Green happines : 12

「ちょっと、きみ!」
 廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返って確認する。
 数メートルほど離れた距離に、誰かが立っていた。左腕にぶこつな篭手を付けていて、背よりも高い杖を右手に持っている。焦げ茶色の髪を揺らしながらゆっくりと距離を詰めてくるその人には見覚えがあった。
 有名な肖像画を彷彿とさせる容姿。書類上の名称は召喚英霊第三号。そして技術局名誉顧問でもある。名前は確か――。
「ダ・ヴィンチさん。どうかしましたか?」
 いつだったか『モナリザさん』と間違えそうになった事を思い出しながら、彼の名前を口にした。
「あ、いや。何か困り事が発生したというわけではなくてね」
 ホルダーから無線機を取り出そうとすると、ダ・ヴィンチさんが苦笑を浮かべた。何か問題が発生したというわけではないようなので、無線機を元に戻す。
 それじゃあ何の用事なのかとダ・ヴィンチさんの言葉を静かに待っていると、ダ・ヴィンチさんは私の頭からつま先まで、見聞するように見定められる。いたたまれなくなってきて首をひねると、ダ・ヴィンチさんは「ああ、すまないね」と前置きしてから、
「なに、風のうわさでね、サーヴァントと付き合っている職員がいるだとかなんとか」
 そんな事を言うので、思わず目を丸くした。
 技師班員のほとんどは、私がエルキドゥさんと恋仲であるという事は知っている。けれど告げ口をしたりするような人は一人もいないはずだ。そう信じたいし、できるだけ疑いたくはない。ともすれば藤丸くんやマシュさんかと思うけれど、二人もそんな事をするはずがない。だとするなら、見られていたのだろうか? え、何を?
 徐々に顔に熱がのぼってくる事を気にせずに考えていると、ダ・ヴィンチさんが小さな声で笑った。顔を上げると、申し訳無さそうな笑みを浮かべている。
「きみが懸念しているような事は一切無いよ。ただね、人の口に戸は立てられないのさ。まあ、たしなめに来たわけではないから、安心してくれたまえ」
 つまり、食堂とかで聞いてしまった、ということだろうか。とりあえずダ・ヴィンチさんの言葉を信じて、私は警戒を解いた。
「ええと、では何を?」
「何か不都合な事はないか尋ねに来ただけだよ。生きる時代が違う人間と交流するというのは、何かしら齟齬が生じるものだ。聖杯の力で現代に適応できるように調整されてはいるものの、君が相手しているのは人ではないからね。何か困ってることはないかい?」
「困ってることは……今のところ、特にないです」
「ほう?」
 納得したようで納得のいかないような、曖昧な返事がかえってくる。どうやら詳細を語らなければ離してくれなさそうだ。
「その、おこがましい事を言いますけど、エルキドゥさんは物分かりがいいので。びっくりするくらい」
「うんうん、そこは美点だ。だが、その物分かりの良さゆえにいらぬ火種を撒いたりと結構困りものでね。君も何か藪蛇をつつかれたりしなかったかい?」
「思い当たる節はあります。でも思いやりが欠如しているというより、理解して共感を得たいのかなと思って打ち明けて、特に何事もなく終わりました」
 とはいえ、ダ・ヴィンチさんの言う他者との衝突は、容易に想像できた。
 エルキドゥさんはちょっと言葉足らずというか、思慮が浅はかなところもある。けれど、その根底にある感情は他人を貶めようとするためではない。バカにして笑おうだなんて気はこれっぽっちもないのだ。しかしそれを知らなければ、内側を踏み荒らされたような気になる。エルキドゥさんには悪気がないから、それがかえって相手の逆上を煽ることにつながる。悲しいすれ違いの発生だ。でも、エルキドゥさんがそういう性質の持ち主だと思えばどうとでもなる。
「好奇心豊かなんですよね、いい意味でも悪い意味でも。そういう所は可愛い短所だと思います」
「ほほう。火に油を注ぐ行為も、君からすればあばたもえくぼという事か。なるほどね~」
「そ、そういう意味で言ったわけじゃないです!」
 熱がのぼった頭を落ち着かせるため、一呼吸はさむ。
「物事の基準や価値観が違うなと感じる事はしばしばあります。ですがエルキドゥさんは人にとっての普遍を理解してます。木洩れ日はきらきらして美しいだとか、何もしていないと時間を無駄に消費している気になるだとか、あとは幸福だとか。そのあたりの考え方は人間と違わないから、困るくらいの齟齬を感じたりもないです」
「なるほど。自分と違うことは理解して、ちゃんと受け入れているわけだね」
「といっても、エルキドゥさんのことはまだまだわからないし、エルキドゥさんもそうなのかな? って思うことはあります。これから先、もしかしたらお互いに齟齬を見つけて、それがきっかけで衝突することがあるかもしれないですし」
 エルキドゥさんと喧嘩する。想像がつかないけれど、もしかしたらあるかもしれない。そうなったら少し怖いなと思う。
「だからこそエルキドゥさんの深い所まで理解しておきたいけれど、一番長く一緒にいる家族でも衝突する事はあるから、仲良くなるのに全て理解する必要はないのかなって思います。たとえお互いのを全てを理解できなくても、きっと大丈夫かなって。楽観的すぎるかもしれませんが」
 ダ・ヴィンチさんはしばらく無言だったけれど、私が不安になってきた頃になってようやく微笑んでくれた。
「いや、そんなことはないよ。そこまで考えていれば十分さ。……なるほどね、良い関係を築けているようで安心したよ」
 あらたまってそう言われると、なんだか恥ずかしいような気がしてきた。
「で、どうだい? 付き合ってみて、何か真新しいことに気付いたりはしたかな?」
 真新しいこと――うーんと唸りながら首をひねって、それからハッとした。
「美人は3日で飽きるっていう言葉がありますけど、あれは絶対に嘘ですね!」
「そうだろうね……そうだろうとも!」
 意気投合してしまった。
 そうしてダ・ヴィンチさんと気持ちよく別れ、私は仕事に戻った。ダ・ヴィンチさんと話したおかげだろうか、自分でも驚くくらい仕事に集中して、てきぱきとこなす事ができた。予定より早く仕事が終わってしまい、ほかの作業に加わろうとしたが今日は他の班員も大した仕事もなく、すでに上がった職員もいるという。今日は休めと言われたので、そのまま上がらせて貰うことになった。
 とはいえ、夕食の時間までまだまだ時間がある。何をして暇をつぶそうかと考えてから、エルキドゥさんの所に行こうとすぐに思いついたが、よくよく考えると連絡する手段がなかった。エルキドゥさんがどこにいるかわからない。館内放送を使う手はあるけれど、さすがにそれはどうかと思った。
 やっぱり藤丸くんと連絡先を交換しておくべきだったなんて後悔しているうちに、自然と足が食堂区画まで向かっていた。
 食堂はがらんとして静かだったけれど、それでも早めに仕事を上がった人がお茶を飲んでいる。そういえば喉が乾いている事に気づき、私も何か飲もうかなと思って立ち入った。
 ウォーターサーバーから水を汲んで飲んでいると、
「……?」
 怪訝そうな声がして振り返る。エルキドゥさんだった。廊下の向こうからぱたぱた近寄ってくるので、その間に一気に水を飲み干す。
「やっぱりだ。……仕事は?」
「終わりました。もうお休みです」
「へえ。今日は早かったんだね。なら、ちょうどいいかな」
 エルキドゥさんはそう言う。何がちょうどいいんだろう? 首をひねる私をよそに、エルキドゥさんはわずかに俯いた。つられて視線を下げると、エルキドゥさんの手元に本があることに気がついた。その背表紙を眺めると、誰から借りたものなのかすぐに分かってしまった。
「このまえ借りた本を返しに行くところなんだけれど、付き合ってくれるかい?」
「はい、もちろん!」
「よかった。一人で行くにはちょっと勇気がいるから」
 サーヴァントのエルキドゥさんが尻込みしているのが少しおかしかったけれど、あまり話をしない相手を尋ねるのは確かに勇気がいるものだ。
 エルキドゥさんを引き連れてダストンさんの研究室に向かうと、果たしてダストンさんは研究室にこもっていた。この前の検査のレポートをまとめているようで、ここ最近はずっと缶詰状態だったのだ。連絡もなしに尋ねた私達にダストンさんは心底呆れていたけれど、気分転換になると招き入れてくれた。
「はあ、全部読めたのか。面白かったか?」
「うーん、面白くはなかったかな。けれど、興味深かったよ。人間は知恵を絞って、それを数式に当てはめて、世の理を解読しようとしている努力が感じられた」
「ほほお……それじゃあこれなんかどうだ」
 本棚の前で、二人して見聞を重ねるのを、私は座って眺める。ダストンさんが勧める本を、エルキドゥさんは怪訝そうに観察しておずおずと受け取った。本を返しにきたのにまた借りているのがちょっと面白いし、好きな本を勧めているダストンさんを見るのは楽しそうだからこっちも見ていて楽しい。
 自分が本当に好きなものを勧めるっていうのは、けっこう勇気がいるものだ。
 人によって合う合わないが存在する。だからこそ自分の好きなものを頭ごなしに拒絶されるのはもちろん、勧めた側に気を使ってお世辞の感想なんかを言われると悲しくなる。けれど、なんでも吸収したがるエルキドゥさんにはそれがない。今の会話にしたってそうだ。だからダストンさんも気軽に本を勧められるのだと思う。この研究室にあるものはすべてダストンさん選りすぐりのものだから尚更。
「何にやにやしてるんだ」
「なんでもないです」
 笑っていたら気づかれてしまった。こほんと咳払いをして目をそらすと、それを合図にダストンさんは自分のデスクに向かい、エルキドゥさんは借りた本をぱらぱらと流し読みしながら私の方へ戻ってきた。
 失礼だとは思ったけれど、背表紙を覗き込む。宇宙線入門と呼べる本だった。
「これまた難解なのを借りましたね……」
 呟くと、エルキドゥさんは困ったような苦笑を浮かべた。
「……この本は、僕にはちょっと早いかもしれないね」
「理解できないなら解説するぞ」
 アーロンチェアに腰掛けながらダストンさんが言うと、エルキドゥさんはふるふると首を横に振った。
「ううん。に聞くからいいよ」
「あの……この分野に関して私はまだまだ未熟ですし、ダストンさんに聞いたほうが早いですよ?」
「それでいいよ。が隣で話し相手になってくれるほうが、有意義だ」
 エルキドゥさんに微笑まれ、その奥ではダストンさんが犬も食わんぞみたいな視線を向けてくる。嬉しさといたたまれなさが相反して、自然と肩がすぼまった。
「これは、いつまで返したらいいのかな」
「いつでもいいぞ。そこの未熟者と、ゆっくり読んでくれ」
「うん。そうするよ」
 さすがサーヴァント。受け流しが一流だ。
 研究室を出てすぐ、ポケットから端末を取り出して現在時刻を確認した。長居した気になっていたけれど、そんなに時間は経っていなかった。
「夕食までまだまだ時間がありますけれど、どうします? 一旦お部屋に戻りますか?」
 歩き出そうとすると、左腕が何かに引っかかっている感覚がして足を引っ込めた。
 視線を左腕に落とす。上着の袖口のサイズを調節するための、マジックテープがついたベルトの部分。そこにエルキドゥさんが人差し指を引っ掛けていた。いつの間に滑り込ませていたんだろう、全然気づかなかった。感心しながらエルキドゥさんの顔を伺うと、なんとも言えない表情をしている。
 口元が勝手に笑いそうになるのを堪えつつ、端末をポケットに戻した。
「一緒に談話室にでも行きますか?」
 私が尋ねると、エルキドゥさんは静かに頷く。
「うん」
 嬉しそうだから、それにつられて結局私も笑ってしまう。
 エルキドゥさんの手を取り外して、そのまま手を繋いだ。エルキドゥさんがするりと指をもぐりこませてくるから、私もそれに応じるように指を絡める。にぎにぎすると、にぎにぎされる。手のひら全体にあったかくて柔らかい感触が触れて、少しくすぐったくもある。
 ぷらぷら歩いて、たわいもない会話を交えつつ談話室へ。
 入り口の前に立つと中から爆発音のようなものが聞こえて、二人で何となく口を閉じた。ドアをそっと開けて中を覗き込むと、壁に備え付けの大型液晶で何かの映画を見ているらしい。迫力ある映像を楽しみたいのか床に座りこんでいる方がいる。大小様々なその姿の中に、私のような職員はいなかった。
 エルキドゥさんの顔を見る。どうします? と唇の動きだけで尋ねると、穏やかな表情を浮かべたままゆっくりと首を横に振った。頷いて、ドアを静かに閉める。
「どうやら鑑賞中のようだし、僕らはお邪魔になってしまいそうだ。他に行こう」
「そうですね……他の談話室をあたってみましょうか」
「もう少し静かだといいかな」
「とすると、共有スペースは避けたほうがよさそうですね……あったかな」
「あと、できれば二人きりになれる所がいいな」
「ええと……はい」
 なんだかすごい要望をサラッと言いだした。とりあえず素直に応じておく。
 端末を取り出して地図を確認しながら、エルキドゥさんの要望に添える場所を探す。私もカルデア内部の部屋に関してはそこまで詳しくないので、ひたすら歩いて探す羽目になってしまう。その旨をエルキドゥさんに伝えると、エルキドゥさんはさして気にした様子を見せず、むしろ笑顔で、
「二人で探検しているような気分に浸れるから、これでいいよ」
 と言った。探検という言い回しは可愛いし、言われたこっちも嬉しいし、ちょっと救われたような気持ちになる。
 二人でぷらぷらと歩いた結果、山側に近い廊下の窓際がちょうどよいという事になった。この先の区画は制御室とは反対方向になるので人通りも少なく、窓枠が椅子のかわりにもなる。窓の外は相変わらず雪景色が広がっていたけれど、風景が見えるから談話室にいるより閉塞感は薄い。とりあえず、下手をすると互いの自室に招かざるを得なくなるのでは? と懸念していたので、良かった。
 二人並んで窓枠に腰掛ける。当たり前だけれど部屋の中ではないし、廊下でも外れの部分にあたるから、暖房もそこまで行き渡っていない。おまけに背中のガラスから伝わる冷気でひんやりする。思わず身震いする私に、エルキドゥさんが目ざとく気付いた。
「くっついていいよ?」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
 エルキドゥさんの腕にもたれて、肩に頬を寄せる。涼やかな見た目に反してすごくあったかい。頬ずりするとエルキドゥさんがくすぐったそうに笑いながら小さく身じろぎをして、膝の上にある本の表紙を開いた。読書を始めてしまう。
 特に何も会話はない。不規則にページをめくる指先を見て、それからエルキドゥさんの横顔を見上げると真剣そうで、ちゃんと読んでいるのが伝わってくる。こんなにひっついて邪魔じゃないのかなと思う反面、何も言われないから許されているんだろうなと実感してしまう。
「ふふー……」
 思わず笑みがこぼれた。
「……どうしたの、にやにやして」
「最初の頃のエルキドゥさんを思い出してました」
 私がそう言った途端、エルキドゥさんの肩が面白いくらいにビクッと跳ねた。
「淡々としてて、とっつきにくい感じがあったけど、全然そんな事なかったなって」
 エルキドゥさんを見上げると、目が合った。
「それに、こうして隣に座ってるだけなのに、どうしてかすっごく安心しちゃうから……えへへ。今はね、こうやって一緒に居られるのがすごく嬉しいです」
 紛れもない本心を吐露した事で、勝手に頬がゆるむ。にっこり笑いかけるとエルキドゥさんが目をそらすので、私もなんだか気恥ずかしくなってきて視線を下げた。エルキドゥさんの手元にある本を見つめる。
 エルキドゥさんは何も言わないけれど、かえってそれが心地よい。エルキドゥさんにもたれながら、不規則にページをめくる音を聞いているうちに、だんだん瞼が重くなってきた。本の文章を目で追う気力もなくて、ゆっくり目を閉じる。
 体は眠ってるけれど、頭はぼんやり冴えてるみたいな不思議な感覚にひたっていると、頬をつつかれた。
「……、寝ちゃった?」
「ちゃんと起きてますよー」
「じゃあ目を開けて? が眠ったら悲しくなるから」
 悲しくなられたら困るのでしぶしぶ目を開けると、よしよしと頬を撫でられる。それが気持ちよくて目を閉じると、今度はつねられた。痛い。
「ねえ
「ひゃい?」
「人間はやっぱり宇宙に出たがるものなのかな。はどう?」
 私のほっぺたをぐいぐい引っ張りながら尋ねてくる。宇宙線の本を読んでいるから宇宙の話なんだろうか。なかなか小難しいことを聞いてくるなあと感心しながら思考を巡らせると、とたんに目が覚めた。それを察してか、エルキドゥさんはようやっと手を離してくれる。
「行けたらいいと思いますけど、今の技術レベルなら絶対行きたくないです。死んじゃう確率のほうが高いから」
「なるほど。は好奇心よりも、安全性を優先するタイプなのか」
「安全第一は技師班のモットーですよ。そういうエルキドゥさんはどうなんですか?」
「行ってみたいけど、僕はこの星から出られないから行けないね」
 そう言って笑うエルキドゥさんの横顔は少し寂しそうだ。
「それは、サーヴァントだからですか?」
「まあ、それもひとつの理由になるけど……僕はこの地球の泥をこねて造られてる。この星と紐付いてる状態だから、もし出られたとしても体が崩壊してしまうだろうね」
 自分が死ぬだろうという予測を淡々と語って、エルキドゥさんはページをめくった。
「ままならないですね」
「そうだね。ままならないよ」
 くすっと笑うその横顔を眺めて、私は何も言えずにエルキドゥさんの手元の本に再度視線を落とした。ちょうど宇宙線の図説が載っている。一次宇宙線が大気圏内に入り二次宇宙線となって、そこから派生した粒子が海面にまで降り注いでいる図だ。対流圏から成層圏、そして中間圏から熱圏までの層の重なりを見つめていると、ふと思いついた事が口からこぼれた。
「エルキドゥさん、知ってますか? 地表から宇宙までの距離ってたった50マイルなんですよ」
「……それがどうかした?」
「こうやって数字にしてみると、宇宙って遠いようでけっこう近く感じませんか? そのくらいの距離を移動して死んじゃうリスクを抱えるなら、50マイルぶん地球のどこかを旅行したほうがきっと楽しいですよ」
 エルキドゥさんを見ると、目が合った。
だったらそうするの?」
「そうします。観光列車に乗って線路の旅をするのもいいし、なんなら1日1マイル目安にぶらぶら食べ歩きを50日間っていうのもいいかもしれないです」
「……それは、一人で?」
「一人はちょっとさみしいような……エルキドゥさんも一緒にどうですか?」
 ずいっと身を乗り出して言うと、エルキドゥさんはびっくりしたようにまばたきしてから、困ったように微笑んだ。
「有り難い申し出だけれど、現状では無理じゃないかな」
 もっともだった。
「そ、それじゃあ全部解決したときにでも!」
 言えば、エルキドゥさんがさらにびっくりした様子になる。
「だ、だめですか?」
「ううん、だめじゃないよ。正直なところを言うと嬉しいんだ。こうして誘ってくれる人は少ないからね。……でも、僕はサーヴァントだから、カルデアが目的を遂げた時は座に還らなければいけない。約束したところで叶う保証はできないよ」
「それくらい承知の上です! もし叶わなかったら、エルキドゥさんの墓標を探して、そこにタンポポをいっぱい手向けてやりますよ」
「タンポポをくれるのは嬉しいけど、タンポポだって生きてるからむやみにむしり取ったら駄目だよ。ひとつでいい。あと、僕は死んだ時に土に還ったはずだから墓標は存在しないし、探しても無駄だろうね。それに、今のウルクのあたりはどうやら治安がよくないようだから、渡航するのはやめてね。安全第一だよ」
 淡々と説き伏すうえに、技師班のモットーを出されてしまってはぐうの音も出なかった。
「じゃあ、一緒に行ってくれますか?」
「うん……喜んで」
 エルキドゥさんそう言って、はにかむように笑ってくれた。その顔を見た途端ぎゅーっと胸が締め付けられる。今にも飛び跳ねて喜びたい衝動をぐっとこらえて、エルキドゥさんの腕にしがみついた。
「もしもどこかに行くなら、人が少ないところがいいな。自然が多ければもっといい」
「んんと……都会より、牧歌的な感じのところ?」
「そうだね。都会と呼ばれるところは情報量が多くて、なんだか疲れそうだ」
「自然いっぱいの、牧歌的なところですね。覚えておきます」
 覚えておいて、それが叶うかなんてわからないけれど……でも気の早いことをこうして話しているということは、お互いに先のことを期待してると思いたい。エルキドゥさんの顔を伺うように見ると、エルキドゥさんも伺うようにこっちを見てくるから、笑いかけた。さっきから表情筋が壊れたのかずっと笑っているような気がする。
 と、エルキドゥさんが少し身じろぎしたかと思えば、膝上の本を閉じてしまった。そのまま脇に寄せてしまう。
「あれ、読まないんですか?」
「集中できないからね」
「うっ……すみません……」
のせいではないよ。実を言うと最初から全部頭に入ってなかったんだ。あとで一人でいる時にでも読むよ」
 エルキドゥさんの発言に思わず目を丸くして硬直した。そんな私に追撃するかのようにエルキドゥさんはもたれかかってきて、頭に頬をすり寄せてくる。
は、なんだろう。いい香りがする」
「……わっ、わーっ!?」
 冷や汗が出てきた。慌てて離れようとすると、がしっと腕を回されてしまった。
「どうして逃げようとするんだい」
「だ、だって、今日走り回って埃まみれだし、汗もかいたし、それにまだシャワー浴びてないからっ」
「身体機能が正しく働いている証拠だろう? 僕は気にしないよ」
「私が気にするんです!」
「いいから。……んしょ」
 体を包む浮遊感。この細腕のどこにそんな力があるんだろう? だなんて感心している間に、エルキドゥさんの膝の上に、横向きで下ろされた。お尻の下に、エルキドゥさんの太ももの弾力が伝わってくる。
 緊張で身体がこわばって、口から吐息とともに変な声が出た。エルキドゥさんはくすっと余裕のある笑みを浮かべているから、ことさら身体が縮こまってしまう。恥ずかしくて頭がどうにかなりそうだ。
「さっきは安心するって言ってくれたのに」
「そ、それはそれ、これはこれですよっ」
 エルキドゥさんはくすくす笑ったまま、私の背中に手を回したかと思うと、なでなで――まるであやすように優しく優しく触れてきた。緊張を解くようなその手付きに、反論する言葉を失う。背中をなでさすり、髪に触れて、頭を撫でて――悔しいけれど、ものすごく悔しいけれど、こうして撫でられると緊張がふにゃふにゃに溶けていく。
 エルキドゥさんの肩に頭をあずけると、エルキドゥさんがこてんと頭をくっつけてきた。そのままゆったりとした動作で、腰に手を回してくる。恥ずかしかったけれど、でも、嫌な感じはひとつもしなかった。
「いい香り」
「……たぶん、シャンプーの匂いですよ。科学的に調合したやつ」
 嬉しいなら嬉しいって素直に喜べばいいのに、恥ずかしすぎるせいで口から出た言葉は不貞腐れた調子で、全然可愛くない。なんだかもう情けないやら素直に喜べない自分に自己嫌悪を感じてしまう。
 そんな私の心境を知ってか知らずか、エルキドゥさんはまた背中を撫でてくる。
「そうだろうね。花の香りに似せてあるけど、自然には存在しない人工物の香りだ」
「それに備品ですし、他の人からも同じ匂いがすると思いますよ」
「そうだね、マシュからも同じ香りがする時がある。……でもからするって考えると不思議とね、ありえない花を愛でているような気にさせられるよ」
 一気に顔が熱くなったのが自分でもわかった。黙りこくる私にエルキドゥさんはくすくす笑って、私の頭にほほを寄せて、髪に触れて、耳の形を確かめるみたいに指でなぞって――エルキドゥさんがさっき言った通り、まるで花を愛でるみたいな手つきで私の頭を撫でるから、嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。というかもう、どうにかなっているかもしれない。
 結局、さっきまでの鯱張った感じもどこかに飛んでいってしまって、嬉しさと幸せでなすがままだった。肩に頬を擦り寄せて柔らかい感触に身を委ねながら、勝手に緩む口元を誤魔化して、静かに呼吸を繰り返す。そうしているうちに、鼻先をくすぐるエルキドゥさんの香りに気付いて――石鹸とも違うような、でもいつかどこかで感じた素敵なそれに脳裏を刺激され、ちかちかとまばゆい感覚が弾けた。
「エルキドゥさんは……夏休みの匂いがしますね」
「……夏休み?」
 怪訝がる声にうなずき返すと、エルキドゥさんは困惑の色をことさらに濃くした。
「ちょっと……よくわからないな」
「ふふ。エルキドゥさんには、きっとわからないですよ」
「……いいにおいなのかな?」
「私からすれば、大好きな匂いです」
 エルキドゥさんはしばらくキョトンとしていたけれど、やがてふっと笑みを浮かべて、まるで喜びを体中で表現するみたいに片腕だけで一度ぎゅっと抱きしめてきた。くすぐったくて笑うと、太ももの上に揃えていた私の両手に、エルキドゥさんのもう片方の手が重なってくる。構わず両手で包み込むと、エルキドゥさんも握り返してくれる。
、手ばかり見てないで、こっち見て?」
「ん?」
 顔を上げると、目の前にエルキドゥさんの顔がある。
 近い。そう思ったほんの一瞬だった。視界が暗くなって、唇に軽く何かが触れて、音もなく離れていく。
 これは、つまり、その、なんだろう? 混乱しながら今起きた事を整理していると、エルキドゥさんは私の両手から手をすり抜けさせて、確かめるみたいに自分の唇に触っている。状況を理解したいような、理解するのが怖いような感覚。尻込みして固まっていると、エルキドゥさんは悪戯っぽく笑って、今度は私の唇を人差し指でふにふにと突っついてきた。
「思っていたより、ずっと柔らかいね」
 屈託のない呟きのあとに、悪戯っぽく笑っていた目元が、恥ずかしそうに細められる。緑色の目は、いつにも増して優しげだ。
「う、ううう……つっつかないでください」
「あはは、顔真っ赤だよ」
 ついついこぼしてしまったみたいに笑うエルキドゥさんのせいで、さっきの感触を思い出してしまって、どこか頭のネジが外れたような気がした。思わずうつむく。これで顔が真っ赤にならない人がいたら教えて欲しいと内心恨み言を呟く。
 というか、いまのがファーストキスになるのかな? なっちゃうのかな? 不意打ちでよくわからなかったけれど……。そうこう考えているうちに、エルキドゥさんがまたこつんと頭をくっつけてくる。
ー、こっち見てー」
 冗談めかして間延びした口調。エルキドゥさんは案外、甘え上手だ。そこがにくい。
 渋々顔を上げると、眩しいくらいの笑顔が待っていた。なんとなく、何かの予感が走る。
からもして欲しいな」
「……そうくると思ってましたよ、ええ」
「以心伝心というやつだね」
 くすくす笑っている。エルキドゥさんのその姿勢に、抗えるわけがなかった。
「エルキドゥさん、その……目、閉じてください」
「ふふ。どうしようかなー」
「…………」
 無言のまま、エルキドゥさんの手を取る。
「……ていっ、ていっ!」
「いた、いたた。ごめんね」
 手の甲を軽くペチペチ叩くと、エルキドゥさんが露骨に痛がるふりを見せた。
 ひとしきりじゃれ合って満足したのか、エルキドゥさんがにっこり笑ってから目を閉じてくれる。
 本当にきれいな顔を無防備にさらけ出している。このまま意にそぐわない事でもできそうなほどあけすけで、警戒心がない。けれど、裏を返せば私のことを信頼しきってるという事にもつながるわけで、もしそうならすごく嬉しい。
 ちょっと背中を伸ばして、顔を近づける。唇の先が触れるかと思った瞬間に少し怯んで、それから勇気を出して目を閉じた。
 ちゃんと意識して確かめる唇の感触は、エルキドゥさんの言う通り、うそみたいに柔らかかった。それにちょっとひんやりしてて、でもふれあってるとじわじわあったかくなってくるようで。頬にする時とは違う恥ずかしさが、幸せみたいなのに変化して、体中を満たしていく。
 唇を離す。たった数秒間の出来事だったのに、胸の鼓動が激しい。全力疾走したときよりもひどい気がする。
 ゆっくり目を開けると、ちょうどエルキドゥさんも目を開けたところだった。
 緑色の目。信頼と、期待と、好奇心をつめこんだその瞳は、星が輝いてるみたいに綺麗。
 そこから少し視線を下げれば、愛らしい口元。さっきキスした、柔らかいところ。
 じーっと見つめていると、無意識のうちに唾液を飲み込んでしまったようで、小さく喉が鳴った。に、エルキドゥさんが口元をゆるめた。喉を鳴らした私と視線を交わらせて、にまにましている。なんだかエルキドゥさんの目を見るのが照れ臭くて、視線をそこかしこに泳がせてしまう。
「なんだろう、唇がぴりぴりする。は?」
 間近で、ささやくように喋ってくる。小さな声なのに、耳はめいっぱいその声を拾ってしまう。
「……し、ます」
 なんだかむず痒いような、ほてるような、変な感じがある。だからエルキドゥさんは自分の口を触っていたんだろうか? それにならって自分でも触って確かめてみる。押したりなぞったりしていると、エルキドゥさんがその指の背中に唇をくっつけてきた。びっくりして固まる私を、無言でじーっと見つめてくる。期待するような眼差し。
 何も言わずに手を下ろすと、唇の先を軽く触れ合わせてきた。一度だけ、たった数秒。すぐに離れたかと思えば、もう一度、今度はちょっと強めに押し付けてきた。さっきより少し長めに触れ合わせて、エルキドゥさんの唇が離れていく。その顔は、ものすごく満足そうで、嬉しそうだった。
「他のサーヴァントから聞いた話なんだけれど……人間が意思疎通をはかる場合、言語を用いるだろう? それを伝える手段は、おおまかに分けて二つあるらしいんだ」
 エルキドゥさんが唐突に語りだした。
「手を使って文字に起こすか、口頭で喋って伝えるか」
「そ、そうですね……」
 どうしてこの状況で小難しい事を話し始めるんだろう、この人は……。半分呆れる私を気にとめず、エルキドゥさんは話を続ける。
「自分が考えた事や、思った事や、心の内を相手に伝える時も、この二つの手段を用いるのが基本なんだろう?」
「は、はい」
「だからね、伝えるための手と唇を、いちばん好きな人と触れ合わせるのは、とても素敵で、とても特別な事なんだと、そう言っていたよ」
 言葉が出ない。というより何を言ったらいいのかわからない。ただ、自分の体の温度が上がったのは分かった。動揺して言いあぐねる私をエルキドゥさんはにこやかに見つめ、体を傾けたかと思うと、こつんとおでこ同士をくっつけてきた。
「どうかな。僕はちゃんと、特別になれてるかな?」
 誰を指しているのか、エルキドゥさんは言わなかった。
 でも、この場所にいるのはエルキドゥさんと私だけだ。
「はい、特別です。とっても」
 頷いて、嬉しい言葉を貰ったお返しにエルキドゥさんの唇に口付けた。ちゅっと音がして恥ずかしかったけれど、唇を離してエルキドゥさんを見たら、涼しそうな顔をしているのになんだかそわそらと落ち着かない様子だった。まさかとは思うけれど、自分で訊ねておいて、返答を貰ったら恥ずかしくなってしまったんだろうか? とりあえず、もじもじしているのが、極めて可愛い。
 エルキドゥさんが放りっぱなしにしている手を両手で握って、もう一度口づける。触れるだけ。唇を離すと、エルキドゥさんは目を閉じて大人しくしていた。もっとして欲しいのかなと思って、また唇を重ねる。ほんのちょっと唇を動かすと、柔らかさが直に伝わってくる。粘土をこねて作られたらしいのに、なんでこんなにふにふにで柔らかいんだろう? ほんのちょっとだけ、ついばむようにして、ちゅっちゅっと音を立ててから離す。
 なんだろう。好きだったのが、もう一段階の上の好きになってしまった。おかげでキスするのにも、抵抗が生まれない。このままランクアップし続ければきっとバカになってしまうかもしれない。
 エルキドゥさんがゆっくり瞼を持ち上げる。ちょっとぼんやりしてるけれど、どことなく目がきらきらしていた。
、もっとして欲しい」
「……」
「……だめかな?」
「だめ、じゃないですけど……次はエルキドゥさんからしてほしいです」
「……うん」
 エルキドゥさんがキスしやすいように顔を上向かせると、すぐに柔らかいものがふにっと重なってきた。私の唇の形を確かめるみたいについばんで、むにむに動かして、それからちゅっと吸い上げて、エルキドゥさんが唇を離す。
「……
 囁くような声で、ねだるように名前を呼ばれる。私の耳はやっぱりその声を全力で拾いに行ってしまう。
 引き寄せられるようにちゅっと口付けて離すと、エルキドゥさんがちょっと顔を傾けて吸い付いてくる。そのお返しにまた唇を重ねる。
 キリがない。私自身、とんでもない事をしている自覚はある。そもそも初めてのキスをした日にするようなものじゃないような気がする。けれど、エルキドゥさんが嬉しそうで、その顔を見ていると胸の奥がくすぐったくなって、私も嬉しい。
「ふふ……くすぐったい」
 合間にエルキドゥさんが呟く。
「そうですね……すっごい、くすぐったいです」
「うん」
 しどろもどろに返事をすると、エルキドゥさんがこくんと頷いた。それから、どちらともなく口づける。
 ちゅっちゅっと、おたがいに吸い付いて、ついばんでは離れてを繰り返す。
 いつもは呼吸をしているのか不思議なほど気にならないのに、エルキドゥさんの息遣いが聞こえた。合間合間に溜息にも似た吐息が唇にあたって、くすぐったい。そのくらい夢中になってくれているのが嬉しくてたまらない。ぬくもりも、息遣いも、唇の感触も、全てが愛おしい。
 私の吐息もいつしか熱っぽくなっていて、二人の吐息が混ざり合っている気がして、頭がくらくらする。
「好きです、エルキドゥさん。……大好き」
 キスの合間に小さなつぶやきを漏らすと、エルキドゥさんの身体が小さくぶるっと震えて、
「……僕も、好き。……大好き」
 キスの合間にていねいに返してくれる。満ち足りたようなその声に、自然と頬が緩む。おんなじ気持ちを共有しているのが、無性に嬉しくてたまらない。
 唇の感触は柔らかくて、相変わらず心地が良くて……いつまでこうしてるんだろうという疑問がふっと湧いて出てきた。このままずっとするわけにはいかない。でもやめどきがわからない。磁石みたいに吸い寄せられて、くっついてしまう。おまけに気持ちよさそうにゆるんだエルキドゥさんの表情を見ると、つられてこっちも気持ちがゆるんでしまう。
 考えている間に時間は進むし、キスの回数も増えていく。
 本当に、どうやってやめたらいいのかわからない。どうやってやめるんだろう、これ?
「……
「な、なんですか?」
「もっと」
 返事のかわりに、ちゅっ。
「もっともっと」
 ちゅっちゅっ――。
「っふふ……」
 エルキドゥさんはくすくす笑って、お返しにと言わんばかりについばむように口付けてきた。ひとしきりやって満足したのか唇を離しても顔の位置はそのままだ。戸惑っていると、催促するように私の手をぎゅっと握ってくる。次は私から、という事らしい。今止めなければこのままだと頭が駄目になって使い物にならなくなりそうな予感がするけれど、結局エルキドゥさんに応えてしまう。
 言葉を交わすことなく、お互いにひたすら口付けを返しあって、いたずらに手をぎゅっと握ったりし合って、止まること無く何度も何度も。
 何分くらいしていたのかわからない。
 唐突にエルキドゥさんがビクッと体を震わせて顔を離した。ぬるま湯に浸かっているときみたいにぼんやりして思考が上手く動かない私は、いきなり供給が止まったことにただただ首を傾げるばかりで。

「ぁ……はい、なんですか?」
「自爆しそう」
 飛び退くようにして、とっさに離れた。
 エルキドゥさんは顔をしかめるようにぎゅーっと目をつむったまま、のろのろと身体を起こして膝立ちになったかと思えばくるりと反転させて、窓ガラスに額をくっつけている。冷やしているつもりなんだろうか?
 そんなエルキドゥさんを見ていると、駄目になっていた思考がだんだん冴えてきた。私はきょろきょろと見回してあたりに誰もいないのを確認してから、もう一度窓枠のほうへと寄った。エルキドゥさんから1メートルほど距離をおいて腰を下ろした。
 端末を取り出して時間を確認すると、ここに来てから小一時間は経っていた。会話していたぶんを差し引いたとしても、とんでもない時間キスをしていた事になってしまう。その間、運良く誰もここを通らなかったのが、言い方は奇妙だけれど不幸中の幸いという感じだ。
 端末をポケットにしまいこんで、膝を抱える。目頭を膝小僧におしつけて、一度だけ深く呼吸をした。それから顔を上げて、今度は片膝に唇を押し付ける。まだ火照ったような感じが残っていた。
 ここに来て最初に座った時は寒く感じたのに、今はエルキドゥさんと離れていても身体が熱い。
 喉が干上がりそうな感覚に見舞われて、何度も唾液を飲み込むけれど、収まりそうになかった。
「なんか、今日だけで一生分のキスをしたような気がします」
 思わず独り言が口から漏れ出た。
「……そうだね」
 そんな私の言葉にエルキドゥさんは律儀に応じてくれたけれど、どことなく生返事っぽい。きっと頭を冷やすのに夢中なんだろう。
「エルキドゥさんの意外な一面を垣間見ました」
「……お互い様だと思うけれど」
「そですね……」
 お互いにそういう素質があるのは喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか、よくわからない。
 横目でちらっとエルキドゥさんの方を伺うと、エルキドゥさんも横目で私の方を見ていて、視線がかち合ってしまった。
「えへへー」
 笑いかけると目をそらされる。そらされたのに、どうしてか嬉しく感じるのが不思議だ。
 エルキドゥさんの吐息でガラスが曇ったりするのを眺めてから、抱えていた膝を元に戻してガラスにもたれかかった。いつもは冷え冷えとして触るのも憚られるようなそれが、今はひんやりしていて気持ちがいい。熱でぼうっとする頭が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
だからだよ」
「……え?」
「相手がだから、あんなふうになるんだ」
 ぽそぽそとつぶやく声に、心臓が跳ね上がる。
「……私も、エルキドゥさんとだから……エルキドゥさんとじゃないと、あんなふうにならない気がします」
 エルキドゥさんの方を見れば、エルキドゥさんもこっちを見てくる。
「そっち行っても大丈夫ですか?」
「……うん。だいぶ落ち着いてきたし、平気だと思う」
 言い終わると、エルキドゥさんはのろのろとガラスから額を離して座り直していた。私も私で行儀が悪いけれどお尻だけでエルキドゥさんの隣に移動する。手が触れた瞬間どちらともなくビクッと体を震わせて、それに驚いて顔を見合わせて、二人して笑った。
 手を重ねて握り合うと、エルキドゥさんが顔を近付けてくる。一瞬目を閉じかけてから、慌ててハッとして繋いでいない方の手でエルキドゥさんの口元を押さえつけた。
「んむっ?」
 エルキドゥさんが思いのほか可愛い声を出すから、吹き出しそうになるのを堪えつつ手を離した。
「きょ、今日はもうだめ! おしまいです!」
「どうして?」
「品切れみたいなもんです。在庫切れです」
「おかしなことを言うね。たとえの在庫がなくとも、僕の在庫はあるよ」
 返し方を学習しているような気がする。
「そもそも、あんなにキスしたら、もういいやってなりません?」
「ならないかな」
「それに、初めてキスした日にあんなのは、普通じゃないですよ」
「僕は現代人の普通はわからないよ。それに僕は普通じゃないし、だから、普通じゃなくてもいいんじゃないかな?」
 奇妙な説得力に、返す言葉がない。それにこのまま続けたら押し問答になりそうな予感がする。
「……い、一回だけですよ?」
「……うん」
 どちらともなく顔を寄せて、ちゅっと口付けて離す。
 そのまま見つめ合っていると、エルキドゥさんがふっと優しげに微笑んだ。
の目はきれいだね」
 とんでもない事を口走るものだから、思わず硬直した。
「光の反射で僕の色が映り込んで、緑に見える時があるんだよ。図書室でその事に気付いたけれど、あの時は遠かった。今はこういうふうに間近で見れるし、あの時よりもずっと緑に輝いてて、きれいだ」
 そう言われてしまうと、うつむくこともできないし、目をそらすこともできない。
「僕は変わらずの事を見てるよ。だからね……も僕のことを見てて欲しいんだ」
 ごまかしのない人には、ごまかしのない言葉を。
「見ます。見てます、ずっと」
 ずっと、が無理なのはわかっている。だって、時の流れを止めることなんて出来ないから。
 でも、見ている瞬間が一秒でも長ければ長いほど、いつか大事な、とても大事な思い出になる。
「光栄だよ。……嬉しいな、すごく嬉しい」
 はにかむように笑うその顔を脳裏に焼き付けて、大事にしまう。
 きっとこれから、かけがえのないものがどんどん増えていくのだろう。両腕にいっぱい抱えきれないくらいに。