インド仏教通信ナマステ・ブッダ[目次のページへ][私の履歴書]
[インドとの出会い][インド仏教見聞録][ベンガル仏教徒の歩み][仏教の話]
[仏教のルーツを知る][仏教余話[仏教書探訪][私の特選リンク][備後國分寺のページ]


仏教の話5

仏教というライフスタイル3◎
                                     [平成8年(96)4月記]

 前回は、お釈迦様の説かれた、<4つの聖なる真実>のうち、最後の<どう生きるか−8つの偏らない生き方>ということの具体的な内容に入り、<1.偏らない見方>について考えてみました。 

 私たちは皆、この世に身体を得て生きています。そして、古来からインドでは、この体の寿命が終わると心は体を離れ、それぞれの人生でなしたことなさなかったことに応じた来世がもたらされると信じられています。それまでに心に学んできたことの果報としての、生きることへの執着の内容に応じて、次の人生が私たちに与えられます。

 繰り返し繰り返し、こうして生きることによって、私たちは心の汚れを無くすために修行を続けていくのです。欲の心ばかりでこの人生を終えた人は、また同じ様に欲に取り巻かれた環境を選び、同じことを学ばねばならない人生を繰り返すことでしょう。

 また周りの人達と仲良くできないままにこの人生を終える人は再びそのことで苦しむ人生が待っているのです。ですから、私たちはそれぞれに与えられた生活の中から心を養いつつ、行いの果報を知り、徳のある行為を心がけ落ち着いた安らぎの中で生きることがのぞましいのです。

 <2.偏らない思惟−大切なものとは>
 そこで次に、何を大切に考えるかということについて述べてみようと思います。すでに極端な生き方を避けることを申しました。たとえば、この世の中を不浄なもの不快なものと捉えて、社会に不信感や敵愾心を抱きつつ生きることや、また逆にこの世は素敵なところ、自由に何をしても楽しければいいのだ、と思って生きることなど。

 このどちらも問題があることは分かると思います。しかし私たちはこの様に物事を二つに分けて判断し考えがちなのです。美しいとか醜いとか、善とか悪とか、快不快、よしあし、大きい小さいなどと。ですが、そもそも何もかもそう簡単に決めつけることができるものでしょうか。

 すべてのものが変化しつつあるのであり、美しく咲く桜の花もいずれは枯れ落ちるのと同じ様に、社会の様子も刻一刻変わりつつあります。詐欺や恐喝収賄といったものに手を染める人たちもあれば、慈善活動に励む人たちも多く、一概に社会がどうと判断などできるものではありません。また恐喝を繰り返していたような人でも改心して身障者のお世話をしているという人もいるかもしれません。
                               
 (インドの結婚式より)  
 また、やっとめぐり会えたフィアンセのことを理想の素敵な人と思っていたとしても、一緒に暮らしていくうちに意外な一面を発見するということもあるでしょう。こうした時、幻滅してすぐに行動に出る人もあるかもしれません。

 しかし、相手や自分のこれまでの人生の歩みや相手と自分が積み重ねてきたことに思い及ぶとき、そう簡単に意志を決することなど出来ないはずです。ですから、何でもその場の一面的な評価で即断するのではなく、そのすべてを捉えて考える。簡単に二つに分けてこれは良い、悪い、といった捉え方をしない様に、常にそれらを超えて考えていくことが大切です。

 また、普段私たちは頭の中で次から次へと連想をはたらかせ、考えることで自分の欲を増長してしまうことがよくあります。

 何とか家を新築できた人が初めは家具など古いままでいいではないかと思っていても、新聞にはさまった綺麗なチラシの写真を目にした途端に、ダイニングに置く机だけでも古いから買い替えようかと思い、新しい机を置いた様子を想像して、それだけでは収まらずその机に合った椅子が、テーブルクロスが、と次から次に欲しくなってしまいます。そしてそのお金を用立てするために借金をしてみたり。

 そこで、ある情報を手に入れたときに、それにどう思いを展開させていくのかが私たちにとって大きな分かれ目となります。たとえば、大麻などの売人がある街で捕まったという報道を耳にしたとします。

 そのとき、好奇心から、そうかあの辺りに行けば手に入るのか。いくらぐらいだろうか。やるとどうなるのだろうか。などと思い巡らすのではなく、そのようなものに手を出したときのとらわれた心、禍と苦しみ、その後の苦悩を思うとき、自分はそうした危険を冒すことのないよう、わずかでも心引かれることのないようにという思いに至らねばなりません。

 また、私たちは考える際にどうしても自分中心に考えるという癖があります。人の相談にのって、いろいろとアドバイスをするようなときでさえも、人の為にと言いながら自分の立場から自分に有利に物事を述べている人がよくあります。つまりは本人も気づかぬ間に自己中心の欲の心で考えているのです。

 この様に欲の心で考えることのない様に、自己中心に執われるあまり怒りの心で考えることのない様に、心が汚れない様に考えることが大切です。なぜなら、欲の心は際限なく、他者と比較して更に過剰な欲を引き出し、怒りの心は他を排除しようという力となり、自分ばかりか社会にも様々なトラブルを生じさせるからです。

 ですから、私たちは共に生きているということを知らねばならないのです。すでに述べた様に自分一人で生きている人などなく、すべての人やものがあるお蔭で私たちは存在している現実に目を向ける必要があります。

 今日、口にした食べ物がどれだけたくさんの国の人たちの手によって作られ、届けられたものなのかを考えただけでもそのことは分かります。そしてその食事を作ってくれたお母さんやそのために努力しているお父さんがいてくれるからこそ今があることを謙虚に思わねばなりません。

 ですから自分以外のものたちが良くあること、健やかであることは自分にも欠くことのできないことなのです。悪意を抱いたり、害するといったことのない様に、他者の存在を認め、ともにあること、ともに分かち合うことの喜びを知らねばならないのです。

 自分も、回りにいてくれる身近な人達も、それにすべての生きとし生けるものが健やかに幸せであるように願うこと。困っている人には自然と手助けしたいという気持ちが沸き、人の喜ぶ顔に自分も幸せな気分を感じる。決して嫉妬や怒りの感情が湧くことのないように。こうした心は自分という小さな心に鎧を着せているのだと知るように心がけましょう。

 <3.偏らない発言−他との関係>
 そしてそうした他者との関係を育んでいくものとして言葉があります。何気ない単なる用件を話すような時でも、言葉の端々にその人の心の様子が現れます。電話の時には、特に声の様子、話すテンポ、話の聞き方によって相手の様子が分かるものです。

 言葉にはその人のその時々の心が反映されるものであり、又その言葉がその人の心を作るとも言えます。

 相手をののしったり、荒々しい言葉を語る人の心はやはり穏やかであるはずはなく、そうした言葉を語ることによって、更に自ら心を荒々しいものにして汚していくことになります。また相手の人を単に年齢や地位などの上下関係から命令口調でものを言ったり、また粗野な言葉づかいをするような人もよくあります が、やはりそうしたところに自分が人を何をもって評価しているか、ということが現れていると見ていく必要があります。

 逆にどこかのお偉いさん、などと表現されるような相手に対しては変にへりくだってみたり。誰に対しても、どんな人と話すときでも対等に、しかし丁寧に、私とあなたという普通の関係を基礎に話せばよいのだと思います。

 もちろん嘘や中傷など、人を害する言葉を語ってはいけないことは当然のことです。そうした言葉の災いが自分に返ってくることは小さな頃からの経験で誰もが知っていることでしょう。

 また、心にもなく余りにも上品な言葉で話したり、話すことは調子よく、誠に理想を述べていながら、その人の気持ちも行いも伴っていないということもあります。環境問題など口先ではああだこうだと言っておきなが ら、自分の家では無駄づかいの仕放題、排気ガスをまき散らす大きな車でしか外出しないという人も見かけます。

 こうしたことにならないように、話すことと行いや心が統一されていることも心穏やかに清らかに過ごす上で大切なことです。

 意識して、また無意識に思い考えているとき、私たちは当然のことながら言葉を使っています。ですから、その言葉がどのような言葉であるかによって、その人の心や人格を形成していくことになります。

 日頃から優しい丁寧な言葉づかいを心がけることが大切なのです。また言葉は相手に自分を知らしめる手段ではありますが、自分の存在を誇示するようなことなく、暖かい人間関係を育てる心の表現として語りたいものです。

 <4.偏らない行為−行いの意味>
 言葉がその人の心の現れであるのと同じ様に、行為によってもその人の心が分かります。何気なく、食器を洗ったり、掃除をしているようなときにも、心が落ち着かなかったり、いらいらしていたり、考え事をしているようなときには、雑な仕事になっていることがよくあります。

 そのような時にはお茶碗を落として割ってしまったり、掃除機を壁にぶつけてみたり。心が落ち着きその時の行いに心が向かっているならば丁寧な仕事ができ、静かに落ち着いてこなすことができるでしょう。このように何気なく行う日常の行為の中にその日その日の自分の心の落ち着きを見ていくことができます。

 急ぐ必要もないのに小走りで通りを渡っていたり。いつも挨拶している店のお兄さんに声もかけずに来ていたり。知らず知らずのうちに下を向いて歩いていたりと。はっきりと自分では気づかない心に左右されて、行いがいつもと違うことに思い当たることもあります。

 また、急いで何かを仕上げなければならず、気の急く時でも、逆にあわてずに一つ一つのことに集中して行うことで、次第に心が静まっていくこともあります。ざわついた都会の中にあっても、お寺などの空間に分け入り、静かに頭を床につけて礼拝をする時、自然と心が静まり、心洗われる思いをしたことがある方も多いことでしょう。自らの行いによって心が変化し、行いによって心が作られていくのです。

 急に降り出した雨に、近くの家の前に置かれた傘を拾ってさして来てしまったとしたならば、黙って悪いことをしてしまったな、返しに行こうかな、という気持ちになり、後悔の心が生まれます。また、誰でも小さい頃には、ミミズや蛙など小さな生き物をいたずらして死なせてしまったこともあると思いますが、子供心にもやはり動かなくなった生き物を見ていると心が痛むものです。

 つまり自らの善くない行為によって心が動揺し、後ろめたい気持ちになり、いつまでも後悔の心が残ることになります。そして、もしもこうした心によって悔いたり、恥じたりすることがなければ、一度踏みはずした行為が習い性となり、更なる悪い行為に走ることになってしまいます。

 子供が何か叱るべきことをしでかした時、悪いことは悪いとはっきり教えていくことが必要なのと同じ様に、大人も自らの法(ノリ)となるものを心にとどめておくことが必要です。そしてその法(ノリ)を超えることは自らのためにならず、苦痛をもたらすものであると知らねばなりません。

 小さなものでも生き物を殺したり、与えられていない物を取ったり、道徳に反した性行為を行ったり、我を忘れるような薬物や酒に溺れたり、賭け事をするなど。身体による悪といわれるこの様な行ないをせず、それが故に心を汚すことのない様に、卑屈な気持ちにならないように心がけねばなりません。

 行うことがみんなの利益となり楽を与える様な行為、して良かったと心澄やかに喜べる行為をなすことが必要なのです。

 なぜならば、前に述べた考えること、話すこと、そしてこの行うこと。つまり、心と口
と体による善い行いや悪い行いが、今の新しい自分を作りつつあるのであり、この世と次の世へと果報を導くものの一つであると知られるからなのです。

<5.偏らない生活−生活姿勢>
 一つ一つの行いの連続が日々の生活となり、その人の人生を形作っていきます。私たちはその人生の節目をどのような判断のもとに歩んできたのでしょうか。進学、就職、結婚など、これらの進路を選択するときにどの様に考え決めてきたのでしょうか。

 それらを、学歴、資格、企業ブランド、地位、安定、高収入などを獲得するための一つのステップと捉えて頑張っている人も多いことでしょう。それを見守る人々も自慢できる、世間体の良いところへ入ってくれることを願ってきたのではないかと思います。こうしたものに執われる人の心は、どのような状態に置かれているのでしょうか。

 昨年あたりから哲学書がよく売れ、自分探しという言葉が流布しています。自分が何者なのか、何をしたら良いのかと悩んでいる人が多いのです。今を生きる多くの人達が、自分が本当に何がしたいのか、自分にとって何が必要なのかが分からなくなっています。

 それには様々な要因があることでしょうが、小い頃から、将来の夢というこれらの幻想を追いかけてきた多くの人達が、最近の社会現象によって自分の足元の危うさに気づいたということなのではないでしょうか。

 このような幻想を追い続けている人達は、人を肩書きや権威、見てくれ、所得で評価する様になり、自分もその地位や権威を獲得するために何が必要かという目で物事を考え、周りを見て人の目を気にして判断するようになるのではないでしょうか。そして、本当は何が大切なことなのかが分からなくなってしまうのです。

 他と自分を比較し、競争し、他を押しのけて自分が、という心が芽生えていきます。そして、知らず知らずのうちにつまらぬプライドを振りかざし、おごりの心が現れ、また幻滅をも感じるようになります。優しい心は失われ、争いの心が成長します。

 そして多くの人達がこうした殺伐とした心を抱えつつ、一方ではつかの間の安らぎ、娯楽を求めているのではないでしょうか。しかし私達は、そうして生きることが、人生の大半を争いの心で生きていかねばならないという現実に気づかねばならないのです。

 今年、ある保険会社に就職を決めた方から、セールスの成績を上げて昇進するにはたくさんの同僚と競っていかないといけないのかしら? と聞かれました。その方の目的がはたしてどこにあるのか。単に昇進にあるのか。成績を上げて給料をたくさん欲しいのか。

 もしくは成績さえ上がれば何でもするというのではなく、契約して頂いたお客さんに心から喜んでいただくことを目標とし、そうしてたくさんの方と仕事を通じて知り合い、自分も学び、そのことにやりがいと楽しみを得ていく。そして社内にもそのことが良い影響となり、みんながいきいきと仕事に励む。そこまで進めばおそらく、その結果として肩書きが伴ってくるものなのではないでしょうか。またその肩書きに見合った力量も。

 人生とは競走することなのでしょうか。自己を実現するとは、地位や肩書きを獲得したり、高収入を得ることなのでしょうか。頭では誰もがそんなものじゃないと知っていながら、そうしたものに振り回されてはいないでしょうか。何かを得ようとか、何かになろうとするのではなく、自分のいまある、なすべきことをなせばよいのではないかと思います。

 そして、日々の生活の中の、その地道な過程に、他人のものではない唯一の尊い、自分自身の人生を知り、大切なものを学んでいくという姿勢が大事なことなのではないでしょうか。日々の生活に追われて、ゆとりのない、時計とにらめっこの毎日を過ごすことなく、生活を楽しみ、自分自身の歩みを観察できる余裕ある生活を心がけねばなりません。

 単に大きな所得を得られるからと、生き物や自然を破壊するような仕事に携わることなく。他の人の存在や富を搾取するような仕事や不品行な仕事を選ぶことなく。人体や環境に悪影響のある品物を作ったり商うことなく。仕事を通じて他の役にたち、人やものを養い育てる仕事に精進することです。そうしてなされる日々の生活が、そのまま清らかな心の基盤となるように励みたいものです。(ダンマサーラ第15号より)
  次ページに続く・・・
前ページへ仏教の話5次ページへ

      インド仏教通信ナマステ・ブッダ[目次のページへ][私の履歴書]
[インドとの出会い][インド仏教見聞録][ベンガル仏教徒の歩み][仏教の話]
[仏教のルーツを知る][仏教余話[仏教書探訪][私の特選リンク]備後國分寺のページ]