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#6 The 13 Years ago Picnic part113年前ピクニック

 ズオ・ラウは頭の中で、村から遺跡にたどり着くまでの道筋を思い返しながら、来た道を引き返すようにして森の中を進んだ。しかし早々に道を間違えたらしく、行く手を阻むように伸びる蔓草に出くわした。どこで道を間違えたのかズオ・ラウには全くわからず、内心舌打ちをする思いで剣を抜き、草を薙ぎ払いながら突き進む。
 夜間の森が危険なのは重々承知のうえでの行動だった。本来ならば、あのまま遺跡の入口でナマエを待つべきだろう事はわかっている。しかし森の中を突き進めば突き進むほど煙の臭いは強くなる一方で、数時間前から火災が起きているのは明白だった。となれば、人道支援が最優先だ。
 今向かっている方角は正しいのか――月と星の位置を確認しながらズオ・ラウがひた走っていると、ふいに横の茂みから何かが飛び出してきた。
「何っ……!?」
 かち合った。蹴り飛ばすかというすんでの所でズオ・ラウはわざと前のめりになり、地面に手をついて前転した。
 振り返って確かめる。てっきり獣か何かだと思っていたが、どうやら違う。
 地面に小さな子どもが蹲っていた。ズオ・ラウは驚愕に目を見張り、咄嗟に駆け寄ろうとすると、脇の茂みから何かが飛び出してきた。
 男性だ。成人をとうの昔に過ぎているような恰幅の良さで、現地の住人と思しき服装をしている。この子供の父親だろうとズオ・ラウがほっとしたのも束の間、子供は立ち上がりざま地面に転がる石を拾い、男めがけて放り投げた。
 額に石が当たった男は一瞬怯み、激昂した。子供と距離を詰めると、乱暴な手つきで捕まえるように抱き上げた。対する子供は男の腕に噛みつき、叩き、じたばたと暴れている。
 二人の妙な振る舞いに、ズオ・ラウは眉をひそめた。どこからどう見ても善良な関係には見えない。ましてやこの男、片手に剣を引っ提げているが、刀身に血がついている。
 しばし迷い、ズオ・ラウは二人の方へ足を踏み出した。男はようやくズオ・ラウの姿に気付いたようで、一瞬驚いた後に笑顔を見せた。親しげに話しかけてくるが、ズオ・ラウには言葉がわからない。
 無言のまま距離を詰めると、男はさっと表情を変えた。敵意を剥き出しにして剣を構えてくるので、ズオ・ラウはやむを得ず駆け出した。
 男が振り下ろした剣をズオ・ラウは体をひねって避け、男の背後に回り込んだ。このまま背中に蹴りを入れたいところだったが、あの子供をこれ以上の危険に晒すことはできない。
 ズオ・ラウが剣を抜くのと、男が振り返るのはほぼ同時だった。男が振り向きざまに剣を薙ぎ払う。ズオ・ラウはそれを軽々と避けると、剣の柄で男の顎に一撃を叩き込んだ。
 たらを踏んでよろめく男の喉元に再度一撃を食らわせ、ズオ・ラウは腕の中の子供を奪い取り、鳩尾めがけて鋭い蹴りを入れた。
 後ろから倒れ込む男から距離を取る。数秒ほど様子を伺ったが、どうやら気絶したようで起き上がる様子はなかった。
 ズオ・ラウは安堵のため息をつき、腕の中の子供を見下ろした。
「もう大丈夫ですよ……痛ぁッ!?」
 子供が指を思いっきり噛んできて、情けない悲鳴を上げた。ズオ・ラウがひるんだ隙に子供はじたばたと暴れて逃げ出そうとする。ズオ・ラウはたまらずしゃがみこみ、子供を地面に下ろした。子供は小走りで離れていく。
 助けたお礼がこの仕打ちである。ズオ・ラウは胸中で嘆きながら遠ざかっていく子供の背中を見つめていると、ふいに子供は立ち止まり、ズオ・ラウの方を振り返った。
 いかにも利発そうな顔立ちが、じっとズオ・ラウを睨みつける。いや、ズオ・ラウを品定めするように観察している。
 子供のくせに眼差しは鋭く、相手の全てを拒絶しながらも、動向や挙措の全てを掌握しようとする目つきだ。ズオ・ラウよりも一回り以上も幼いだろうに、場の支配者側に回ろうとしている。
 ふいに、ズオ・ラウは既視感に見舞われた。
 いつだったかこんな視線を向けられた記憶がある。なんだったかと思い返しているうちに、はたと気付いた。
 ――面影がある。
「……ナマエさん?」
 無意識のうちに呟いてから、ズオ・ラウはハッとした。
 他人の空似でしかないし、ばかげた錯覚だ。しかし、この子供はあまりにも似ているのだ。十年もすればナマエの顔立ちと瓜二つになるという、奇妙な確信すら覚えてしまう。
 対する子供はズオ・ラウの声を聞いて目を丸くし、あからさまな動揺を見せた。尻尾を左右に揺らして、じりじりと後ずさる。
 警戒むき出しで逃げ腰だが、場を離れることはなかった。てっきりそのまま逃げると思っていたので、ズオ・ラウは目を瞬かせて子供を見つめ返す。
「――!」
 子供が何かを話しかけてきたが、ズオ・ラウにはわからない。苦笑を浮かべて首を振ると、ズオ・ラウの意図が通じたのかはわからないが、子供はそれっきり黙りこくってしまう。子供に公用語が通じるわけがないだろうし、ズオ・ラウにはお手上げだった。
 ナマエに妹がいたのではないか? そんな疑問がズオ・ラウの脳内に湧き上がった。
 しかしナマエの両親はとうの昔に亡くなっており、目の前の子供の年齢に見合わない。
 ではナマエの姉の子供かと思うが、彼女は一人娘だと言っていた。嘘を付くような人間には見えない。
 ならばナマエの隠し子かとは思うが、ナマエの年齢から子供の推定年齢を引くと何だかとんでもないような事になるので、それもありえないと結論づける。
 ――とすれば、本当に似ているだけというのが、しっくりくる仮説だった。
 子供は目をそらすことなく、ズオ・ラウをじっと見つめてくる。敵意はいつしか消え去り、不思議そうに首を傾げる仕草も見せた。どうやらズオ・ラウに対して警戒心よりも、興味や好奇心のほうが勝ってしまったらしい。
 どうしたものかとズオ・ラウは考え込む。子供の親を見つけてあげるのが最良だが、最優先事項はナマエの捜索と、火災の状況確認および人道支援だ。そのついでで、一時的に子供を保護することはできる。
 そんな事をつらつらと考えている最中、ふいに子供がズオ・ラウの後方に視線を向けた。
「――!」
 子供が声を上げた瞬間、ズオ・ラウは脇に飛んで転がった。直後、耳元で風切り音が響く。斬撃だ。
 ズオ・ラウは体制を立て直しながら飛び退り、切りかかってきた相手を見据える。
 白髪交じりの、初老に差し掛かったと思しき女性だった。彼女は幅広の鎌剣を構えなおしたかと思うと、ズオ・ラウの方へ一直線に踏み込んできた。ズオ・ラウは跳躍して距離を取ったが、老婦がついてくるので思わずぎょっとする。
 ズオ・ラウがこの世で最も得意とする軽功の跳躍に、老婦はただの踏み込みだけでついてくる。
 ――只者ではない。
 電撃のように全身を駆け巡る危機感からズオ・ラウは剣を抜き、応戦した。刃と刃がぶつかり合い、鈍い音とともに火花が散る。女性の、それも老人だと言うのに、力に屈する気配を微塵も感じない。むしろズオ・ラウが押し切られそうなほど、相手の力が強い。
 ズオ・ラウは歯を食いしばりながら相手の顔を睨み見た。しかし、こちらも見覚えがあるものだから、ズオ・ラウは驚きに目を丸くしてしまう。
 ナマエが親しげに呼んでいたあの『ばあや』にそっくりだった。
 老婦はズオ・ラウが動揺したのを悟ったのか、その隙を攻めてきた。鎌剣を滑らせると刃元の出っ張りを刀身に引っ掛け、勢い任せに弾き飛ばそうとしてくる。我に返ったズオ・ラウが手に力を込めるものの、一瞬の隙を見せた差はあまりにも大きかった。
 拮抗むなしく、ズオ・ラウの手元にあった剣は空中を旋回し、数メートル先の地面に突き刺さった。
 まずいと思った瞬間、ズオ・ラウは頭部を鷲掴みにされていた。脳天締めをまともに喰らい、顔をしかめる。老婦の腕を両手で掴んで抵抗するが、びくともしない。頭部を襲う鈍痛に耐えかねズオ・ラウは膝から崩折れたが、それでも老婦は手を放してくれない。
 高齢前期の腕力とはとても思えなかった。しかも非利き手でこれである。どれだけの研鑽と鍛錬を積み重ねたのか。そして年齢を重ねてもなおその腕力を維持し続けている事に、ズオ・ラウは場違いながらも感服してしまった。
 頭部の圧迫痛により思考を妨げられながらも、なんとか活路を見出そうとするが上手い展開が思いつかない。剣を損なったのは、ズオ・ラウにとってあまりにも痛手だった。
 思考を巡らせているうちに鎌剣が首筋に当てられ、ズオ・ラウは息を呑んだ。走馬灯のように過去の事象が駆け巡る。ここで死んでたまるものかと覚悟を決め、がむしゃらに足技を繰り出そうとした時だった。
「――!!」
 叫び声とともに、軽い衝撃がズオ・ラウの身体に襲いかかった。
 見れば、あの子供がズオ・ラウの首にかかった剣の刀身を左手で握りしめ、どうにか引き剥がそうとしていた。ズオ・ラウが驚くのは当然だったが、流石の老婦も驚いたようで、一拍の間の後にズオ・ラウの頭部から手を放した。
 開放感から地面に膝をつき、前かがみになって首の傷を確かめていると、あの子供がズオ・ラウを背中にかばうようにして立ちふさがるのが視界に入り込んだ。ズオ・ラウが顔を上げると、ちょうど正面に子供の後頭部が見える。
 老婦と子供が口論をはじめた。何を言い合ってるのかさっぱりわからないので、ズオ・ラウはやむを得ず無視した。
 呼吸を整えながら腰の鞄をあさり、傷薬と包帯とタオルを取り出す。いまだ口論の最中にある二人を見上げ、ズオ・ラウは意を決して子供の左手を取った。子供が振り返ってビクッと肩を跳ねさせたが、一切の遠慮はしなかった。
 握りこぶしを作る小さな手をこじ開けると、指の付け根に沿って一文字の傷があった。血が出ているが皮が切れた程度で大したことはない。傷は思ったより深くないので、ズオ・ラウは内心ほっと胸を撫で下ろした。縫う必要はなさそうだったが、それでも止血の手当が必要な傷だった。
 タオルを押し当てて止血し、出血が控えめになった頃合いを見計らって化膿止めの軟膏を塗る。ガーゼで傷口を覆い、包帯で強めに固定する。
 手当てを終えて顔を上げると、子供と目が合った。
 子供は小さく肩を震わせて、
「……――、――」
 目線を斜め下に逸らして、小声でぽつぽつと喋った。当然わからないので、ズオ・ラウは曖昧な苦笑を浮かべる。終わったという合図がわりに、包帯が巻かれた手をほんの少しの力で握ってから、ズオ・ラウは手を離した。
 と、視界に見慣れた剣の柄が映り込んで、ズオ・ラウは跳ねるようにそちらへ顔を向けた。どうやら老婦が剣を拾ってきてくれたようで、ズオ・ラウへと差し出していた。
「この子はお前に礼を言っている。それと無礼に対する謝罪も」
 老婦がいきなり喋ったので、ズオ・ラウはぎょっとした。
「公用語がわかるんですか?」
 剣を受け取り、鞘に収めながらそう尋ねると、
「少ししかわからんがな」
 老婦は周囲を伺ってから姿勢を低くし、ズオ・ラウと目線の高さを合わせた。
「時間が惜しい、手短に聞く。お前は何者だ? 誰に雇われた? 何が目的だ?」
 言葉が通じるという安堵感に浸る余裕もなく、ズオ・ラウは食い下がるような勢いで喋った。
「私は炎国から来たズオ・ラウと申します。ロドス製薬会社の命でこちらに伺いました。同行者のナマエという名の女性とはぐれてしまい、彼女を探しています」
「聞いたことがない会社だ。それよりも、ナマエという女性を探しているだと?」
「はい。私と同じくらいの年齢で、この近くの村出身です。なんというかその……悪く言ってしまうのですが、横柄というか、不遜というか、……生意気そうな女性です。心当たりはありませんか?」
「そんな奴は知らん」
「本当に知りませんか? 顔立ちは少しその子供に似ているんですが……」
 ズオ・ラウと老婦の視線が集中した子供は肩を震わせ、恥ずかしそうに老婦の背中に隠れた。完全に姿を隠したかと思えば、顔をほんの少しだけ覗かせて不安そうにズオ・ラウを見つめている。
 老婦はその仕草を首だけで振り返り見つめていたが、おもむろに子供の頭に手を回し、いたわるように撫で回した。すると子供の不安げな表情は一転し、気持ちよさそうに目を細めている。
「言っておくが、この近辺の村にお前と同年代のナマエという名前の女は存在しない」
 そう言って子供の頭から手を放し、老婦は再度ズオ・ラウに向き直った。
「……そうですか……」
「お前の目的はわかった。だが、ロドス製薬の命とはいったいなんだ?」
「この近くの村に物資を届けに来たのと、奥の遺跡の調査です」
「馬鹿を言うな。あの遺跡は、部外者は何人たりとも出入りが禁じられている」
「――えっ?」
「族長が知ったら懲罰ものだぞ。最悪、死ぬまで鞭打ちの刑だ」
「……」
 冷や汗が吹き出した。
 鞭打ちの刑で用いる鞭は弾力性に富む植物の茎を加工して作ったものだ。動物の皮で作った鞭と違い、この鞭で叩かれるとほとんどの人間は激痛からショック状態に陥り、最悪事切れる。
「で、ですが私は許可をいただいて……」
「どこの誰に許可を取ったんだ?」
「その、ナマエさんのお姉さんが族長でして、彼女を通して許可を貰ったとのことですが……子細は、わかりません……」
 相手の質問にうまく答えられずしどろもどろになり、歯痒い思いになる。よく聞いておけばよかったと後悔しても、後の祭りだった。
 老婦はそんなズオ・ラウをじっと見つめ、
「……今は有事だ、不問とする」
 ズオ・ラウがたまらず安堵の息を吐くと、老婦はおもむろに立ち上がった。
「ともかく、この周辺は危険だ。すぐにここから逃げろ」
「……やはりただの火事ではないんですね。一体何があったんですか?」
「賊に襲われている。火を放たれたうえに死傷者も多い」
「こちらに派遣された以上、人命救助を最優先事項とします。何か手伝えることはありませんか?」
「その腕で手伝う? 死ぬ気か?」
 ハッと嘲るように鼻で笑われたが、ズオ・ラウは怒る事もせず首を横に振った。
「いいえ。先程は情けなくも動揺し判断が狂いましたが、今は大丈夫です。私の武術は他人を害するよりも守ることに長けています。それに過酷な環境においての生存の心得もありますから、滅多なことでは死にません」
 老婦はもの言いたげにズオ・ラウを見つめ、
「最後に一つだけ聞く。お前は私達にとって信用に値する人間だと胸を張って言えるか? 信じてもいいのか?」
 そう尋ねてきた。
 その言葉を聞いた瞬間、ズオ・ラウの脳裏に、信用に値しないとなじられた過去の出来事が蘇った。同じ轍はもう二度と踏みたくはなかった。
「……口頭で説明したところで信じてもらえるかはわかりませんが、絶対にあなたを裏切ったりはしません」
 老婦は無言でズオ・ラウを見下ろす。己の物差しに従い価値を見定めるような目だった。
 やがて老婦は、観念したように口を開いた。
「いいか、よく聞け。ここから南西に進むと橋がある。さっき鷹を飛ばしたから応援が来るはずだ。橋に盗賊の残党がいたら追い払って欲しい。ただ、無理強いはしない、身の危険を感じたらすぐに逃げ、身を潜めろ」
「南西の橋……心当たりがあります。わかりました」
「それと、そこまで己の武術に自信があると言うなら、この子を頼みたい」
 そう言って、背中にいる子供を引きずり出してきた。子供は困惑しているが、一切の抵抗は見せない。
「……守れということですか?」
「そうだ。はっきり言って足手まといにしかならんが、お前を見込んで頼んでいる。この子にはお前に従うよう言い聞かせる。歳の割には賢い子だから、扱いには困らんはずだ」
 この危機的状況において、子供を預けられるという事の重さを、ズオ・ラウはきちんと理解していた。
「ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
「いくらでも言ってみろ」
「なぜ、私を信用する気になったのですか?」
 ズオ・ラウが大真面目に尋ねると、
「お前は泥水育ちの奴らと目つきが違う。賢いだけの知性なら獣にすら宿るものだ。お前は、人に足りえるものを備えている」
 予想に反して、老婦は即答してみせた。対するズオ・ラウは驚きを表情に貼り付けたまま、黙って老婦の言葉を聞き入った。
「もしこれでこの子に何かあったら、私の目が耄碌していただけだ」
 自嘲の笑みを浮かべるのを見て、ズオ・ラウは覚悟を決めた。期待をかけられているのであれば、裏切るような事は絶対にしてはいけない。
「わかりました。あなたの目は達者であると、この身を持って証明いたしましょう」
 老婦はふっと微笑みを浮かべると、今度は子供にあの異国語で話しかけた。二言三言のやり取りのはてに、子供は困惑しながら、おずおずとズオ・ラウに近付いた。
「名前を呼ばれたら離れないようには伝えた。村の者に会えば味方だと説明してくれる。指示ならジェスチャーは理解できるからそれで頼む。もし言うことを聞かないならば最悪、荷物として扱え」
「……申し訳ありませんが、最後の一点はできかねるかもしれません。それで、この子の名前は?」
ナマエだ」
 ズオ・ラウは呼吸を止め、目を瞬かせる。
「私は村に戻って生存者を探す。それと、おまえの同行者も一応探しておこう」
「……あ、……ありがとうございます……」
「頼んだぞ」
「はい。お嬢さんの身の安全は、必ず約束いたします」
「お前の身の安全も約束に加えておけ」
 老婦はそんな言葉を残して、茂みの中へと消えていった。
 ズオ・ラウは無言のまま、残された子供と視線を合わせる。
 偶然同名なだけの、他人の空似だ。しかし、本当に似ているのだ。あの老婦だって、面影がある。
 嫌な予感を覚えつつ、ズオ・ラウは口を開いた。
「……ナマエさん」
 名前を呼ぶと、子供はしっかりと頷き返した。

 ズオ・ラウは森の中を進み、時たま真後ろを振り返っては立ち止まった。
 子供の歩幅はズオ・ラウよりも狭い。その差を考えながら歩いているつもりだが、距離は開く一方だった。子供は息を切らし、肩で何度か呼吸して、それから小走りでズオ・ラウの後ろに追いついた。ほんの少ししか歩いていないのに、これだ。
 足手まとい――確かにそうだとズオ・ラウは思う。
 これがタイホーであったなら、それぞれ索敵や警戒など複数の作業を分けて補い合う事ができるが、このお嬢さんにはそれができない。ただただズオ・ラウの後ろを健気についてくるだけで精一杯の有り様だ。きっとあの老婦は、危地での単独行動の妨げになるから、この子供をズオ・ラウに預けたのだろう。
 ズオ・ラウはその場に立ち止まってナマエを見下ろした。ナマエが不安そうに見をすくめるのも構わずじっと観察する。ナマエはかなり疲弊しているように見えた。しかし、疲れてはいないかと聞いたところで答えは帰ってこない。
 今が何時か定かではないが、普通なら子供は寝る時間だ。ズオ・ラウだって平時なら眠りこけているに違いない。このままの状態を続けていればナマエの体力がもたないのは火を見るより明らかだ。何より、ズオ・ラウが信じる道理に背くような気がしてならなかった。
ナマエさん」
 名前を呼びながらしゃがむと、ナマエは警戒しながらも恐る恐る近寄ってきた。ズオ・ラウが頃合いを見計らって手を伸ばすと、途端に逃げ腰になって後ずさってしまうのて、ズオ・ラウは慌てて小さな腕を捕まえて引き寄せた。
 ズオ・ラウの不慣れに加え、ナマエが抵抗を見せるのでひどくもたついたが、なんとか左腕に抱きかかえることに成功した。そのまま立ち上がると、ナマエは何かを察したようですぐに抵抗をやめた。それ以降は特に目立って暴れることはなかった。
 はっきり言うと、ズオ・ラウは子供の扱いが苦手だった。けれどナマエは無邪気に遊び相手を求めるわけでもなく、不安そうな表情で抱き抱えられるがまま、じっとしている。それがズオ・ラウにとっては有り難かった。
 倒木を乗り越え、人の気配を察知するたびに身を隠し、緊張感の中を進んでいく。
 それでも、気づかれた場合はやむなく応戦した。
 幸い、剣や斧などの原始的な武器を用いているが、銃火器などの近代的な武器は持っていない。ろくな戦闘訓練を受けたのかも怪しく、峰打ちで痛がって崩れるように倒れたり、恐怖で足をもつれさせて勝手に転んだり、略奪したものを置いて逃げ出したりと、処理は呆気なかった。
 ナマエはその間、怯えからズオ・ラウの服にしがみついたりしたが、泣きわめいたりはしなかった。
 数回の応戦を経て、ズオ・ラウは奇妙な点に気付いた。戦いの最中、彼らはズオ・ラウの腕の中にいるナマエを奪い取ろうと手を伸ばす場面が幾度もあった。彼らの狙いの共通項はナマエのようだが、なぜ執拗に狙っているのかがズオ・ラウにはまるで見当が付かない。きっとこの子供も狙われる理由はわからないのだろう。

 しばらく歩くと、木立の密度が薄まり、隙間が見えるようになってきた。伐採され人の手が入っている証拠だ。
 周囲を警戒しながら物音を立てないように進むと、前方に開けた場所が見える。暗くてよくわからなかったが、近付いてようやく全容を把握できた。
 廃墟となっていたあの工場だった。外壁を覆っている蔦は何故か消え失せ、雑草にも覆われていない。まるで息を吹き返したかのように、現役の建物の顔をしてそこに鎮座していた。
 広場のようになっている所には、一定の間隔を置いて、丸太が山なりに積み重なっていた。その丸太の傍らには、何人もの人間が折り重なるように転がっていた。そのほとんどがひどい火傷を負い、衣服の化繊が溶けて張り付いている者もいる。
 恐らく、命からがらの状態でここに避難してきたのだろう。そして気絶しているか、最悪息絶えたか。実際、死に際の人間の臭いが充満している。
 周囲を隈なく見渡すが、生存者の気配は乏しい。そして物陰に隠れた敵に見られているような、嫌な気配も感じない。
 ズオ・ラウは意を決して広場に足を踏み入れた。足を進めるたび、ナマエが身体を強張らせ、やがてズオ・ラウに強くしがみつく。
 てっきり自分の緊張が伝播したのかとズオ・ラウは思った。だが、左腕に尻尾をくるりと巻き付けられてようやく、ナマエがひどい恐怖に見舞われていると気付いた。
 確かにこの惨状はいたいけな子供に見せるものではない。配慮が足らなかった事をとみに痛感する。
 ズオ・ラウは急いで外套を手繰り寄せ、ナマエの視界を遮るよう包む。そして小さな背中に右手を回し、撫でさするように何度か往復させた。手つきはとにかくぎこちないものだったが、それで充分だったらしい。
「――」
 ナマエは何事かを呟いて、遠慮がちに身を寄せてきた。ズオ・ラウの肩に顔をうずめるようにして、左手でおずおずと外套を掴み、安堵の息を吐く。
 背中に回した手を離しても、ナマエはひっついたままだった。
 拠り所にされているという実感が湧いた途端、身体が軽くなったような気がした。ズオ・ラウ自身もいつの間にか、緊張で身体が強張っていたようだ。
 なまじよく知りもしない場所で奇妙なトラブルに見舞われた挙げ句、夜間の単独行動は不安が積み重なる。そしてこの凄惨たる有り様を見て、緊張しない人間など傑物だけだろう。
 あの老婦がナマエをズオ・ラウに預けたのも、こういった事態を感じ取ったからかもしれない。
 遺体のいくつかを目視で見聞し、ズオ・ラウは眉を潜めた。どの遺体にも喉、腹部、胸部に深い刺し傷が見える。そのほとんどが致命傷だった。つまり火傷で息絶えたわけではなく、ここに避難した後に襲われたのだろう。
 風向きが変わって、強い異臭が鼻をついた。焦げ臭いにおいの中に、鉄臭さ、そして肉が焼けるにおいが混じる。ズオ・ラウは顔をしかめ、こみ上げる嫌悪感をなんとか我慢した。
 ふいに、ナマエが顔を上げ、ズオ・ラウの服を引っ張った。見れば工場の方を指差している。ズオ・ラウがそちらに顔を向けた直後、重低音が鳴り響き、思わず目を瞬かせる。
 一定のパターンを繰り返す音は、工場内の機械が稼働している音としか考えられなかった。機械は一人で勝手に動き出すわけがないので、誰かがスイッチを入れたという事だ。つまり工場内に何者かが潜んでいる。ズオ・ラウが警戒から一歩後ずさった時だった。
 野太い怒号のような悲鳴が聞こえた。
 ズオ・ラウが息を呑むのとほぼ同時にナマエが小刻みに身体を震わせ、ぴったりと身を寄せてくる。ズオ・ラウはナマエを庇うように右手を回し、嫌な音から遠ざけようとした。
 悲鳴は数秒続いたが、最後は途切れ途切れに小さくなった。やがて機械の稼働音にかき消されて聞こえなくなる。
 警鐘がズオ・ラウの頭の中で鳴り響いている。今まで感じすらしなかった人間の気配が色濃く感じられ、すぐに離れるべきだという直感だけが思考を埋め尽くす。ズオ・ラウの腕の中のナマエは呆然とした様子で、ずっと工場を見つめている。
ナマエさん」
 声を掛けると、ナマエはすぐにズオ・ラウを見上げた。恐怖が混ざった不安そうな目で、何かを訴えかけてくる。
 ズオ・ラウが首を横に振って意思表示すると、ナマエもこくんと頷いた。今すぐここを離れたほうがいい、という意思が合致したとズオ・ラウは感じた。
 と、ナマエの視線がするりと彷徨い、ズオ・ラウの後方を捉えた。
 その瞬間、ズオ・ラウはナマエを庇うように抱きしめたまま前方に飛び出した。その背後を追いかけるように風切り音が聞こえたが、かすりもせず地面の石にぶつかり、金属音を響かせながら何かが地面に転がった。
 ズオ・ラウは振り返りもせず移動し、丸太の影に身を潜めた。追撃が来ないのを見計らい、さっきまでいた場所を振り返って確認する。
 矢にしては太くて短い金属製の棒が地面に転がっている。先端は鋭利で、末端の羽は小さい。ボウガンのボルトだ。矢尻が黒くぬめりを帯びており、生物に害を及ぼすような液体が塗られているのは一目瞭然だった。
 ズオ・ラウは敵の姿を探したが見つからない。視線をあちこちに向けていると、ナマエがある一点を指差した。
 ――いた。
 木々の合間を駆け抜ける人影が見える。おそらくズオ・ラウを見失って移動している。
 こちらから見えるという事は、あちらからも見えるという事だ。ズオ・ラウはナマエを地面に下ろし、しゃがんだまま移動した。ズオ・ラウが振り返って手招きするまでもなく、ナマエは後ろをついてくる。
 この短時間でわかった事だが、ナマエは勘が鋭いのか、気配の察知に長けている。さっきまで歩き疲れていた子供とは思えない。ズオ・ラウが足代わりをしたから体力を維持できた事により、心身に余裕ができたのかもしれない。なにはともあれ、ズオ・ラウにとっては心強かった。
 相手が見えない場所に、ズオ・ラウは留まった。ナマエもズオ・ラウの後ろに取り付いて、じっと身を潜めている。
 半ば闇に溶け混じる相手をどう誘き出せばいいのか、ズオ・ラウは思案を巡らせる。近距離専門のズオ・ラウにとって、遠距離相手は分が悪い。
 ズオ・ラウがこうして身を隠していれば、相手は自ずと探りを入れようと姿を表すだろう。しかしそれは相手も同じ事だ、身を隠され続けたらズオ・ラウが出ていくしかない。これはほとんど我慢勝負に近い。
 だが、餌を見せて釣り上げる事は可能だ。相手が飢えていれば飢えているほど、効果は覿面である。
 ズオ・ラウは周囲を見渡して索敵を行うと、丸太の端へと移動した。ナマエもついて来ようとするので、開いた手のひらを向けてその場に留まるよう指示する。ナマエが頷いたのを確認してから、ズオ・ラウは己の尻尾をゆるく持ち上げ、先端を丸太の端からそっとちらつかせた。
 果たしてその企図はうまくいくのか――不安はあれど恐れもなく、ただ相手が引っかかるのを願って、見せびらかすように尻尾を左右に降った時だった。
 斜線を描いて飛んでくる光が見え、ズオ・ラウは自分の尾を手前に引きずり込んだ。ボルトが地面にぶつかって跳ね返った瞬間、ズオ・ラウは射線の先を見据えて飛び出した。
 次弾が飛んでこない事を見るに、このボウガンは連射式ではないと確信した。それでも二、三射くらいは受ける必要がある。装填を上回る縮地の疾走で、彼我の距離を詰める。
 一射目が顔面めがけて飛んできたが、ズオ・ラウは瞬時に首を傾け後方へと受け流した。そのまま剣を抜き、飛んできた二射目を剣で薙ぎ払う。
 馬鹿正直な真っ向勝負に、茂みに身を潜めていた敵は驚愕に目を見開いていた。あからさまに動転している。逃げようと走り出す敵の背中を、ズオ・ラウは視界にはっきりと捉えた。
 左足で地面を蹴って飛び上がり、右足で回し蹴りを放った。側頭部を蹴り飛ばされた敵は勢い余って転倒し、木の根本に強かに頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。
 ズオ・ラウは地面に着地して敵が動かないのを確認し、傍らに転がるボウガンを思いっきり踏んで壊した。一息ついてさきほどの場所へ戻ろうと振り返り、ぎょっとした。
 ナマエが一人の男に追いかけ回されていた。
 一体どこから出てきたのかはわからないが、足元に転がる男と行動を共にしていたのかもしれない。安易にナマエの元を離れるべきでは無かったとズオ・ラウは後悔するが、次の瞬間には蜻蛉返りのごとく飛び出していた。
「――!!」
 ナマエが首根っこを掴まれ、劈くような悲鳴を上げた。ズオ・ラウは焦燥感を意地で抑え込み、走りながら剣を構える。あの老婦と交わした誓約を反故にするなど、絶対にあってはならないことだ。
 男は走ってくるズオ・ラウに気づいた。まるでナマエを盾にするように突き出しながら、右手の斧を構える。卑怯な戦法に、ズオ・ラウはたまらず舌打ちをした。
 先手をもらうか後手をもらうか悩む必要は無かった。鍛錬を重ねたズオ・ラウには相手の油断が手に取るようにわかるし、勝機が見える。
 瞬時に指呼の間に飛び込む。敵が驚きによる条件反射から斧を振り下ろすのをズオ・ラウはさっと躱し、斧が地面に刺さったのを見計らって、足で柄を掬い上げるようにして蹴り飛ばした。蹴り上げられた斧は回転しながら空中をさまよい、明後日の方向へと飛んでいく。
 武器を失い窮地に陥った男の焦り顔をまっすぐに見据えながら、鼻っ面めがけて剣の柄を叩き込んだ。男はよろめきながらも、剣で斬り伏せられないように、ナマエを人間の盾として示してくる。
 ズオ・ラウは膝を落としてしゃがむと地面に手をつき、左足を軸にして回転蹴りを足首へ食らわせた。そのまま身を翻して今度は左足を跳ね上げ、敵の喉を蹴り飛ばす。
 迅速な足技に敵は防御姿勢も取れぬまま、敵は後ろへ倒れていく。ズオ・ラウは手を伸ばしてナマエを引き剥がすと男の肩めがけてつま先で蹴りを突き込み、ナマエを抱えたまま後方へ飛び退った。
 姿勢を低くして、ナマエを地面に下ろす。
 しゃがんだままの姿勢をつらぬく。いつまで経っても敵が起き上がらないのを確認してようやく、ズオ・ラウは全身から力を抜いた。
 手元の剣を鞘に収めて一息つくと、
「――! ――!!」
 それを合図に、目にいっぱい涙をためたナマエが、わあわあと何か喋りながらズオ・ラウの胸をしきりに叩き始めた。
「すっ……、すみません、すみません……」
 意味が通じないのをわかっていながら、ズオ・ラウは反射的に謝罪を繰り返した。
 ナマエにひどく怖い思いをさせたのは明白だった。不器用ながらに背中を撫でてなんとかなだめると、一分もしないうちにナマエは落ち着いた。手の甲で目を拭ってから、ズオ・ラウの左腕に遠慮なしにしがみつく。その意図を察してズオ・ラウは先程のようにナマエを抱えて立ち上がり、どうしたものかとあたりを見回した。
「――」
 ナマエが何かを呟いて、また工場の方を指差す。ズオ・ラウはそちらを伺った。
 工場の入口に、少女が立っていた。彼女の足元に、ナマエと同年代くらいの三人の子供がひっついている。
 安易に向かうべきではないが、少なくとも敵ではなさそうだった。そしてナマエがどうしても行きたいと言わんばかりに服を引っ張るので、ズオ・ラウは周囲を警戒しながら工場へと足を向けた。

 機械の稼働音が大きくなるにつれ、入口に立つ人影の姿が如実に見えてきた。少女はズオ・ラウと年齢が近く、足元の子供三人はナマエと同い年に見えた。恐怖から血色を失って青白い頬は煤けており、腕や足にはところどころ出血を伴う怪我をしている。
 ナマエと同じ村の出身なのだろう。身なりもそうだが、ナマエが安堵したように表情を緩めたのが何よりの証拠だ。少女の方もナマエの姿を見るなり少し安堵したようだったが、ズオ・ラウを見つめる眼差しに含まれる警戒は色濃かった。
「――、――」
 機械音が鳴り響く中、ナマエが声を張り上げて喋り始めると、
「――、――」
 女性もまた大きな声で応答した。
 それを皮切りに、ナマエと少女は言葉を交わし始める。語り口はどちらも落ち着いており、互いが持つ情報を交換しているように見受けられる。そして時たま少女がズオ・ラウを伺い、頷いたり首を振ったりしている。老婦が言っていたように、ズオ・ラウの身元が確かなものであるとナマエが証明している真っ最中なのだろうと感じた。
 二人が話している間、ズオ・ラウは首をわずかに傾け工場の中を見渡した。出荷用のフレコンバッグが所狭しと並んでおり、その合間に数名の人影が見える。十代前半くらいの子供だろうか、目が合うなり袋の後ろに身を隠してしまった。
 しかし、機械の音がうるさくてたまらない。ナマエと少女も大声で話していてやりにくそうだし、どうにかして止められないかとズオ・ラウは機械に目を向けた。
 空回りするベルトコンベアの先、高速回転する粉砕機の刃はひどく汚れていた。回転機構の脇から液垂れが見えるが、ズオ・ラウは表情ひとつ変えずに観察を続けた。
 噴出口からは黒い液体がしたたり落ちており、その真下にはフレコンバッグが置かれているが、床に隣接した箇所から汚泥のような汁がにじみ出ていた。
 幸い、木材の匂いが強いおかげで悪臭は感じなかった。
 何があったのか推し量るまでもない。少し前に聞こえたあの野太い悲鳴が原因だろう。あらためて少女の怪我の様子を確認し、ズオ・ラウは小さなため息をついた。
 この子供たちは命からがら逃げ延びてここにたどり着き、避難もかねて籠城を決め込んでいるようだ。もしかすると、そうしろという指示があったのかもしれない。
 少女は腰にハンティングナイフを取り付けているが、武器として扱える刃物はそれだけのようだった。そんな装備と子供で大人に立ち向かうとなれば、ああいった機械を利用せざるを得なかったのかもしれない。
 と、左腕に軽い衝撃を感じてズオ・ラウは視線を戻す。見ればナマエがズオ・ラウの腕を手のひらで軽く叩いていた。
「――」
 目が合うと叩くのをやめ、今度は真下を指さした。ナマエの意図をすぐに察し、ズオ・ラウはその場にゆっくりしゃがんで、ナマエを降ろした。
 ナマエは女性や子供たちとともに、工場の奥へと足を進める。やがてフレコンバッグの後ろに身を潜めていた少年少女が数名出てきて、言葉を交わし始めた。
 それを眺めている内に、ナマエはここに留まるつもりだろうかという疑問がもたげた。もしそうするつもりなら護衛として一緒に残ったほうがいいのだが、ズオ・ラウはあいにく老婦から南方の橋に向かうよう頼まれている。ナマエがここで身を守れるのならばそのほうがいいだろうし、一旦ここで分かれるのも手だ。
 ズオ・ラウは黙って子供たちの様子を伺っていたが、結局、粉砕機の音が気になってそちらに足を進めた。
 近づくと異様な臭いがただよってきた。気にしないように努めることで冷静さを保ち、しげしげと機械を観察する。ただ、ズオ・ラウは機械に不慣れな方なので、操作盤やコントローラーがどこにあるのかさっぱりわからない。規則正しく動き続ける回転刃機構の外側に赤い緊急停止ボタンを見つけ、やむを得ずそれを押した。
 ブーンと機械への電力供給が止まる低い音がして、回転刃は徐々に速度を緩めていく。そうして機械が完全に停止した頃には、あたりはシンと静まり返っていた。
 やけに静かすぎる。ズオ・ラウは違和感に顔を上げ、後ろを振り返った。
「……えっ?」
 眼前に広がる光景に、ズオ・ラウの口から思わず疑うような声が出た。
 さっきまでナマエと言葉を交わしていた子供が、床に伏せっている。
 ズオ・ラウは何度も瞬きを繰り返して周囲を見回した。年長者と思しきあの少女も、ナマエと親しげに話していた子供も、全員が床に仰臥で倒れていた。
 ズオ・ラウは決して近寄ろうとはしなかった。すでに死んでいるのがわかったからだ。現に、赤黒い血溜まりがそこかしこに広がっている。どの遺体も目を見開いており、腹部や首に大きな切り傷を残している。
 ナマエの姿は探すまでもなく、ズオ・ラウの数メートル正面に立っていた。ナマエはズオ・ラウをこれでもかと睨みながら、両手でハンティングナイフを構え、肩で呼吸しながら怒りをあらわにしている。
 刃物を向けられる謂れはズオ・ラウにはない。だというのに、ナマエはまるで怨敵にでも遭遇したかのように血相を変えて、ぶるぶると唇を震わせていた。ズオ・ラウは足裏の感覚が遠ざかるような錯覚を覚えて、何をどうしたらいいのかわからなくなった。
 張りつめた空気に固唾を飲み、沈黙を貫く。ただ、このままの状態を続けても埒が明かないのは明白だ。何か行動を起こさなければいけない。
 ズオ・ラウは悩んだ末、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。途端にナマエが怯えた様子で大きく肩を震わせる。なにかに恐れおののいているのがズオ・ラウにはわかった。
 ナマエの視線はまっすぐズオ・ラウを捉えているように見えて、ズオ・ラウではないその奥にいる別の誰かを見ている気がした。しかしズオ・ラウの背後には、人の気配も敵意も感じられない。この場に生きているのは、ズオ・ラウとナマエの二人だけという確信があった。
ナマエさん」
 名前を呼んだ。ナマエはあの老婦に、自分の名前を呼ばれたら離れないようにと命じられている。それが、我に返るきっかけにつながると信じた。
 果たして名前を呼ばれたナマエは大きく全身を震わせたかと思うと、ズオ・ラウの顔に焦点を合わせた。何度も何度も瞬きを繰り返しながら、困ったような顔になって手元のナイフを見下ろし、それから助けを求めるような視線をズオ・ラウに向ける。
 ズオ・ラウはすぐに立ち上がると、床の汚れを飛び越えてナマエの真正面に移動してしゃがみこんだ。ナマエの両手を包み込むようにおさえる。恐怖で強張り冷たくなった手がじわじわ弛緩していき、手からぽろりとナイフがこぼれ落ちると、軽い音を立てて床に転がった。
 ナイフの刃先に汚れはない。ナマエがこの状況を作り上げたわけではないという当たり前の事を再確認して、ズオ・ラウはナマエの顔を見つめた。
 頬に殴られたような形跡があった。唇が切れ、血が一筋たれている。泣いてはいなかったが、涙を貯めて震える瞳から混乱が伝わってきた。正直なところズオ・ラウも困惑でいっぱいいっぱいだったが、これをあらわにしたら最後ナマエがまた怯えるのは明白だったので、表に出さないよう必死に務めた。
 ズオ・ラウは何も言わずにナマエの両手をそれぞれの手でとり、包むように握った。態度で大丈夫だと伝えたかった。左手の傷を覆う包帯を親指で撫でさすりながら、ナマエが落ち着くのを待つ。
 やがてナマエの唇から、安堵のため息がこぼれた。尻尾を左右に揺らして、ズオ・ラウの手をおずおずと握り返してくる。
 それを合図にズオ・ラウはナマエを抱き上げ、工場の外へ走った。工場内が見えないところまで来るとナマエを地面に下ろし、鞄からタオルを取り出して顔を拭いて汚れを落とすなど軽い手当を行った。
 やはりナマエの頬は少し腫れており、額や膝を擦りむいている事もわかった。タオルがかすめただけでナマエは顔をしかめたが、心配するほど大きな怪我ではない事にズオ・ラウは安堵した。
 ズオ・ラウが機械に構っている間に何があったのかは分からない。少なくとも人知を外れた何かがあったことは確かだ。しかし、誰かがアーツを用いるような気配は一切感じなかった。
 ナマエの表情は相変わらず暗いが、それでも幾分かは落ち着いたようだった。
 そろそろ頃合いだと思い、
ナマエさん」
 ズオ・ラウが名前を呼ぶと、ナマエは顔を上げた。ズオ・ラウの目をまっすぐに見つめ、意図を察して左側に近づいてきた。抱き抱えて立ち上がると、最初の時のような抵抗を見せないどころか、率先して腕に尻尾をくるりと巻き付けてくる。
 さっきよりもぴったりと密着するようにくっついて来る。泣いているかと思って表情を伺えば、浮かない顔のままじっとこらえていた。知人の死に様を目の当たりにしたというのに、なかなかどうして強い子供であるとズオ・ラウは感心した。
 周囲を伺い、人の気配がないのを確認し、ズオ・ラウはその場を走り去った。