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 仏教の話2  

無常・苦・無我ということ

                 [平成9年(97)12月記]

<仏教の考え方の基本とは>
 仏教仏教と一口に言いますけど、仏教って何でしょうと言われると困ってしまう人も多いと思います。

仏教というと、手を合わせて仏さんを拝んだり、お経をあげることだと思いがちですよね。ですけど、仏教の生まれたインドのお釈迦様の時代には仏像なんて無かったし、それに今のようなお経だってなかったんですよ。

仏教は元々人生の問題を解決するために悩まれたお釈迦様がその問題を解消して、その方法についてお話になったものなんです。ですから心の問題を解決するためにある訳で、今風に言えば、臨床心理学とか心療内科のお話ということになるんでしょうか。

 で、お釈迦様はどんなことをお話になったかということになると大変に長い話になってしまうので、今日はその一番の根本のところのお話をしてみようと思うんです。「無常・苦・無我」という言葉がありますが、仏教の考え方の基本はこれなんです。

<無常とは> 
“無常”というと、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」と続きそうですが、この場合、無常というのはもののあわれ、わびしさという情感を表現したもののように思われています。しかし、仏教でいう無常というのは本当はもっと冷静に、すべてのものを現象として観察する姿勢で見ていくのです。

すべてのものは常なるものではない。変化しつつある。つまりここのお供えの花だって一日ごとに、というよりも刻々と萎れていくわけで、自然界のものも私たちの体も、心だってそうですよね。こう言ってしまうとみんなうなずかれるのですが、でも心の中では本当はそんなことを認めていないのが私たちなんです。特に自分に関することについては認めたくない。だからこそ、いろいろな問題を引き起こしてしまいます。

 たとえば、自分のお子さんはみんないつまでたっても子供だと思っていますよね。髭面のいい大人になっているのに何か言ってくると何も分かっていないくせにとか、つい思ってしまいます。自分の子はいつまでたっても小さな時の印象で考えて、子供の言い分など無視して親の都合だけで子供のことを決めつけてしまいがちです。もちろんそれが子のためだと親の方では思い込んでいる訳ですけど、本当は自分のためということも多いんではないでしょうか。

そして、ちょっとしたことで言い合いになって喧嘩して、険悪な雰囲気になってしまうということもよくあることではないでしょうか。それがたたって、今では老後の介護も十分にしてもらえない、おしめを日に5回替えるところを2回にされたり、お金は出すけど手は出さない、という家族が結構あるんだそうです。

 ほんとにいい子だったんですけど、ある日突然変わって暴力を振るうようになってしまった、という話もよく耳にしますけど、親の言ういい子というのは自分や回りの大人たちの思うとおりのことをしているからいい子なんですよね。でも一つの人格をちゃんともっている子がすべて親の思うとおりというのもかえっておかしい、もっと自分を主張しなくちゃかえって危ないんじゃないでしょうか。

ですから何も問題なくいい子であったりしたら、何か親に気兼ねして、いい子なんではないかと思うべきなのではないかと思うんです。その子の様子や気持ちの変化していっていることに気づかなかったのではないでしょうか。

それが、突然変わってしまったという言葉に表れているわけですけど、何でも突然ということはないのであって、すべてのものが常に変化しつつある。これが無常ということで、子供はいつまでたっても子供、いい子はいつまでもいい子である方がおかしいということなんです。

 また、結婚なんていうものも、結婚するとみんな幸せになって下さいと世間では普通言いますけど、結婚したからといって幸せになれるものでしょうか。そう思っていると結婚して相手のいやなところが分かってきたりすると、もういやだということになる。

でも、一緒に暮らしながら、だんだんとお互いの関係や気持ちが変わってくるのも当然のことなんじゃないでしょうか。これも無常ということです。しかしそれに我慢がいかなくて不倫ということがさかんに言われているような現代の状況も、この無常ということを認めていないからではないかと思うんですね。

エステに通うなんていうのも年齢なりに自分が変わっていくという事に抵抗があるからなのではないでしょうか。だから私たちは頭ではこの無常ということが分かっているように思っているだけで分かっていない、だからこそいろいろと問題を起こしてしまうのです。

<苦とは>
 私たちはこのように本当は何もかも自分の思いどうりにはいかないというこの現実を認めたくないんですね。この思い通りにならない現実の姿をお釈迦様は“苦”とおっしゃっているんです。

思いどうりではない、この世の中の様々な事によって私たちは悩み苦しんでいますよね。その真実の姿を苦と言って、この世の中は苦しみばかりではないかとおっしゃっているんです。

この世は娑婆の世界なんて言いますが、娑婆という言葉はインドの言葉でサハーといって忍耐を強いられるところという意味なんです。それなのに、さっき言った結婚ではないですが、私たちは幸せや嬉しいこと楽しいことばかりに目がいっていますから、本当は苦しみ多い忍耐を強いられる毎日の生活がいやなことばかりに思えてしまう。

そもそもいろいろな人がいて、いろいろな考えや感情を持ち合わせている中で暮らしていくわけですから、困ったこともいやなこともあって当然なのではないでしょうか。ですから、この世は苦しみばかりなのが当たり前なのだと思って、これが人生ではないかと思えれば、たまに訪れる楽しみや幸せな場面に心から喜べるんではないかと思うんです。

<無我とは>
 そして、そのような私たちというのは、本当は自分のことさえもよく分かっていない、自分とは何かといわれると分からないですよね。私たちは誰もが知らないうちに生まれ死んでいくものですし、明日どうなるかも分かっていない。それなのにこれは自分のものだとか、自分は○○です、というように肩書きにこだわったりしていますけど、もとより、自分さえ自分のものではない、とこうお釈迦様は言われて、そのことを“無我”とおっしゃられているんです。

無我というのは、ですから滅私奉公という場合の滅私であるとか、精神統一したときに言うような忘我の境地といったものとは意味が違うんです。自分さえ自分のものではない、自分の思い通りではない。私たちは、思いに反して病気にもなりますし、持っているものにしたっていつの間にか失ってしまう。それなのに私たちは自分のことばかり考えています。

仏教ではよく衆生なんて言いますが、この言葉はインドの言語ではサッタといって、執着するものという意味なんです。ですから衆生である私たちは、自分中心に都合の良いように考えて、欲をかいて怒って馬鹿を見てしまう。自分が何かする、何かになる、何かをもつということばかりにとらわれている存在なのです。そこでお釈迦様は、そんなことは人生の大切なことではないよ、とおっしゃっているのです。

 この様に、私たちは変わらないことばかりを求めていますから、仏教では“無常”と説いているのであり、楽ばかりを願っていますから“苦”と説き、自分や自分のものばかりにとらわれていますから“無我”と説いているのです。

それではこの様な固定観念を捨てて無常や無我ということを知って、苦しみを乗り越えていくにはどうしたらいいのでしょうか。そのことについて、お釈迦様はじっくりお話になっているわけですけど、この続きは次のページをご覧下さい。(小冊子「ダンマサーラ」第24号より)
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