赤沢朝経(あかざわ・ともつね) ?〜1507

幕府管領・細川政元の内衆(近臣)。通称は源次郎。信濃守。入道して沢蔵軒宗益と号した。
出自は信濃国小笠原氏の庶流で、赤沢氏の家督を嫡子の政経に譲って弓・馬・礼の奥義(糾法的伝)を広めようと上洛し、政元に伝授したことが機縁となって8代将軍・足利義政の弓道師範となり、武者所を兼任するに至ったとされる。
明応5年(1496)8月に政元の命を受け、前年より南山城に侵攻していた畠山義豊家臣の遊佐弥六らを撃退した。この功績からか、翌明応6年(1497)に山城国南3郡(久世・綴喜・相楽郡)の守護代に任じられている。
この頃より畠山尚順が、かつて政元によって第10代の将軍職を更迭された足利義稙と呼応して紀伊国から畿内を窺う動きを見せていたが、政元の命を受けて明応8年(1499)9月にこれを撃退し、時期を同じくして京都で蜂起していた土一揆をも鎮圧、また同年末より大和国の古市澄胤を援けてしばしば大和国に侵攻して多数の衆徒国民を圧迫するなど、政元の爪牙として軍事活動を行い、その武威を恐れられた。また、幕府領所の河内国十七箇所の給人や近衛家領の山城国五箇荘の請所代官も務めている。
永正元年(1504)9月、政元の被官で摂津守護代の薬師寺元一が政元を廃してその養子・細川澄元を跡目に立てようとして挙兵するも、鎮圧されて切腹した(淀藤岡城の戦い)。朝経も元一に与同したというが、翌永正2年(1505)までには赦されて出仕し、11月には同じく元一に与同していたという畠山義英・尚順の追討を命じられて河内国に出陣、さらには永正3年(1506)8月頃には大和国にまで侵攻し、援将の三好之長とともに猛威を揮った。
永正4年(1507)4月、若狭国の武田元信を支援する政元の命を受けて丹後守護・一色義有を征伐するために丹後国に出兵したが、政元の養子・細川澄之の被官である香西元長薬師寺長忠らの謀略によって先に帰京していた政元が6月23日に横死したことを知り、撤退しようとしたところを一色方の国人一揆に襲われ、6月26日に自害した。