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インド仏教見聞録2

 インド仏教見聞録

                                     [平成8年(96)10月記]

 今年もインドを訪ねることができました。昨年は、カルカッタのベンガル仏教会で、安居(アンゴ) というお坊さんが行う毎年雨季3か月の修養期間を他のベンガル人のお坊さんたちと共に過ごした訳ですが、この度は、2か月。

それもサールナートの以前1年間過ごしたお寺での学校建設にも携わっているため、カルカッタとサールナートそれぞれのお寺で3週間余り過ごすという短期の滞在でした。仕事を持つ皆さんにとっては2か月もインドで過ごしてと、たいそう羨ましく思われるかもしれません。

 が、私の場合、ホテルでのんびりと日を過ごす訳でもなく、サールナートへの往復のため寝台車には泊まりましたが、他はすべてインド仏教のお寺に宿泊して過ごしました。この間に見聞きしたことを仏教とインドの最近の動向なども交えて、少しかいつまんでお知らせをしたいと思います。

<機内で日本人ビジネスマンと>
 インドと聞いて皆さんは特に近年目覚ましく経済発展を遂げている国と連想される方もあるかもしれない。ボンベイのホテルなどは日本人のビジネスマンで年間契約されているところもあるという。今回インドに向かう飛行機の中、たまたま隣り合わせた方も颯爽とボンベイに向かう日本のビジネスマン。

 ボンベイで開かれる貴金属の装飾機械の展示会に招かれて日本の機械を持参して乗り込んでおられた。勿論インドは初めて。これまで旅したヨーロッパなどの国とは違う緊張を隠し切れないという落ち着かない素振り。

 安い人件費で細かい作業を永遠にコツコツ続けて作るような国で、はたして日本の機械が売れるものかと心配もされていたが、しきりにインドの交通事情やら、人の性格、付き合い方などについても質問しておられた。仏教にも関心がおありで、こちらのインド仏教についても質問されるので、一通りお話をしているうちにカルカッタに到着。続きはこれから、東京でお会いする予定である。

<本部僧院へ>
 空港から、一人プリペイドタクシーでカルカッタのボウバザールという貴金属宝石店がきらびやかに軒を連ねる通りを通って、ベンガル仏教会本部へ。門番や職員さんたちと一言二言挨拶をして、早速宗務総長のダルマパル・バンテー(以下バンテーと略す)の部屋に入り込む。

 荷物を置いて、右肩を出し左の腕全体を覆う着方で衣を着直す。そして黙って床に額をつけて三度礼拝をして、それから挨拶。“今到着いたしました”と申し上げると、“そろそろ来る頃かと思っていた”という返事。昨年の11月に日本に戻ってからのことをかいつまんで報告をした。

 調子のでないヒンディ語で何とか説明するものの所々言葉が出て来ないこともあり始めは苦労するが、直に慣れていき、自然に言葉がついて出るようになる。勿論カルカッタはベンガルの地、ベンガル語が母国語なのだが、私の方はヒンディ語しか話せないので、ベンガル人にとっては外国語であるヒンディ語を私のために使ってくれているのである。                               
 (屋上から眺めるカルカッタの町並み)

<ダルマパル師のこと>
 相変わらず、私のインドの師匠ダルマパル・バンテーは忙しい毎日を送られている。今年71才になられる今も、朝の5時から夜の10時まで、そのほとんどを寝室兼事務室で床にあぐらをかいて仕事をし続ける。

 朝は廊下を行ったり来たり、少し早めに歩く運動に始まり、洗面を済ませると、お堂でお勤めをされる。その際には私もご一緒して、心地よい旋律にのせ唱えられる仏・法・僧の三宝の徳を称える偈文や礼拝文、それに慈しみの修習などに耳をすませ、唱和させていただく。

 私もある程度唱えられるようになっていたので、ある日一人で唱えてみろ、と言われ唱えたところ、“まだまだ50パーセントの出来、もっとテープをよく聞いて反復しなくては”と無表情に言われてしまった。

 6時には朝の軽食を召し上がり、その後は新聞を読む暇もなく、人が詰めかけてくる。世界仏教徒親交会(World Fellowship of Buddhist) の地域センターということもあり、常に諸外国の人々が巡礼にやって来て泊まられる。

 それら宿泊者が部屋を訪れることもあれば、近隣の仏教徒が話を聞きに来ることもある。インドの人たちは先客があっても平気で部屋に入ってきて座り込んでしまう。そうして3組くらいの人たちで8畳ほどの部屋が一杯になっていることも珍しくない。

 また全インド僧侶連盟(オールインディアビックサンガ:All India Bhikkhu Sangha) の理事長の要職にもあり、デリーやボンベイ、ラクノウなどで開かれる会合にも頻繁に出かけられる。高齢でもあり、飛行機か列車のときでもファーストクラスで行かれたら良いものなのだが、いつも2等寝台で20時間以上も揺られて行かれる。

 さらに今進めているラージギールという、昔竹林精舎(チクリンショウジャ) というお釈迦様にとっての初めての精舎があったところでもあり、また、お釈迦様の没後、お経の編集会議が開かれた七葉窟(シチヨウクツ)という洞窟に近いところにこの仏教会の支部を建設中で、毎月自ら出向き、資材の選定から、施工に細かい注文もつけていかれる。

 本堂とゲストハウスは出来上がり、今瞑想のためのホールを建設中なのだが、バンテーのアイディアで、本堂はドーム型吹き抜けで、回りにはアジャンター石窟寺院の壁画にある蓮華を持つ菩薩をモチーフにしたグリルが張りめぐらされている。

<僧院の行事について>
 ここカルカッタの本部では、満月の日にはいろいろな行事が開かれるが、そうしたときには、ホールの床に座る仏教徒が会場狭しと詰めかけるころ、ダルマパル・バンテーはそれまで人と会ったり、書類に目を通しておられる仕事を中断されて、静かに立ち上がり、悠然と会場に向かう。

 白い布の敷かれた壇上に一足先に来てあぐらをかいて座って待っていた他のお坊さんたちも一斉に立ち上がり迎えると、会場の仏教徒たちは“サードゥ・サードゥ(幸いなり〃)”と唱えてバンテーを迎える。バンテーが壇上中央に座るのを待って他の坊さんたちも詰めかけた人たちに向かってバンテーの両脇に一列に座る。

 そして、三帰依文と五戒を授け、説法をなされるのであるが、その声の張り、澱みなく話す話に誰もが心静まり、自然と聞きいってしまう。そして、ご自分の役目を終えるとまた静かに立ち上がり部屋に戻られる。
                             
(カルカッタ本部でのお祭りの風景)

 が、こうした行事は午前11時頃から行われることが多いので、この後食事の供養が必ずといって良いほど付属していて、お経や説法をしたそのままの場所に台を出し、大皿が一人一枚づつお坊さん達の前に置かれ、ご飯やおかずがのせられて食べる。

 床で話を聞いていた人たちがすすんで給仕を引き受け、食前食後に手を洗う水を持って回ったり、デザートやお菓子までお坊さんたちの好みを聞きながら配られる。そうしたときにはバンテーはゆっくりとみんなが食べ終っても静かに味わいながら食べていかれる。

 供養する人たちが十分に供養し尽くすことができたと満足できることをお考えになっているようにも思えるし、多くの人たちが集まり供養されることを楽しんでおられるようにも思われる。

 我が国では法事の後のお斎にお坊さんを招かないことも多くなり、そのことに何の不思議も感じなくなってはいないだろうか。こうして供養する、施すという善行をして、はじめて亡くなった人にその功徳が回向されることを考えると、やはりこうしたご供養の原型をそのままにとどめているインドの儀礼の尊さを思う。

<ダンタプーリー物語>
 ところで、バンテーは私が居ると昔若い頃に読んだ書物の中からおもしろい話をよく聞かせて下さるのだが、この度は、オリッサ州のプーリーのお寺にまつわる話を伺うことができた。インド国内には異教徒の立ち入りを厳しく制限しているヒンドゥー寺院が多いのだが、その中でも有名なベンガル湾沿いのプーリーという町にジャガンナート寺院というお寺がある。

 円錐形の屋根の高さが何と58メートルもあり、ひときわ威容を誇っているその寺が、実はその昔、仏教寺院だったというのである。AD4世紀頃、この一体はダンタプーリーと言われ、ダンタつまりお釈迦様の歯を祀ったこのお寺があることで有名な国であったのだそうだ。

 各地の王様が礼拝に詰めかけ気が付くと自分がその仏歯を礼拝することもできなくなったことに気づいたこのダンタプーリーの王様は、いつしかこの仏歯を参拝することを断るようになってしまった。周辺国の王様たちは何とか願いを叶えてくれるように取り計らうが、それでも頑として受けつけない。

 そうした険悪な情勢の中、一人の王子がカシミールからやはりこの仏歯を拝むためにやって来た。ダンタクマールという名のこの王子を見るや、男子のない王様は自分の娘との縁談を申し出る。周辺国との軋轢など知らぬダンタクマールは皇太子となり、宮殿に住み込むが、間もなく周辺国が連合して宮城に迫っていた。

 王は捕らえられて殺されてしまったが、何とか仏歯を奪われずに済んだ王子は、王女の髪飾りの中に仏歯を隠して、旅芸人の衣装で逃げ出し、船でスリランカに漂流する。そうして、当時の首都であったアヌラーダプラに仏歯は奉納され、その後の遷都とともに王権の象徴として南下し、今でもキャンディにある仏歯寺に大切にこの仏歯は祀られているのだということなのである。

 そしてその後、仏歯が無くなってしまったプーリーのお寺は衰退し、時代の変化とともにヒンドゥー教徒の手によって維持されていくことになった。余談ではあるが、今日、その中に彫刻されている仏像などを他教徒の目に触れさせないために異教徒の立ち入りが禁止されているのだと言われている。

 ヒンドゥー教の人たちは仏教はヒンドゥー教の一派、お釈迦様はビシュヌ神の化身と主張するが、ひょっとすると、こうした寺院の中に仏像が存在することから、逆に仏陀をヒンドゥー教の神ビシュヌの化身とせざるをえなかったという事情があったのかもしれない。さらには、先年イスラム教徒との紛争の場となったあのアョッディアの元ヒンドゥー寺院もその前はやはり仏教寺院であったということなのである。

<インドの仏教を取り巻く環境>
 こうして2か月の間インドで過ごし、カルカッタのベンガル仏教会本部ではベンガル人のお坊さんたちや仏教徒たちと語り合い得た実感として、今日、インドの仏教を取り巻く環境が以前にも増して厳しくなっているように感じた。経済が外国に開放され、急テンポで発展していくにしたがい、またテレビや衛星放送の普及によって、さらに難しさは増していくものと思われる。

 若い優秀な人たちはコンピューターについて学ぶことに熱心であり、今回訪れたカルカッタ、ベナレスともにコンピュータースクールの看板をどの通りでも目にすることができた。旅の途中、今年もベナレスの中央郵便局から小包を送ったのだが、宛名、送り主、品目などそのすべてをコンピューターに入力し管理するようになっていた。

 こうしたハイテクノロジーの未来に夢をふくらませていくことはどの国の若者も変わらないことなのであって、周知のようにインドもその最先端を担っている。

 サールナートで“日本は金持ちでいい国だ”と言うお寺の学校の先生に、“何を言うか、皆さんの家にはみんなで暮らす土地と家があり、畑では家族が食べる野菜を作り、飼っている牛のお乳を毎日飲むことができるし、昼寝もできる。しかし日本では多くの人がちっぽけな家を買うために一生駆けづりまわって仕事に追われなければならないんだ。よっぽど、みんなの方が豊かなんだよ”と言ったことを思い出す。

 私の師ダルマパル・バンテーは、13才で出家してお寺に暮らし、厳しい規律の中でパーリ語のお経と仏教哲学を師匠から学びつつ成長された。が、勉強したかった英語は余計な知識、外国の文化を頭に入れては修行に差し支えるといわれ学ばせてもらえなかったという。

 竹で編んだ小屋にしか住まず、衣も捨ててあるものしか受け取られなかったというバンテーの師匠は、相当の瞑想修行を積まれた高徳な方であったらしい。仏教の教えは、お経(経)と戒律(律)と哲学理論(論)に分けられるが、それらをバランスよく学ぶためには、やはり10代から寺にあって学び始める必要がある。

 こうしたパンディットと呼ばれる程のどんな質問にも答えられる学識と尊敬に値する清浄なるお坊さんが、本家インドでも急速に少なくなっている今、若い人たちがこうした俗世間を離れた生き方に対して魅力を感じなくなりつつあることは、誠に残念なことだと言わざるを得ない。

 バンテーは、“お坊さんたちが浄らかでいい仕事をしなければ宗教は衰退してしまう”と口癖のようによく言われていた。このことはどの国にあっても、いつの時代にも当てはまるものではないだろうか。・・・・・(ダンマサーラ第18号より、加筆訂正あり)
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