印度最新事情
2年ぶりのインド訪問記・前編 [平成10年(98)12月記]
2年ぶりにインドへ行く機会を得ました。インドの僧侶を辞して以来初めてのインド。この度はラージギールという仏教の聖地に、私が世話になっていたベンガル仏教会の新しいお寺が出来上がり、その落慶法要に参加することが当初の目的でした。
10月21日、給油のため降りたバンコックからも結局隣に座ってくる人もなく、まばらに旅客を乗せたエア・インディアは予定の10時間でカルカッタ上空へ。ポツンポツンと地上の電灯がまばらに光って見える田舎から、徐々に町に近づいているのが電灯が重なりだして分かりました。
以前成田に夜到着したときには上空から日本列島の形がまばゆいばかりに光り輝いて見えました。インドと日本では電力消費量に格段の差があることが正に一目瞭然。上空からカルカッタの町が近づいてくるのを眺めつつ、インドの人々の生活を思うと、質素で時に不便な生活がとても望ましいものに思われました。
カルカッタの町はヒンドゥー教徒の大祭ドゥルガープージャーが終わり、その次のカーリープージャーも正式には終わっているというのに、町にはカーリープージャーの飾り付けが派手派手しくなされて私を迎えてくれました。
竹組みに張られた白い布の、3階建ての建物もあろうかという大きなヒンドゥー教のお寺が、所々にお祭りの間だけ臨時に作られていました。夜でもお寺の形が分かるように赤や黄、緑の沢山の電灯が取り付けられ、お寺の中には後に河へ流されるカーリー神がどぎつい彩色を施され祀られ、大勢の人たちがお詣りに訪れていました。
タクシーでその日の宿ベンガル仏教会に向かう途中の道でも、何度も太鼓などの楽器を奏でる人々や日本の御輿のように神様をトラックの荷台に乗せて練り歩く人々の行列に出会いました。
途中広い道の両端がその町の祭り会場と化し、布のお寺の周りには小型のメリーゴーランドなど遊園地にある乗り物が据えられ小さな子供が集まり、大人たちは蝋人形のように化粧や衣装を身に付けジーッとポーズを作るガンジーさんやマザーテレサ、インドの聖人たちに見入っていました。
日頃難しい顔をして人をより分けて歩くインドの人たちが着飾って、家族の手を引きイルミネーションに目を輝かせる様子を見ていましたら、インドへ来る前に訪れた小豆島で見たお祭りが思い出されました。
他の土地からもお祭りというと集まってきて御神輿のように太鼓を引いて練り歩く小豆島の人たちの顔とダブり、お祭りというのはこうして日常の様々なしがらみから人々を解き放ち、ひとときの安らぎを与えてくれる癒しの場として国の違い時代を超えて今も必要とされていると感じました。
2年ぶりで訪れたベンガル仏教会本部では、激務のため痩せ細った総長ダルマパル師が夜の8時になろうというのに忙しく雑務に追われていました。2年間のブランクを懐かしく思う暇もなく、私は翌日の夕方お寺のアンバッサダー(インド国産車)で400キロも離れたラージギールへと向かいました。
当初の話では15時間くらいで着く予定でした。しかし、カルカッタを出て1時間でタイヤがパンクしたり、アサンソールという町の手前で渋滞のため1時間も止まったりで結局ラージギールのお寺まで22時間かかりました。一カ所だけ40ルピー(1ルピーは約3円)の有料道路がありましたが、他は舗装した後にできた穴ぼこだらけの道を、大型のダンプカーが行き交う中でそれらを追い越しつつ進むという過酷なものでした。
加えて所々スピードを出し過ぎないように20センチほどの高さにアスファルトを盛り上げた帯が道に設けられていて、徐行してそれらを乗り越えなければなりませんでした。もちろんインド人のドライバー氏が運転をしたのでしたが、常に右左に揺られて景色をのんびりと眺めている余裕もありませんでした。
数珠つなぎに走り去るトラックの多さはインドも盛んな消費社会へ移行したことをうかがわせていました。ガソリンを満載したタンク車や鉄骨を引きずるように乗せた大型トラック、牛の姿が貼り合わせた板の間から覗くトラックなど。またこのところ、どこでも目にするようになってきた外国の清涼飲料水を運ぶトラックも目に付きました。
10月23日午後2時ラージギール着。ラージギールはお釈迦様の時代、この地を統治していたマガダ国の王ビンビサーラの寄進によって、仏教のお寺として初めて作られた竹林精舎のあった場所であり、またお釈迦様の死後500人のさとりえたお坊さんたちが集まって戒律と経典の編纂会議を開いたとされる七葉窟も郊外の山中にあります。
この度はこの七葉窟に行ってみようと何人かの人たちで向かったのですが、盗賊が出るので止めて下さいと警察官に止められてしまいました。その帰りに立ち寄った竹林精舎跡は、今も竹が生い茂り静かなたたずまいで、当時たくさんのお坊さんたちが瞑想に励まれていた落ち着きが、今もその場にあるように感じました。
こうした仏教徒にとって意味深いこの地に、二人の日本人篤志家の寄進によって、ベンガル仏教会の支部として、ドーム型の本堂と48もの客室をもつ新しいお寺が完成しました。落慶法要にあたり、大勢の日本からの来賓の他、ラージギールからバスで30分ほどの所にあるナーランダーの仏教大学から20名ほどの黄衣姿の若いお坊さんがたが駆けつけ、法要とその後のセレモニーに参加されました。
ラージギールのお寺の屋上から七葉窟を望む
その前日、寄進をした日本の浄土宗のお坊さんと私の大先輩にあたるベンガル人の長老とが対談をすることになり、私も立ち会いました。
日本のお坊さんから阿弥陀さまについての話があり、自分たちは念仏を唱えることで阿弥陀さまとのご縁が生じ死後極楽に行くと信じていると話されました。そして、そのことをどう思われるかとベンガルの長老に率直に質問されました。
すると長老は阿弥陀仏という言葉はお釈迦様の100もある名前の一つであり、お釈迦様の徳の一つを表しているなどと答えられました。しかしそうして念仏を唱えることで心静まり行いが正されることは私たちの実践と決して異なるものではないと、終始にこやかに応対していました。
同じ仏教徒でありながらも、国も立場も違う二人が教義についてこうして真面目に語り合うというのは誠に稀なことであって、このやり取りは私にとってもなかなか興味深い楽しいひとときでありました。
その後私は、10月27日あの玄奘三蔵も学ばれたナーランダー仏教大学跡を経由して、バスでパトナへ。そしてパトナから列車でバラナシ、バラナシからはラクノウへと向かい、それぞれの支部の様子を本部へレポートする仕事を仰せつかりました。
10月28日午後2時半バラナシ着。バラナシ郊外のサールナート支部では日本人のお坊さんが無料学校を開校し、たくさんの日本からの寄進によって、校舎も2階まで出来上がり順調な運営を続けておられました。中学高校併せて5学級で、全生徒数は200人となりました。
インドの学校制度は日本と違い、中学の次に高校が2年、その次にインターカレッジというところで2年やってから、大学へ3年通うことになっています。そしてそれぞれの学校に上がる際に国家試験を受けることになっています。上の学校に行くにはもちろんのことそれに合格しなければなりませんが、その国家試験の合格率が聞く所によると20パーセント前後の狭き門となっているのだそうです。
つまり、中学校を卒業する人が100人いても、その内の20人しか高校へは行けないということになります。日本のようにだれも彼もが進学するが故に学力というものさしだけで子供を見ることがないのは良いのですが、ごく限られた人だけが高等教育を受けることになり、貧富の差が解消されにくい環境を作り出す一因となっています。
サールナートの町は11月4日に大統領や中央政府の首相が来るというので、どこも真新しく建物の色を塗り替えたり、通りの外枠に白いラインを入れたり、街路樹を手入れしたりと準備に追われていました。
個人の家も商店も、強制的に何の補助もなく大統領が通る道に面しているからというだけで、自費で塗り替えを強制されるのだそうです。大統領たちはサールナートで催される政府主催のブッダの大祭(ブッダ・マホートソウ)に来るのだということでした。ところが、その仏教の大祭には肝心の仏教徒は招待されず、講演はすべてヒンドゥー教徒が行うというおかしなお祭りと現地の人たちが盛んに不満を漏らしていました。
また、カルカッタでも耳にしていたのですが、政権が変わってから物価が上がり、特に日本と同様に大雨や異常気象によって野菜や穀物の値が高騰し、人の心が悪くなって強盗やスリが横行しているということでした。1キロ5ルピーだったタマネギが80ルピーになったり、じゃがいもが50ルピーになってしまったといいます。
またサールナートでは塩までがキロ5ルピーだったものが60ルピーになると騒いでいました。いずれもインド料理には欠かせないものだけに貧しい人たちへの影響が心配されました。しかし、数日後現地の新聞にはタタという財閥企業がタタの塩は値上げをしませんと、一面広告を出しているのを目にして、さすがインドの財閥は懐が大きいと感心させられました。
サールナートのシンボル・ダメークストゥーパ
バラナシからラクノウへ向かう列車の中で、アメリカのサンタクララでコンピューター技師をしているというラクノウ出身の青年家族と向かい合わせました。
一歳半の男の子をあやす奥さんを気遣いつつ話す彼は、プーリーにあるアメリカ企業に就職していたところ、2年前からアメリカ勤務になったのだそうです。1ヶ月の休暇をもらい里帰り中とのこと。
日本にも今たくさんのインド人がコンピューターのプログラマーとして来ているよと言うと、自分の知り合いも行っているということでした。奥さんはインドのパンジャビードレスを着ていましたのでアメリカでもそうかと聞くと、私たちはアメリカでもインドスタイルで暮らしていると言って胸を張りましたが、パッチリとした目でこちらを見つめている男の子はアメリカ国籍なんだと笑っていました。
自国の文化を誇らしく思いながらも、国外へ出ると不自由や差別を感じることもあるのであろうと思われました。そこで、この度のインドの核実験などはどう思っているのかと聞くと、実験はインドの置かれた地政学的な位置や勢力に基づいたもので、特に今の核管理に関する国際条約の不平等を正すために必要なことであったと、さすがにコンピューター技師らしくこと細かく説明をしてくれました。
たとえば禁煙席を作ってある場所で自分たちは吸ってもいいが他の人はダメだと言う人がいたら、それはフェアーじゃないし、そんなことを言う権利は誰にもないはずだと話していました。また諸外国からの非難を受けている事に関してはどの国も非難する権利などない、これはインド国家の安全保障に関することなのだからと言い切っていました。
あと4、5年はアメリカで仕事をするけれど、ちゃんとヒンドゥー教のお寺があってお詣りに行っているとも語っていました。変に外国人に興味を持つこともなく、聞かれたことには丁寧に答えてくれるとても好感のもてる青年でした。・・・次頁に続く
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