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#7 The 13 Years ago Picnic part213年前ピクニック 後編

 目指すは南にある橋だが、このまま馬鹿正直に真っ直ぐ進んでしまうと火災が起きている村に突き当たってしまうので、迂回は必然だった。地図も方位磁石も持たずに森の中を進む危険性は充分理解しているが仕方がない。ただ幸いな事にナマエが地形に詳しいようで、方角もおぼつかない木立の中、安全と思しき方向を示してくれた。
 周囲を念入りに警戒しながら足を進め、人の気配を感じれば身を隠す、その繰り返しが続く。危険に遭遇はしなかったが、目視で民間人を確認はした。たとえそれが助けを求めさまよう村人のような風貌であっても、ズオ・ラウは接触を避けた。
 姿を見せるような事はしないほうがいいと己の直感が告げていた。それに、あの工場で遭ったような状況に陥るのは御免被りたかった。
 起伏の激しい場所に出ると、ズオ・ラウがいつも携帯している鉤縄が役に立った。体重を支えられそうな太い枝に引っ掛け、縄伝いに崖を飛び越えたり、樹上に登って枝伝いに移動し、地面に降り立ったりもした。
 その間ナマエは怖がる事はなく、表情に驚きと好奇心を滲ませていた。しかしズオ・ラウの視線に気付くと咎められたと思ったのか、一転して申し訳無さそうな表情になって、俯いてしまう。
 少なくとも、この子供はまだ大丈夫だ。こういった状況でも自分の感情を動かす余裕がある。その事にズオ・ラウはいたく安堵し、ナマエの背中を軽くひと撫でしてから足を進めた。
 やがて枝葉の合間に、橋に通ずる街道が見えた。
 ナマエが街道に行きたいと言わんばかりに身を乗り出すので、ズオ・ラウはそれを制するようにナマエの背中に右腕を回した。不思議そうに見つめ返すナマエに対し、ズオ・ラウは人差し指を口元に立てて静かにするよう合図をする。ナマエは素直に頷いて唇を難く引き結び、少しだけ身体を縮こませた。
 索敵せずとも人の気配を強く感じた。それも、なんの根拠もない悪寒を誘発させるようなものだ。そして、身動きすら躊躇うほどの濃密さも伴っている。
 こういった状況は臆病であれば臆病であるほどいい。その臆病さが身を守る術になるとズオ・ラウは学習している。命をつなぐのは英雄のような勇猛さが全てではないのだ。
 姿勢を低くし、草木に身を紛れ込ませながら移動する。足音を立てない移動の仕方は心得ているつもりだが、足元には枯れ葉や枝など物音を立てやすい自然物が多く、ズオ・ラウは気を揉んだ。
 じりじりと移動しながら、これからどうするかを考える。橋に向かい敵がいたら追い払え、と老婦に言われたが、敵の数が多ければ多勢に無勢だ。老婦は自分の身を優先しろと言ってくれたので、この場合は騒ぎが落ち着くまで身を潜めていたほうがいい。
 導き出した結論は、橋の周囲を目視で確認し、何かできるようなら助力し、それ以外はナマエを抱えて逃げるという事だった。
 しばらく歩いて、ズオ・ラウは動きを止めた。草葉の合間から人の姿が見えたからだ。
 背格好にばらつきのある男たちだ。見てくれは人間だが、その風体から村の住人ではないのが如実に感じ取れた。何よりも、身にまとう雰囲気が平穏とは真逆である。まともな社会性を持っているのかさえも怪しかった。
 強い警戒からナマエを抱える腕に力がこもる。少し身体を移動させて、さらに様子を伺った。
 手前に三人、奥に二人の計五人。それに駄獣と駄馬が数頭。剣を持っているが、銃をはじめとした近代的な装備は持ち合わせていない。
 と、奥から来た男が笑みを浮かべて手前の三人に接触を図った。談笑がはじまり、それぞれから品のない笑い声が響く。一帯にはのんびりとくつろぐような空気が蔓延していた。彼らは油断しきっている。
 この人数をズオ・ラウ一人で制圧できるかと問われれば、自信はあった。今までは剣を鞘から抜きこそはしたが、人を傷つけるために振るう事はしなかった。この制約を取り払えば容易だし、油断しきっている今がチャンスだ。
 ただ、唯一の懸念はナマエだ。大人しく隠れていてくれればいいが、ズオ・ラウが人を斬りふせるのは隠せない。それを目の当たりにしてナマエがどう思うのか――。あの工場内で見た怯えるような眼差しを思い出し、行動を起こすことに躊躇が生まれた。そしてナマエを一人取り残せばさっきのように襲われる可能性も否めないので、ナマエを一人にすることは憚られた。
 自分がなすべき事を己の天秤にかけ優先順位を見極めながら、安易に安請け合いするべきではなかったかもしれないと後悔の念が湧いた。ここまでの道中を思い返したが、結局あの生意気な方のナマエは見つかっていない。この状況下、もはや彼女が無事でいることをズオ・ラウは祈るしかない。
 思案を巡らせながら、和やかな空気に身を投じる男達の様子を伺っているときだった。
 ズオ・ラウの腕の中でナマエが小さく震えたかと思えば、視線を街道の向こう――村へ至る方角へと向ける。釣られてそちらに視線を向けると、ほどなくして軽妙な足音が聞こえた。
 蹄の音だ。それも複数頭いる。その後ろにとりつくように人の足音が追いかけてくる。さながら騎兵と歩兵の足音じみたそれは徐々に近づいてきて、眼前に姿を表した。
 集団の全員がならず者といった風体だった。しかしその先頭を切る馬上の男だけが、異様な雰囲気を放っている。全身から自信に満ち溢れているのが見て取れるし、それが周囲の鼓舞へつながっている。この集団のリーダーのようだ。若く見えるが、年はズオ・ラウより一回り以上も離れている事を感じさせる。
 リーダー格の男は周囲の男達と談笑を交えつつ馬から降りた。その挙動が左脇をかばっているように見えて、ズオ・ラウは目を凝らす。怪我をしているかと疑ったのだが、どうやら違った。
 一人の子供を小脇に抱えていた。気絶しているのか四肢を重力に預けるよう力なくぶら下げ、見るからにぐったりとしていた。服装から察するに村の子供だろう。
 なぜ一人だけ連れてきたのかとズオ・ラウが疑問に思うのと同時に、腕の中のナマエが身じろぎした。わずかに身を乗り出し、首を伸ばして様子を伺い始める。
 男が体の向きを反転させた事によって、子供の首が僅かに傾いた。松明の明かりで、その顔が照らされる。
 ナマエだ。――違う、ナマエと瓜二つの子供だった。
 ズオ・ラウの頭の中に突如として困惑と混乱と驚愕が渦巻き、思考停止による一瞬の硬直が生まれた。その隙をついて、ナマエはズオ・ラウを突き飛ばすようにして地面に降り立った。
「――なっ!?」
 慌てて手を伸ばすが、指先が服をかすめただけだった。唖然とするズオ・ラウを振り返りもせず、ナマエは街道へと飛び出していく。
 何故ナマエが飛び出していったのか理解が及ばない。そしてナマエを止められなかった事に対するどうしようもない苛立ちと焦燥感を、ズオ・ラウはぐっと堪えた。
 唐突に子供が飛び出した事により、賊の集団からにわかにざわめきが生まれる。そのほとんどが好奇じみたものだった。
 賊の集団の視線を一身に浴びてもナマエは微動だにせず、子供だてらに勇ましく向き合っている。ナマエがあのリーダー格の男に何か捲し立て始めたが、対する男は罠にかかった小動物を迎え入れるような態度で接している。さながら勝利を確信したような表情だ。
 ――まずい。
 そう思った瞬間、ズオ・ラウの身体は勝手に動いていた。
 藪を飛び出し、安全確認のすべてを放棄してナマエの真後ろに着地し、その場にしゃがみ込んだ。驚いた様子で振り返るナマエを左手で引き寄せ、ズオ・ラウは賊の集団と対峙した。
 ざわめきが一転して静まり返った。腕の中のナマエが逃げようと身じろぎをするので、ズオ・ラウはさらに強く引き寄せる。ナマエが見上げてくる気配を感じたが、構わず押さえつけていると、途端にナマエは大人しくなった。
 何故ナマエが危険地帯へ飛び出したのか色々と不満はあったが、そんな些細な事はこの場においては二の次だ。この危地から二人で安全に脱出する事をズオ・ラウは念頭に置きながら、リーダー格の男と睨み合う。
 しばらく膠着状態を続けていると、
「――――」
 男が何かを話しだしたが、ズオ・ラウにはわからないので首を振った。相手も言葉が通じないと察したようで、小さなため息をこぼす。
 四方から強い敵意の混ざった視線を感じる。ズオ・ラウはそれに逆らうように、右手を剣の柄へと移動させた。
 こうなってしまった以上、戦闘は確定事項だ。来たるべき火蓋が切られる瞬間に備える他ない。この状況で幸いなのは、相手がズオ・ラウの事を脅威とみなしている事だった。そうでなければ、こんなに警戒する事無く襲いかかってきただろう。
 リーダーの男の視線がするりと逸らされた。周囲を牽制するような手振りを見せたかと思えばズオ・ラウを一瞥し、後ろに控える男たちに話しかける。
 やがて、列を成した集団の奥から、一人の男が出てきた。その男は侮蔑するような眼差しをズオ・ラウに向けた後、手にぶら下げていたものを一つ、また一つと放り投げる。重たい音を立てて転がってきたそれは、ズオ・ラウの正面、二メートル先で止まった。
 人間の男女の首だった。精巧な作り物のように見えるが、本物だ。二人は目を閉じて眠りにつくような顔をしている。頭頂部に獣のような耳はなく、頭の横から尖った耳が生えているので、種族はアダクリスかフィディアだと推測できた。
 切り離されて時間が経ったのか、切断面から血は出ていない。人間が感じ取れない微細な死臭に引き寄せられたのか無数の蝿が飛び、頬の上を這い回っている。
 ズオ・ラウはそれを一瞥するのみにとどめた。下手な脅しに虫唾を覚えながらも、あらためてリーダー格の男を睨む。しかし、平然としていたのはズオ・ラウだけだった。
「――」
 かすかな悲鳴が聞こえ、ズオ・ラウは音の発生源を見下ろした。ナマエの表情が凍りついている。顔面蒼白になって小刻みに震えだす。その違和感に瞬きを一度挟み、ズオ・ラウはあらためて二つの首を見た。
 男女の首だ。
 ズオ・ラウが事態を察して息を呑むのとほぼ同時に、
「――――!!」
 ナマエの絶叫が轟いた。
 先ほどのように飛び出す事を警戒しズオ・ラウは腕に力を込めたが、ナマエは恐怖から腰を抜かしたようで、自分で立っていられず地面にへたりこむ。
 やがて、ナマエは声を上げて泣き出した。完全に糸が切れてしまったようだった。
 リーダー格の男が一歩前に出たのでズオ・ラウは身構えたが、襲っては来ない。にわかに手を持ち上げて地面に転がる首を指差したかと思えば、今度はズオ・ラウの顔を真っ直ぐに指差す。
 お前もこうなるぞ、と脅しているように取れた。
 次はナマエを指差した後に掌を上向きにさせ、人差し指を曲げて『こっちに来い』というジェスチャーを繰り出す。そしてズオ・ラウを指差すと、その指先を橋の方角へと向けた。
 子供を渡せば逃がしてやる。相手の要求はこんなところだろう。
 ズオ・ラウはナマエを見下ろした。顔をぐしゃぐしゃにして、しゃくりあげるように泣きじゃくっている。ただただ哀れで、見ているこっちが疼くような息苦しさを覚えるほどだ。
 視線を男へ向け、ズオ・ラウは首を振った。
 交渉決裂の意思が伝わったのか、男は程なくして呆れたような笑みを浮かべた。周囲の人間に何事かを伝え始めると、それぞれが武器を構え始める。ズオ・ラウも応戦せざるをえなかった。嘲笑をはじめとする、好意的とは程遠い視線を一身に浴びながら、ズオ・ラウは剣の柄を握りしめる。
 鞘から剣を抜こうとした時、銃声が響いた。
 集団の端に立っていた男がその場に膝から崩折れる。唐突な出来事に、場にいる全ての人間が硬直する。
 立て続けに発砲音が響き、にわかに騒がしくなる。銃は手振れ補正がかかっていないようで、被弾はあちこちに発生していた。銃弾を受けた男が悲鳴を上げ、奇妙なざわめきが伝播する。ズオ・ラウはナマエをかばうように姿勢を低くし、橋へと至る街道に目を向ける。
 こちらに向かってくる集団がある。遠目に見ても武装しているのがわかった。老婦の言っていた応援だろう。ズオ・ラウはたまらず安堵の息をついた。
 周囲の村から構成されているようで、賊の集団とは雰囲気が違う。平和を壊すために武装しているのではなく、平和維持のために武装しているように見えた。
 このまま彼らに合流すべきか迷ったが、ズオ・ラウはふと老婦に言われたことを思い返した。
 橋の前に集まる盗賊団を退ける事はできなかったが、行動を阻害する事はした。
 そして応援部隊が無事に到着するのを確認した。
 ならばズオ・ラウがするべき事は、この場からすぐに離脱する事だ。
 ざわめきのなか、リーダー格の男は動じる様子無く周囲に声をかけている。こちらへの注意が逸れている今がチャンスだ。ズオ・ラウは視線だけで周囲を見渡し、逃亡のための道筋を測った。街道を突っ切るのは誤射の危険性が付き纏う。
 と、男の小脇に抱えられている、あのナマエと瓜二つの子供が身動ぎした。ゆっくりと顔が持ち上がる。ぼんやりとした視線をナマエに向けると、力なく垂れ下がった手をのろのろと持ち上げた。ナマエを真っ直ぐに見つめ、手を伸ばす。
 それに気付いたナマエが息を呑む。泣きじゃくりながら立ち上がって一歩踏み出そうとするのを、ズオ・ラウは無言で制した。そのまますくい取るように抱き上げる。ナマエに困惑の眼差しを向けられたが、ズオ・ラウは首を振った。
 剣を振るえば助けられるかもしれないが、多勢に無勢が過ぎる。万が一ここで自分が怪我をしたら、誰がこの子供を守るのか。身の安全の保証を願ったところで、きっと誰も守ってはくれない。

 ズオ・ラウはベルトに引っ掛けている装備の中から鈎縄を取り出し、背後の木立に視線を巡らせる。できるだけ太い枝を見繕い、そちらに向かって放り投げた。ズオ・ラウの行動に咎めるような声を上げる者もいるが、応援部隊が距離を詰める事から発生するざわめきのせいで目立たない。
 ナマエが嫌がるように声を張り上げもがき出したが、ズオ・ラウは構わず手元のスイッチを押した。ロープが自動で巻き取られ始めると身体が浮遊し、腕に掛かる負荷が増す。
 呆気にとられ、硬直している面々が遠ざかっていくのを尻目に枝上に登ると、ズオ・ラウは慣れた手つきで鉤縄を外した。ナマエはあの場を離れた事に対し、大声で何かをまくし立てるが、ズオ・ラウは気にも留めない。左手でナマエを小脇に抱えなおし、まとまった鈎縄を右手に携えると、あちこちに視線を巡らせ逃走ルートを導き出す。
 そして、目指す方角を決めると、枝から枝へと飛んだ。
 数秒もしないうちに街道が怒声で騒がしくなる。応援部隊が賊と接触し、交戦しているのだろう。だが、ズオ・ラウを追いかけてくる喧騒が複数ある。
 振り返りもせず、ズオ・ラウは全身全霊をかけて離脱を図った。最初こそ藻掻いていたナマエも、やがて逃げる邪魔をしていると悟ったのか、徐々に声を押し殺し始めた。振り落とされないよう、ズオ・ラウの身体に必死にしがみつく。
 視界に移動できる枝がないと判断するや否やズオ・ラウは地面に飛び降りた。着地と同時に木立の合間を駆け抜ける。
 必死に視線を彷徨わせて逃げ道を探した。低地ではどこをどう進んだらいいのかわからない。もう一度枝上に移動したほうが良いかとズオ・ラウが鈎縄を構えた瞬間、ナマエがいきなり右手を持ち上げ、左方向を指さした。
 小脇のナマエを見れば、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔でズオ・ラウを見上げ、しきりに左を指し示す。
 どちらのルートに進めばいいのか、わからない。
 ズオ・ラウは自分の判断が正しいと思うが、周辺の地理に詳しいのは紛れもなくナマエだ。だがあの瓜二つの子供の元へ戻りたがっていたようにも見えたし、街道に戻るための指示なのかもしれないという猜疑心が生まれ、咄嗟の判断が出せない。
 だが――今まで道を示してくれていたナマエの判断は正しかった。
 数秒迷って、ズオ・ラウは進路を左に変えた。藪の中を構わず進み、低木を飛び越えてがむしゃらに走る。
 人が住める圏内から遠ざかっているのを感じた。草の背丈も高くなっていくし、視界を遮る枝葉で前に進むのもだんだん厳しくなっていく。起伏も激しくなり、やがて小さな崖のような場所に出て、ズオ・ラウは反射的に立ち止まった。
 飛び越えられる距離だが、ナマエは崖下を指差していた。ズオ・ラウは生唾を飲み込んで崖下を覗き込んだが、真っ暗な上、雑草の葉で覆われ目視は不可能だった。だというのに、ナマエはしきりに下を指差す。
 数瞬の間を置いて、ズオ・ラウは覚悟を決めて飛び降りた。
 着地の衝撃に身構えたが、想像していたよりも高さは無かった。周囲を見回すと、横に空洞が伸びているのがわかった。迷うこと無くそちらに足を進める。
 洞穴の奥行きは六メートルほどだった。ただの袋小路だが、身を潜めるには十分な大きさだ。万が一敵が来たら応戦するしかないが、底が見えず葉で覆い隠されたような崖は人の足を遠ざける。
 そのまま数分ほど身を潜めていると足音が近づいてきたが、すぐに離れていった。

 警戒は緩めず、息を詰めて今の姿勢をつらぬく。
 人の気配が全く感じられなくなってようやく、ズオ・ラウは小さなため息をついた。ナマエを地面におろしてから、その場に腰を下ろす。
 暗闇で視界が覚束ないが、ナマエが声を押し殺して泣きじゃくっている気配を感じた。どうしたらいいのかわからない様子で、立ちすくんでしまっている。
 ズオ・ラウはさんざん迷って、
ナマエさん」
 小声で名前を呼び、手招きをした。
 ナマエの肩がぴくっと跳ねたのがわかった。戸惑いと不安が綯い交ぜになったような空気を醸し出している。ズオ・ラウがもう一度手招きすると、たっぷりの間を置き、ナマエは突進するかのような勢いでズオ・ラウの懐に飛び込んできた。
 避けられるわけがなく、鳩尾にまともに喰らってしまう。
「……ぅぐっ!」
 情けない声が口から漏れる。続けて圧迫感と痛みが襲ってきたが、ズオ・ラウはなんとか堪えきった。追撃が来るかと予想して身構えたが、数十秒経っても何も起こらない。
 ナマエはズオ・ラウの胸に額をくっつけ、服を掴んで丸くなっていた。時たま、しゃくりあげて身体を震わせているが、ほとんど動かない。
 ズオ・ラウは無言でそれを見下ろし、緩慢とした動作で胡座をかいた。そして恐る恐るといった動作でナマエの身体を持ち上げ、膝の上に座り直させる。その間ナマエはズオ・ラウの服から手を離す事はなかった。それどころかさらにぴったりと身を寄せてきたかと思えば、尻尾をズオ・ラウの腰に巻き付けてきた。
 腰を一周するにも満たない尻尾の感覚に、ズオ・ラウはたまらず天を仰いだ。
 赤の他人の、それも小さな子供のよすがにされるのは初めての経験だった。どうしたらいいのかわからない。真顔で天井を見つめながら耳をそばだてていると、小さくしゃくりあげる音が聞こえてきて、ズオ・ラウは何もせずにじっとしていた。
 しばらくそうしていると、胸のあたりに生ぬるい感触が伝わってきた。
「……」
 脳裏に嫌な予感が走る。
 後ろ手に腰の鞄を漁ってタオルを取り出し、一度深呼吸を挟んでからナマエを見下ろす。さっきと変わらない体制がそこにあった。それを崩してしまう事を申し訳なく思いつつも、ナマエの脇に手を差し込んで引き離す。
 暗がりでも、透明な橋がかかるのが分かった。予感通りの光景にズオ・ラウの口からため息がこぼれる。司歳台から支給された制服を汚されたが、ズオ・ラウの胸中は意外と落ち着いたままだった。怒りも何も湧いてこない。
 泣いている子供に対して服を汚したと怒っても仕方がないし、怒るほうが鬼畜の所業だ。泣く理由があるのだから、気が済むまで泣いたほうがいい。こんな小さな子供に求めるのは酷だが、うまく気持ちの折り合いを見つけてほしかった。
 とはいえ、限度というものがある。
 ズオ・ラウはまずナマエの顔を拭いた。それから自分の服の汚れを叩くように拭き取り、もう一度ナマエの顔にタオルをあてた。
 ナマエはじっと固まっていたが、ずびずびと音を立てて鼻をかみだしたので、ズオ・ラウは思わず安堵が混ざった苦笑を浮かべた。
 汚れたらきれいな面を表に出して、再度ナマエの顔にあてる。それを何度か繰り返しているうちに、ナマエはさっきより落ち着いたようだった。それでも静かに涙をこぼしながら、相変わらずズオ・ラウの服を握ってぴったりと身を寄せている。ズオ・ラウは無理に引き剥がすようなことはしなかった。
 時が過ぎゆくのを、二人でじっと待つ。
 いつしか膝上のナマエはすっかり脱力してズオ・ラウにもたれかかり、穏やかな寝息を立てていた。ズオ・ラウは驚きに目を見張りながら瞼が腫れたナマエの寝顔をしばし見つめ、外套を手繰り寄せると包み込むように背中にかけた。肌掛けの代わりになると思ったのだ。そのまま背中を何度か撫でると、ナマエは小さく身じろぎして寄り添ってくる。
 ナマエの背中に手を添えたまま、ズオ・ラウは思案を巡らせた。
 生意気な方のナマエを探すべきだが、探しても無駄なような気がしてならなかった。喧騒から外れた静かな場所であらためて考えると、違和感は如実に浮き彫りとなる。
 工場がなんで真新しく見えたのか、火事になった村はどこなのか。そしてあの老婦に、このナマエという名前の子供に対する既視感。考え出すと切りが無い。
 ズオ・ラウはあの遺跡で気を失った後、そのまま幻覚を見せられているのだと悟った。ならばいつしか覚めるだろうという予感もあった。それがいつかはわからない。目が覚めるのかもわからないが、覚めない夢はない。
 取り留めもない思考を重ねるうちに、意識が曖昧になってきた。強烈な睡魔に飲み込まれそうになるが、ズオ・ラウは抗おうとする。このまま眠りに落ちたらどうなるかわかったものではない。
 眠っている間に賊に見つかったらどうなるのか、そもそも幻覚の中で眠りに落ちたらどうなるのか。思案を巡らせて意識を保ったが、ささやかな抵抗も虚しくズオ・ラウは瞼を閉じてしまった。意識が朦朧としたものに包まれていく。

 そして目を覚ますと、暗い洞窟はほのかに明るくなっていた。ズオ・ラウはハッとして周囲を見渡したのち、視線を下へ向ける。ナマエがもたれ掛かって、丸くなって眠っていた。呼吸するたびに背中が膨らんではしぼんでを繰り返している。頬に涙の跡が残っているが、安心しきった穏やかな寝顔だった。
 眠っても夢は覚めなかった。軽い落胆を覚えながら、ズオ・ラウは洞窟の出口に目を向けた。日光が差し込んで、洞窟の中と外で明暗の境界を作り上げていた。今が何時かわからないが、体内時計はいつも起きる時間だと告げている。
 ズオ・ラウはナマエの背中を軽く叩いた。途端にナマエはビクッと体を震わせて飛び起きた。見下ろすズオ・ラウに気付くとあからさまにびっくりして、膝上にいる事にさらにびっくりして、尻尾を巻き付けている事にもびっくりして、やがて申し訳無さそうにズオ・ラウの膝上から降りた。
 その一連の変化を見つめ、ズオ・ラウは思わず微笑んだ。ナマエが大丈夫だという事を確認し、心の底から安堵した。
 ズオ・ラウがやおら立ち上がると、ナマエは先導するように洞窟の外へ向かっていく。その無警戒な背中を、ズオ・ラウは慌てて追いかけた。
 崖の高さは二メートルほどしかなかった。ナマエは壁面につたう蔓草を掴み、器用に崖を登攀していく。ズオ・ラウも手頃な蔓を掴んで強度を確かめると、それを万が一転落しそうになったときの保険にして崖を駆け上った。
 周囲を見渡す。朝の日差しが差し込んだ森の中は夜間とは違って、視界の確保はもちろん索敵も容易だった。なんの気配も感じない事を確認しながら、先を行くナマエについていく。
 しかし歩幅の差があるので、追い越しそうになると立ち止まるの繰り返しが続いた。ナマエも今の状況が足を引っ張ると気付いたのか、申し訳無さそうにズオ・ラウの足元に近づいて、両手を伸ばしてきた。抱き上げるのをせがむ仕草にズオ・ラウは思わず目を見開き、それから苦笑を浮かべて手を伸ばした。
 昨夜と同じようにナマエを左腕に抱きかかえ、森の中を移動する。
 森の中は静かだった。鳥や獣の声や、風によるざわめきが聞こえるくらいで、昨夜の出来事が嘘みたいに思えてくるほど平穏だ。しかし、ナマエの指差す方向に向かっていくと、焦げ臭いような臭いが漂ってきた。
 枝葉の間から煙が見え、やがて人の気配が感じられるようになる。人の声によるざわめきに警戒半分で駆け抜けると、木立が切り開かれた街道へと出た。
 複数の人達が、地べたに座ったり横になったりして手当を受けていた。そこにいきなり脇道から飛び出してきたズオ・ラウの姿に全員が硬直し、数秒の間をおいてあちこちから悲鳴があがり始める。ズオ・ラウは思わず後ずさったが、すぐにナマエが声を張り上げた。周囲が静まり返る。
 近くにいた女性が警戒しながら近寄ってくる。ナマエとしばし長めの会話を挟むと、女性はナマエの頭をいたわるように撫で、ぎゅっと抱きしめた。
「ズオ・ラウ!」
 聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、ズオ・ラウはそちらに顔を向けた。
 果たしてその声の主はあの老婦であった。ひどく慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。
 その後ろを、見慣れない少女がついてきていた。顔立ちがどことなくナマエに似ていて、ズオ・ラウはそれが誰なのかすぐに察した。
「――!!」
 ナマエが声を上げる。ズオ・ラウが地面に降ろしてやると、ナマエはそちらに駆けていった。そのまま少女に飛びついて、少女もまたナマエを抱きしめ返している。
 そんな二人を老婦は一瞥して通り過ぎ、ズオ・ラウの方へまっすぐに足を運んだ。
「怪我はないか?」
「ありません。……ですが、ナマエさんに怪我をさせてしまいました。私の不徳の致すところです。申し訳ありません」
「見た所そこまで大きな怪我ではない。命があるだけで十分だ、礼を言う」
 老婦の言葉を聞き、ズオ・ラウはたまらず視線を下げた。
 生き延びた事と、守りきった二つの実感が突如として湧き上がる。それを噛み締めていると、向こうで抱き合っていた姉妹がパタパタと慌ただしい足音を立てて近づいてきた。
 少女のほうが早口でまくし立て始めるが、案の定、何を言っているかわからない。
 ズオ・ラウが苦笑して受け流すと、
「これはナマエの姉だ。感謝を述べている」
「……そうですか」
 老婦の言葉は、ズオ・ラウの予想通りだった。あの族長ということだ。
 不思議と混乱はなかったが、代わりに不安と迷いが生じた。このまま自分は一体どうなるのか、先行きがわからなくなってくる。
 ズオ・ラウが神妙な面持ちでいると、老婦がいたわるような眼差しを向けてきた。
「そういえば、お前の同僚は見つけられなかった。すまない」
「……いえ、謝る必要はありません。おそらく、もう見つけましたから……」
「見つけた? どこに?」
「ええと……」
 言い淀んでいると、唐突に服の裾を引っ張られた。ナマエだった。
 何かをせがむような眼差しを向けてくるので、ズオ・ラウは何の気なしにその場にしゃがみこんだ。目線を合わせると、ナマエが手を伸ばしてくる。また抱き上げてほしいのかと思い左手をナマエに伸ばすと、小さな手が振り上げられた。
 えっ、と思った瞬間、ズオ・ラウの左頬に衝撃が走った。視界が白く霞んで景色が消えていく。

 左頬から全身に、電撃が走るような痛みが襲ったのをズオ・ラウは感じた。
 気がつけばあの遺跡に仰臥で横たわっていた。視線を横にそらせば、ナマエの顔が近くにある。不安そうな、今にも泣きそうな表情で右手を構えている。
 指に力を込めれば、あっさりと思い通りに動いた。そのまま手を握っては開いてを何度か繰り返し、ズオ・ラウはのろのろとした動作で上体を起こした。自分の身体を見下ろし、特に異常がないことを確認してから、ジンジンと痛みを訴える左頬を左手で抑えた。
「……何回ぶちましたか?」
「二回」
 痛いはずだとズオ・ラウは納得した。きっと加減もしていない。あまりにも力を込めすぎではないのかと不満が浮かんだが、起こしてくれたのだから文句を言える立場ではないと溜飲を下げた。
 今、ここが現実であるという感覚がある。では、さっきまでのはなんだったのか――そんな事を考えるのは後回しにしたほうがよさそうだった。何から何まで気楽で無頓着だったあのナマエが、今では手に取るようにわかるほどひどい焦燥感と警戒を滲ませている。
「とりあえず、謝罪とかの細かい話は後にする。ズオくん、歩けそう?」
 謝罪をする気がある事を意外に思いつつ、ズオ・ラウは首を縦に振った。
「なんとか……。ナマエさんは?」
「たぶん大丈夫」
 ナマエはそう言って立ち上がると、右手をズオ・ラウへと差し伸べた。
 ズオ・ラウはその手を数秒見つめ、手を取り返した。引っ張られるようにして立ち上がる。途端に立ち眩みを覚えてたたらを踏んだが、ナマエが支えた事もあって転倒するには至らなかった。
 目頭を抑えてじっと堪えていると、
「ズオくん、深呼吸して」
「はい」
 ズオ・ラウは言われた通り、息を吸って吐いた。
 それでも目眩のようなものはおさまらないし、汗が頬や首筋を伝う。遺跡の中は涼しいを通り越してひんやりとした寒気を感じる気温なのに、これだけ汗が吹き出るのはおかしい。つまり、脳の神経がなんらかの異常をきたしているとしか考えられなかった。
 こうなった原因はなんなのか――ズオ・ラウの視線が自然とあの石へと向けられた。目を凝らしても石の中の状態はよく見えず、ぼんやりと浮き上がる人影だけが手に取るように分かる。数秒ほど様子をうかがったが、呼吸困難に陥るような事態には繋がらなかった。
 ナマエが尻尾でランタンを持ち上げ、右腕をズオ・ラウの左腕に回し抱え込む。細腕が巻き付いてきたことにズオ・ラウはぎょっとしたが、後頭部を走る鈍痛に顔をしかめ、大人しく従う事にした。
「掴まっていいから」
「はい」
「出るよ」
 焦燥感から二人の足並みは自然と急ぎ足になる。しかし互いに満身創痍といった状態なのでそれも長くは続かない。石門を抜け、洞穴の昇り階段に差し掛かる頃には全身を襲う重だるさも一層ひどくなり、情けなくも呼吸は荒くなっていた。
 それでもズオ・ラウがなんとか足を踏み出せたのは、一刻も早くここを離れなければならないという焦りと、ズオ・ラウを引っ張るナマエの状態だった。
 掴まっていいとのたまった割にナマエは肩で息をし、顔面蒼白の状態で見るからに状態は芳しくない。そんな相手に過保護に扱ってもらうほど弱いつもりはない。
 階段の半ばに差し掛かったあたりから、ナマエの歩みは一層と重たげになる。この状態で転倒でもしたら命の危険につながる。ここは互いに自分の力で進むのが賢い選択だと思うが、辛そうにしているナマエを見た瞬間、ズオ・ラウの頭からそんな考えは吹き飛んでしまった。ナマエの右腕を掴んで自分の肩に回し、背中に片手を回して身体を支える。
 階段の先、外部の光を取り込んで放射状に白く輝く出口を見上げる。
「あと少しです」
「……うん」
 ズオ・ラウが一段上に登ると、ナマエも一段を踏みしめるように登る。ひたすらその繰り返しを経てようやく、洞穴の外に出た。
 まず視界を覆い尽くす光に圧倒された。眩しさのあまり目の奥が引きつるような痛みを覚え、ズオ・ラウは反射的に目を閉じる。しばらくそうしていると徐々に光量に慣れてきて、周囲を見回せるようになった。
 頭上には夜空ではなく青空が広がっており、頬をかすめるそよ風がひどく心地いい。生きている実感が全身に広がり、それは安堵に転換されていく。
 現在時刻はわからないが、太陽の位置と体内時計の感覚でまだ午前であるとズオ・ラウは判断した。あの夜空の下、火事の明かりを見て森の中へ飛び込んだのは一体何だったのかわからなくなってくる。やけに現実味がある光景で未だに感覚も残っており、夢だと済ませるにはあまりにも大げさすぎた。子細を知るには、まず村に戻らないと話にならないだろう。
 そんな事を考えている最中、
「……グッ」
 隣からくぐもった声がしたかと思えば、ナマエの腕がするりと離れた。咄嗟のことでズオ・ラウは支え直す事もできず、ナマエはその場に膝から崩れ落ちる。地面にへたり込むと前かがみになり、右手で顔の下半分を覆った。ズオ・ラウが追いかけるようにその場にしゃがみこむが、ナマエは微動だにしない。
 しばらくして、ナマエの指の隙間から赤いものが這い出てきた。するすると流れるように線を描き、行き場をなくしてひとところに留まったあと、雫となって地面に落ちていく。
 最初、ズオ・ラウは何が起きているか理解できずにその光景をただ眺めていたが、数秒ほど経ってようやく何が起きたのか理解し、鞄を漁ってタオルやら簡易救急セットなど手当てに使えるものを片っ端から取り出した。
ナマエさん」
 顔をこちらに向かせるが目は充血している上に、焦点が定まっていなかった。何か変な薬でも投与されたかのようになっている。血が顎を伝いはじめたので、再度ナマエに前かがみの姿勢を取らせた。
「……鼻血ですよね?」
 問いかけにナマエは何も言わない。不安ながら様子を伺っていると、ようやくナマエがゆっくりと頷いた。
「とりあえず、手を離してください」
「……きたないよ」
 鼻声で言う。
「いいから見せてください」
 有無を言わせぬように告げると、ナマエは渋々と手を離した。鼻の下から顎にかけて赤く汚れており、呼吸が難しい事から口呼吸を繰り返し、そのせいで唇に血の泡がついていた。両手が血で汚れているの視界に留めると、ズオ・ラウはウェットティッシュを渡した。ナマエがのろのろと自分の手を拭いている間、タオルが汚れるのも構わず顔の血を拭き取ってから、鼻翼を圧迫止血する。
「他に異常は?」
「……頭が痛い」
 ナマエの頬を汗が伝って落ちるのを見て、ズオ・ラウは眉をひそめた。ズオ・ラウ自身もさっきまで発汗していたが、外に出て何度か呼吸をしたら汗は引いていった。なのに、ナマエは未だに汗をかき続けている。
「ちょっと失礼します」
 ズオ・ラウはそう言って、空いた片手でナマエの前髪を掻き上げると、そっと額に触れた。やけに熱い。それから自分の額に触れ、その温度差に目を見張った。熱がある。
ナマエさん、自分で止血できますか?」
「うん……」
 ナマエが自分の鼻を押さえるのを見ながら、ズオ・ラウは考え込む。
 果たしてここから村までの距離を熱病のナマエが歩けるかどうかがわからない。言葉は聞き取れているし応答もできているので危うい状況ではないと見たが、しかし無理強いはできない。
ナマエさん、村まで歩けますか?」
 反応がない。
「歩けないようなら、私だけ村に戻って助けを呼んできます」
「……大丈夫。歩ける」
 ナマエの応答は憔悴しきっていた。
「本当ですか?」
「今ならまだ動けるから……」
 暗に、休んだら動けなくなるとナマエは言っている。
 ズオ・ラウもそういう感覚は身に覚えがあった。ひどく疲れた時に休んでしまうともう一度立ち上がって歩き出すのが億劫になる。まだ動けるという心境であれば、衝動に身を任せることもできる。
 しばし迷った末、
「わかりました。行きましょう」
 ズオ・ラウの言葉に、ナマエは安堵を滲ませた。
 幸い、ナマエの鼻血は止まりかけていたので、身支度を整えるとすぐに出発した。ランタンと鉈はナマエの負担になるからとズオ・ラウの荷物に一緒くたに詰め込んだ。
 ナマエの足元は多少おぼつかないところもあるが、しっかりと自力で歩いている。ズオ・ラウもはじめこそ不安に思って手を伸ばしかけたりもしたが、だんだんと堪えるようになった。
 やがてあの工場跡地へとたどり着いた。寂れた廃墟を見上げる。遺跡で倒れた時に見た夢の光景はなんだったのか――感傷に浸る余裕は一切なかった。ナマエは工場に目もくれず、もくもくと足を進めている。
 と、ナマエがよためいたので、ズオ・ラウは慌てて手を伸ばして支えた。
「大丈夫ですか?」
 そう言って顔を伺うが、
「……へいき」
 ナマエと視線が合わない。ぼやけた目線を不自然に背けている。
 少し怪訝に思ったが、
「……なら、頑張りましょう」
「うん」
 すぐに応答が返ってきたので、芽生えた疑問は頭の隅に追いやって処理した。
 まずは村まで無事に二人で辿り着くのが最優先事項だ。それ以外のことを深く考える余裕はない。

 ナマエを気遣いながらの道中はとにかく心臓に悪かった。
 廃村を越え、見覚えのある景色をいくつか乗り越え、足元確かな獣道に出ると、ズオ・ラウも胸中に希望を抱くようになる。
 村へとたどり着く街道へ出ると、全身が途方もない安堵感に包まれた。村への門をくぐると、達成感に身を焦がしていた。
 ナマエも限界を迎えたのか、ズオ・ラウの支えなしでは歩けない状態になっていた。ズオ・ラウはナマエの腕を肩に回して寄りかからせ、引きずるように歩みを進める。
「二人ともどうしたの!?」
 族長の家にたどり着いての第一声がこれだった。二人がとてつもない疲労感を滲ませているのはもちろんだが、ナマエの顔に乾いた血がこびり付いていた事もあり、族長はひどく狼狽し始める。
「詳しい説明は後にします。ナマエさんが熱を出してしまって、すぐに休ませないと……」
「うそっ、この子めったに風邪なんか引かないのに!」
 族長は驚愕を滲ませながらナマエの額に触ると、殊更に驚愕した。その表情はすぐに困惑したものへと移り変わる。ズオ・ラウに援助を求めるので、二つ返事で応じた。
 最初は居間の長椅子に運ぼうとしたが、感染症が原因の発熱だとまずいという事になり、昨夜ズオ・ラウが使った部屋へと運んだ。ナマエをベッドに横たえた時には、すでに気を失っている状態だった。呼吸は小刻みでとても弱々しい。
 族長がタオルと桶に水を張ったものを持ってきたので、ズオ・ラウはナマエの顔を拭いた。そうしているうちに、今度は着替えの衣服を抱えて部屋に戻って来る。
「ごめんなさい、着替えさせたいから少し出てくれる?」
「わ、わかりました」
 急いで部屋を出る。後ろ手に扉を閉め、ズオ・ラウは一息ついた。
 ふと視線を感じて廊下の向こうに目を向けると、族長の娘がいた。柱の陰に身を隠しながら、不安そうに様子を伺っている。視線が噛み合ったが、逃げる様子はない。
 しばらくその姿を見つめていると、ズオ・ラウの中で漠然と、あの夢の中で見た子供にはまるで似ていないなという感慨が湧き上がった。
 果たしてあれは一体なんだったのか。あの子供は本当にナマエだったのだろうか。疑問がどんどん吹き上がってくるが、解答を得られそうなナマエはあの状態である。当分は一人で悶々と抱え込むしかない。
 と、扉が開いて族長が顔をのぞかせた。
「終わりました。……あなたの荷物、このままにしておくのも難でしょう? とりあえず、居間に運んじゃいましょうか」
「はい。そうさせていただきます」
 開け放たれた扉から、恐る恐る部屋に足を踏み入れる。
 寝台の上のナマエは額に濡れタオルを乗せ、布団をかぶって横になっていた。内心ほっと胸を撫で下ろす思いになったが、寝顔を不躾に眺めるのもどうかと気付きすぐに目をそらした。ズオ・ラウは自分の荷物をまとめて抱えると部屋を出て、族長と共に居間に向かった。
 長椅子に腰をおろして一息ついていると、族長が水を持ってきてくれた。ズオ・ラウは礼をいい、口をつけて一気に飲み干す。思いのほか喉が渇いていたようで、冷たい水がするすると喉を通っていく。
「あなたの方は大丈夫なの?」
「はい。倦怠感はありますが、ナマエさんほどひどくはありません……」
「なら良かった……それで、一体何があったの?」
「その……自分でも信じられないような、ひどくおかしな話になるのですが……」
「構わないわ。全部話して」
 ズオ・ラウは遺跡に行った後の事を族長にすべて打ち明けた。ビーコンを回収した後、ナマエが面白半分に石を叩いて二人して気を失い、ズオ・ラウは変に現実めいた夢を見て、ナマエは発熱したという一連の出来事を洗いざらい。
 ズオ・ラウの話ははっきり言って眉唾物に近かったが、族長はその話を終始真面目な姿勢で聞き取り、やがて聞き終えると大きなため息をついた。
「あの石はね、多分人柱なの」
「……そ、そうですか……」
 ズオ・ラウもそういった予感は抱いていたので、族長の話を聞いて別段驚きはしなかったが、戸惑いはした。ほの暗い事に関して深く考えないようにしていたので、漠然とした暗澹さが形を成し、やがて不安となっていく。そして、ナマエがひどく恐ろしい事をしでかしたのを止められ無かったという後悔が芽生えた。
「ごめんなさい、あなたには迷惑をかけてしまいました。うちの妹が、本当に、ごめんなさい」
 悲しげに言うので、ズオ・ラウは慌てて首を振った。
「いいえ、そんなに謝らないでください。……それよりも、あの遺跡はなんなんですか?」
「大昔に一帯を支配していた権力者を祀る神殿らしいけれど、詳しくはわからないの」
 そして、族長が語り始めた。
 あの遺跡には六つの入口があり、それに対応するように人柱が安置されている。奥に通ずる階段から、六つの村に行き来が自由だったという。そして災害などに見舞われると、被害にあった村の住人は地下を通って別の村に身を寄せ、村の位置を転々とさせていたらしい。
 しかしある日大きな地震が発生し、山の向こう側が土砂崩れによって塞がってしまい、北側三つの村が南側三つの村に合流した。それを皮切りに外の地域に移住する者も出始め、人口は減少の一途をたどる。やがて北部の村は復興もなされず消滅した。
「詳細を知っている語り部がいたんだけれど昔亡くなって、古書物も喪われてしまったから……もう誰も知ってる人はいないの」
 族長が恥じ入るかのように目を伏せる。
「森の奥で、植物に覆われた廃墟群を見つけました。この村の歴史と関係がありますか?」
「……ええ。十年以上前に襲われてね。井戸にも毒を投げ込まれて住めない状態になったから、こっちに移ってきたの」
「そうだったんですか……」
 族長の暗い表情に話を続けるか躊躇したが、ズオ・ラウは覚悟を決めて口を開いた。
「遺跡で気を失ったとき、変な夢を見たと言いましたよね」
「ええ」
「夢の中ではどこかの集落が火に包まれ、私はその最中、ある老婦からナマエという名前の子供を託され保護しました。そして、その子供とまったく瓜二つの子供が賊に連れ去られるのをこの目で見ました。変な夢でしたが、関係がないとは思えないのです」
 族長は驚愕に目を見開いてズオ・ラウの顔を見つめ、それから沈痛な面持ちになって言う。
ナマエには双子の妹がいるの。村が襲われたときに攫われたのよ」
 その言葉を聞いた瞬間、ズオ・ラウは思わず出そうになったため息を飲み込んだ。
「なぜ姉妹が狙われたのか、原因はわかっているんですか?」
「迷信のせいね」
 族長は顔をしかめながら、きっぱりと言い切った。
「迷信、ですか……?」
 ズオ・ラウが問うと、族長は頷き、
「恥ずかしい話だけれど、このサルゴンという国にはね、治療に対しての正しい知識より、迷信を優先させる地域があるの」
 複雑な表情になるズオ・ラウの向かいで、族長は呆れ混じりの微笑みを浮かべた。
「熱が一週間続けば、普通は医者にかかって飲み薬を処方してもらうわよね? でも、やれ悪霊に取り憑かれた、先祖の祟りだ、と祭司に頼んで祈祷をしてもらう人達がいまだに存在するの。そうしてなんの治療もしないまま、悪戯に病気を悪化させて亡くなると、今度は神の怒りに触れたと責任を転嫁して生贄を捧げて鎮めようとする」
 族長はわずかに視線を落とし、穏やかに言葉を続ける。
「中でも、珍しい子供の血肉はどんな万病にも効くっていう迷信がいまだ強く残っている地域もあるの。死に際に泣き叫ぶ声は、あらゆる病理を追い払うだなんて根拠のない事も言われていてね。真っ白いアルビノの子供や多胎児の誘拐は絶えないし、骨は高く売れるから墓荒らしもいる始末で……」
 族長の話が終わった途端、部屋の中はシンと静まり返っていた。この重たい空気の中、どう言ったらいいものかと思慮を重ねに重ねてズオ・ラウが黙りこくっていると、族長は申し訳無さそうな顔になった。
「暗い話でごめんなさい。聞いてもいい気分はしないでしょう?」
「いいえ、かまいません。……よろしければ、いくつか質問しても?」
「ええ」
「村が狙われた理由、何か他に思い当たる節はありますか?」
「私の父が先々代の族長を務めていたんだけれど、他所で大きな衝突があったと聞いたわ。でも、詳しいことは何もわからずじまいで……」
 族長は俯きがちになって、言葉を濁す。
「そうでしたか……」
 当時は彼女もまだ小さな子供だったのだ。心当たりが本当にわからないという事がひしひしと伝わってきたので、ズオ・ラウは深く追求しなかった。
「それで、……ナマエさんの妹さんは、亡くなったんでしょうか」
 事実の再確認のつもりだった。
 しかしズオ・ラウの予想に反して、族長は首を横に振った。
「三年前にナマエが見つけて……今はロドスで鉱石病の治療を受けているわ」

 その後のズオ・ラウは倦怠感が抜けきらず、大事を取って居間の長椅子に横になって一眠りについた。
 目が覚めるともう日は暮れていて、夕飯の支度の真っ最中だった。恐る恐る台所に向かうと族長とあの老婦がいて思わず狼狽し、手伝いを申し出たのだが、丁重に断られてしまった。
 料理ができるまでの間、居間で過ごすことになった。長椅子に腰掛け、一人分のスペースを空けて隣に座る族長の娘から気遣う眼差しを一身に浴びながら、今までのことを日誌に書き留めた。その途中で風呂に入るよう促され、湯船に浸かって身体を温めると、ようやく人心地を取り戻せた。
 夕飯はどこか暗い影が落ちたような食卓だった。それでも食事は変わらずに美味しく、一人分をきちんと平らげられそうな事にほっと息をつく。食事の最中、ナマエが熱を出した理由をきっかけに、遺跡の話が始まった。
 当然、ズオ・ラウも話をする事となる。緊張しながら事の顛末を老婦に説明すると、あらかた聞いた老婦はズオ・ラウをじっと見つめ、
「お前は本当に大丈夫なのか?」
「……ええ。今のところ熱もありません。少し休んだら倦怠感もなくなりました」
「そうか。ならいいが、変だと思ったらすぐ家の者に伝えてくれ」
 公用語で言うと、今度は族長と現地語で会話を始めてしまった。
 ズオ・ラウは老婦に対して既視感があるが、老婦はズオ・ラウに対してほとんど初対面のように接している。妙に現実めいたあの夢は結局ただの幻覚に過ぎなかったのだろう。
 ただ、ズオ・ラウが接した人物たちは、ありのままの姿を模していたように思えた。言動や態度に突拍子は無かったし、こうして現実と比較しても目立った差異がない。
 ナマエが目覚めたら、話をしなければならないという気がした。おそらくナマエも意識を失って、同じように幻覚を見たに違いないという奇妙な確信があった。
 食後、老婦は一度ナマエの部屋に入った。一分もしないうちに出てくると、族長に食事の礼をしてそのまま家を去った。
 老婦が家を後にして一休みしてから、ズオ・ラウの寝床の準備に入った。昨夜使ったベッドはナマエが使っているので、今日は族長のベッドを使うように言われたがズオ・ラウは丁重にお断りし、居間の長椅子を拝借するに至った。
「本当にここでいいの? 疲れない?」
「平気ですよ。炎国にいた頃は東奔西走で宿を取る余裕もなく、野宿も当たり前の根無し草でした。それに比べれば、手足を伸ばして掛け布団もあるだなんて十分がすぎます」
 ズオ・ラウがそう言うと、族長は目を丸くして、
「な、なかなかたくましい経験をしてるのね……。ズオさんは炎国では何をしていたの?」
「説明をすると長くなるのですが、国の信使です。問題があればそちらに向かい、調査と事態解決に動いていました」
「そんなに若いのに、すごいのね。……でも、今はロドス製薬会社にいるんでしょう? お仕事はやめてしまったの?」
 族長は驚き醒めやらぬといった様子で、再度質問を投げかけてくる。
「いいえ。今は私が所属する組織とロドスが協力関係にあり、長期の滞在を許してもらっています。信使としての業務はなんら変わりません」
「そう、良かった。政府の機関で働けるなんて、今の御時世貴重だもの。やめるだなんて勿体ないし……ご両親もきっと誇りに思っているでしょうね」
「そ、……そうだと良いのですが……」
「きっとそうよ」
 にこにこと微笑みかけてくるので、ズオ・ラウは思わず視線だけでうつむいてしまった。
 ズオ・ラウが日頃言葉をかわしたり、目にかけたりしてくれる歳上の女性は、とにもかくにも気丈な人ばかりだ。なので、こんな風に寄り添うような空気を醸し出されると、無性に照れ臭くなってしまう。あのナマエが実の姉に対して頭が上がらないのも理解できた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
 ズオ・ラウが眠るために明かりを消すその間際、族長の娘がズオ・ラウに向けて小さく手を降った。驚きに固まるズオ・ラウだったが、すぐに手を振り返す。すると族長の娘は何故かひどく驚いて、恥ずかしそうに口をとがらせて足早に立ち去ってしまった。その仕草を族長はくすくす笑って見やり、再度ズオ・ラウに挨拶をして立ち去ってしまう。
 一人取り残されたズオ・ラウは椅子に横になった。夕飯前に仮眠を取ってしまったのですぐに眠れるか不安が付き纏ったが、そんな予想とは裏腹、ズオ・ラウは自分が思っている以上にひどく疲れていたらしい。
 瞼を閉じると、ズオ・ラウはすぐに無警戒の深い眠りへと落ちていった。