Green happines : 01

 雪は過去が積もっている。一面の純白を目の当たりにしながら、ふと誰かがそんな事を言っていたのを思い出した。
 雲の中で発生した雪が、地上に到達してようやっと現在になるのだと。つまり雲が我々にとっての事象の発端であり、神たりえるのだと。誰だったか思い出せなくて鼻をすする。
 大気がうなり声をあげた。吹きすさぶ風雪で視界が覆われる。ゴーグルの溝にたまった雪を振り払っていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。顔をあげると、雪かき作業中に精を出していた先輩がいったん手を止めて、心配そうにこちらを伺っている。
「おーい、大丈夫かー?」
「……大丈夫です」
 いくら防寒具を身にまとい、安全装備を整えたとしても、氷点下の世界での肉体労働は過酷以外の何物ではない。おまけに見渡す限りの銀世界から現実感が失われ、意識が遠のきそうになる。
 雪。人が暮らす街中で見るそれは、ふわふわと羽が舞い落ちるようなかわいらしさを感じたが、この立地に降る雪はとんでもなく痛い。冷たいを通り越して痛いのである。やれ雪遊びだ雪だるまだ雪合戦だなどという情緒を発揮したら雪に埋もれて死んでしまうくらい、死と直結している。
 それが建物に降り積もる。いくら特殊な素材でできているとはいえ、雪が積もれば重みが発生する。建屋にそれがのしかかると、どこかしらに亀裂が入る。そうすると亀裂から建屋内の空気が漏れ、雪を溶かし、溶けた水がヒビに流れ込み、さらに亀裂が広がる。それゆえ雪は必ずとっぱらわなければならない。
 今年何度目かになるかわからない自動除雪機の故障。その負担を、こうして人力で解消するのはロクなものじゃない。多少の大型機材の投入はあれど、それでも建屋の縁は雪が落ちやすいよう斜面になっているので、大型機は行けない。となると安全帯を装着した我々技師班の出番となる。
 作業を終えた頃にはヘトヘトになっていて、息もすっかりあがり、汗もかいていた。だがここで暑いと上着を脱げば最後風邪を引く。なのでコンクリート丸出しの格納庫内にあるストーブを作業者で取り囲み、暖をとって体を落ち着かせてから本館へと戻った。ちょうどお昼時だったので、このまま食堂に向かうことになった。
 廊下を歩く最中、くう、とお腹が鳴って、先輩方に笑われて恥ずかしい思いをした。
「いいのよ。お腹が空くってのは、ちゃんと動いてる証拠なわけだし」
「ニヤニヤしながら言わないでください……」
 技師班の中では最年少なので、からかわれるのは仕方のないことだと思っている。けれどやっぱり恥ずかしい。
 お昼のピーク時のせいか、食堂はまばらに人が座っている。カルデアの職員は決まって制服なのでわかりやすいが、たまに鎧などを着込んだり、異様な薄着だったりする人はサーヴァントだ。そういう人との相席は極力避けたほうが良い。ともすればどこのテーブルにも誰かしら腰を落ち着かせているから、座れる箇所は少ない。
 急いで席を確保したほうが良いだろうという暗黙の了解から、足早にテーブルの間を抜ける。
 ――抜けたつもりだった。
 腰のあたりで何かが引っかかって、ガクッと引っ張られるようにしてバランスを崩してたたらを踏む。安全帯を装着したままだということを、この時の私はすっかり忘れていた。
 テーブルが移動する音が大きな音を立てて、食堂にいる人の視線を集める。嫌な予感がして振り返ると、安全帯のベルトがテーブルの角に引っかかっていた。班員の「なーにやってんだよ」という囃し立てるような声が遠くで聞こえるけれど、今はそっちに反応している場合ではない。
「すっ、すみませんすみませんっ! 大丈夫でしたか!?」
 引っかかった安全帯の紐を外しながら謝ると、席についている人が私の剣幕に合わせた様子でしきりに大丈夫であることを告げてきた。
「いえっ別に大丈夫ですよ! こっちはこぼれたとかないし! マシュも大丈夫だよね?」
「はい、大丈夫です。むしろ、そちらにお怪我はありませんか?」
 眼鏡をかけた女の子に尋ねられ、私はこくこくと頷いた。
「ないですないですっ。今テーブル戻します! 失礼しま……」
 ずれたテーブルを戻そうと手をかけて、
「……あっ」
 眼鏡の子の対面の席に、見覚えのある顔の人がいる事に気がついた。
「あっ!」
 それは彼も同じようで、顔を見合わせてお互いにとぼけた声をあげてしまう。
「このまえの。……藤丸くん」
「どうも、さん」
 ぺこっと頭を下げる。
「先輩、お知り合いですか?」
「えーと……この前ちょっとね」
 二人が会話をしている間に、テーブルを移動させる。傾いていないか、隣の机と見比べてから改めてこの席についている人を見ると、三人座っていた。藤丸くんの対面に眼鏡の子、藤丸くんの隣にこの前夜中に見かけたあの緑の人。
ー」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げる。班員がこっちだよとアピールするように手を振っている。席を確保してくれたらしい。気の利く先輩方で、私は嬉しい。尊敬するばかりだ。
「埋まったから別のとこ座ってくれー」
「えぇー……」
 ぬか喜びだった。
 遠目に見れば、オペレーター担当が一人席に混じっていて、なるほどなと思ってしまった。その対面に座っている先輩とは、いい関係になりそうなのだともっぱらの噂だった。そんな空気を邪魔するなんてもってのほかだ。馬に蹴られて死にたくない。
 キョロキョロと見回せばカウンター席が空いていた。とりあえず今はそこに座るしかない。
「あの、よかったらお隣どうですか?」
 すぐそばから声がした。眼鏡の子だと気づくのに、少し時間がかかった。
「えっ、いいんですか?」
「空いてますから」
 藤丸くんをちらっと見れば、うんうんと頷いている。
「あ……ありがとう!」
 断る理由はないので、好意に甘える事にした。お礼を言ってから、あたふたとカウンターに向かう。見知らぬ人と相席する奇妙な高揚感は、人間関係に動きのないカルデアでは久しぶりに感じるものだった。
 その日の昼食の献立はもう決まっているので、カウンターに行けば勝手に出してくれる。厨房によくいるサーヴァントのうちの一人、エミヤさんが差し出してくれたトレーを受け取る。今日のメニューはシチューとサラダとパン。冷えた場所にいた私からすれば、有り難い昼食だ。
「そそっかしい。元気なのは構わないが、移動する時は周囲に気を配るのを忘れないように」
「……すみません」
 さっきの一部始終を見られていたらしく、エミヤさんに静かに咎められた。注意してもらえるうちが華。忠告をしっかり心に留めつつ、飲み物を用意する。セルフなので、選択肢の幅はせまいけれど、好きなものが飲める。ジュースという気分ではなかったから、あったかい紅茶にした。大きなポットからマグカップに注いで、はちみつもいれてトレーに乗せる。それを落とさないように、そして安全帯をどこかに引っ掛けないよう慎重に歩きながら、藤丸くんたちのいるテーブルへと戻った。
 とりあえず、眼鏡の子の隣が空いていたので、そこに座ることにした。一旦食事を置いて、防寒具の上着を脱いで椅子にかけてから腰を下ろす。はぁ、と一息つくと、藤丸くんが声をかけてきた。
「随分着込んでるけど、まさか外に出たとか?」
「うん。屋根の除雪作業」
「えっと……人力で行ったんですか? 除雪機は?」
 眼鏡の子がこちらに顔を向けて、首をかしげながら尋ねてくる。
「それが故障したらしくて。手の開いてる人総出で」
「うわ……それって明日も?」
 藤丸くんが尋ねてくるので、首を振った。
「ううん、故障してもだいたい次の日には直るから。今日だけ」
 一度まばたきをして、眼鏡の子を見つめ返す。淡い色のショートボブ。前髪が少し長すぎるけれど、それがかえって似合っているこの女の子。見覚えがあるような気がする。というより、見覚えがないほうがおかしい。
「ええと……名前、マシュさんであってる? マシュ・キリエライトさん」
「そうですが……初対面ですよね?」
「はい、風の噂で知ってたというか。あっ、私はと言います。技師班所属です。よろしくおねがいします」
「は、はい。こちらこそよろしくおねがいします、さん」
 お互いに微笑み返して、それから料理に向きなおった。とりあえずあたたかいお茶に口をつけて、一口飲んでからシチューを口に運ぶ。いつも、安定した美味しい味だ。そのありがたみを噛み締めながら、ふと対面を見る。
 藤丸くんもマシュさんも私と同じようにトレーを置いているけど、緑の髪の人のところには、少し大きいマグカップのみがある。緑の髪の人はそれを手でくるむように持って、たまに口をつけて飲んでいる。
 この前夜中に見た時は薄暗くてぼんやりとした印象しか無かったけれど、こうして明るい所でよく見ると不気味なほど美人だった。美人すぎて困惑が先立つのは、たぶん人生で初めての感覚だ。所作が上品すぎるから、かえって作り物のように感じる。身じろぎをひとつもしてくれないと、出来の良いマネキンみたいで見ていて不安になる。なんならずっと動いていて欲しいと思うくらい。不気味だ。
「僕の顔に何かついていますか?」
 じろじろと不躾に見ていたのに気付いたようで、伏せていた目がそっとこっちを見る。
「あっ! なっ、なんでもないです。ええと、見惚れてたというか、そんな感じです!」
 慌てて取り繕うと、何故か斜向かいの藤丸くんがむせた。
「先輩っ!?」
「藤丸くん、大丈夫?」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
 対面の人は私から興味が失せたように視線を外し、藤丸くんのほうを伺っている。それからとんとんと背中をさすり始めた。その気遣う動作を見ていると、何故か人の心を持っているのだと失礼ながら感じてしまって、無性に安堵してしまった。食事を再開する。
 藤丸くんが落ち着くと、緑の髪の人はもとの姿勢に戻って、マグカップに口をつけた。ひとつも音を立てないその所作に、カップの中身が存在しているのか気になってしょうがない。
「あの、それだけでお腹空かないんですか?」
 結局尋ねてしまった。下がっていた視線が持ち上がって、こちらを捉える。
 薄暗いところではわからなかったけれど、この人、目も緑色だ。
「……はい。僕にはこれで十分なので」
 静かな声は不思議と耳にすんなり馴染んで、染み込んでくる。
「何飲んでるんですか?」
「白湯です」
「さゆ……お湯?」
 胃もたれか何かでもしてるんだろうか。それともとびきりの偏食家だとか?
 思わず首をかしげると、対面の人が目を細めてふっと微笑んだ。
「ああ、そうか。……僕はサーヴァントなので食事は必要ないんです」
「さーばんと」
 聞き覚えのある単語を復唱すると、対面の人が「そうです」と頷いた。
 目をしばたたかせていると、見かねた藤丸くんが説明してくれる。
 過去、はるか大昔に亡くなった英雄が人の手によって祀り上げられ、英霊と化し、それを使い魔として使役したものがサーヴァント。本来ならば過去存在した英霊を使い魔にすることは絶対にできないのだが、聖杯という謎のシステムによってそれが可能になり、このカルデアではそれを擬似的に再現しているのだという。食事が必要ない理由は、エーテルでてきているから、だそうだ。
 正直、未だによく理解できないけど、うんうんと頷いておいた。とりあえず、対面に座っている人にしろ、サーヴァントはすごい人なのだと覚えておけばよさそうだ。
「おおむねマスターの言う通りだよ。一応、僕も名乗っておこうか。エルキドゥという」
 エルキドゥという単語は、耳慣れない響きを持っていた。異国の人――といってもカルデアの職員は多国籍にわたるので異国の人は珍しくない。どこの国なのかはわからないけれど、同郷ではないことは確かだ。そして女性につける名前なのか、それとも男性につける名前なのかさえわからない。
 対面の人の外見は、少なくとも顔立ちを見る限りでは女性のように思える。けれど、マグカップを持つ手は骨ばっていて大きく、女性の手とは思えない。じゃあ女顔の男性かと言われると、肩幅は狭くてこじんまりとしてて、それも違うような気がした。なにせ、喉仏が存在しない。
「あの、不躾な質問をしてもいいですか?」
「不躾というなら、言の葉にせずしまっておくべきだと僕は思うのだけれどね。……まあ、いいよ。何かな?」
「その……女の人ですか? それとも、男の人?」
「なんだ、そんな事か。僕に性別はないよ」
「性別がない」
 変な事をしごく当たり前のように言うものだから、反芻して首を傾げてしまった。性別がない生き物なんて存在するのだろうか、と考え、思い当たる生物がいくつか存在することに気付き、案外存在するなと内心手を打つ。
「んんと、雌雄同体のようなもの?」
「違うよ、本当に性別がないのさ」
 納得しようと組み立てていた理論を崩される。よくわからなくなってきた。
 そんな困惑を察したのか、緑色の目を細めてふっと鼻で笑ってみせる。
「たとえば、単細胞生物だって性別がないだろう? あれみたいなものだと思ってもらえばいい」
 単細胞生物というと、ゾウリムシだとかアメーバだとか、そういう類のものになる。でも、そういう生物と対面の人がいまいち結びつかない。単細胞には見えない。
 今のやり取りをもってしても、困惑のほうが勝ってよく理解できない。それでも、きっとそのうち理解できるだろう。一抹の望みを未来の自分に託し、私はひとまず聞かなかった事にした。
「ええと、……エルキドゥさん、でいいですか?」
「好きなように呼んでくれて構わないよ。僕は頓着しないから」
 本当に頓着しないのだろうか。ふっと疑問が湧いてくる。もしもエルキドゥちゃんだとか、エルキドゥくんだとか呼んだらどうなるのか。興味が湧いたけれど、行動に移したら何が起こるかわからない。それに、好奇心は猫を殺すということわざもある。芽生えた疑問は食事と一緒に飲み込むことにした。