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インド仏教見聞録3 

                                        (共和制記念日の式典にて)
自己発見の旅 −
インドから神戸へ
(インド編)
                                         [平成7年(95)3月記]



 1992年2月、二度目のインド巡礼の旅の途中、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートを訪ねた。そこで、既にインドに十四年も住み込み、現地の人達に囲まれて暮らす一人の日本人僧に出会った。

 この方から私はインドで仏教が生き続けてきていたことを知らされ、そして今こうしてお寺の中で日曜学校を開き、次には無料中学校を設立しようと計画していることをうかがった。お寺の近くに住むモウリアというアショカ王の子孫たちと共に貧しい子供たちのための中学校を作りたいと言われた。

 私は何か出来ることがあるなら手伝わせていただこう。こう即断し、次の日からサールナートの仏跡地に一緒に出かけ、旅行者に寄付を呼びかけたり、日曜学校の手伝いをして過ごした。

 そして、一週間後には一旅行者としてではなく、ここに住み込んでもっと深くかかわりたいと思うようになった。ヴィザのため一度日本に戻って留学の手続きをし、またインドの僧侶として戒律を授かり正式にこのお寺に住み込むことを決めていた。

 自分の将来に対して決められた方針があったわけでもなく、一僧侶として何ができるのか、何をすべきなのか、そう常日頃考え続けていたこともあり、ここでの生活に自分を必要としてくれる場を見い出したのであった。

 こうしてひと月を過ごした後、日本に戻り、ヒンディ語の学習とベナレスにある大学への留学手続きを進めた。殊の外スムーズにすべてのことが進み、この間新聞や雑誌などに「個人ボランティア奮闘中!インドの子供に学校を・サールナートの邦人僧が設立運動.カンパ募る」という見出しで広報活動も行えた。

 そして、その年の10月アヨディアでの聖地奪還をめざすヒンドゥー教徒とイスラム教徒の紛争が起き、ますます宗教対立、階級闘争という内患を抱えるインドに仏教の平等と慈悲の精神を基礎にした教育の必要性を実感させられたのであった。

 そして、翌年の93年3月いよいよサールナートのチベット上級研究所の隣に位置する法輪精舎(ベンガル仏教会サールナート支部)に住み込むことになった。私にはベット一つ置かれた八畳程の部屋が用意され、お寺の中で日本人住職と二人の生活が始まった。

 毎朝、暗いうちに起き出し、水をくんだり食事を準備したり掃除をしたり。日中は日常使うヒンディ語と仏教語であるパーリ語の習得や寺の雑用を済ませるという生活。そして特に日本の協力者たちとの通信事務が私の仕事として与えられた。

 無料中学の設立をその年の7月に控え、気温が四十度を越える4月から6月の間、お寺の中に仮校舎の建設や建物の壁面塗装といった修繕工事のため毎日5,6人の工事夫が出入りする落ち着かない毎日であった。

 そして7月25日、法輪精舎根本佛教学林の開校式と第一回入学式が執り行われた。あいにくの大雨の降る中で、近隣の大学からも来賓がみえ盛大な開校式となった。中学一年生25人が入学しインドの学校制度に照らした教育がスタートした。

 私にとっては日々住むところと食べることの心配がないインドのお寺でパーリ語の学習とお寺の雑用に毎日が暮れていった。ベナレス・サンスクリット大学に籍を置き、二度の儀式を経て、6月にはインドの僧侶として黄衣をまとった。

 暑い時期には外にベットを出し蚊帳をつって眠り、寒い時期にはセーターを着込んで寝袋に入って休んだ。

 私は法輪精舎で過ごした一年間ではたして何が出来たのだろうか。一人の日本人僧が個人の努力で地元の子供たちのために日曜学校を開き、さらに無料の中学校を開校した。そのことを日本の人達にお知らせる広報活動や募金活動、それに「法輪精舎だより」という会報も発刊した。

 それらが主な目に見える活動であったと思えるが、私の本当の仕事は地元の協力者、特に日常出入りしている若いスタッフたちと拙いヒンディ語で話をすることではなかったかと思える。他愛もない会話の中に彼らの本音が現れ、お寺の仕事をする上での潤滑油となっていたのであろう。

 日本から送られてきた衣類を学校の子供達に配布するという簡単な仕事にも現地スタッフの気持ちが複雑に揺れていく。日本の良質ではあるが古着をもらうことに何のためらいもなく配れる人とやはり子供たちにとってその行為がどう影響していくのかと心配する人もあり。

 自分の家族にも欲しいと思う人もあれば、黙って持っていってしまう人も出てくる。与えることで与えられた側はもらって当たり前と思うようになり、乞食の気持ちを植えつけてしまうのではないか、と考える人も出てくる。

 中学校の学期末試験をして数学の平均点が極端に低かったときには、数学の教師をどうするかで議論が分かれた。彼が免許のない代用教員であったことも話のこじれる原因であった。正式な教員免許を取るには高校卒業後教員養成学校へ入らねばならず、その為には相当な額の賄賂やコネが必要なのだそうだ。

 能力があり、企業への就職や留学を希望しても実力本位で事がスムーズに進まない社会であることが教育の普及を遅らせている要因のひとつなのだと思える。
                                  
 (日曜学校でビスケットをもらう子供たち)
 日曜学校では、ノートとボールペンを与えお経や英語を教えていたが、生徒が増えるにしたがい、勉強をしに来ているのか、その後配るビスケットとパン二、三枚をもらいに来ているのか分からないような子供も多くなっていった。

 更に小学生以下の子供たちはただビスケットをもらうだけのためにお寺に集まって来てしまうようにもなっていった。わざわざ赤ん坊をかかえて来るような子もいて、毎週300人もの子供たちが近くの村々から集まって来た。

 多く集まり、お寺が有名になっていくと喜ぶ人もあれば、こんなに増えてはお寺の資金を逼迫させてしまう。それにただもらえると思わせてはやはり乞食の根性を植えつけるのではないか。そう心配する人も多かった。

 そして、こうして集まってくる本当に貧しい家の子供たちはたとえ無料であっても学校へ行こうとしない。教科書代も払えず、文房具代も続かないのだという。字が読めない親たちの多くは子供にだけは教育を、という気持ちも起きないのが現実だという。

 さらには、小学校から数えて8年生、10年生、12年生のときに国家試験があり、それぞれの合格率が三割に満たない厳しい状況である事も高等教育が広く行きわたらない要因になっているとのことだ。

 また、日曜学校にはヒンドゥー教徒のほかイスラム教、シーク教といった様々な宗教の子供達が集まり、肩を並べて勉強し一緒に遊んでいた。しかしそれも高校大学と進むにつれ、やはり同じ宗教のそれも同じ階級の仲間との付き合いに変わっていくのだそうだ。家や仕事のつながりで自然とそうなっていくと言うのだが。

 共和国憲法ではカーストは否定されたにもかかわらず、役所や大学の書類にはいまだに階級を書き込む欄があり、それは、不可触民や部族民などの指定カーストといわれている人達に大学への進学、官庁への就職に特別枠を設けるという制度があるからで、そのこともカーストを意識させられる要因であり、今では逆に指定カーストの保護が階級間の争いに拍車をかけているとの事であった。

 また、日本製のオートバイが町を駆け抜け、電気製品が店頭を賑わせている一方で、社会の底辺で暮らす人々の暮らしは一向に改善の兆しがない事も大きな社会問題のひとつとして残っている。

 貧しい子供たちにも教育の機会をという気持ちでインドにやって来たのではあったが、一つ一つの問題の奥深さを痛感させられる毎日であった。とにかく私の仕事は、好奇心旺盛で世話好きの若い現地スタッフたちとこのような様々な問題について話し合うことではなかったかと思える。今は、こうしたことが個人レベルの日印の相互理解につながってくれていればと念じている。

 入学した中学一年生のクラスがほぼ軌道に乗り学年末を迎えようという頃、私は日本に戻ることになった。日本での広報活動のためであり、またあらためてインドでの活動に対して考える機会を持ちたいと思ったからでもある。

 特に海外に出て一外国人として支援活動をする際に大切なことはその国の文化伝統に対して尊敬の念を持つということではないだろうか。たとえ貧しい生活をしているように見える人々にもそれまでに培ってきた歴史と誇りがあるはずなのだから。

 ともに生活させてもらい、お互いの違いについて理解を深める段階で、互いに何かを学び合うという姿勢が大切なのではないだろうか。様々な問題を抱えつつも、豊かさという点では、彼らの方がはるかに自然と親しみその恵みを享受しているのかもしれない。

 本当は私達こそ彼らから多くのことを学ばせてもらわなくてはいけないのではないだろうか。こんなことをひとり考えつつ、昨年の3月、日本に帰ってきた。無料中学校は、昨年7月に新一年生を迎え2学年となり、その後お寺の近くに600坪の土地を購入、校舎の建築許可が下り次第着工する予定である。

 その後、私は10月にはインドへ戻る予定だったのがインド国内のペストの流行で行きそびれ、東京で新年を迎えた。そして、1月17日未明。太平の眠りを覚ます大震災が兵庫県南部を襲った。地震直後から何かできることがあったらしなければと思い、取り敢えず神戸市の災害対策本部宛に食料を自分なりに梱包し送ってはいたが、物足りなさが残り申し訳ない思いが続いていた。

 そこへ、サールナートのお寺の日本連絡所を引き受けてくれている芦屋の知人から、カウンセラーという精神面のケアーをする人が足りないのだが、という話に早速現地に赴くことにした。・・・・(生命科学振興会ライフサイエンス誌95年6月号掲載)
 (神戸編をご希望の方は、
仏教をはなれて1被災者の声をご覧下さい)
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