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仏教の話6

仏教というライフスタイル4
                              [平成8年(96)5月記]

 前回は<8つの偏らない生き方>のうち、<偏らない思惟・言葉・行為・生活>について述べてみました。日々の生活を送るとき、どのように考えたり、話したり、行うのがよいのかを仏教の立場から教えてくれているものです。

 日常おかしがちな事々について取り上げてもみましたが、これらは今すぐ全てを正しく行わねばならないというものではありません。私たちがそうして過ごすことが、自分にとっても、また回りの人々や生き物たち、また環境にも利益となるものであることを知り、心がけつつ生活していけばよいのだと思います。

 日々の生活の中で如何になすべきかと迷うとき、その手助けとなる指針がないならばとても心許ないことです。しかし、そうしたときのためにこそお釈迦様の教えがあることを知って欲しいのです。また社会の中で誰もがみんなと同じ方向に進まねばならないということもなく、それぞれの座標軸を自ら設定することが大切なことなのではないかと思います。

 そして、これらのことは分かっている、理解しているからそれでよいというものでもありません。分かっているつもりでも、実際にはその通りできないのが私たちの常なることであります。それぞれの人に応じて行う程度内容に違いもあり、誰もがこれらをどのように、どのような心で、実際の生活に生かしていくかが大事なことなのだと言えます。

 そして、こうして生活しつつ、更に自らの心を知る実践に進むのが、この次の<偏らない努力・気付き・集中>という段階になります。

 <6.偏らない努力−善と悪>
 努力すると言うとき、私たちはどのような意味でこの言葉を使っているのでしょうか。その多くの場合が、何か目標を定め、その目標の実現のために努力するということを意味しているように思います。勉強にしても、仕事にしても。たとえば、売り上げ目標に向かって、一丸となって目標の達成を、というように。

 私たちは誰もがこうして努力の連続の中で生活をしています。そして、頑張って下さい、と何気なく別れの挨拶にでも、つい口にしてしまいがちです。しっかり!、という簡単な励ましのつもりが、実はその人を追い立て、慌てさせ、落ち着かない日々を送らせているのかもしれません。

 今の状態よりも向上することを、より良い、豊かな、恵まれた生活を求めない人はありません。しかし、そうした思いが強ければ強いほど、つまり努力しなければいけない、と思ってしまう人ほど、先に目が行って不安になり、他人を眺め羨望するようにもなってしまいます。そして、それが故に、今の、その自分や生活に物足りなさや不満、無味乾燥な味気なさを感じてしまうのではないでしょうか。

 どうして私たちは今ないもの、今の自分以上のものを求めていくのでしょうか。遊び道具がたくさんそろっていても目にした新しいおもちゃを欲しがる子供のように、目先のものに心奪われてしまいます。

 お母さんがあそこにあるのはなあに、とおもちゃ箱の中身を指さすように、私たちは自分の持ち物に目を向ける必要があるのではないでしょうか。今の自分、素顔の自分を、実は私たちも見つめていないから、人のもの回りのものばかりがよいものであるかのように錯覚しているのではないかと思います。

 人のことはよく分かるけれども自分のやっていることやその心はそう簡単には知り得ないものです。今自分が得ている恵み、恩恵に気付かずに、回りの人々の華やかな部分を羨望したり、対外的に理想化した自分のイメージを守るために躍起になっている人も多いのではないかと思います。

 現実の自分自身をありのままに知り、そのまま受け入れ、今あることの恵みに気づくことによって、漠然と感じている不満や物足りなさは消えていくはずです。

 それでは、私たちはこうして自らを見つめつつ、どのようなことに精進努力すべきなのでしょうか。善いことに励むべきであることは当然のことと言えますが、そもそも、善と悪とはどう捉えたらよいのか。

 そのことについてお釈迦様は、行った後にそれを後悔したり、涙を流して泣きながらその結果に気付くような行いは悪であり、逆に、ある行為をなして、それを後悔せず、喜び嬉しくその結果を受けるとするならば、その行為は善であるといわれています。

 行ってすぐにその結果が現れるとは限りません。たとえば、ある企業が儲かるからと生命に危険のある製品を製造したとします。当初はそのことで利益をあげて喜んでいたとしても、その危険性破壊性が一度明るみに出れば、その企業の存続は危うくなって、逆に苦しみを味わうことになります。

 目先の利益に惑わされることなく、遠い将来に向けてよい結果、誰もが喜べる結果を導く行為が善ということのようです。自分のためでもあり、また広くみんなのためになる行いが善ということなのだと思います。

 とても簡単な定義ではありますが、実は私たちは何でも単純なことを複雑に難解にしてしまっているだけなのかもしれません。様々な社会問題も、みな一人一人の心の中から生じたものであり、その心もよくよく見つめてみるならば、一人の人の欲や怒りの心、自己への執着から起こっているものばかりなのではないでしょうか。

 欲得、つまり利潤や収益性だけで回りの人々や回りへの影響を配慮することなく物事を決めていたり、自己や自社の拡大優位ばかりを主張したり、将来に亙っての人々や環境への作用を考慮することなく、独善的な利益や権威を守るためになされていることが余りにも多いのではないでしょうか。

 また、魔がさすと言われるような、私だけは、これくらいのことは、みんなもしているからといった心の隙から生じる問題も多いことと思います。貪り、怒り、憎しみ、疑念、憤り、ねたみ、おごり・・・。私たちの心がこうした悪い心にとらわれることなく、自らの心がいつも浄らかな心であるよう気をつけていたいものです。

 <7.偏らない気づき−自分を知る>
 そこで、私たちは日常の生活の中で、自分のなすことや心の動きなどを自ら分かっているという必要があります。気が付いてみたら大声を出してどなり散らしていたというのではいけないのです。心落ち着かないのでお菓子を食べ出したら、いつの間にか全部食べていた。気がつくと一抱えもの買い物をしてしまっていた。

 別に人に迷惑をかけることではありませんが、後悔させられるものと言えます。ですから普段からこうした行為を促す心、落ち着かない不安定な心などを意識して見るように心がけていることが大切なのだと思います。

 ところで日頃、私たちは多くのことを習慣で行ってはいないでしょうか。たとえばお風呂の前にトイレに入り、また風呂から出てきたら歯を磨いてトイレに行き寝床に入るという習慣のある人は、本当に尿意を催してトイレに行くのではなく、惰性になってしまっていて気がつくとトイレのドアに手がいっている。

 そして、その間の行為の間心は別のところへさまよい、過去の出来事を思い出したり、未来を思い描いています。そして、行きたくもないのにトイレに入り、長時間出るまで待っているということもあるかもしれません。

 私たちの日常がこうした行為の連続であったならば、私たちは身体や自然、また身近な人からのメッセージを受け取ることもなく、人の話に聞き入ることもなく、常にその場に心がないということになります。

 もしそうであるならば、心からの感動、喜びに胸踊らせるということもできないのではないでしょうか。人から言われて、そうね感動的ね、と言ってしまってはいないでしょうか。本当に自分自身がそのものと対峙して感じ取り、心震わせることこそ、私たちに喜びや感動を味あわせてくれるものではないかと思います。そのためにこそ私たちは自分が主体となって、その時々の様々なことに気づいていることが大切なのです。

 普段から、「歩いています」「階段を上ります」「掃除します」と心の中で言葉で確認しつつ、身体の動きや感覚に気づき、そのときその時の心がどういう心なのか、どういう思いに影響されているのかと知るように心がけます。何かを見ているとき、作業をしているとき、衣服を着るとき、食べるときも飲むときも、立つとき坐るとき寝るとき、いつも今の自らの行いに意識を向けて観察しつつ、目覚めてあることが大切です。

 また、そうして行うときに体に感じる感覚、体の緊張、暑さ、寒さ、疲れ、空腹感、匂いなどにも。こうして何とか様々なことに気づきつつ生活する中で、怒りや欲、執着や恐れ、嫉妬や嫉み、悪意やおごり、頑なな心などが生じたときにその心の変化に自ら気づくこともできるようになります。そして、自ら気づくことでその心の力は弱まり、ずっと思い悩むということもなくなります。

 たとえば、誰かと待ち合わせをしていて、それを楽しみにしていたとします。出かける寸前に用事ができて行けなくなった、という相手からの電話が入ったとき、私たちの心はどうなるでしょうか。そのことを楽しみにしていればいるほど、ぽつんとつまらないむなしい自分がそこにいます。心の中で相手の身勝手さを責めてみたり、昔も同じ様なことがあったと思い出して怒ってみたりするかもしれません。そして、思い出し考えれば考えるほどつまらない怒りや憤りで頭の中が一杯になってしまいます。

 しかし、こうしたときにも、その電話によって作られた心にすぐに気づくことで、冷静にそのときの自分の心の変化を自ら知ることができるはずです。知ることによって心がしだいにおさまり穏やかになり、その次の時間をどう過ごそうかという方向に向かえるはずです。

 約束はあくまで約束であって確実なものではない現実。逆に予定していた以上に別の良いことが待っているかもしれません。すべてが変化していくという真実は自分の心も同じことなのです。不愉快に思うことを止めることができなくても、その心を瞬間に自らがはっきりと知ることでその心を終わらせることはできます。

 しかし、一度その心に気づいても、その思いを引きずり、すぐまた考え出してしまうかもしれません。そうした場合にも、続けてそのことに気づき、その思い考えていることの変化にも気づくようにすると、既に心静かになっている自分にも気づくことができると思います。

 不愉快な心によって勝手に考えをふくらませ、つまらない時間を過ごしたり、思い悩み続ける性格であるが故にそのストレスから体を壊すことのないように、自ら自分を観察するということを私たちは身につける必要があります。

 さらに、私たちは日常生活の上には現れない深層の心の中で滞っている思いに気づかされることもあります。お父さんと小さいころ別れ離れになってお坊さんになったある人が、数日後にいよいよ正式な出家の儀式にのぞむというとき、それまで一言も話にも上らなかったお父さんに手紙を書いて今の心境を伝えておこうと思い、手紙をしたため始めた途端に、とめども無く涙があふれ便箋を濡らし、書き換えても書き換えても書き出そうとすると涙があふれてきてしまったという人がありました。

 書き終えたのは結局書き出してから4時間も後のことだったといいます。お父さんに対する積年の思いが手紙を書くという行為によって心の表面に現れて、それまでのただお父さんを心の中で責めるだけだった身勝手な自分に気づき、素直になれて、ただ自分の父であるというだけのことに感謝することができたのだと語ってくれました。

 こうして積年の思い、深く沈んでいた心のわだかまりが解放されることで、心を耕し、自ら心を癒すことができたのだと思います。誰もがこうした表面に現れない過去の思いに心が影響されています。

 特別な行いや人に言われた言葉、状況がきっかけとなって、突然そうした心が見え隠れすることがあります。そうしたとき、その心に対して何の評価も判断もすることなく、素直にその時の心を観察していくとき、心の底でふつふつと訴え、求めているものを、私たちは自ら知ることができます。

 何か心に思い浮かんだこと、心にわだかまることについて考え続けていること、話をしているときの自分の心、何かをしているときの心の様子などを、自ら知ることでこれまでの惰性に流されていた心の習慣が修正されていきます。一喜一憂していた人も一つ一つのことに自ら気づくことで心落ち着き、自分を知り、物の見方捉え方も変わっていくものと思います。

<8.偏らない集中−心の安定>
 こうして自ら心の様子を知るよう心がけている人は、左右に触れる振り子がいずれ真下に止まるように、しだいに穏やかな心の安定を身につけていくことができます。何か一点に心を集中させ凝視するといったことがここでの集中ではありません。その時々の心に気がつくこと、自らを観察し続けていくことが心の落ち着きをもたらし、物事への集中力や洞察力を育んでいきます。

 そして、そのための手がかりとして、お釈迦様の時代でも多くの人たちが樹の下などで、瞑想に励まれた訳ですが、様々なストレスをかかえる現代に生きる私たちは、特に定期的に自分の内面に注意を向ける瞑想という時間を持つことが心と身体の健康のために必要だと言えます。特別なこと、難しいことと捉えることなく、理性的な人誰もがすべきことと捉え、ただ自分自身をリラックスさせる時間くらいに考えられるとよいと思います。

 朝でも夜でも、自分の生活の中で落ち着いた時間のもてる時と場所を選んで、まずは5分でも10分でも坐ってみることをお勧めします。香があれば焚いてみることも気持ちをあらためる意味でよいことです。手や顔を洗い、うがいをしてから、少し厚めの座布団を尻の部分に敷いて坐り、片足を一方の股にのせ、背筋を伸ばし、臍を少し前に押し出して、両手を腹の前で合わせてみましょう。

 肩に力が入らない様に、リラックスして前方をまっすぐ見てから目を閉じます。呼吸は腹式でお腹がふくらむときに息を吸い込み、音を立てない様に静かに鼻で行います。そして、まずは呼吸の出入りに意識を向けます。息の数を数える方法など様々なやり方がありますが、まずは呼吸する息の様子、長さ、皮膚の感覚を観察してみましょう。

 そうして、腹部のふくらむ様子、へこむ様子を観察し、その都度「ふくらむふくらむ」「へこむへこむ」と心の中で言葉で言って、観察していく様にいたします。

 10分20分と長く坐れる様になってくると、しだいにいつの間にか雑念が沸いて、あらぬ方向に心が遊ぶ様になりますが、そうした時にもその都度「思い出している」「考えている」と気づいて、また呼吸に、おなかのふくらみへこみに観察を向けていきます。長く坐り、足が痛くなれば、「痛み」と気づき、暑くなってきたら「暑い」と気づく。

 そうして身体や感覚、心の動きの一つ一つを細かく観察していきます。そして終えるときには、やはり「終わります」「目を開けます」「立ち上がります」と観察しつつ立ち上がって、少しその場を静かに歩きます。このときにも、歩くことの一つ一つの足の動きに気づきつつ行います。「右、上がる、運ぶ、降ろす」という様に。そして、それがそのまま歩く瞑想となるのですが、坐る前に少し歩いて心落ち着かせて瞑想するのも効果的です。

 このような時間を定期的にもてる様になると、日常生活の中でも心の変化に気づけるようになり、心は安定し、これまでと違う喜びや楽しみを感じる様になることでしょう。価値観が変化して、より精神的なもの、浄らかなもの、永遠なるもの、精神的なつながりに心ひかれるようになると思います。

(なお、この仏教の瞑想については、ある在日スリランカ長老より受けた教えを参考にさせていただきましたことを、ここに感謝を込めて申し添えておきたいと思います)次ページに続く・・・(ダンマサーラ第16号より)

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