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仏教の話 10



               地元寺院での法話
   仏教とは何だろう


                       [平成十六年四月十五日]


 
今日は、○○寺様のお涅槃法要そして土砂加持法要にあたり、皆様の前でお話をさせていただくご縁を頂戴し誠に有り難いことだと感謝いたしております。

 こうして沢山の人にお話が出来ますこと、正に坊主冥利に尽きるものでもありますし、それが本来の私たちの仕事ではないかと考えておるところでありまして、それに見合うお話をしなければならない、大変な重責を担っているとも云うことができるのではないかと思っています。

 ところで、私は、今ご紹介に預かりましたように、この備後には五年前に来たところでありますが、元々皆さんと同じように普通の家に生まれまして、つまりお寺の生まれでもなく、大学も経済学部を卒業しましたが、その間に仏教書に出会いまして、縁あって高野山に行き坊さんになってしまったという訳なのです。

 それで多分そうした私の坊さんになった経緯も関係していると思いますが、仏教とは何だろう、という問いをずっと引きずっておりまして、その後インドに行って聖地を歩いてみたり向こうの坊さんにもなってみたり、またまた四国を歩いてみたりしまして、こうして備後の国にやってきて国分寺の住職にさせていただきましても、なお未だに、その仏教とは何かという疑問をいつも自分の中で持っています。

 それで今日は、その私の問いを皆さんにも少しお分けしてみたい、つまり皆さんにも少しそのことを考えていただいたらどうかと思っている訳なのです。

 ところで今日は、涅槃会と土砂加持法会をなさるわけですが、それは何の為なのでしょうか。何をこの坊さんほざいているんだい、ご先祖のため、過去精霊の供養の為に決まっているじゃないか、と皆さん思っておられるかと思います。その通りなのだと思います。

 つまり仏教とは死後の救済を司る宗教であるということ、仏教とは宗教である。これは確かなことであるようですね。世界の三大宗教と言えば、キリスト教、イスラム教、それに仏教と言われるわけですから、宗教ですよね。

 ですが、ご先祖様皆さん亡くなられたときにお葬儀をしているわけですが、それではそのお葬儀とはどのような意味があるのでしょうか。俗に引導を渡すと云われるように、引導作法という儀礼をその中で行うのですが、皆さんどなたも亡くなれば立派な戒名をいただかれるわけですよね。

 戒名とはつまり戒律を受けた証としての名前のことですから、その儀礼では戒律を授けられる、そしてその前に三帰依をするのですが、この三帰依とは仏教徒としての資格となるもので、つまり仏教徒として戒を守ってしっかり来世でも生きて下さい。そしてさらに心の修行をしてお釈迦様のような悟りを目指して生きて下さいと引導するのがお葬儀の眼目と云うことになります。そうですよね。

 そう言いますと、死ねば成仏するのじゃなかったの、とお思いの方もあるかもしれません。真宗じゃ極楽に行けるというのにどうしたことかとお考えの方もあるかもしれません。誰でもが死んで成仏する、ないし極楽に行けるという考えは理想論と言えるかもしれません。

 どんな生き方をしてきても、関係なく死ねば成仏するという考えは、勉強もしないのに受験すれば誰でも東大に入れるというのに等しいのではないかと思うんですね。立候補すれば誰でも総理大臣になれるというのと同じです。

 やはりその人の努力、立派な生き方をされた方は良いところに生まれ変わる。人を害するような生き方ばかりしてきた人にはその報いがあるという自業自得というのが仏教の基本にあります。

 つまり残された遺族親族には身近な人の死によって生きるということ、いかに生きなければいけないのかということを考えさせる意味合いというのが葬儀にはあると思うのです。仏教とは人生哲学、ないし倫理道徳であると言うことも出来るのではないか、ということです。

 「仏前勤行次第」にも十善戒というのがありますが、これは本来の名前を十善業道と言って、決して何かをしなければ良いという意味合いのものではありません。つまり、善い生き方とはこういう事ですと教え、奨励する教えです。

 たとえば不殺生戒、生き物を殺すべからずということですが、これは殺さなければいいということではなくて、殺生の正反対にあたる慈悲の心、生き物を慈しみ育むことを教えるものです。

 不偸盗戒は、盗みをしなければ良いというのではなくて、自分のものを分かち与えることを教えている教えです。

 また不邪淫戒は、余所の人といい仲にならなければ良いというものではなくて、生きる上で必要な欲ではありますが、満足することを知らねばならないということ、つまり小欲知足の教えですね。

 不妄語戒は嘘を言わなければいいということではなしに、真実を必要なときに語るべきことを教えています。

 このように仏教とは、倫理道徳哲学でもあるということですね。

 それから、私この土地にまいりましてからテレビを見ておりましたら、今アメリカの方では医学の最前線で、具体的にはガンの末期治療になんと仏教の瞑想が取り入れられまして既に処方され効果を上げているのだということを紹介しておりましてびっくりしたんですね。

 何にびっくりしたかと申しますと、アメリカという国の貪欲さと云いますか、キリスト教の国なのにしっかり仏教の核心の部分を吸収してしまっているということにです。私たち日本人は仏教の国のはずなのにその核心の部分を認識せずにいる、お経を唱えてはいるけれども本当の一番美味しいところを味わっているのかと云われると怪しいところがある。

 それなのに既にアメリカの方ではそれを学問としても確立し医学にまで応用してしまっている。これはすさまじいことだと言っても過言ではない。遅ればせながら私たちの身近にも直にアメリカ経由でその恩恵に浴せるときが来る。それまで待つことになりそうなのが誠に口惜しいという気持ちで一杯です。

 それはどんなことかと云えば、心経の中にも「苦集滅道」とあり、これはお釈迦様が初めて説法されたときの教えで、四聖諦ということですよね。そのの中身は八正道といって八つの中道の教え。その八つとは、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定であり、その中の正念と云うところが重要なのです。

 正念というのは正しく気づくということで、今ここにある自分の行い心、その一つ一つに意識がきちんとあるということを意味しています。どういう事かと云いますと、私たちは今のこの瞬間瞬間にどれだけ集中しているかと云うこと。心が散漫にならずに私の話を聞きながら、たとえば帰ったら何しようかとか、早く終わらないかなとかという余計な雑念の中に無意識のうちに心が浮遊してはいないか、今その時にその場にきちんと意識があるかどうかということなのです。

 なぜこんな事が大切かと云えば、私たちは何か心に深く引っかかること、後悔すること、何であんなことしてしまったのか、何であんなこと云われなきゃいけないのというようなことがあるといつまでも心に引っかかって昔の嫌なことまで思い出して、この嫌なことばかりが思い出され心がふさがってしまう。心ばかりか食欲もなくなり、夜も眠れないということになってしまう。

 それでも楽天的な人、私のようにすぐ忘れてしまうような人は三日もすればそんな思いもどっかに行ってしまいますが、いつまでもその思いを引きずってしまう人、皆さんの周りにもおられるのではないですか。そういう人がさらにさらにストレスを抱えて身体が思うように動かない何でもないのに家からも出たくないというようになってしまう。そのはてはガンを患うということにもなっていきます。

 そこで、仏教の瞑想法であるこの正念をしっかりやっていますと、たとえば歩く瞑想というのがありますが、今今の現実だけに意識があるわけですから、過ぎ去った過去の嫌なことなんかに心が惑わされることがなくなってしまう。学校行くのもやだな、会社に行ってあの人に会うのが嫌だなという未来の不安や恐れにも心が囚われることがなくなってしまう。

 今だけが大事になってくるのですから。ですから仏教では過去をおうなかれ未来を思うなかれと教えられています。そうしていると自分というものがしっかり見えてくる、自分が分かれば周りのことも分かってくる。そして坦々と生きる、心がしっかりしてくれば身体も癒されていくと云うことになります、さらに幸せを実感できる。仏教というのはそういう教えです。

 ですから仏教というのは医学でもあると言うことが出来ますし、さらには、人生の総合学であるということも云えるのではないかと思うんですね。

 そこでそれではお釈迦様は私たち在家の人たちにはどんなことを教えられたのかということを最後にお話ししますと、お釈迦様が悟りを開かれて初めての説法をサールナートと云うところでしました。そこはベナレスという大都市の郊外にある修行者の集まる所で、そこで五人の修行者を悟らせてから一人お釈迦様が木陰で瞑想しておりますと、その近くをベナレスの良家の子息ヤサという青年が歩いてくる。

 そのヤサは、乾季と雨季と冬季の三季に別々の家を与えられるほどの誠に恵まれた贅を尽くした生活に空しさを感じて郊外を彷徨って来てお釈迦様に会う、そのときお釈迦様が教えられたのが施論・戒論・生天論という有名な教えです。

 当時のインドで贅沢な生活に空しさを感じ、また人生の目標も失ってしまっていたこのヤサという青年は、正に今の日本の若者たちと同じような悩みを抱えていたと云うことも出来ると思うのです。

 それでこの施論戒論生天論ですが、自分のことばかりでなく周りの人や困っているものたちに施しをしなさい、これが施論で、自分の周りのことに目を向けてみなさいと云うことでしょうか。

 そうして五戒にあるような正しい生活習慣を身につけなさい、これが戒論で、何事も自分の行い如何が大切なのだと云うことでしょうか。

 そうして功徳を積めば来世で必ず天界に生まれ変わることが出来ますよというのが生天論です。

 つまり善いことをすればよい報いがある、悪いことをすれば苦しみがつきまとうということ、これは業論と云うことも出来ますが、何事にも因縁があり業となり結果する、その結果がまた因となり縁を伴って業となり果を生じると云うこと。

 簡単に言えば、些細なことでも行いに責任を持たねばならないしその責任は自分が引き受けなければならないということを教えられているのだと思います。逆に言えば、きちんと道徳的な生活をし、徳を積んでいれば安心して死を迎えることが出来るということになります。

 こういう事をお釈迦様は教えられたのです。

 それでは本当に最後に最も簡単に仏教とは何か。

 漢文では、諸悪莫作・衆善奉行・自淨其意・是諸仏教といいます。

 インドの方の言葉では、
  サッバパーパッサアカラナン、クサラッサウパサンパダー、
  サチッタパリヨーダパナン、エータンブッダーナサーサナン。
 法句経という短いお経の中にあります。

 諸々の悪をなさず、善い行いを為すこと、そして自らの心を浄めること、これこそが諸々の仏陀の教えであるという意味です。

 私たち衆生のことをインドの言葉ではサッタと言いまして、サッタとは執着する者という意味です。そして執着せる私たちが住む世界は娑婆などと言いますが、娑婆はサハーと云いまして、サハーとは忍耐を強いられるところのこと。

 つまり私たちはもって生まれてその初めから生きることに執着し忍耐を強いられている、その中で何とか善いことをして悪いことはせずに徳を積んで心を浄めていくことを教えているのが仏教であるということになりましょうか。

 仏教とは何か、私にとりましてはまだまだ問い続けていくことになりますが、今日のところは取り敢えず、仏教とは、人生の全般にかかわる教えであり、善いことをして心を浄めれば安心して死を迎えられると教えられている、とだけ申しまして、今日のお話を終えたいと存じます。

 皆さん仏教というのはとても素晴らしい教えです。どうか単に儀礼としてだけでなく、興味をもって学んで欲しい、残りの人生何をしようかという人がもしあるなら仏教を学ぶことを是非お勧めしたいと思います。

 長々とくどい話にお付き合いをいただきまして誠に有り難う御座いました。この法話に幾ばくかの功徳があり、それを皆様が聞いて下さり、私自身がわずかでも徳を積むことが出来ましたならば幸いで御座います。有り難う御座いました。

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