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仏教の話7

◎仏教というライフスタイル5◎
   
                     [平成8年(96)6月記]



 前回は<偏らない努力・気づき・集中>という仏教の実践について簡単に述べてみました。日常の生活の中で、常に自らの心について知ろうと心がけることはとても難しいことだと思います。仕事もしなければならず、人と話もしなければならないとき、取り立ててその時々の自分の今の心はどうであろうかと注意を向けていることは実際問題としてそう簡単にできるものではありません。

 しかし、何か心に引っかかり、思い悩んでいるとき、また、何か気持ちが重く普段と違う自分に気づくとき。その思いがどういうところから発しているのかと冷静に観察し見ていくならば、何が心を掻き乱しているのか、どのような自分のこだわりや思いこみが原因していたのかを知ることができると思います。

 お寺のような静かな空間に心落ち着く時間を得られることもありましょう。大切なことは、人のことではなく自分はどうか、自らが自分を知ろうと心がけることです。そのことがこだわる心を癒し、軽快に生きる方向に知らず知らずのうちに向かわせてくれるはずです。そして、そのための具体的方策として、お釈迦様は私たちにこの偏らない生き方という実践を提示して下さっているのだと思います。

 そうして実践しつつ、お釈迦様の教えのすばらしさ、確かさ、ありがたさに自ら気づく
時、自然と、お釈迦様<仏宝>その教え<法宝>その教えの正しさを実証された僧団<僧宝>の三宝に対する帰依の心が芽生え、信となり、正しい規律ある生活がその実践のために何よりも大切なものになっていくのです。

 この連載に一区切りをつけるに当たり、お釈迦様が仏教の道徳観・倫理観として残された、<4つの清浄なる者の住まい(四梵住)>という教え、慈(ジ)・悲(ヒ)・喜(キ)・捨(シャ)について述べてみようと思います。

 日本では慈悲と言い習わしている教えですが、インドの言葉ではMetta・Khalna・Mudhita・Upekkaといい4つの心をその内容としています。そしてその意味も私たちがいだいているものとは少しばかり違いがあるのではないかと思います。

<1.慈・Metta−友情の心>
 日本で慈悲と言うとき、私たちはどんなことを連想するでしょうか。お慈悲を垂れるというように、なぜか立場の上の人が下のものに何かを恵んでやるといった観念が付属してはいないでしょうか。また情けをかける、哀れむといった意味合いもあります。また、楽を与えるのを慈、苦を除くのを悲とするといった説もあります。

 しかし、Mettaの意味するところは、自分の親友に対する友情の心のことです。すべての生きとし生けるものに自分の友、同胞という気持ちをもつことを表しています。友が幸福であることを望む気持ちをすべての人や生き物たちにいだく心がこの慈しみの心です。

 私は普通の人間で、あの人らは何々の団体の人です、というように私たちは何かと自分たちの縄張りを主張しがちです。また、何か住民運動をやる場合でも推進派と反対派というように一人一人の人という受け取り方ができず、レッテルを張り敵対してしまいがちです。

 そうした枠を越えて私たちは寛容な態度で相手を受け入れ、認め合うことが大切なのではないでしょうか。それぞれの人は自らのこれまでの行いによって今の人生を生きているのであり、その人の行いの果報はその本人が引き受けねばならないのですから。

 ところで、私たちは自分に対する態度と他人に対する態度とを分けられるものでしょうか。貧しい境遇にある人をさげすむ人は、裕福であるかどうかということに人を判断するものさしがあり、逆に自分よりも富める人に対しては羨望し自分を卑下することにつながります。

 つまりは、人をさげすむ人は自分をさげすむことになるのです。ですから、誰に対しても自分となんら変わるところのない、自分と同じ命を生きる人として接することが大切なのではないでしょうか。

 誰にとっても自分が最も愛すべきものなのであり、他の人にとってもそれは同じことなのだと知って、相手を害わず、誰をも軽んじることなく、逆に自分と同じ様に大切にすることが必要なのです。

 自分も身近な人たちも、そして生きとし生けるものにも、そうしたやさしい心を広げ、そのものたちの幸せを念じ願うことが、この慈しみの心なのです。

<2.悲・Khalna−抜苦の心>
 そして、この慈しみの心によって誰に対しても友情の心を育むと、それらが苦しみもだえているのを目にしたとき、自然と手助けしたい、救いたいという気持ちが芽生えます。

 阪神大震災のときに多くのボランティアが被災地に駆けつけ、何でも自分に出来ることをしたいという一心でなされた行動は、まさにこの抜苦の心の表れであったと言えます。 そのとき災難に遭われた気の毒な目にあった人たちを、何とか助けてあげたいという気持ちで来られた人もあったことでしょう。

 しかし、何日か避難所で過ごし、作業を手伝い、被災した人たちと語りあう中で、逆に自分自身が多くのことを教えられ、得ようと思っても得られない貴重な経験を積み、それぞれの人生に大きな礎となるものを得て帰られたのではないでしょうか。人のためにと思う行為が、そのまま自分のためであるという実感を得られたのではないかと思います。

 他の人に何かをさせていただいて、その人の喜ぶ笑顔、ありがとうという言葉に、逆に勇気づけられ感謝の気持ちが沸いてくるということもあります。何か出来ることをさせていただこうと思うとき、そのまま自分の至らなさ、無力さ、申し訳なさを実感することもあります。そうして自分自身と向き合いつつ、悩み悶える人たちの苦しみがなくなりますようにと願う心が生まれてくるのです。

<3.喜・Mudhita−共感する心>
 悲しみに打ち震えるときがあり、そして何か前進することに、また喜ばしいことに歓喜するとき、喜び幸せな気分をその人とともに味わうのが、ここでの共感する心です。人の幸せをねたんだり、嫉妬したりということはよくあることですが、この心はそれとは正反対の心といえます。

 先日、タイで出家された日本人のお坊さんが来られて、最近立派な活躍をしたり優秀な人に会うと、自分のできないことをしてくれていると思え、とてもたのもしく思えるのですよ、と話しておられました。以前は何で自分も同じ様にできないのだろうと思うこともあったということですが、正にこの、他の人とともに成功を喜び祝う共感する気持ちになられているのだと思えました。

 何度も述べているように一人一人それぞれのそれまでの行いに応じて、私たちは今を生きていることを思えば、人の幸せに嫉妬したり羨望の眼差しを向けるよりは、自分にはそれとは別の観点からの幸せや成功があり、喜びがあると知るべきなのではないでしょうか。

 人の成功は成功としてともに喜び、それと同じことを自分に求める必要などありません。それぞれ幸せに思う内容も違えば、生き方も違い、それぞれの幸せや成功を一緒に喜べることが自分と他人を認め、受け入れているということになるのだと思います。そして身近な人や自国の人たちの成功ばかりでなく、自分との関わりの薄い人たちの喜びにも共感することが大切になります。

<4.捨・Upekka−平静な心>
 阪神大震災の折に、心のケアーという被災した人たちとの心のふれあいが重要視されました。私も避難所で多くの人たちから被災した状況や避難所での出来事についてお話を伺いました。それぞれの人の悲しみや苦悩に共感し、話し終っても頭から離れず思い続けてしまうあまり、ひどく疲労を感じたことがありました。

 日頃、私たちは人の話を聞きながら心の中で反発したり怒ったりしてはいないでしょうか。相手は何とも思っていないようなことにもプンプンと一人怒っていたり、テレビの言うことに怒ってみたりということもあるかもしれません。

 人の話すことに怒りを感じたり、とらわれていては常に自分が混乱して、落ち着かない日常を過ごさねばなりません。ですから、人の感情や言うことなすことに反応して自分の心が動揺することなく、私たちはどんな心で接してくる人とも冷静で平穏な心でいる様に心がける必要があります。

 また私たちは、誰か人を指図したい、自分の言う通りに動かしたいという気持ちをいだきがちではないでしょうか。何か自分がしたことや関わりに対する相手の評価報酬が気にいらないときなどにいらだち、何か言ってやりたいという気持ちになることもあります。

 何かをして周りの人たちにねぎらって欲しいと思うことは当然の感情といえますが、ここで述べる平静な心は、そうした行為の結果に対しても何も求めない無報酬の心でもあります。自分の身近にある人であればあるほどそうした気持ちになりがちですが、誰に対する自分の行為であっても、その評価には無執着無頓着であるというのが、この平静な心です。

 相手からの評価や賞賛を期待することなく、ただなすべきことをなすとき、心静まり本来の能力が発揮され、心満たされる喜びをも味わうことでしょう。

 以上、慈悲喜捨のこれら4つの心は、昔から母親の成長する子に対する心に例えて教えられています。

 要約すると、幼児に対してはその子の成育を見守り、病気になった子に対してはその病気の癒えることを、そして青年になってはその子の幸福を欲し、自活する子に対しては気遣うことなく傍観する心。この様に4つの母の子に対する心として捉えると、私たちには実践しやすいかもしれません。

 そして、慈悲喜捨の心を身近な人たちとの関係の中で実践していくことによって、怒りの心や他を妬んだり、不満に思う心、貪る心が解消され、ついには無上の幸福を実感するようになると教えられています。

 そしてその思いをより多くの生きとし生けるものたちに広げていくとき、誰ともとても自然な優しい友好関係を築くことができる様になり、すべての生き物とのつながりも実感することと思います。

 そして、すべてのものとの関わりの中で私たちが日々生きていることを真摯に受け止めるとき、自分ばかりを主張し、他を顧みず、自分のものばかりをふくらませていく日常にも気づかされます。

 自分自分、自分のものという観念が希薄になるとき、他のもののありがたさ、そして他のものたちの恩恵によっていまの自分があることに気づき、生きとし生けるものたちを、また亡くなられた人たちをも大切に思う気持ちが芽生えていくことでしょう。

 仏教のライフスタイルと題して5回にわたり連載してきましたが、お釈迦様の教えとは、こうして過去から未来に続く今の瞬間を生きる自分を自覚し、私とは何かを自ら知り、智恵を生じつつ送る、その浄らかな生活、そのものなのだと言えるのではないかと思います。(ダンマサーラ第17号より)
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