Green happines : 10

 連日のメンテナンス続きの日々。お昼の休憩時間と仕事が終わって夕食を食べる時間に、決まってエルキドゥさんが顔を見に来てくれるようになった。今回の大仕事の作業期間中は話をする機会が減ると思っていたのだけれど、意外にそうでもなかった。むしろ大変喜ばしいことに、エルキドゥさんと接する機会が今までより増えてしまった。
 たぶん、有言実行のつもりなのだと思う。そこが少しおかしい感じがするけれど、でも、すごく嬉しいのは確かだ。好きな人の顔を毎日見て、言葉を交わせる。こんな単純な事が、場合によってはとてつもない原動力になるのだという事をあらためて実感した。仕事のご褒美だと思えば自然とやる気が出てくるし、それゆえ作業もスムーズに運んで、ささやかなミスも日に日に減った。平常時の仕事をしている時よりも、足早に時間が過ぎていくのを感じる。
 自分自身の調子の良さがピークに達していると分かる今だからこそ、情けないことにエルキドゥさんに想いを伝えることが出来ないままでいた。告白に失敗したら私の今のテンションがガタ落ちするのが目に見えてわかる。そしたらあれよあれよという間に転落する他ない。
 もし気持ちを伝えるのであれば、今の作業がすべて終わってから。
 そう決めたのに、奇妙な焦燥感に煽られ、悩みを募らせる日々を過ごしていた。
「今の仕事は、1日の間でどのくらいの量を処理できるの?」
 食堂での夕食後、エルキドゥさんの観察するような視線を感じつつ火傷しそうなほど熱いココアを飲んでいると、エルキドゥさんが唐突に尋ねてきた。
「んんと……6分の1くらいでしょうか。ちなみに今日でようやっと6分の3が終わったところです」
「そうか。結構かかるんだね」
「建物1周分ぐるっとしますし、いろんな危険物をごちゃまぜにした設備ですからね」
 冷却に使用している液体窒素の取り扱いは免許が必要な場合もある。とはいえ、ここはカルデア。どこの国の法律にも左右されないので、無免の私が参加できるほど好き勝手やっているのは確かだ。その原因は人員が足りていないという事にもつながるのだけれど。
「僕も何か手伝えたらいいのだけれど。できないかな」
「できません。だめです」
「即答だね。……暇でしょうがないんだ。マスターは最近僕のことを使ってくれないし」
 そういえば、以前のように藤丸くんを筆頭に様々なサーヴァントと一緒にいるところを見たことがないような気がする。
「使ってもらえない心当たりとかあります?」
「悲しいことにね。僕は兵器としての機能は完璧なんだ。でも一極集中での攻撃には自信があるけれど、広範囲に散らばった敵の殲滅は苦手で……きっとそれが原因なのかなと思っているよ」
 そう語るエルキドゥさんは、ちょっとしょんぼりしている。
「何事も得手不得手があります。藤丸くんにとってエルキドゥさんは今、不得手の時期なんですよ」
「そうかな。僕は戦闘においては得手のつもりなのだけれど」
「じゃあ、向き不向きで。今は不向きでも、いつかきっと引く手あまたになる時期が来ますよ」
「そうだといいのだけれど」
「それにこっちは大変ですよ。寒いし、薄暗いし、ミスが発生したらこの施設の終わりですし、寒いし」
「二度も言うほど寒いんだね」
 エルキドゥさんがふふっと笑う。今のやり取りでちょっとは元気が出てくれるといいな。
 しばらく食堂でエルキドゥさんとおしゃべりをしていると、徐々に人がまばらになってきた。照明も夜間を考慮してほんの少し光度を落としたものに切り替わる。飲み終えたココアのカップをカウンターへ出し、いつものように食堂で別れようとした時だった。
「宿舎の区画入り口までついていってもいいかい?」
 一瞬、宿舎って人間用と英霊用どちらのかな、なんて悩んでしまった。
「ど、どうしてですか?」
「もう少し話がしたくて。……駄目かな?」
 尋ねながら小首を傾げてくる。そんな可愛い仕草を見せられると、断る気力が早々に白旗を上げてしまうから複雑だ。
「あの、サーヴァント用の宿舎とは別方向になっちゃいますよ?」
「構わないよ」
「それなら」
 頷いて了承すると、エルキドゥさんが微笑んだ。
 いつもは一人で歩いている時間なのに、エルキドゥさんと二人並んで歩いているというのが、何だかとってもこそばゆい。平常心を維持しようと思うけれど、いつもよりエルキドゥさんが近くにいるからどだい無理な話だった。
 歩く際に腕が触れないように気をつけながら、エルキドゥさんをちらっと見てみる。何が楽しいのか、口元は微笑んでいて、さらさら揺れる髪の毛は涼しげだ。見れば見るほど美人さんだ。見惚れていると、優しげで綺麗な目と視線がかち合ってしまった。慌てて視線をそらすと、ふっと笑う気配を感じた。このまま黙っていたら突っ込まれるかもしれない。何か話をして誤魔化さなければ。
「そういえばエルキドゥさんって最近、藤丸くんと一緒にいないですね」
「うん。マスターの補助役を外れたからね」
「え……えええっ!」
 驚きのあまり飛び退りそうになってしまった。エルキドゥさんは声を上げた私にびっくりしたふうに目を丸くしているけれど、やがて穏やかに微笑む表情に戻った。
「言っておくけれど、交替制だからね。この前はたまたま僕にお鉢が回ってきただけさ。それに、僕はこんな性質だから放って置いても大丈夫だと判断されたんだろう。期間も短かったと思う」
「そ、そうなんですか。……それってどうやって決めてるんでしょう? くじびき?」
「僕もよくは知らないな。でも、マスターも一人ばかり贔屓してられないから、満遍なく選んでいるとは思う」
 現時点でこのカルデアにいるサーヴァントは何名なのか。実数は知らないけれど、五体不満足のカルデア職員よりははるかに多いはずだ。
「皆に満遍なく気を配るって、すごく大変そう」
「そうだろうね」
「……もしかして、藤丸くんに放って置かれて、機嫌損ねちゃう人もいたりするんですか?」
「うん、いると思うよ」
 エルキドゥさんがあっさりと肯定する。
「本来サーヴァントはマスターと一対の関係にあるんだ。だからマスターに対してそういう振る舞いを求めてしまうサーヴァントは少なからずいるだろうね」
「へえぇ~」
 納得して、それから首を傾げた。
「エルキドゥさんには、そういうのってないんですか?」
「うん?」
「今の話を聞くに、マスターである藤丸くんを独り占めしたいってことですよね? そういうの」
 エルキドゥさんは視線を斜め上に向けて、少しの間考え込んでから。
「まあ、それが理想的ではあるけれど……今の所、彼にそこまでの執心は湧かないかな。僕は主である彼にいいように使役される兵器、それでいいんだよ」
 満足そうに言うけれど、聞いている私からすると、どこかさみしいものを感じてたまらなくなる。
「僕はもともと孤独に身を置く方が性に会っている。兵器として扱ってもらえれば、僕はそれだけでいいんだよ」
 エルキドゥさんは穏やかに微笑んでいる。その顔を見つめて、私はうんともすんとも言えず、視線を少し下げる事しかできなかった。
 兵器として扱って欲しいとエルキドゥさんは言う。最初の頃に話した時も、兵器として定義していると言っていた覚えがある。
 それじゃあ、私はどう接しているのだろう?
 孤独でいるのが性に合っているなら、話がしたいっていうのも、余計な気を使わせてしまっているんじゃないか? なんて後ろ向きな想像ばかりが膨らんでしまう。いたたまれなくなってきて俯いた。
 エルキドゥさんは無理をしていませんか?
 私はあなたに無理をさせていませんか?
 聞きたくても聞けない。そんな勇気がない。
 と、不意に頬を引っ張られた。痛くない程度につねられる。びっくりして跳ねるように顔を上げると、不満そうなエルキドゥさんの顔があった。さらにびっくりして足を止めると、エルキドゥさんもつられるように足を止めた。
「な、なにひゅるんですか」
 頬を引っ張られるせいで、変な声になってしまう。
「浮かない顔をしていたから。人の話はちゃんと聞いて?」
「ひゃい」
 大人しく返事をしたのにエルキドゥさんは離してくれない。むしろぐいぐい引っ張ってくる。そのままじーっと見透かすような目で見つめられ、無性に目をそらしたくてたまらなくなる。でもここでそらしたら後が怖いから、必死に我慢した。
「今のはマスターに対して。にではないよ」
 エルキドゥさんはそう言って指を離すと、今度はつねったところをくるくる撫で始める。ちょっとくすぐったい。
「だいたい、嫌ならここにはいないよ。が好きだからこうしてるんだ」
 息を呑む。硬直する私をよそに、
「恥ずかしいから二度は言わないからね」
 エルキドゥさんはそう付け加えた。まるで念押しするかのように頬を撫で、ゆっくりと手を下ろす。そしてフイっと顔をそらしてしまった。その横顔を見つめていると、じわじわと足元から熱が昇ってくるような錯覚に見舞われる。
 友好的に捉えてくれていた。嬉しい。勝手に勘違いしていた自分が馬鹿みたいだ。おまけにエルキドゥさんから言葉の飴をもらって、まんまと喜んでしまう自分はもの凄く単純なのかもしれない。
「ぁ……りがとうございます。お世辞でも、嬉しいです」
 頬の筋肉が勝手に緩むような気がして、うまく言葉がしゃべれない。なんとかかんとか言い終わると、いたたまれなくなってきて俯いた。
 貰った飴を噛み締めて喜びに浸っていたら、エルキドゥさんが身じろぎした。ようやく移動するのかと顔を上げると、瞬間、頬を思いっきり横に引っ張られた。
「いひゃいいひゃいっ」
「うん、さっきより強くつねってるからね」
 なんだろうこれ。理由がわからない。飴の次は鞭という事なのかな?
 エルキドゥさんの顔を見ると、眉間にしわが寄っていた。ものすごーく不満そうで、思わず身がすくむ。何か気に障るような事でもしてしまったんだろうか?
「あ……あの、……おこってます?」
「…………」
 エルキドゥさんは一瞬何か言おうと口を開きかけ、それからむっつり黙り込んでしまう。つねっている指の力を緩めてはくれたけど、離しはせずにじーっと見つめてくる。
 どことなく、もどかしそうな雰囲気。とりあえず、私に対して猛烈な不満を感じている事だけは伝わってきた。途端に平伏して謝りたい衝動に駆られるけれど、何が悪いのかわからない状態で謝るのはどうかと思った。それにきっとエルキドゥさんはそういうのを嫌がる人だ。
「な、何か粗相を働いただとか、不満な所があったら言って欲しいです」
 不満そうなエルキドゥさんが、しぶしぶと言った様子で口を開いた。
「どうして人の話をちゃんと聞いてくれないの?」
「き、聞いてますよ、ちゃんと」
 むっとして反論すると、エルキドゥさんの表情が不満を通り越してちょっと拗ねたふうに変化する。
「も、もしかして、聞いてませんでしたか」
 返事のかわりに頬をつねられる。痛い。じとーっと睨むように見つめられて、段々すわりが悪くなってきた。しかし目をそらそうとするとぐいぐい引っ張られるから目をそらすこともままならない。
「も、もう一回言ってもらうことは……」
 やっぱり聞いてないんじゃないか。エルキドゥさんはそう言いたげな目つきで、ほっぺを引っ張ってくる。
「……。二度は言わないって言ったから言わない」
 いじけたように言って、エルキドゥさんは目をそらしてしまった。一瞬心を抉られそうになったけれど、それよりもエルキドゥさんの今の発言に引っかかるものを感じた。聞き覚えのある言葉は、どうしようもなく嬉しさを感じた時のものだ。これを頼りに、記憶を必死に掘り起こす。
「んんと、嫌ならっていう話……?」
 エルキドゥさんの視線が私を捉えて、それからほっぺたをつねられる。
「そのあとだよ」
「……そのあと……?」
 言葉を催促するように、強弱をつけてつねられ続ける。というより、揉まれている。まるで私の頬の弾力性を確かめているみたいな優しい力加減。気が散らばりそうになるのを堪えながら、エルキドゥさんの言う『そのあと』について思案を巡らせる。
「……すき?」
 思い当たった瞬間、勝手に口から言葉が漏れていた。
 するとエルキドゥさんの手がピタッと止まって、それから頬を撫でられる。
「うん」
 くすぐったそうにエルキドゥさんが頷くから、私の方もなんだかくすぐったくなってきた。
「……お世辞でも、社交辞令でもないからね」
 ないから――つまり?
「ぁ、の……」
 ……すき? どういう意味での、すき?
 混乱してきた。思考が亀の歩みになって追いつかない。そのくせ足元から這い上ってくる熱は早い。その事に気付いたら、余計に熱がたまっていくように感じてくる。そんな私に追い打ちでもかけるかのように、エルキドゥさんが耳を撫でてくる。ひんやりとした手の温度差のおかげで、耳まで真っ赤になっていることに気付いてしまった。
 エルキドゥさんの顔を見ていられない。視線がゆるゆるとエルキドゥさんの胸元まで落ちてしまう。
「……困らせてしまったかな。……ごめんね」
 否定も肯定も出来ずに黙っていると、
「でも、が僕の事で困ってくれるのは嬉しいな。僕もの事で困ってる時、頭の中がでいっぱいだったから……今のも僕と同じだといいな」
 本当に嬉しそうにエルキドゥさんが言うものだから、余計に顔が見られなくなってしまった。
 エルキドゥさんの言う『困る』は、きっと悪い意味じゃない。気持ちが大きくなりすぎると、かえってその扱いに困ったりするもので、エルキドゥさんはその事を指しているのだと思う。
 好きが大きくなって、どうしたらいいのかわからなくて、困る。正直に言うと素直に伝える勇気もなくて困っていたし、エルキドゥが自分をどう思っているのかもわからなくて困っていた。八方塞がりで身動きの取れない私に、エルキドゥさんがこうして抜け道を示してくれている。
 そんな人に、どうしたらいいんだろう。
 エルキドゥさんと、私の気持ちが同じかどうかはわからない。でも、同じかどうか確認するには、気持ちを伝えるしかない。
 どう伝えたらいいのかわからない。でも、尻込みなんかしている場合じゃない。気持ちが逃げる前に、ちゃんと伝えなきゃ。
 視線を上げる。エルキドゥさんはどこか緊張した面持ちで、眼差しは不安げだ。今まで見たことのない表情に、面食らってしまった。そんな顔をしてほしくはなくて、迷った末に手を伸ばした。エルキドゥさんの頬を撫でた瞬間ビクッと肩が跳ねたけれど、構わず触れる。
「私も、エルキドゥさんとおんなじです」
「……本当?」
「はい。エルキドゥさんの事で、いっぱい困ってました」
 エルキドゥさんは目をしばたたかせる。やがてじわじわと口元に笑みのようなものが浮かび、不安そうな眼差しも穏やかな雰囲気に変化を遂げる。そして控えめな仕草で頬をすり寄せてくるから、なんだかもう、それを見ただけで幸せな気持ちになれた。
 きめ細やかなすべすべの肌を何度か撫でて手を下ろすと、エルキドゥさんの視線が名残惜しそうに追いかけてくる。でも、すぐに私の目をまっすぐに見つめてきた。
 何かを期待するような、それでいて懇願するような素直な視線を向けられ、逆らえるわけがなかった。
「私も、エルキドゥさんが好きです」
 言い終わると同時に、柔らかい衝撃が身体を襲った。エルキドゥさんに抱きしめられていると理解するのに、そう時間はかからなかった。エルキドゥさんが私の首元に顔を埋めるから、サラサラの冷たい髪の毛が首筋に触れて、少しくすぐったい。
 今までに感じたことのない奇妙な気恥ずかしさに五感が支配される。どうすることも出来なくてしばらくの間硬直していたけれど、エルキドゥさんの背中に手を回して抱きしめ返したら、じわじわと心があったかくなってきた。
 ゆったりした上着のせいでわからなかったけれど、エルキドゥさんは随分華奢な体つきをしている事に気付いた。女の人かと見紛うくらいの細さを持ち合わせていながら、それでも女性ではないというちぐはぐさに違和感が芽生えたけれど、その感情は嬉しさで上書きされてしまった。エルキドゥさんの肩におでこを擦り寄せると、エルキドゥさんがぎゅーっと抱きしめてくるから、ことさら嬉しくなる。
 くすぐったい気持ちが、だんだん心地よくなってきた。
 きっと、誰でもないエルキドゥさんにしてもらえるから、こんなに嬉しく感じるのかもしれない。おまけに抱擁なんて随分久しぶりの事だったから、あたたかさが胸に染み込んでくるような気がした。
 と、エルキドゥさんがパッと身体を離した。腕の中からあったかさが失われていく。
「誰か来たみたいだ。……移動しようか」
 エルキドゥさんは言い終わるなり不思議そうに私の顔を見つめて、顔をうつむかせた。
 つられて視線を下げると、私の右手がエルキドゥさんの服を掴んでいる。ぎょっとした。全然そんなつもりはなかったのに、無意識の内にやってしまったみたいだ。
「す、すみません」
 なんでこんな事をしてしまったのか。わけもわからず手を引っ込め胸元へ。しばしエルキドゥさんと見つめ合い、ゆるゆると手を下ろそうとしたところで、何故かその手をエルキドゥさんの手に掬い取られた。まるで逃すまいとするように、ぎゅっときつく握りしめられる。
「行こう」
 私が返事をする間もなくエルキドゥさんは歩き出す。手を引かれるままついていくしかない。
 特に何も会話がない。というより、途方も無い現実感の無さに、会話するまでに至れない。
 咄嗟に「好きです」と伝えたはいいけど、さっきの出来事は夢か幻覚だったんじゃないかというくらいに希薄だ。でも、エルキドゥさんの手を握ってみるとすぐに握り返してくれるから、かろうじて地に足がついている状態だった。
 私がエルキドゥさんの彼女になれたのか、まだうまく飲み込めない。
 エルキドゥさんが私の恋人になったという実感もなくて、足取りがふわふわとおぼつかないのがわかる。こんなの、今まで生きてきて初めての事だから、どうすればいいのかわからない。というか、こうやって想いを伝えあって、それから何をしたらいいんだろう? 普通の人ってこれからどうするの? まったくわからない。

 名前を呼ばれて顔を上げると、エルキドゥさんがこっちを見ていた。困ったように微笑んでいる。
「その……付き合うって、何をしたらいいのかな?」
「へっ」
「今のと僕は付き合ってるって事だろう? でも、さっきまでは付き合ってなかった」
「は、はい」
「その違いがよくわからないんだ」
 私が足を止めると、エルキドゥさんもつられるように足を止めた。
 あらためて言われてみると、ただでさえわからない私も拍車をかけてわからなくなってきた。期待するような眼差しから逃れるみたいに視線を下げると、繋いだ手が目に入る。
「あっ、手! 手つないでます!」
「それは付き合う前にもしたよ?」
「……あっ……」
 そういえばそうだった。二人してぶんぶん手を振って歩いたんだった。
 とりあえず、エルキドゥさんは変化を求めている。それはもちろん、私だってそうだ。付き合っているならそれらしい事をしてみたい。繋いだ手をじっと見て、それからエルキドゥさんを見上げる。
「エルキドゥさん、その、手の指を伸ばしてください」
「ええと……こうかな」
「はい、お上手です」
 エルキドゥさんの手のひらと、私の手のひらをぴったりくっつける。少し緊張する。
「上手も何も、誰だってこんなの普通に……」
 指と指の間に私の指を滑り込ませて――ぎゅっ。途端にエルキドゥさんは閉口して、視線を手元に落とした。二回ほどまばたきをして、それからエルキドゥさんも私とおんなじようにぎゅっと握り返してくれる。たったそれだけで、満ち足りた気持ちになってしまう。
「ど、どうですか?」
「うん。実感が湧いてきたよ」
 スマートな動作からは程遠い、だいぶ不自然な恋人繋ぎだったけれど、エルキドゥさんの口元が綻んでるからきっと成功だ。
「なんだか私も実感がぐんぐん湧いてきました」
「そんなに」
「えへへ。行きましょう」
 無性に照れくさいのを笑顔で誤魔化して、エルキドゥさんの手を引っ張って促す。私が足を踏み出すのとほぼ同じくして、エルキドゥさんも足を踏み出した。二人並んで歩く。
 少し前にもこうやって並んで歩いた覚えがあるけれど、でもあの時とはちょっと違う。指を絡めるように手を繋いでいなかったし、こんなに近くもなかった。エルキドゥさんの顔を横目に伺えば、何故か視線に気付いてエルキドゥさんも私を見返して、はにかむように微笑んだ。
「どうかした?」
「な、なんでもないです」
 勝手に頬が緩む感じがする。情けない顔になっている気がしたから正面に顔をそらすと、エルキドゥさんはそれ以上何も言ってこなかった。そのかわりに手をにぎにぎしてくるから、にぎにぎし返すと、かすかに笑う気配がした。ちょっと恥ずかしいけど、それ以上に嬉しくてたまらなくなる。
 たいした会話もないけれど、それでも好きな人とこうして手を繋いで並んで歩いているだけで、こんなに嬉しい気持ちになるんだという事を噛み締めているうちに、職員宿舎の区画入り口までたどり着いてしまった。
「ここだね」
「はい。今日はありがとうございました」
「ううん。僕がしたいって言い出した事だから……」
 お互いに手を離す。予感はしていたけれど、一抹の寂しさが湧き上がってきた。寂しくなるなら、無言で歩かずもっと喋ればよかったのにという後悔さえ芽生えてくる。
「明日もお昼か夕方には会えるかな?」
「作業が予定通りに進めば、おそらくは」
「そうか。僕もマスターに呼ばれない限りは、食堂に足を運ぶよ」
 そう言って、エルキドゥさんは微笑む。
、あのね……」
「はい」
 エルキドゥさんはどこか言いにくそうに視線をさまよわせ、やがて私をまっすぐに見つめて、言葉を絞り出すように喋り始めた。
「僕は自分からこうして誰かの事を好きになるのは少なくて、正直こういう事には慣れてないんだ。情けないけれど粗相を働く場面があるかもしれない。それでもいい?」
「いいです! 悪いわけがないです!」
 首を縦に振りながら二つ返事で押し通すと、エルキドゥさんは目を丸くした。
「私だって好きになるのは慣れてなくて……。だから、その……精一杯頑張るので、これからよろしくお願いします」
 しばらくの間をおいて。
「……うん。僕も頑張るから、僕の方こそよろしくね」
 エルキドゥさんはそう言って、本当に嬉しそうに微笑んだ。その顔を見ていると、嬉しさが伝播するみたいに私の頬も勝手に綻んでしまう。
「それじゃあ、おやすみ。また明日ね」
「は、はい。また明日」
 エルキドゥさんが足を踏み出す前に、一歩近づいて背伸びをする。嬉しかった分のお返しのつもりで頬に口づけた。衝動的な行為は一瞬で、あたふたしながら身を引いて跳ねるように距離を置く。たった一瞬の事だったのに、それだけで顔が熱くなるし、動悸が激しくなってしまった。
 エルキドゥさんを見ると、何が起きたのかわからない様子でぽかんとしている。やがてのろのろとした動作で自分の頬をおさえた。一見すると、まるでほっぺたに一撃を食らってしまった人みたいで、ちょっとおかしい。
「お、おやすみなさい!」
 なにか言われたら、たぶん死んでしまう。乱暴に手を振って、エルキドゥさんの反応も見ずに身体を反転させる。早鐘を打つ心臓よりも足早に部屋に駆け込んだ。
 昂ぶった気持ちを落ち着かせようと一度深呼吸すると同時に気が抜けてしまって、その場にへなへなとへたりこむ。立ち上がろうにも腰が抜けて立てない。
 唐突に降ってわいた状況は、こうして部屋に戻ってもやっぱりうまく飲み込めない。それでも体の奥底から広がってくる幸せは強烈だ。頭の中で今日の出来事をゆっくり振り返って整理していくうちに、自然と口元が緩んでしまう。部屋には誰も居ないのに、なんだか無性に気恥ずかしくなってきて、両手で口元を覆った。
「ううう……」
 思わず唸る。気を抜いたら笑いだしてしまいそうだった。
 明日から、どうしよう。どうしたらいいんだろう。エルキドゥさんと顔を合わせてまともに話せる自信がない。でも、こうして嬉しさを噛み締めていたら、どことなく大丈夫そうな気がしてきた。楽観的かもしれないけれど、こういう時の自己暗示に似た思い込みは大事だと思う。
 落ち着いたらシャワーを浴びてすぐに寝てしまおう。ドキドキしてすぐには寝付けないだろうけれど、それが一段落ついたらぐっすり眠れそうな気がする。
 そうして目が覚めたらきっと、今日とは違う素敵な明日になっているはずだ。

 どこか意識が定かではない様子でぼうっと佇んでいたエルキドゥだったが、肩を軽く叩かれハッと意識を引き戻した。隣を見ると、白衣を羽織った職員と思しき男が立っている。見たことのない人間にどう対応すべきか考えるも、思考がぼんやりしてうまく頭が回らない。
「職員用宿舎に何か用事でも?」
「……」
 用事、とエルキドゥは頭の中で復唱する。用事はあったし、もう済ませた。だからここにいる意味はない。理解しているはずのに、なかなか動けずにいた。この職員に対しても反応を返すことが出来ない。エルキドゥは自己分析を試みた結果、現代風に言えばリソースが足りない状態に陥っているのだと結論付けた。
「申し訳ないんだが、時間が時間だ。用事があるなら明日からにしてくれ。できれば、君のマスターである藤丸候補生を通してからのほうがスムーズに行くと思うよ」
 それじゃ、と付け足して職員は去っていった。
 エルキドゥはその背中を見送ってから、しばらくそこに佇み続け――やがてぽひゅっと煙を吐き出した。
 いつもの調子を取り戻すのにしばらく時間がかかったうえに、考え事に思考を費やしすぎたせいで部屋に戻るまで寄り道を重ねて遠回りしたのは、また別の話である。