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◎仏教というライフスタイル2◎ [平成8年(96)3月記] 前回はお釈迦様が初めて説法されたときの話をいたしました。お釈迦様がそのとき語られた<4つの聖なる真実>のうち初めの3つについて、簡単に説明してみました。 一つ目は<この世を見よ>ということで、私たち一人一人があらゆることに批判的によく物事を見ていくことの必要性を説いています。特に自分の行いや心の中の現実をよく観察して下さい。それは決して楽しいこと喜ばしいことばかりではないということ。 つまり自分の思い通りばかりにはいかず、悩み多いこの現実の姿を見つめ受け入れていく必要性を説かれました。しかし、それを受け入れることはそう簡単なことではありません。なぜならそうした現実を受け入れ難くしている心があるからです。 そこで<なぜ悩むのか>ということについて、お釈迦様は、快いこと、楽しいことばかりに心を向かわせる心の癖、それは欲の心であり、欲によって生き、欲に翻弄されている自分に、世の中に気づき、その欲を滅していく必要があると説かれました。 そして本当の<幸せとは何か>、それはそうした欲を始めとした心の汚れに右往左往している今の自分を知り、心の汚れを滅していきつつ、混乱のない、心静かな安らぎの生活こそが求めるべきものなのだということなのです。 <4.『どう生きるか』> (インド・ラージギール郊外の農家) たとえば新しく会社に就職したり、希望の学校に入学できたとしても、日を追うごとに現実とのギャップに、こんなはずではなかったと思う人は多いはずです。頑張って夢にまで見ていたところへ入ったとたんに幻滅を味わい興ざめしてしまうこともよくあります。 こうした時に不満を会社や学校など自分以外のもののせいにすることなく、自分の問題として冷静に捉えていく必要があります。いったん嫌になると嫌な面ばかりが目につき、一面的に見て判断を下しがちになります。 しかし様々な角度からもう一度眺めてみることによって自分の置かれた状況をよく知り、そして満たされない思いの原因が自分の勝手な思い込みにあること、現実とは自分の思い通りではなく、そう立派なものでもきれいなものでもない、しかしこの社会にあって全く価値のない物などあるはずはなく、そのことに自分が気づけなかったのだと知る必要があります。 回りのものに美しい上等なものばかり、自分に都合の良いことばかりを求めているから憤り不満が募るのだと知り、それはまったく身勝手な自分の欲のせいだったのだと自分の心を見つめていく必要があります。 さらに回りのすべてのお蔭で自分が今あることも知らねばなりません。そして自分が抱いてきたイメージを捨てて現実の中で自分を見つめ、何を自分は学ぶべきなのかと洞察することをせずに、会社や学校をいくら取り替えてもその人の悩みは繰り返すばかりではないでしょうか。 私たちはこうした問題について、人のことではその通り考えが甘いんだよ、と簡単に 言ってしまえるものです。しかし自分の今抱えている問題や悩みについては盲目となり、実はその根は、この例と大して変わらないのだということになかなか気づかないものです。 自分という思いに対する執着が心の目を 曇らせているのです。冷静に自分の心を知ること、このことこそ最も大切なことであり、仏教の命題でもあります。自分の様々な心の動きや、無意識の行為の中に深層で働く心を見ていくと、普段気づかない弱い自分、愚かな、醜い自分をも知ることができます。名誉なことやほめられることがあっても、自分を知る人は常に謙虚な気持ちでいられます。 そうして段々と自分の心が分かってくると、人の気持ちも分かり、誰のことも怒ったり非難したりなどできなくなります。また、自分だけよければいいという思いもなくなり、やさしい気持ちがもてるのです。 神戸の震災の折り、罹災証明をもらうために何時間も列をなして並んだ人達が文句ひとつ言われなかったというのも、それはその当時の皆さんが一番つらい大変な気持ちを身に沁みて分かっておられたからではなかったでしょうか。 そこで次に、こうして自分の心を知り、本来の幸福を得るための方法論としてお釈迦様が教えて下さった生き方、<8つの偏らない生き方>について述べてみようと思います。 <偏らないとは> 偏らない生き方を述べる前に、偏った生き方とはどんなものなのでしょうか。お釈迦様の時代には、心の修行をする人は誰もが断食や呼吸を止めたりといった苦行に励んでいました。また一方では快楽に耽り、贅を尽くした生活に日々を費やす人たちもいました。その両極端の生き方をお釈迦様は批判され、自然にあるがままに生きつつ心を清らかにしていく道を説かれました。 そして中道といわれるこの生き方は今の時代にこそ、必要な教えでもあります。少し前に誰もが関心を持ったあのインドの行者が見せるように超能力を得んがために極端な節制をしたり、薬物の力を借りたり、特別な儀式が必要だと思ったり、またお金を積めば何か得られると考えてしまったり。そのような極端なやり方にこそ何かあると思ってしまいがちです。しかしこうした超能力や霊能を得られたとしても心の平安を得ることはできません。 また一方では、地球環境が日々破壊されつつあることを知りながら、物や電気、水道、ガスなどを使い放題使う生活をして、何の反省もしない人々。こうした自らの首を絞めつつあることに気づかない愚かな生活を送っている人は、結構まだ多いのではないでしょうか。いずれも極端な生活です。こうした両極端な生活を離れ、今いる生活環境の中で未来にわたり責任のある生き方を心がける必要があります。 物が豊富にある生活が幸せである、豊かであるという考えは、誤りであるとはだれもが知っていますが、小さな子供がかわいいからとなんでも言われた物を買い与えることも本人のためにはならないことです。心のふれあいを物の垣根がじゃまをするからです。 しかし分かっていても、ついこうしたことを私たちはしがちです。また、かわいいから叱らない、暴力はいけないから叩かない、ではかわいい子供は世の中でどう生きていいのか分からなくなってしまうのではないでしょうか。 絶対にこうすべきなのだとか、理想ばかりを追い求めてもその期待通りには結果は現れません。マニュアルがあれば安心、権威ある人の言葉は鵜呑みにするという人もあるようですが、マニュアルも人が作った物であり、書かれていないことも多く、たとえその通りの事例があったとしても、そのときの自分にとってそのままうまくいくとは限りません。 放任主義や管理主義といった極端に走らず、先入観や固定観念、いわゆる常識習慣に左右されずに、その場その時々に自ら最善の方法を行うことが偏らないということなのです。 それではこの8つの偏らない生き方の各論に入っていこうと思いますが、その8つとは次のような内容です。 <8つの偏らない生き方>(八正道)
<1.偏らない見方(正見)−生きるとは> (インド・ラージギールにて) |
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