように思えても、それはただの錯覚にしか過ぎない。実際、人生で一番長く付き合っている両親の考えもわからないのだから、赤の他人なんて尚更だ。
でも、知ることはできる。相手の事を知って、自分の事を知ってもらって、快適な距離感を掴むことは出来る。そうして、次第に状況を変えていける。
ズオ・ラウはナマエが好きなものも、嫌いなものも知らない。でも、ナマエだってそれは同じことだ。
互いに、互いのことを何も知らない。
ならば、行き着くところはここしかない。
きっとナマエだって、同じ事を考えているに違いないのだから。
「色々話してください。私も話します」
ナマエは視線を彷徨わせ、
「……面白いこと言えないけど、平気?」
「面白いかどうかは肝要ではありません。それに、私だって同じ事です。ナマエさんは面白くなくても平気ですか?」
ナマエは視線を元の位置に戻して、ズオ・ラウの瞳を捉えた。いつかのように不自然に目を逸らすことなく、ズオ・ラウを真っ直ぐに見つめて言う。
「平気」
そして、はにかむように笑った。
ズオ・ラウは今の今まで、極力意識しないよう努めていたことがある。持燭人に就いてからというもの、無理やり意識から排除していたことだ。
しかし、ここはランタンが入り用になるほど視野のおぼつかない夜闇の中ではなく、きちんと明るい部屋の中だ。そんな場所で真正面切って、かつて一瞬で過ぎ去った風景を目の当たりにしてしまい、ズオ・ラウはどうしても気付いてしまった。
ナマエは笑うと可愛い。
気付いてしまうともう終わりだった。金縛りにあったみたいに身動きが取れなくなる。おまけに反応のないズオ・ラウに対して怪訝そうに首を傾げる挙動すら、何故か可愛く見えてくる。
「……っ」
ようやく我に返って、ズオ・ラウは慌てて視線をそらした。それでもナマエにまじまじと観察されているのを感じる。
「ふふ」
小さな笑い声が聞こえた。恐る恐る伺うと、楽しそうにしている。
「なんですか?」
やけになって尋ねると、
「照れてる?」
尋ね返され、ズオ・ラウは返答に窮して俯いてしまった。見抜かれてしまった事が、無性に恥ずかしさを煽る。
「照れてるー」
「に、二度も言わないでください……」
「ふふー、ういやつめ」
大仰な言い方でからかわれ、ズオ・ラウは内心悪態をつきたい気持ちでいっぱいになった。
「……そんな言葉、どこで覚えたんですか」
ナマエのにまにました笑顔を睨めつける。対するナマエはわずかに視線を上に向けて「んー……」と考え込む素振りを見せたあと、
「秘密」
いたずらっぽく目を細めて言うので、ズオ・ラウはたまらずに唸った。