Green happines : 03
ポケットから取り出したミサンガを見て、二人の目が輝いた。特にいいものでもないのに、ここまで嬉しそうにされると、どうしてか気が引けてしまう。無性に取り繕いたくなる気持ちをグッと堪えた。次に会う時に渡すとは言ったが、ほぼ口約束に過ぎない。いつ会えるのかもわからないまま、今朝、一応持ち歩いたほうがいいかなと、引き出しの奥にしまいっぱなしだったミサンガを数本手にとってポケットに突っ込み、部屋を出たのが幸いした。まさか昨日の今日で渡すことになるとは思わなかった。
食堂のテーブルに並べて、好きなのを選んでと伝えると、藤丸くんもマシュさんもすぐに手を伸ばして、ほぼ同じタイミングで手にとったのが面白かった。
「付ける時って、何かお願い事をするんでしたっけ」
「うん、そうです。といっても、私は何も願掛けとかしてないですし、そこらへんはまあ自由にどうぞ」
尋ねてきた藤丸くんにそう答えて、マシュさんに目を向ける。彼女は手のひらの上に乗せたミサンガを、大きな目をきらきらと輝かせながら、まじまじと眺めている。
話を聞くに、人工子宮で生まれた彼女は、このカルデアという施設を出ること無く育った。研究者たちに見守られるばかりで、学校に行く機会も無く、同年代と接する事も無かったから、こういうものに接れる機会がなかったのかも知れない。そう考えると複雑だ。
「それは、願望機みたいなものなのかな。それも簡単な」
エルキドゥさんが言葉を発したから、複雑な感情はひとまず置いておくことにした。
私にとって耳慣れない単語が混ざっていたからどう言えばいいのか困っていると、藤丸くんが口を開いた。
「ううん、これは聖杯みたいに大仰なものじゃないよ。……でも、気持ちの問題ではそれを上回るかもね」
藤丸くんの回答に、エルキドゥさんは不思議そうに首を傾げる。そんな仕草を視界におさめつつ、私も首を傾げた。
「がんぼうき? せーはい?」
すると、エルキドゥさんがこっちに視線を向けた。思わずビクッと肩が跳ねる。
「願望機とは、有り体に言えば何でも願いを叶えてくれるもののことだ。そうだね、聖遺物である聖杯がその一つにあたるのだけれど……いまいち理解できていなさそうだね」
「す、すみません」
エルキドゥさんの言葉を理解するよりも、エルキドゥさんに話しかけられた事による驚きが勝ってしまった。てっきり藤丸くんが回答してくれるかと思っていたのに。そもそも昨日会話に混ざってこなかったし、てっきり人見知りだとか、人付き合いが苦手なのかと思っていたのに、悠然と語るエルキドゥさんからはそんな素振りを微塵も感じない。どうやら私の勝手な思い込みだったようだ。恥ずかしい。
「何でも願いを叶えてくれるというと、おとぎ話にある『アラジンの魔法のランプ』だとか、『打ち出の小槌』だとか、あれみたいなものでしょうか?」
「似たようなものかな。もっとも、僕は願望機を使ったことがないからわからないけれどね。それで、君のその編んだ紐にも何かしらの効果があるというのかな」
「ええと……特に無いです」
私の言葉を聞くなり、エルキドゥさんは黙って眉を下げて、怪訝そうな顔になってしまった。
「エルキドゥ。これはそういうものじゃないよ。ささやかな願いというか誓いを立てる感じかな。そうだよね、さん」
「そう、そんな感じです。目標を掲げる、というのに近いかもしれません。ところで藤丸くん、どっちの腕に巻きますか?」
「あー、えっと、こっちでお願いします」
藤丸くんが右手を差し出す。手の甲に入った真っ赤に光るタトゥーに目を奪われる。どういう仕組なのだろうとおっかなびっくりしながら、くるっと巻きつけて結び目を作っているのを、エルキドゥさんが不思議そうに見つめてくる。
「……目標?」
「自分や、仲間が理想とする結果のために、努力する道標を示すとでも言えばいいでしょうか。……マシュさんはどっちに巻きますか?」
「ええと、……こちらでお願いします」
「はい」
おずおずと差し出された左手首に、そっと巻きつけて結び目を作る。「できたよ」と言いながらマシュさんと目を合わせて微笑んでみると、彼女はちょっとびっくりしたふうに目をそらす。やがてじわじわと頬を赤らめながら「ありがとうございます」とつぶやいてくれた。かわいい。
テーブルに出しっぱなしだったミサンガをしまうためにかき集めようとして、ふと思い立ってエルキドゥさんを見ると、エルキドゥさんも視線に気付いてまっすぐにこちらを見つめ返してきた。
「……エルキドゥさんも付けてみませんか?」
声をかけるのに、それなりに勇気が必要だった。緊張もしたけれど、声が震えなかったのが幸いだ。
エルキドゥさんは少し目を見開いて、それから視線を斜め上に向ける。もう一度私を見つめ返したときには、複雑な表情をしていた。
「遠慮しておくよ。僕には願い事がないし、努力する道標も今は必要ないからね」
取り付く島もなさそうだ。――と思いきや、エルキドゥさんの表情はどことなく申し訳無さそうで、こっちを気遣っているように見えなくもない。
もしかすると、何かしら寄る辺はあるんじゃないか? という直感めいた確信が芽生える。
「そ……それじゃあ、私がエルキドゥさんのかわりに何がお願いをします。それならどうですか?」
この提案によって嫌われるかもしれない。
とはいえ、エルキドゥさんとの接点なんて、どの道あってないようなものだ。
これから先も、どうせ接点なんてないだろう。だから嫌われても別に構わない、なんて半ば投げやりな気持ちだった。
「どうですか、と言われてもね……それに意味はあるのかい?」
「……ないですね!」
「そんなふうに元気に否定されると、こちらも困ってしまうんだけれどな……」
本当に困った顔になっている。エルキドゥさんには申し訳ないけれど、こんな表情ができる人だとは思わなかった。少しだけ、親しみのようなものを感じてしまう。
「君の言っている事は、無駄というものではないかな? 僕にとっても、君にとっても」
「たしかに無駄です。でも、一切の無駄がない人生なんて、味気なくてつまんないですよ。きっと」
「……つまらない?」
「昨日のカレーに乗せてた温玉みたいなものです。カレーとして食べるぶんには必要ないけれど、乗せて食べるとおいしい」
「おいしい……そういうものなのかな」
「そういうものですよ」
押して駄目ならもっと押してみろの精神で、自分でも驚くほど適当な事を喋ったような気がする。そんなでたらめな話に、意外にもエルキドゥさんは食いついてきてくれた。
「エルキドゥさんはどれにしますか? といっても、選択肢はそこまでないんですが」
数少ないミサンガを並べ直しながら尋ねると、エルキドゥさんは少し前のめりになった。テーブルの上に並んだ三本のミサンガを見つめている。
「……。これがいいな」
やがて、右手の指先でその中の一本を示した。エルキドゥさんが選んだのは、白色と橙色のミサンガだった。
「これですね。どっちの腕に巻きますか?」
「左手にお願いするよ」
むずむずしてにやけそうになる口を必死に引き結びながら、慎重な手付きでエルキドゥさんの手首に巻き付ける。それを藤丸くんとマシュさんが固唾を飲んで見守ってくれているから、どうあがいても緊張せざるを得なかった。
白くて細い手首を眺めつつ、お願い事は何にしようかと考える。ミサンガに対するお願いなんて、怪我がなければいいだとか、みんなが健康であればいいとか、そんな曖昧なものばかりだったから、こうしてきちんと真面目に考えるのは本当に久しぶりのように感じた。多分、カルデアに来てから初めての事かもしれない。
エルキドゥさんの顔を見て、それからこの人にとって無駄になるようで、それでも私にとっては無駄にならないお願いはなんなのか考える。
願い事は、すぐに決まった。
結び終わると、エルキドゥさんは手首をひっくり返してまじまじと眺めた。まるで、変なところはないか点検しているみたいに。ともすれば、粗探しでもされているんじゃないかと不安になりかけたところで、エルキドゥさんが私に視線を向けた。
「お願いごとは何にしたの?」
尋ねられて、びっくりしてしまった。直後に、戸惑いが襲ってくる。
「エルキドゥ。ミサンガにかけた願いは口に出しちゃだめなんだよ」
すかさず藤丸くんが注意してくれて、私は追随するようにコクコクと頷いた。
お願いごとは口に出したらかなわない。そういう暗黙の了解というか、謎のルールがあるのだ。
普通は聞かないだろう事をこうしてあっさりと聞いてしまうのは、無知ゆえのものなのか。それとも、ルールなんて知ったことか、自分には関係ないという、型破りさからくるものだろうか。
「そうか……知りたかったのに、残念だな」
エルキドゥさんは肩をすくめて見せる。その仕草は言葉通りに残念そうで、どちらなのかを窺い知ることはできなかった。
そんなエルキドゥさんの様子に、藤丸くんは目を丸くしている。それから「んー」と小さく唸り声を上げて、
「口に出して言わなけりゃいいんじゃない?」
「……そ、それってどうなんでしょう」
マシュさんが曖昧に言葉をにごす。私といえば、
「なるほど。その手がありますね」
ぽんと手を打った。打ってしまった。
言葉で伝えない方法なんていくらでもある。エルキドゥさんに手を述べると、エルキドゥさんは私の顔と差し出した手を見比べてから、ミサンガを結んだ方の手をそうっと差し出してきた。その手を掴んで――ひんやりしている――ぐるっと反転させて、手のひらを天井に向ける。
エルキドゥさんの手のひらに、右手の人差指でゆっくり字を書いた。私が文字を書くところを、マシュさんと藤丸くんがやっぱり覗き込んでいる。ちょっと緊張する。
I want to get closer to you. ―― “あなたとなかよくなりたい”。
そもそも、手のひらにこうやって書いて伝わるのかはわからない。でもそんな不安は裏腹にエルキドゥさんには伝わったようで、書き終わるなり瞬時に手を引っ込められてしまった。綺麗な花のような見た目の人がやるとは思えない乱暴な仕草に、ビクッと体が震える。もしかして、怒らせてしまったのだろうか?
「あいにくだけれど、僕の記憶中枢といったらいいのか領域と言ったらいいのか……とにかく余裕がないんだ。だから、そういった存在として新たに迎え入れるのは無理だと思う」
エルキドゥさんは、焦燥さを混ぜ込みつつも、私を気遣うように穏やかな口調でそう言った。
対する私はエルキドゥさんが何を言っているのかわからなくて首を傾げる。するとエルキドゥさんは本当に困った様子で「ううん……」と小さく唸った。
「僕は人間ではないんだ。もともとは粘土を捏ねて作った人形なんだよ。だから、そこまで器用に出来ていない」
粘土をこねる? 人形? 意味がわからない。
「んんと……エルキドゥさんは、人じゃないんですか?」
私が尋ねると、エルキドゥさんはしっかりと頷いて、
「そうだよ。見てくれは人間に似せているけどね。心を得て、人と共にあると決めた今は、自分を人のための兵器として定義しているよ」
なにやら小難しい事を言いだした。
一瞬、そういう病気を拗らせてしまった人なのかと疑ったが、エルキドゥさんはいたって真面目な顔つきのままだ。本当のことなんだと理解する。理解した所で、結局はわからないのだけれど。
困惑のままに固まっていると、藤丸くんがちょいちょいと肩をつついてきた。そちらに顔を向けると、エルキドゥさんの事を小声で説明してくれる。
神が作った人形であり、ある一人の人間から人の仕組みを教えてもらった結果、泥人形の姿を捨てて、知性と感情を得てこうなったのだ、と藤丸くんは語った。
つまり、エルキドゥさんは――なんだろう?
「えーと……人工知能を備えたアンドロイドみたいなものですか?」
アンドロイド、オートマトン、バイオノイド――呼称は多種多様だが、誰かに作られ形を得て、人ではないながらも人に馴染んで暮らす“何か”。私にはあまりにも知識が足りなさすぎて、エルキドゥさんをそういった、私が知り得る型に当てはめるしか無かった。
「人間が作ったわけではないから、人工というより神造とでも言うべきかな。……うん、そうだね。現代においては、そういったカテゴリーに収めるのが適切かもしれない。君はそのほうがしっくりくるんだろう?」
「正直、粘土で作ったって言うし、見た目も普通の人と何ら変わりないですし、あんまりしっくりこないです」
私が素直に告げると、
「……マスター、僕は彼女になんと説明したら理解して貰えるんだろう」
エルキドゥさんは困ったように藤丸くんに助けを求めたが、
「正直、俺も漠然と兵器だと思ってはいるけど、エルキドゥにそう求められたから、そう思い込んでる節があるのは否定できない。現に、こうして昼食に誘ったり、人として扱っちゃってるしね」
エルキドゥさんはすっかり黙りこくってしまった。どことなく不満そうに見えるのは、私の考え過ぎというわけではなさそうだ。現にマシュさんが少しハラハラした色を孕んだ視線を私に送ってくる。このまま放っておいたら、この場で培った全てをご破算にしてしまうような気がした。
「た、たぶん、エルキドゥさんがもっと説明してくれたら、わかるかもしれません!」
「たとえ説明したところで、君が理解できる保証はあるの?」
「う……うーん、……ないですね」
エルキドゥさんの目つきが、すっかり胡乱な色に染まってしまった。慌てて言葉を続ける。
「でも、話さないとわかりえあないです。話すことが私にとって、エルキドゥさんを理解できる唯一のチャンスです」
エルキドゥさんが目を見開いたけれど、私がまばたきをした次の瞬間には、穏やかそうな真顔に戻っていた。
「……。まあ、そうだね」
「じゃあ、もう少し質問をしてもいいですか?」
「いいよ。答えられる保証はないけれど」
その返答を耳にして、思わずほっと息を吐く。と、なぜか藤丸くんとマシュさんもため息を吐いた。どうやら二人とも、私とエルキドゥさんとのやり取りに気を揉んでいたらしい。とてつもなく申し訳ない気持ちになったけど、気を取り直す。
あらためてエルキドゥさんの顔をじーっと見つめる。粘土で出来ているようには見えない。
「エルキドゥさんって、ほんとに粘土でできているんですよね?」
「うん」
「さっき言ってた、記憶領域とかもそうなんですか?」
「そうだよ」
あたまのてっぺんから、つまさきまで粘土。
わかるようで、わからない。
理解するのを脳が拒んでいるような気がしないでもないけれど、それでも目の前にあるエルキドゥさんは現実だ。
そんな粘土でできたエルキドゥさんと、こうして普通に会話のキャッチボールができている。どういう仕組みになっているんだろう? それが不思議でならない。
「見たところ、フレーム問題も適切に処理できてるんですね」
「……フレーム問題?」
エルキドゥさんが首を傾げる。長い髪がさらりと揺れた。
「さん、フレーム問題って?」
「ええと……エルキドゥさんの事を、現代科学に当てはめるのは失礼かもしれないですけど……」
言いながら、エルキドゥさんの顔色を伺う。不快感を示していない事を確認してから、私は両手の親指と人差し指を合わせて、長方形のフレームを作ってみせた。
「こうやってひとつの風景を一枚のフレームとして収めた場合、人は必要な情報だけを取り出せるけど、未熟な人工知能はこのフレーム内の状況において、不要か必要かの情報の切り分けが上手にできないんです。たとえば、キッチンで後処理してるエミヤさんも会話対象に含めてしまうとか」
私が掲げたフレームを、藤丸くんと、マシュさんが覗き込んでくる。やがてエルキドゥさんもおずおずと覗き込んできた。フレームの向こうには、キッチンで何かしているエミヤさんが収められている。
「どうした、呼んだか?」
「ひゃっ!?」
と、そのフレームいっぱいに赤色が映った。思わず声を上げてしまう。慌てて手を下げて、エミヤさんの顔を確認する。
というかこの人、今シュバって瞬間移動してこなかっただろうか?
「す、すみません。ただのたとえ話で名前を出しました。ほんとにすみませんっ」
「ややこしい話をするんじゃない!」
「いひゃいいひゃい! ほんひょにひゅみまひぇんっ!」
エミヤさんは私のほっぺたを思いっきりつねって、それからまた瞬間移動じみた動きでキッチンに戻っていった。
思いっきりつねられてひりひり痛む頬を手でおさえる。こねるようにぐにぐにと動かしていると、
「君の言いたいことはおおむねわかった。僕はそういった機械や人工知能よりは遥かに高性能だという自覚があるし、自負もあるよ」
「へぇ~~」
エルキドゥさんがあまりにも自信満々に言うものだから、納得するほかない。頬の痛みもどこへやら、ぽかんと口を開けて間抜け面を晒してしまった。
そんな私の反応が気に食わなかったようで、エルキドゥさんは眉間にしわを寄せている。
「僕は馬鹿にされているのかな」
「ち、違います! なんというか、あまりにもやり取りが自然だから、納得せざるを得なくて」
もういちどエルキドゥさんを上から下まで見る。思わず感嘆の吐息が漏れた。
「この先の未来では、ここまで高性能な知能を作れるようになるのかな。想像がつかない」
このカルデアの技術局は、人工知能を専門分野に研究していた人もいる。彼らが目指している結果が、私の目の前にあるのだ。
粘土でできていながら、自我を持っている。普通ではありえない現象。どういう仕組みかわからないけれど、神という謎めいた存在が作ったようだし、神様の手というのはそのくらいのトンデモパワーを引き起こすものなのだろうか。なにせ神は世界を七日間で作ったとかいう逸話もあるほどだ。
エルキドゥさんは記憶の蓄積がきちんとなされていて、その記憶から的確な行動パターンを判断している。そして蓄積された過去の記憶が自我や個性――いわゆる心という事になるのだけれど、エルキドゥさんにはその心を持っているという自覚がある。すごいことだ。感心するほかない。
「高性能だと言ってもらって悪いけれど、僕は壊れかけなんだ。だから、きっと君が言う未来には、僕より高性能な知能が存在していると思うよ」
「壊れかけ? エルキドゥさんは、壊れてるんですか?」
「どこが、とは言えないけれどね。自己診断で色んな所が壊れていると感じるんだ」
自己診断機能も備わっているだなんて、完成度が高すぎる。
「へ~~」
やっぱり呆けて口を丸くしてしまう私を見て、エルキドゥさんは眉をひそめたが、やがてゆるゆると眉間のシワをなくして、ほんの少し目を細めてくれた。
その穏やかな表情は、初めて見るものだった。
エルキドゥさんは相変わらず靄に包まれすぎていて、全容が把握できなくてよくわからない人だ。でも、今日のやり取りで少しだけその靄が晴れたような気がした。
いつか、その靄が取っ払えるようになればいいなと思う。いつになるかはわからないけれど。
食堂を後にし、司令室に向かうため三人で廊下を歩いている時のことだった。
「ところでマスター、これは外してもいいものなのかな?」
エルキドゥの言葉に「えっ」と声を漏らして立香は立ち止まった。次いでマシュも足を止め、二人揃ってエルキドゥの顔を伺う。いつもの穏やかな顔だ。
「ミサンガは結び目が勝手に解けるまで外すのはダメなはずだけど……まさか、もう外したくなったの?」
エルキドゥは、こう見えて結構気まぐれだ。立香も彼の気ままさに振り回されたことがしばしばあるのを思い返しつつ尋ねると、エルキドゥは「そうではないよ」と首を振る。
「これをつけたままだと霊体化ができないからね」
「「あっ」」
立香とマシュの声が重なった。
サーヴァントの基本的機能として備わっている霊体化。いっさいの物理的干渉を受けなくなるというもので、ドアや壁をすり抜けて移動できたりと便利だ。しかし物理干渉中に霊体化すると、例えば手に持っていたものがそのまま落ちてしまったりする。花瓶を持った状態で霊体化すれば、花瓶は支えを失い落下する。
もしエルキドゥが霊体化した場合、ミサンガが外れて落ちるだろうという事は、立香には容易に予測できた。
「マシュ。結んだまま外してまた付けるのって、セーフ? アウト?」
「よく知らないので、わからないですが……た、たぶん、アウトじゃないかと……」
マシュと小声でひそひそやり取りを終えてから、立香はエルキドゥに視線を向けた。
「貰った手前こう言っちゃうとアレだけど、これは願いが必ずしも叶うものではないし、エルキドゥ自身の願いがかけられているわけでもない。霊体化するなら、俺が責任持ってちゃんと預かっておくよ」
立香が手を差し出すと、エルキドゥは立香の手のひらを見つめてから、
「……そうか、そうだったね。これには彼女の願いがかけられているんだった」
呟いて、自分の手首に巻かれたミサンガに視線を落とした。ミサンガが巻かれていない方の指で、そっとなぞるように触っている。まるでミサンガの存在を確かめるように。
そうして、エルキドゥが顔を上げる。
「こうして託されてしまった以上、無碍にはできないな。しばらくこのままで過ごしてみるよ」
「いいの?」
尋ねながら、立香は手を下ろした。もう必要ないと思ったからだ。
「うん。彼女が言っていた無駄のある人生というものを確かめてみようと思うんだ。まあ、僕は兵器だけれどね」
「そっか。俺はいいと思うよ、その考え」
「ありがとう」
エルキドゥが微笑むと、三人は揃って足を踏み出した。
「……いい機会だし、せっかくだから本でも読みつぶそうかな。何かおすすめの本は知ってるかい?」
「でしたら、後で図書室に行きましょう。面白い本をいくつか知っています」
「いいね」
実体化を維持するのは無作為に電力を消費するようなものだからと、エルキドゥはマスターである立香に必要とされない限りは霊体化を維持し続けていた。
しかし些細な切欠により実体化を続ける事に、奇妙な高揚感を隠しきれない。どうやって過ごそうかと期待をはせながら、エルキドゥはわずかに口元を緩めた。