cinema / 『ビヨンドtheシー〜夢見るように歌えば〜』

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ビヨンドtheシー〜夢見るように歌えば〜
原題:“Beyond the Sea” / 監督・製作:ケヴィン・スペイシー / 脚本:ルイス・コリック、ケヴィン・スペイシー / 製作:アンディ・パターソン / 撮影監督:エドゥアルド・セラ,ASC,AFC / 美術:アンドリュー・ローズ / 編集:トレヴァー・ウェイト / 衣装:ルイス・マイヤーズ / 振り付け:ロブ・アシュフォード / 音楽プロデュース:フィル・ラモーン / 音楽監督:ジョン・ウィルソン / 演奏:ケヴィン・スペイシー&ジョン・ウィルソン・オーケストラ / 出演:ケヴィン・スペイシー、ケイト・ボスワース、ジョン・グッドマン、ボブ・ホスキンス、ブレンダ・ブレッシン、グレタ・スカッキ、キャロライン・アーロン、ピーター・シンコッティ、ウィリアム・ウルリッチ / 配給:GAGA Communications G CINEMA
2004年イギリス・ドイツ合作 / 上映時間:1時間58分 / 日本語字幕:風間綾平
2005年02月26日日本公開
公式サイト : http://www.gaga.ne.jp/beyondthesea/
シネスイッチ銀座にて初見(2005/03/01)

[粗筋]
 七歳の頃、ウォルデン・ロバート・カソット(ウィリアム・ウルリッチ)はリウマチ熱に起因する心臓疾患のために、十五歳まで生きられない、という診断を受けた。絶望する我が子を気遣った母ポリー(ブレンダ・ブレッシン)と義理の兄チャーリー・カソット・マフィア(ボブ・ホスキンス)は彼のためにアップライト・ピアノをプレゼントする。大きな夢を持っていれば死という絶望に屈することはない――その励ましは現実のものとなった。音楽という楽しみに没頭し情熱を注いだ少年は告知された十五という年をあっさりと乗り越え、優れた音楽家に成長した。いつかあのフランク・シナトラを超えるエンターテイナーになる、という夢を母に託されて、ブロンクスを飛び出しニューヨークへと移り住んだ。
 高校時代からのバンド仲間リチャード“ディック”・バーク(ピーター・シンコッティ)、マネージャーのスティーヴ・ブラウナー(ジョン・グッドマン)、そして付き人として影から支えたチャーリーとともに安いナイトクラブを渡り歩くが、なかなか芽が出ない。芸名を持つことが常識だった当時、彼は中華街の壊れたネオンライトに天啓を得て、名前を変えることに決めた――ボビー・ダーリン(ケヴィン・スペイシー)の誕生である。
 間もなくレコード会社との契約を成立させたが、すぐにヒットには結びつかなかった。いささか薄くなりはじめた頭部を気にしてカツラを着けはじめ、やがて臨んだレコーディングの場で勢いに任せて二十分で書き上げた曲“Splish Splash”が突破口となった。大ヒットとなったこの曲を契機にテレビでの出演も増加、ティーンから熱狂的に支持されるアーティストとなる。
 だが、そこは決してボビーが目標としていた地位ではなかった。ティーンのアイドルに甘んじず、やがてはシナトラを超えることを目標としていたボビーは、レコード会社側から当時隆盛だったロック路線の追求を受け入れず、幅広い世代から支持されるスタンダードへの道を選ぶ。二枚目のアルバムは全曲スタンダード、その中でも『三文オペラ』からの引用“Mack the Knife”は驚異的なヒットとなり、ボビーの賭けは成功、二十代前半にして彼は時代の寵児となった――しかし、神はここで彼に皮肉な運命を齎した。成功の影で、それを最も喜ぶはずだった最愛の母ポリーは病に倒れ、還らぬ人となる。その亡骸に背を向けて、ボビーはステージに邁進するしかなかった――他ならぬ母の願いを叶えるために。
 間もなくボビーは演技の世界にも進出した。初めての大役を得た作品『九月になれば』の現場で、彼はサンドラ・ディー(ケイト・ボスワース)と共演する。当時まだ16歳、生真面目で、ショウビジネス界での指南役でもある母親メアリー・ドゥバン(グレタ・スカッキ)の庇護下、世間知らずだった彼女にボビーは惹かれ強烈にアプローチ、その年の暮れにはメアリーの反対を押し切って結婚に漕ぎつける。
 やがて彼はひとつの目標であった、シナトラも歌ったことのあるナイトクラブ・コパカバーナの舞台に立った。ステージ上から彼は、亡き母と愛する妻に向かって感謝の言葉を口にする。客席の暗がりで、名前を挙げなかった姉ニーナ(キャロライン・アーロン)が浮かべている表情の意味を知るのは、それから数年のちのこととなる……

[感想]
ライフ・イズ・コメディ!』のときも「またか」と呟いた覚えがある。今回も、だ。
 ハリウッドからアイディアが枯渇したと言われて久しい。娯楽路線を邁進し、一部の異端的な製作者を除いた誰もが派手なアクションとロマンス、ハッピーエンドに固執した結果、袋小路に追い詰められてしまった格好である。そんななかでアメリカの映画産業が活路を求めたのは『バニラ・スカイ』や『ザ・リング』『TAXI NY』などの海外作品のリメイクと、実在の人物をモチーフにしたドラマだ。『シービスケット』『僕はラジオ』のように、比較的堅実に実際の出来事を辿っていく正統的なものもあれば、アカデミー賞を獲得した『ビューティフル・マインド』や『ネバーランド』のようにフィクション的な味付けをして新しいドラマ性を付与したものもある。今年の第77回アカデミー賞ではその『ネバーランド』が五部門にノミネートされ一部門を獲得、他に『Ray/レイ』が主演男優賞を獲得し、ハワード・ヒューズの生涯を描いた『アビエイター』が最多タイの十一部門ノミネートののち今回最多五部門を得た。これらは製作者たちに実力と熱意とが備わっていればこその成果だろうが、翻ってそれだけ多くの実話ものが製作されるようになった如実な証左でもある。
 そうした伝記風映画のなかでも最も極端な手法が、『五線譜のラブレター』『ライフ・イズ・コメディ!』そして本編の採用したスタイルである。作中描かれる実在の人物の生き様を、同じ作中でフィクションのように捉える。そうすることで現実にあった生臭い側面や悲劇的な側面を覆い、エンタテインメントとして昇華する、という手法だ。そうすることで、描かれる主人公の人生そのものを、当人が生涯目指していた何かに近づけて捉え直すことを可能とする。対象となる人物に対する深い造詣と敬意とが監督や脚本家、主演俳優に備わっていなければ極めて難しい手法でもあり、翻ってこの手管を選んだ時点で作り手の真剣さの一端が窺える。
 とは言え、本編は『五線譜のラブレター』『ライフ・イズ・コメディ!』ほど徹底はしていない。ボビー・ダーリンの生涯のハイライトであるコパカバーナでの初ライヴの模様を自らが演じている、というシチュエーションで物語は始まり、ボビーが幼年時代の自分を演じる少年と自らの一生について語り合うという格好で進んでいく。そうしたアウトラインは一貫しているが、肝心の描き方が場面によって異なっている。ブロンクスからニューヨークへ移るところでは通行人をも巻き込んでのミュージカルに発展するが、極端にファンタジックな演出はここぐらい、あとは全篇でボビー=ケヴィン・スペイシーのナレーションが重なり、終盤でもう一ひねりあるくらいで、現実を虚構的に見せかけるやり口は一貫しない。そこが、コール・ポーターの一生を徹底的にミュージカルに仕立て上げてしまった『五線譜のラブレター』や、対象であるピーター・セラーズもかくやと思うほどの百面相ぶりでジェフリー・ラッシュが幻惑する『ライフ・イズ・コメディ!』に比べるといささか見劣りがする点だろう。
 また、全般にやや散漫とした印象があることも指摘したい。『五線譜のラブレター』では妻リンダとの一風変わった絆をメインに据え、『ライフ・イズ・コメディ!』では中身のない演技するための機械に等しかったセラーズを前面に押し出して一貫したテーマを主張していたが、本編にはそこまでのものがない。時代時代で目標は確かに存在するのだが、作品として一貫したものを明確に打ち出すことをしなかったので、気紛れに物語が右へ左へとふらついているように映るのだ。
 ただ、この“移り気”ぶりは、ボビー・ダーリンという人物をなるべく忠実に描こうとした現れであるようにも思う。当初は単純明快にシナトラを超えることを目指していたが、そのために進出した映画界でいきなり出逢ったサンドラ・ディーと恋に落ち、家族との時間を大事にしているあいだにナイトクラブ中心だったエンタテインメントの世界が大劇場に移行したために行き場を失い、やがて判明したある事実のために放浪ののち芸風を変える……といった具合に、よく眺めると周囲の状況にいいように流されていた気配がある彼を、なるべく偽らずに描こうとすれば多少焦点がぼやけるのは致し方なかったところだろう。寧ろコール・ポーターやピーター・セラーズのように生涯一貫していることのほうが異常だ。
 物語としてのテーマがぐらついている代わりに、いささかマニアックに過ぎた『五線譜のラブレター』『ライフ・イズ・コメディ!』と比較しても本編は格段に“エンタテインメント”として成り立っている。場面場面でユーモアを挿入することを忘れず、常に観客を楽しませることを旨とした本編は、はじめから終わりまでほとんど観客の気を逸らすことがない。テーマとして一貫させることよりも、ボビー・ダーリンが本領を発揮した“エンタテインメント”であることに誠実であろうとして、見事にそれを成し遂げたという趣だ。
 立役者は十年間この企画を温め続け、実現に当たっては製作・脚本・監督を兼任したうえ、主演俳優としてボビー・ダーリンの歌声をそのまま吹替として使用することなく自らの喉で歌い直し、更に随所でダンスまで披露したケヴィン・スペイシーであることは疑いを容れない。曲者俳優として演技に定評のある彼がその曲者っぷりを隅々にまで行き渡らせ、作品を愛情と熱意で埋め尽くしている。若くして薄くなった髪を補うためにカツラをつけていた、というのは恐らく実際のエピソードであろうが、それさえストレートに描いてみせたのには頭が下がる。
 また、描き方が散漫であるとは言え、一級の映画人であるケヴィン・スペイシーが監督しただけあって、場面場面の印象はいずれも強い。ミュージカル的な演出やステージでの見事なパフォーマンスは無論のこと、母との別離やサンドラに対する求愛のシーン、夫婦の微妙な心理の綾や我が子に対する語りかけなどなど、繋がりを忘れても記憶に残る場面が多いのだ。
 実は作中、最も象徴的な場面は冒頭のシークエンスにある。自伝映画の撮影を中断して、子供時代の自分を演じる少年と歓談するボビーを遠目に罵るスティーヴ、チャーリー、リチャードの三人に、近づいたスタッフも便乗する。だが途端に三人は不快な顔をして言う。「あいつはお前のクソ野郎じゃない、俺たちのクソ野郎だ」最後には声を揃えて、一緒に笑いさえする。ボビー・ダーリンという人間の傲慢さと同時に、親しい仲間たちを大事にし続けた彼の人間性を何よりも窺わせる印象深い一場面である。この場面が冒頭にあることが、作品全体を貫く“精神”をまず保証し、決して裏切ることがない。
 つまるところ、傲岸不遜な自信家で周囲を大して顧みることがなかったにも拘わらず憎めない人柄であり、何よりもどんな方向性を選んでも一級のエンタテイナーであり続けた彼の姿をある意味で忠実に描いた作品である。いろいろ難しいことを書いてしまった気がしますが、いざ見始めたらたぶんそんなことは忘れて、終わった頃にはすっきりしているはず。こういうのを、本当に面白い映画と言うのではないでしょか。

(2005/03/03)


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