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インド・ベンガル仏教徒の葬法に学ぶ [平成9年(97)4月記] インドの仏教は、今日、スリランカやタイ、ミャンマーといった南方の仏教国と同じ上座部の仏教に属しています。従って日本の大乗仏教とは趣が異なりますが、人々の仏教に対する取り組みの違いが逆に私たちにはとても参考になるものと言えます。 私はカルカッタに本部のあるインドの仏教教団・ベンガル仏教会の一僧侶として、昨年(平成8年)8月までの3年余りの間、様々な儀式に出席させていただきました。その体験に基づいて、特にここでは葬送の儀礼を取り上げ、儀式の進行に沿って、現代インドの仏教の様子について紹介したいと思います。 1,臨終に際して 今日のインドでは、村の仏教徒の家でだれかが死に近づくと、自分たちが日頃礼拝に出かけたり、行事に参加しているお寺のお坊さんに、まずは家に来てもらいます。そして、その死の床にある人に対してパーリ語の日常唱えられているお経を唱えてもらいます。 このときお坊さんが着る袈裟などを布施して、生きている間の最後の功徳を積んでもらうこともあります。また、この際、読経の途中でもしも息を引き取るようなことがあれば、それはとても良いこと吉祥の印であると考えます。 日本のように病院にお坊さんが行くことさえ縁起でもないと考えるような人は、インドにはもちろん、おそらく他の仏教国にもいないはずです。お隣の韓国や台湾の国立病院には祈りのための仏間があり、そこには仏教僧が常駐しているということです。死に際にお坊さんがいることは逆に得難いこと、ありがたいことと考えます。(但し、町中ではお寺が離れていることが多く、今日このような臨終時のお参りが難しくなっています) 2,葬送の儀礼 〈遺体の荘厳〉 そして、亡くなると枕元には灯明がつけられ、白い布で覆われます。離れて住む親族にはすぐに知らせをやり、沐浴のためのぬるま湯が用意されます。亡くなったのが男性の場合は、男性だけで、女性の場合は女性だけで、石鹸や香の粉などを用いて遺体を浄めます。そして再度新しい白い布を体に巻きます。 それから、葬儀用に作られたベッドに寝かせ、お寺に運ばれます。数人の男性たちが担いでくることもあれば、トラックの荷台に乗せて運ばれることもあります。日本のようにお棺に入れることなく、ベッドに寝かされたままお寺の境内に安置されます。 そしてベッドの四隅と胸と足元には花輪が飾られ、両目には1ルピー銀貨が置かれます。また、線香が所々に立てられ、金属製の皿にはお米を供えます。こうした亡き人に対するお世話は日本のように葬儀屋さんと呼ぶような人たちがするのではなく、インドでは身内の人たちが自ら亡くなった人への最期の気持ちを込めてなされています。 〈@三帰依・五戒の授与〉 遺体の荘厳が調うと、お坊さんたちは、遺体が横たわるベットを挟んで地面に座る遺族たちに向かい合うように用意された椅子に腰掛けます。それから、遺族は僧団に対する礼拝文と、三帰依・五戒を授けてもらう懇請文をパーリ語で唱えます。 そこで、出席しているお坊さんたちの中の長老がそれにこたえて、三帰依と五戒を一語一語反復させながら授けます。 三帰依とは、下記の仏法僧の三宝を信じて依り所として生きることへの宣誓であり、仏教徒であることの条件とされています。 三宝とは、 【仏】仏教の開祖であり、教主としてのお釈迦様。世の中の苦しみやその苦しみが起こる原因を自ら知り、その苦しみから解放された涅槃とそこに導く道を知っている人のこと。 【法】そのお釈迦様によって説かれた教法であり、人々の現実の不安や苦悩を消滅し心 の安穏に向かわしめ、社会全体に最高の平安をもたらす教え。 【僧】お釈迦様の教えを守り、悟りを目指して修習し、人々に仏教の教えと実践を伝え る出家者の集まり。 そして、再度、在家信者の戒である【五戒】(@生き物を殺さないA与えられていないものを取らないB道徳に反した性行為をしないC嘘は言わないD酔いを生じさせる酒類は飲まない)を授かり、気持ちを新たに心を浄めます。 五戒とは、仏教徒である私たちが日常生活を送る際の心構えとなるものです。つまり、 @[不殺生]人間を特別な存在と捉えず、生きとし生けるものの生命を自らの命と同じように大切に考え、むやみに殺すことも、また人間のわがままによって捕獲し生き物の本来の生活を営む自由を制限することのないように、逆にいのちを育むように心がける。 A[不偸盗]物はどんなものでも地球の恵みから得られたものであり、単なる富の蓄積は清らかな生活には妨げとなることを知り、物を大切にその価値を無駄にすることのない様に少欲知足の生活を心がける。そして、特に自分に与えられていない物を取ることのない様に、また余りある物はそれらを社会全体の利益のために用いるようにする。 B[不邪淫]貞潔を犯すような性行為は様々な欲や執着を高じさせ、結局は多くの苦悩と問題を生じさせるものです。そのことを知って、総じて不誠実な行いは心を乱し、安らぎから遠ざかるものであると心得る。 C[不妄語]清らかな生活のためには周りの人々との健全な人間関係が不可欠であり、そのためには嘘偽りのない正直な言葉が必要です。心にもない美辞麗句や粗悪な言葉、人の悪口は自分自身の心を汚すものであると知り、相手を思いやる話し方を心がける。 D[不飲酒]酔いを生じ、心の働きを弱めるような酒類などは分別のない行為を惹起させるものと知り、慎むこと。起きている間は、常に今行っていることや自分の心に気付きつつ、放逸にならないように過ごすことを心がける。 これら在俗信者が守るべき5つの戒は、守ることで心清まり、問題を抱えることのない人生を送る礎となるものです。特に自分にとって守りにくいものについて一層心して生活することが求められています。 〈A無常の偈の読誦〉 三帰依・五戒を授け終わると、次に、肉体の束縛から離れ今生を去りゆく故人とその遺族に対して、お坊さんたちは全員で、下記の無常についての偈文を三遍唱えます。この世の中の移り変わり滅し行く真実の姿を唱え、故人にはこの世への執着を断ち切らせ、残されたものには悲しみに沈むことの無いように、この実践的な教えを唱えるのです。 (パーリ語偈文)無常偈:和訳 すべてのものは無常にして、生まれては消えていく。 再生しては、また滅していく。 この真実を知りて、心静まることこそ平安なり。 すべての衆生は死して後、再生しても、 また死を迎えるであろう。 この真実において、私は死して、ここに疑念なからん。 この世の中のすべてのものは生滅変化を繰り返しています。自然現象にしても、私たちの体や心にしても常に移ろい変化しています。こうした変化しつつあるものだからこそ私たちは生きているのであり、それが故に世の中のものは皆いずれは壊れる不完全なものばかりです。 そして、そのようなものに囲まれて生きる私たちは常に不満を感じています。好きなものはあり続けて欲しい、自分とって都合の良いもの心地よいものは永遠にあり続けて欲しいという思いは誰の心にもあります。そしてそれらのことが失われるときには計り知れない苦しみを私たちは味わいます。 しかしそれも無常だからこそ、いずれは去っていくものです。この苦しみ悩み多い執着の世界からの脱却、つまりこの世のありのままの真実を知り、自ら心のとらわれを滅して真の安らぎを目指すのが仏教の教えです。 そして、私たちのこの人生が、何回も死と再生を繰り返す輪廻という長い時間の一瞬として、今この世に体をもって存在していること。その果てしない輪廻の束縛から、お釈迦様のように心を浄め、すべての苦しみから解放されることが私たちの生きる目的なのです。 そしてこの死を迎えることはその無常の営みの一つの現れとして、私たちの真の平安を迎える一過程であることを平静に受け入れていくことを教えられています。 お釈迦様も自らの80年の人生を閉じようとするとき、それまで長年付き添ってきたアーナンダ長老がわが師の余命幾ばくもないことを嘆き悲しんでいるのを知り、お釈迦様は、 「アーナンダーよ。悲しむな、嘆くな。私はかつて説いたではないか、すべての愛するもの好むものからも別れ離れ異なるに至ることを。すべては生じ存在し作られ破壊されるものであるのに、それが破壊されないようにということがどうしてありえようか。そのようなことわりは存在しない」 このように説かれ、この世の中のことをすべてを知り尽くされたお釈迦様でさえ、そのからだの老い衰え死を迎えるというこの無常の真実を身をもって教えられました。 〈B法話と水による儀礼〉 そして次に簡単な法話があり、続いて下記の功徳を随喜する偈文を長老のお坊さんが唱え、その声に反復し一語づつ遺族たちも唱えます。 この間に遺族の代表は水の入った水差しから大きなお盆にゆっくりと水を注ぎます。この偈文を唱えて故人が生前になした善行の功徳が、あたかもその水が下に滴り落ち盆を満たすように、故人のもとにやってきて来世での安楽がもたらされるよう願い祈るのです。 (パーリ語偈文)功徳随喜の偈:和訳 この布施の結果として私たち親族のものたちに繁栄あれ、幸福あれ。 (三遍) どこか高いところにとどまり、雲の雨降らす水が下に降り注ぐように この施しの結果が、亡き者にもたらされますよう。 十分な水の河の流れが海を満たすように、 この施しの結果が、亡き者を満たしますよう。 私たちによってこれまでの行いの功徳が集められますよう。 私たちによって今まで蓄えられた功徳を、 すべての神々よ、すべての者達よ、すべての生き物たちよ、随喜せよ、 諸々の得られたるものが完成するために。 天と地に住する大神変の神々と龍たちよ、私たちのこの功徳を随喜して お釈迦様の教え、説かれしものを久しく護持せよ。私を護り給え。 この功徳ある行いによりて、私が愚かな者とまみゆることなかれ。 涅槃に到達するまで、善き人々が集まり来ることを。 この善の威力によりて私たちに、すべての苦しみ、病い、悲しみ、恐れ、 禍い、障りが消え去りますよう。 私たちにすべての善行とよい思惟が訪れますよう。 私たちにすべての幸福と成功がもたらされますよう。 インドでは、功徳を積むという言い方をよくいたします。困っている人を助けたり、貧しい人や布施で生きている修行者に物やお金を施す善行による功徳を積んでいくことで、来世に幸福が得られると考えられています。ここでは故人のなしたそうした善い行いの功徳が今ここに明らかにされて、来世に善いところに生まれ幸福に暮らせるよう願われるものです。 布施の善行は、施すことによって、良く思われたい、見返りを求めるといった欲の心を増長することなく、逆にその行いによって自分自身のもっと欲しいという欲の気持ちを抑え、より多くの他の人に分かち与えることの喜びを教えてくれるものです。 善い行いをして相手の喜びに共感し、心からそのことに満足できるように施すことが大切です。葬儀の場面では、一層純真な心で故人に代わり布施をする事により、その功徳を故人に手向け、来世での幸福を願うのです。 この功徳を随喜する水による儀礼が済むと、寺内での儀礼は終了し、施主が遺族や知人を伴って火葬場に遺体を運びます。火葬場に着くと、火葬用の薪と火の用意をして、その上に死体を置きます。そして、樟脳、線香、白檀など良い香りのものと一緒に薪に火をつけます。 偉大なまたは非常に有名な人の場合、残った骨を名誉の意味で保存しますが、ふつうは墓を作らず河や海に流されたり、森や林に埋められます。 ここまでが仏教徒が亡くなってから火葬までの、つまり日本でいう葬式にあたりますが、その内容は以上のように誠に簡潔であることが分かります。 3,サンガダーン(初七日の法要) (カルカッタ郊外の村で行われたサンガダーンにて) そして、亡くなってから七日目に初七日の法事があり、これを最も盛大に行います。それは、インドでは亡くなって7日後に、肉体を離れた魂が新しい来世での誕生を迎えるとされているからです。 そのためこの法事は必ず6日目か7日目に行われることになっています。その後は6ヶ月目、一年目にも同様に盛大な法事を行います。その間の月命日や2年目以降は祥月命日に一人か二人のお坊さんを家に招き食事を供養する事になっています。が、地域によって、また喪主の経済状況によって様々な場合があるということです。 この七日目の法事はサンガ・ダーン(僧団への施し)と呼ばれ、その遺族がお寺の少なくとも5人以上のお坊さんたちを招待し施しをして、その功徳を故人に手向けることを意味しています。 当日は、喪主やその兄弟たちは剃髪し、白い伝統服に身を包み、家にお坊さんたちを招くか、もしくはお寺に出向き自ら会場の準備を行います。早朝から昼食を作り出し、会場にはカーペットを敷いたり、故人の写真を置き花輪や香を供えます。また、その近くに大きな金属製の盆と水を入れた水差しも用意しておきます。さらに、その日施される料理や品物もお坊さんたちの座る席の前にすべて並べておきます。 午前11時過ぎ、儀式の後すぐに食事が出来るように準備が整うと、一段高い壇上に壁を背にして一列にお坊さんたちは着席します。それに対面するように遺族は床に座り合掌し、お坊さんたちに対して礼拝します。そして、下記の次第に従って法事が行われます。 [サンガ・ダーンの次第] (遺族はまず僧団に対して礼拝文を唱え、三帰依・五戒の授与を懇請する) @礼拝文(長老の発声に続いて遺族が唱える) A三帰依・五戒の授与(長老の唱える言葉を反復し授けられる) B僧団による読経(日常生活の中で慈悲を実践することを説くお経など10分程度の読経がなされる) C法話(布施の功徳、欲を離れた生活の大切さなどについて) D水による儀礼(長老が功徳随喜の偈文を唱える間、施主は水差しの水を少しづつ盆に注ぐ) E僧団への食事の供養、並びに品物の施し 儀礼が済むとその場でお坊さんたちにご馳走がもてなされ、白い布、傘、針と糸、石鹸、ろうそく、ペンや鉛筆、歯磨きなどといった日常に必要な生活用品、それに50ルピー程度のお布施が施されます。 こうした布施の行為は、単にお金を施すばかりでなく、自ら心を込めて作った料理を主人が給仕をしてもてなす。その無心の行いが功徳となり、亡くなった故人の功徳として手向けられます。 さらに故人が生前に積んだ善行がみなここで明らかにされて、来世での幸福、さらには繰り返される輪廻の中にあって、より善いところへ生まれ変わり、最終的には解脱を果たすことが出来るように願うというものです。そして、その生前に培った功徳は故人本人のためばかりでなしに、この世にある生きとし生けるものたちが安らかな幸せを得られるよう願うのです。 それからお坊さんたちに食べてもらった食事と同じものを大皿に盛りつけ、お坊さんからお供えするための偈文を唱えてもらい、故人の写真の前に供えます。遺族たちは法事を終えてお坊さんたちをお送りした後に、近所の人たちとともに食事をすることになっています。 また、供養された料理のすべてを少しづつひとつの葉の上に盛りつけ、近くの広場にもって行き動物たちに与えたり、出来るだけ無力無能の苦しみの中にある孤児や障害者たちに施しをすることも勧めています。 私もカルカッタの本部僧院にいるとき、こうした法事に何度となく出席しましたが、少なくとも5人から、多い時で16人ものお坊さんたちを招き供養する法事もありました。 4,インド仏教に学ぶ そもそもインドに起こった仏教は、本来こうした在家信者のための葬式や結婚式など通過儀礼は行いませんでした。お釈迦様の入滅に際してもバラモン僧によって荼毘に付されたとしています。しかし、今日どの仏教国もすべて儀礼を通して仏教がその国の人々に浸透し信仰されています。 私はこれまで、日本の仏教が葬式仏教であるとの誹りから、生きている人のための仏教を模索すべきであると考え、かえってご祈願ご祈祷を行うことが今を生きる人々を導く仏教の役割と捉えておりました。 しかしここで述べたように、インドの様々な儀礼に参加し、インドのお坊さんたちが僧としての威厳を保ちつつも、日頃誠に心安く信者たちと語り合う姿を目の当たりにして、葬儀や家に招待されて食事をいただく供養の際にこそ、人々に心を説く機会としうるものではないかと思うようになりました。 今日のインドで行われている仏教による葬送の儀礼は、仏教徒としてまず礼拝文、三帰依文を唱え、五戒を授かり、僧侶の唱える経文を聞き、その実践の一つとして布施の善行をして、その功徳を故人に手向けるというものです。 ここで大切なことは、葬儀やその後の法事も含め、それらを葬儀屋さんやお坊さんに一任してしまうのではなく、遺族自らが主体として行っていくということです。儀式の場で、遺族が三帰依・五戒を守るという道徳的な生活に精進することを自ら声を出して誓うことによって、故人が安心してこの世に対する執着をなくし、来世を生きる上においても心にとどめるように導くのです。 インドでは亡くなった人の、その人生でなしたことなさなかったことが来世での生まれを決定すると教えられています。従って、この世でいかに生きるかが正に大切なのであり、そのためにお釈迦様が教えて下さった教えに基づいて生きることが私たちに求められているのです。 そのため戒名という死後のための名前を特別に付けることもなく、当然の事ながら死を以て成仏するという言い方もなされていません。 身近な人が亡くなると誰もが深い悲しみや寂しさ虚脱感に襲われます。そのとき、ここで述べてきたようにその一つ一つの儀礼の意味を知り、お坊さんの唱える言葉に合わせ、同じ心で念じることにより、思いが果たされ、身近な人の死を事実として受容していく心が整えられるのではないかと思います。 また身近な人の死は日常の社会生活から離れ、誰もがものを考える時間を得ます。そのときこそ私たちにとって、人の死に肌で触れ、命あることの尊さを感じ、生きていることのありがたさを学び、かついかに生きなければならないかということを考えさせられる機会なのではないでしょうか。 人の命が軽く扱われているかに見える昨今、我が国においても、すべてをお坊さんや葬儀屋さんにお任せするのではなく、自ら関わり、子供たちにとっても命の荘厳さを感じとれる儀式を創造していく必要があるのではないかと思います。(大法輪平成9年10月号掲載) 参考文献:Bauddha caryya paddhati(Bhadanta Bodhananda mahasthavir著) Bharatiya bauddha samiti Contemporary Buddhism in Bangladesh(Sukomal Chaudhuri著) Atisha memorial publishing society |
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