いろは歌の作者は空海ではなく万葉仮名を使う誰か
日本の国民の祝日の山の日(やまのひ)は、今年の場合、August 11, 2023です。
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いろは歌は、平安時代の970年以降に作られた。
いろは歌の作者と言われる空海は、774年に生まれ、835年に入定しました。
柿本 人麻呂も、いろは歌の作者と言われていますが、生年660年、没年724年です。
現存する最古のいろは歌が載る文献は、1079年に書写された『金光明最勝王経音義』(大東急文庫 蔵)です。下図のように、平仮名ではなく万葉仮名が使われていて、七字区切りです。
現在のいろは歌は、7文字区切りではなく、平仮名あるいは、「色は匂へど」というように、漢字仮名交じり文で表記されています。
字母歌
字母歌とは、かな文字を重複なく全て使ったもの。
日本の字母歌として有名なものは、「いろは歌(47文字)」「大為爾の歌(47文字)」「あめつちの詞(48文字)」があります。いろは歌の作者を考えるうえで、この3つの字母歌を比べる事は重要です。
3つの字母歌に共通なのは、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」を区別し、ア行の「イ」とワ行の「ゐ」を区別し、ア行の「エ」とワ行の「ゑ」を区別する事です。
いろは歌
50音からワ行のウ、ヤ行のイエを抜いて、いろは歌は47字です。
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
ア行の「え」とヤ行の「え」を区別しないので、「え」は一度出だけ出て、47字となります。
大為爾の歌
50音からワ行のウ、ヤ行のイエを抜いて、大為爾の歌は47字です。
たゐにいて なつむわれをそ きみめすと あさりおひゆく やましろの うちゑへるこら もはほせよ えふねかけぬ
いろは歌と同じく、ア行の「え」とヤ行の「え」を区別しないので、「え」は一度出だけ出て、47字となります。、
あめつちの詞
50音からワ行のウとヤ行のイを抜いて、あめつちの詞は48字です。
あめつちほしそら やまかはみねたに くもきりむろこけ ひといぬうへすゑ ゆわさるおふせよ えのえをなれゐて (ア行のえとヤ行のえ)
ア行の「え」とヤ行の「え」を区別するので、「え」が二度出てきて、48字となります。
いろは歌は、いつできたか
いろは歌wikipediaに、「いろは歌は、作者は不明だが10世紀末から11世紀半ばの間に成立したとされる。」と、書いてあります。
いろは歌は、970年(10世紀末)以降にできた
『口遊』(源為憲著 970年成立)は、大為爾の歌とあめつちの詞(900年より前に作られた)について、以下のように言及しています。
大為爾の歌「たゐにでて なつむわれをぞ きみめすと あさりおひゆく やましろの うちゑへる子ら もはほせよ えふねかけぬ
(田居にでて 菜摘む我をぞ 君召すと 求食り追ひゆく 山城の 打ち酔へる子ら 藻葉干せよ 得舟繋けぬ)」という、あまり意味のよくわからない歌をとりあげているので、(いろは歌は)これ以降の成立と考えられています。
『口遊』に収録される大為爾の歌には、以下の文がその注釈として記されている。
(今案ずるに、世俗誦して阿女都千保之曽〈あめつちほしそ〉と曰ふ。里女の訛説なり。此の誦〈大為爾の歌〉を勝れたりとす)
上の下線部の大意は「あめつちの詞を誦するのは里女の誤った言い方であり、此の誦(大為爾の歌)のほうが勝っている」という事です。
『口遊』は、大為爾の歌とあめつちの詞について、言及しています。いろは歌が970年より前にできていたのなら、『口遊』に、完成度の高い「いろは歌」への言及があるはずですが、言及されていません。
仮名遣いwikipediaより
音韻の区別として47音の区別をする音韻体系であったのは、10世紀後半頃の比較的短い期間に過ぎない。それ以前はもっと多くの区別があったことがわかっている。
いろは歌は47字で、あめつちの詞は48字です。よって、いろは歌の成立は10世紀後半より後。あめつちの詞の成立は、10世紀後半より前。
明治時代の学者大矢透はその著『音図及手習詞歌考』において、いろは歌は空海の時代に作られたものではないと断定している。その理由は空海の活躍していた時代、七五調の四句で構成される今様形式の韻文がまだ存在しなかったということもある
以上見てきたように、いろは歌の作者は空海ではないのです。それでは、作者は誰なのでしょう。
現存する最古のいろは歌が載る文献は、1079年に書写された『金光明最勝王経音義』でした。そして、それは万葉仮名で書かれています。 なので、作者は、平安時代の空海ではなく、万葉時代(飛鳥時代、奈良時代)の人だと言えます。
いろは歌の作者が柿本人麻呂である可能性
いろは歌の中に、「の」を対象の中心として、「かきのもと」が点対称に配置されているという説があります。
いろは歌は、970年(10世紀末)以降にできたので、飛鳥・奈良時代の柿本人麻呂が作者である事は考えにくいです。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。