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仏教の話3

仏教というライフスタイル1◎
                                     [平成8年(96)1月記]

 私たち日本人は、生まれたときから特に自分が選んだわけでもなく、あたり前のように仏壇に手を合わせたり、近くのお寺で遊び回ったり。そして正月には家の側の神社にお参りし、お寺にも手を合わせます。

 仏教とはお参りするもの、お供えをするもの、手を合わせお唱えするもの、何かをお願いするもの、そして誰かが亡くなったときにする儀礼のためのものとしてとらえられてはいないでしょうか。

 またそうした単なる儀式を執行するものとして捉えるだけでなく、何か魅力のあるもの大事なもの必要なものと感じてもいないでしょうか。とはいうものの、自分なりに仏教とはこんなものという子供の頃から出来上がったイメージをあらためて問い直すことをする人も少ないかもしれません。

 昨年(1995)は宗教というものが特に一つの事件をきっかけに問いただされることとなりました。がはたして、仏教は宗教なのでしょうか。その前に宗教とは一体どんなものを言うのでしょうか。

<宗教とは>
 広辞苑を開いてみると、宗教とは「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰や行事。またはそれらの関連的体系」とあります。もし仏教が宗教であるというならば、超越的絶対者への信仰と儀礼が教えの中心になければなりません。

 そして実は、この宗教という言葉自体、もともと明治初年から英語のリリジョン (Religion)という言葉の訳語として広く用いられるようになったということなのです。そこで英語のリリジョン と、仏教はインドの生まれですからインド語のダルマ(Dharma) という宗教を意味する言葉を比較してその意味するところの違いを見てみようと思います。

 英語のリリジョン は「信仰、信心、発心、信仰生活、宗旨、宗派」という意味があり、リリジョン の語源のラテン語のリリジオ(Religio) には「超自然的存在に対する畏敬の感情とそれを表現する儀礼」とあります。まさに広辞苑でいう所の宗教そのものといえます。

 しかしそれに対して、インド語のダルマ の意味は「教え、真理、道、本性、善行、法則」とあり、こちらはかなり様子が違うことが分かります。

 絶対者に対する信仰、帰依を表わすのが様々な地域の宗教とすれば、インドの宗教は信仰という枠を越えて真理を探究するもの、善行によって真理を求める道とその教えということなのではないでしょうか。

<仏教とは>
 仏教はインド語ではバウッダダルマ(BauddhaDharma)といい、仏陀となったお釈迦様の生き方とか教えと真理のことであり、お釈迦様は自らの実践によって真理を体得し解脱を果たされました。

 そこで何よりも大切なことは初期仏教ではそのお釈迦様を神のように絶対者として祭り上げることをせず、教えを受けた人たちもお釈迦様と同じ心を得られるよう努力されました。お釈迦様ご自身も誰にでも問われれば分かりやすくその人の人生のために必要な教えを説かれたということです。

 仏教とは、自分ではっきりと知ることの出来ないような超越的な絶対者に対する信仰によって救いを求めるものではなく、カリスマ性をもった指導者の言葉をうのみにすることなく、受けた教えを自ら理性的に冷静に判断をして選択していけるもの、誰もがそのことによって心穏やかに過ごせると確認しつつ、自ら努力することです。

 したがってこのお釈迦様の教えはいわゆる宗教といわれるものとははっきりと一線を画するものだと言えます。

 お釈迦様は自ら一つの新しい宗派を開く、という考えはお持ちではなかったし、だからこそ初期インド仏教は、ヒンドゥー教徒としてヒンドゥーの儀礼を行う多くの人々にも心の教えとして浸透し得たのです。

 解脱とは心の垢や欲がすべて無くなり迷い苦しむことからの解放を意味しています。または、この世で学ぶべきものをすべて学び尽くしたということもできます。そしてそのように心の塵、垢を拭い去り、心清らかに安らかに生きる教えが仏教です。

 ですからその教えの内容は、勿論信仰的な部分を含みつつも、それは生活倫理であり、実践哲学であり、心理学、生理学、人類学でもあるとても広範囲な、人間が生きるというあらゆることに及ぶ教えなのだといえます。いま様に言えば人として生きるべきライフスタイルを教えてくれるものと言っても良いのではないかと思います。

<お釈迦様が最初に説かれたこと>

 それではお釈迦様は私たちにどの様なことを教えてくれているのでしょうか。皆さんもよくご存じのようにお釈迦様は、釈迦族の王子として29才までカピラ城で暮らし、結婚され一人の子を誕生させてからお城を出て遊行者になられました。そして6年間の苦修練行
の末、瞑想実践によってブッダガヤの樹下で覚られました。

 それからサールナートという、その昔仙人が天から降りて来たと言い伝えのある聖なる場所へ歩いて行かれ、かつて共に苦行に励んだ5人の修行者に対して初めて教えを説かれました。(右の写真のあたりで5人の修行者がお釈迦様を迎えたと言われている、この先にサールナートの遺跡公園がある)

 このとき、お釈迦様は仏教にとって、なくてはならない4つのポイント<4つの聖なる真実>(四聖諦:ししょうたい)を教えられたと伝えられています。

4つのポイントとは 1.この世を見よ −この世は悩み尽きない (苦聖諦)
  (四聖諦) 2.なぜ悩むのか −求める心、欲があるから (集聖諦)
  3.幸せとは何か −心の汚れのない平安な心 (滅聖諦)
  4.どう生きるか −8つの偏らない生き方 (道聖諦)

<1.『この世を見よ』>
 私たちが日頃感じている漠然とした圧迫感、何か重苦しい思いをはっきりと自分自身が見つめるということです。

 私たちはこの社会の中にあって、こうあるべきものとかみんながそうしているからというだけでよく考えずに多くのことを受け入れてしまっています。まわりと同じでないといけないかの様に焦りを感じています。

 子供はいい学校に行くのが良いことで大きな会社に入ることが幸せの鍵であるかのように思い込んでいる人も多い訳ですが、そのお蔭で子供の本来の才能能力が伸ばされずにいたり、嫌いなことをするが故にストレスから病気になったり、家庭が崩壊したりという多くの現象が現れています。

 そうしたことが色々なところで指摘されつつも、なおかつ多くの親たちは成績優秀であることを子供に期待し、今では小学生から当たり前の様に遊び時間を削って塾に行かせています。その先には優良企業に入りエリートとして活躍し高収入を得て理想的な裕福な家庭を持ってもらうことがいいことだという思い込みがあるからではないでしょうか。

 はたしてそうした誰もが望むようなところへたとえ就職を果たしたとしても、それらの人たちが皆幸せだといえるのでしょうか。その家族の人たちは何の不満も悩みもないと言う事ができるでしょうか。誰もがそれぞれに何かしらの不満、悩み、憂い、迷い、怒りを日々感じつつ、何かから抜け出るために一生懸命に生きているのではないでしょうか。

 子供は自分のために人生を得たのであって、一人の人格として尊重されるべきものなのに、生まれたときからこの子はこういう子になるものと期待され、何の疑問も持たずに家を継いでくれるものとして、またはいい会社に入って家庭を持つものとして期待されるのです。

 たとえば昔のように子供のうちから職人さんに弟子入りしてしっかりとし込まれ独り立ちするというようなことは全く眼中になく、誰もが進学就職という型通りの人生しか選択できないがために、活力の乏しい刺激のない、しかしストレスの多い社会になってしまったのではないでしょうか。

 そして大きくなるにしたがい多くの人が自分の回りの人たちの思い入れなどのために自分の思い通りにならない人生にストレスを感じつつ何とか社会の中ではその期待に添うよう頑張っているのではないでしょうか。

 人生とはすばらしいものだ、と言われると誰もが反対はしません。そうして近い未来のまたは遠い将来の計画や予定によって楽しみや期待感をもってそのことによって心を励まして生きています。しかしそこにはその幸せを設定したがための長い間の我慢や葛藤があります。

 さらに何かがかなったとしてもすぐに他のものに目が行ってそれに変わるものが欲しくなり、新たな悩みの元となります。やったー、という達成感に我も忘れるという 感激は本当に一時のものではないでしょうか。それさえもがその時までの不安や迷い、疑念や恐れなど多くの精神的な負担の末にやっと達成されるものです。

 そしてそうした長い苦難の道があればあるほど得られたときの喜びは大きく、知らないうちに涙があふれてくるといったものではないでしょうか。そしてさらにさらに高いハードルを自らに課すことで、より大きな不安と迷いの中に過ごすことになります。

 ではどうして私たちは一つのことにずっーと満足することが出来ず、次々に新たなものを求めていくのでしょうか。それはこの世の中のものがみな、よいと思ったものでもすぐに変化してしまって、とどまる事を知らないからではないでしょうか。

 達成した時の喜び感激至福感でさえも時間とともに薄らいでいきます。動きを見せない岩壁ですら長い時間を経て風化し色も形も変わっていきます。すべて変化するものであるが故に完璧なものはなく私たちは不完全なものばかりに取り囲まれています。

 それなのに私たちは完全なものを、つまり自分の思い通りになることを願い求めます。もともと願っても得られないものを求めるがために常に悩み苦しまねばならないのです。すべてのことが思い通りにならない、これが現実の姿です。
                                
(インドの子供たち、サールナートにて)
<2.『なぜ悩むのか』>
 私たちは誰もがそんなに世の中うまくいくものではないと、こうした現実の姿をうすうす知っています。知っていながらもそれでも自分勝手に物事を考え、もっともっと上等なものを十分なものをと求めていきます。

 そうして自ら焦り不安になり悩み苦しみます。ところで普段私たちは何気なく何を見、どういう心とともに見ているでしょうか。聞い た音に何を思っているでしょうか。香りや食べたものの味、また人と接したときの感覚に欲や怒りの心を生じてはいないでしょうか。

 そうした欲や怒りを頭の中で思い描き過去の記憶を引き出し、また未来の出来事を想像してその思いをふくらませていってはいないでしょうか。そうしたことの繰り返しによって心の中に満たされない思いが蓄積されて、いつの間にか心の中は欲求で一杯になっているのではないでしょうか。

 たとえば、何かを見るというとき、私たちは、まずそのものを知覚し、それが自分にとって良いものか悪いものか、好きか嫌いかを知り、そのことを肉体の感覚として心地よいものか悪いものかと感じます。そしてたとえばその対象が自分にとって、いとしい好ましいものであれば、それが常にあって、自分を楽しませてくれ、自分のものとなることを望み、よいものと判断して、一層心を執着させていきます。

 そうしてそのことに反応し、欲の心を深層の意識の中に堆積させていくのだといいます。何かを見たり聞いたりと五感で得たものにその形や特徴をとらえることによって私たちは瞬間的に心の中に欲望を生じさせ、自ら悩みの種を作り出しつつ生きているのです。

 また、阪神大震災のときに、地震から10日ばかりして避難所に食べ物が毎日決まって届くようになると、避難していた人達も安心して表情も明るくなり、とにかく命だけでも
助かったことに安堵し、ボランティアに駆けつけた人達も含めみんな平等の運命共同体といったような和が出来上がりました。

 この場合のまずは命だけでも助かったという言葉に表れているように自分や家族の命への最も原初的な欲の心が現れ、そして食べ物や生活必需品など命を存続させてくれるものを求め、次に精神的な満足を求めて家の建築などへと段階的に地震後の生活再建が進められました。

 また残念なことに自殺に追い込まれてしまった人もあった訳ですが、これも一つの煩悩、つまり自己破壊の怒りの現れと仏教では見ています。生存の危機に際して正に本源的な欲望がそのままに顔を出し、その欲によって誰もが行動し生きているということを教えてくれました。

 このことは決してこの度のような特別の場合に限ったことではなく日常の私たちのすべての行動が欲の心によって動かされているとも言えます。そして自分の思い通りには満たされることがなく、渇きを知らないその欲の心によって、さらにさらにと求め続け、私たちは悩まされているのです。

<3.『幸せとは何か』>
 この世は悩み苦しみの絶えないところ、そしてその原因は私たち自身の心の中の次から次へと沸いてくる欲のせいと分かったのですが、それでは私たちの理想とすべき幸せとはどういうものなのでしょうか。そもそも私たちは何をもって幸せと言っているのでしょうか。

 高度経済成長によって誰もが中流意識をもてる時代となり、そこそこの幸せを享受していると様々なものに表現されています。勿論この場合の幸せとは物質的な豊かさによる満足感のことを差しているのでしょうが、前に述べたようにすべてのものは変化していってしまうためにその得られた満足感もすぐに色あせ不満に変わってしまいます。

 つまり何かものを得た喜びによって得られる幸福は直に終わってしまうということです。地位や名誉を得た喜び満足感もいずれは色あせていくものです。

 それに対し、困っている人貧しい人に何かものを施したり精神的な助けをするなどの善行から得られる喜び満足は心を豊かにし、より長く幸せを味わうことができるものです。

 逆に、人に後ろ指をさされるような悪事、過失など心に後悔が残ることがあるとその他のことでたとえ成功したとしても晴れやかな心からの幸せを感じることができなくなってしまいます。

 さらに、たとえばお釈迦様は自らお城を飛び出し、ぼろ衣をまとい托鉢だけの生活をして只あることの幸せを求めていかれたのですが、このときおそらく、世間に生きる重荷を振り捨てて解放された自由なすがすがしい喜びを感じられたことでしょう。

 そして食を何十日も断つ苦行も敢えてなされました。お城にいたころの贅を尽くした生活の正反対の断食という行によって、体に注ぐエネルギーを精神面に向けてみたのですが、結局究極の覚りを得ることはできませんでした。

 そうした両極端の生活を越えたところの、この大地に人として生きる最良の生き方を模索されました。そして、河で沐浴をし、やせ衰えた体を清められ、村の娘さんの供養する乳粥によって健康を回復し、そして藁で座を作り菩提樹の樹の下で瞑想に入られました。

 そしてこの世の真実・この世の生命の在り様をありのままに覚られ、智慧(チエ)を生じ最高の至福感を得て、この迷い悩み苦しむ生の繰り返しという輪廻の輪か ら解脱を果たされたのです。

 このことを別の言葉で涅槃(ネハン) に到ると言う訳ですが、この涅槃とは燃えさかる煩悩の火を消し尽くすことを意味しています。心の塵垢汚れのすべてがどんなことがあっても永遠に心に現れないことです。

 心の汚れとは、欲をはる、悪意、怒り、妬み、偽善、冷酷、嫉妬、物惜しみ、偽りだます、裏切り、頑固、性急、慢る、たかぶる、怠慢などとお経にあります。

 私たちもこうした自分中心の間違った心が日々の生活の中で少しでもなくなり、ちょっとしたことで顔を出すことのない様に、常に明るく心穏やかに大らかに、他に対しては慈しみの心で自然に接したいものです。

 こうした混乱のない心の静まった安らぎの生活が本来の求められるべき幸せとは言えないでしょうか。・・・次ページへ続く。(小冊子「ダンマサーラ」第13号より)

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