Green happines : 09

 一睡もできずに迎えた翌朝。
 部屋の時計を確認して、鳴る予定だったアラームを停止させる。眠れなかった割に、思考は澄み切っていた。シャワーを浴びて、服を着替える。いつもならここで朝食を摂るために食堂に足を向けるのだが、気力がない。部屋でビスケットタイプの高カロリー栄養食を朝食代わりに食べる。もそもそと咀嚼するたびに、口の中の水分を奪われる感覚に見舞われる。飲み込むのがつらくて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで飲んだ。歯を磨いて、身だしなみを確認して部屋を出た。
 待機室に向かうと、人がまばらに揃っていた。挨拶を交わしながらぐるりと見回す。今回の作業に従事する人たちはもうすでに着替えをすませている。それに私もならうべきだと、ロッカールームに足を運んだ。防寒具一式を取り出す。事前の説明では建屋の外で作業するのと同じ格好をしろという説明があった。おそらく暖房が効いていなくて相当寒いはずだ。防寒用のオーバーオールを制服の上から履き、ジャンパーとネックウォーマーとゴーグルを取り出して小脇にかかえ、待機室に戻る。
 一人の先輩が気を使ってコーヒーを淹れてくれたので、しばし談笑に身を投じる。すると徐々に人が揃ってきた。そろそろ頃合いになってきたのでストーブの熱で上着をあっためていると、唐突にぽんぽんと肩を叩かれた。
 ダストンさんだった。弛緩しきっていた気を引き締め、体ごと向き合う。
「おはよう。今日はよろしく頼むぞ」
「おはようございます。はい、よろしくおねがいします」
「分からない事は絶対に聞くんだぞ」
「はいっ」
 精一杯の返事は、待機室の雑談の声にかき消された。どことなく緊張でソワソワする。
 すると、ダストンさんが口もとに手を当てて、ひそひそ話をするみたいなポーズを取る。周りに聞かれたくない話でもあるのだろうか。首を傾げて顔を近づける。
「ところでお前、昨日のサーヴァントとはいつから交際するようになったんだ?」
「ぶッ!? ……ご、誤解です誤解っ! そんな関係じゃないですっ!」
「俺はそんなつもりで言ったわけではないんだがなぁ。あと声でかいぞ」
 見ると、部屋中の視線が私に集まっていた。身体が縮こまる。すみません、と小さく謝ると、視線は一気にばらついて、周囲の雑談の声がまだ賑やかになった。
 とりあえず、誤魔化すように一度こほんと咳払いして、暖かくなった上着を羽織った。ぬくぬくだ。
「へ、変な事言わないでくださいよ、もう!」
「なんだ、俺の勘違いだったか。すまんな」
「何を勘違いしたらそう見えるんですかっ!」
「てっきり廊下でキスしとったのかとばかり」
「キ、キキキキスッ!? ししししてませんっ!!」
「どもりすぎだ。落ち着け。声を抑えろ」
 ダストンさんの静かな指摘にコクコク頷いて、一旦深呼吸をはさむ。
「ど、どこをどう見たらそう取れるんですかっ」
 上着のファスナーに手をかけながら小声で言うと、
「お前の後ろからだ。頬抑えとるわ近いわで、あんなん勘違いしないほうがおかしい。声をかけたのも、往来でこりゃあいかんぞと思った次第だ」
 ダストンさんの言葉に、廊下でのやり取りがフラッシュバックした。
 瞬間、顔が一気に熱くなる。
「ぁわ、あわわわわっ……!」
「動揺しすぎだ。……ファスナー噛んでるぞ」
 見ると、引き上げようとしたファスナーが布を噛んでしまっていた。慌てて取ろうとするけどいい具合に噛み合っていて取れない。あたふたしていると、見かねたダストンさんが直してくれた。
「正直、冗談のつもりだったんだがなあ。こんなにわかりやすくボロを出すとは」
 ダストンさんに憐憫の眼差しを向けられ、私はうつむくほかない。
 私はエルキドゥさんに対して、好意を抱いている。
 その事に気付いてしまったおかげで、一晩眠れなかった。
 でも、もしかしたら違うんじゃないかという一抹の期待もあった。けれど、こうしてダストンさんと話すことで、完膚なきまでに実感してしまう。
 ダストンさんは好きだ。とても好きだ。
 でもそれは、エルキドゥさんに向ける好きとはまるで違う。
 好きは好きでも、たったひとりに向けるもの。私がエルキドゥさんに抱いている感情だ。
 エルキドゥさんにミサンガを渡した時『仲良くなりたい』と願ったが、それはほとんど冗談に近いものだった。場を取り持つための、応急処置的なでまかせにしか過ぎない。
 どうしてそれが、こんなに持て余すほど大きくなってしまったのか。
「なんて言ったらいいのか……。相手はサーヴァントだ。難儀するぞ」
「……それは、わかってるつもりです」
 エルキドゥさんを含むサーヴァントの方々がここにいるのは一時的なものだ。いつかはいなくなってしまう。だからこそ、私の抱える想いを早めにどうかしなければ、ダストンさんが言うように難儀するのは目に見えている。
 正直、どうしたらいいのかわからない。
 そもそもなんでこんな事になってしまったのかもわからない。転機は何が原因なんだろう。
 エルキドゥさんの外見がいいから? それとも私がエルキドゥさんのマスターでもなんでもないのに、話相手として構ってもらえるから?
 なにひとつ嫌なことを言われないから?
 ――見ているよ、と特別な言葉をもらえたから?
 あのとき、優越感を感じなかったといえば嘘になる。でもそれを認めてしまったら、自分がひどく打算的なものに思えてきて、ともすれば今抱えている感情が恋と呼べるものなのかわからなくなってくる。これは恋というよりも、甘えというものに近いんじゃないだろうか。
 もしそうだとしたら、自分自身のことが嫌いになりそうだ。
 とりあえず、次エルキドゥさんに会う時は、どんな顔をして会えば良いのだろう。ちゃんといつもどおりに話せるのかも、不安で仕方がない。
「ほら、行くぞ。切り替えろ」
「はいっ」
 うじうじと考えていても、仕方がない。ダストンさんに促されるまま、私は待機室を後にした。
 外壁と外壁の間にある部屋は薄暗く、打ちっぱなしのコンクリートが薄ら寒い景色に思える。暖房が効いていないせいで空気は冷え冷えとしていて、熱に浮かれていたような気持ちがどんどん冷めてゆく。抱えていた不安も冷えて固まって、心の奥底に澱のように積み重なりはしているけれど、あまり気にならなくなった。
 ネックを上げて口元を覆い、フードをかぶってゴーグルをする。準備万端の状態で、うしっと意気込んでいると、横にすっとダストンさんが並んできた。
「そういやお前、案外面食いだったんだなぁ」
「せ……せっかく切り替えたのにっ! 話を蒸し返さないでください!」
 ダストンさんが小声で言うから、私も小声で反論する。
「あと面食いじゃないですよ」
 ダストンさんはニヤニヤと笑うばかりだ。
「どうだかなあ……」
 耐えかねて憤慨する私を、どうどうとなだめるダストンさん。
 このたわいもないやり取りのおかげで、いつもの調子に戻れたような気がした。

 廊下を歩いていると、大窓の縁に見慣れた人物が座っているのに気付き、立香は歩みをゆるめた。それにつられて、隣を歩いていたマシュも歩調をゆるめ、やがて二人同時に立ち止まる。
 エルキドゥだ。しかし座ったまま動かない。
 いつもであれば気配感知を使い、すぐにこちらに気付いて声をかけてくるのに、今日はそれがない。だから立香もマシュもお互いに、何かを察して声をかけることはなく、ただ遠目にその人物を眺めた。
 エルキドゥは何故か自分の頬を両手で包み込むようにしていて、どことなく満足そうに感じ入っている。何か意味がある行為なのか、立香にとっては意味がわからない。
 大窓の外に広がる景色は猛吹雪だが、しかしエルキドゥの周りの空気はどこかあたたかさを感じる。まるで春の陽気めいた、柔和な空気だ。
「なんだか、ぽやぽやしてますね」
「……ぽやぽや?」
 マシュの呟きに立香は首をかしげる。ぽやぽやという言葉の意味はよくわからないが、しかしぽやぽやしていると言われると、そういう風に見えてくるのが不思議だ。確かに、今のエルキドゥはぽやぽやしている。
 立香は今、自分の補助役のサーヴァントとしてエルキドゥを指名している。よって朝一番に顔を合わせるのがエルキドゥになるのだが、今朝はこんな感じだっただろうかと記憶を掘り返してみる。エルキドゥに朝起こしてもらったあと、マイルームの前で別れるまでの間はべつだん普通だったように思う。とはいえ、記憶があやふやだ。もしかすると寝ぼけ眼の状態ではいつもどおりに見えただけで、朝からおかしかったのかもしれない。
 とりあえず立香は考え込んだ末、近寄って声をかけてみることにした。
「エルキドゥ、さっきから何してるの?」
「やあマスター。手のひらの温度を確かめていたよ」
 エルキドゥは今しがた気付いたかのような素振りで立香を見上げ、目を細めてから微笑んだ。それから何事もなかったかのように、顔を元の位置に戻している。
 対する立香といえば、困惑が先立って仕方なかった。手の平の温度を確かめるってなんだ? という疑問が頭の中でぐるぐるしている。
「ええと……何故に?」
「昨日、色々あってね、の頬に触れたんだ。熱かった」
 いつもの根拠のない自信に満ち溢れたような態度はどこへやら。ゆっくりぽそぽそと喋るエルキドゥはまるで別人のようで、立香はさらに困惑した。どうやら昨日、食堂でエルキドゥの要望を聞き入れ別れた後に“何か”があったらしい事は漠然と察することが出来た。
「その温度を手のひらに再現して、こうしているとね」
「うん」
「嬉しいような、くすぐったいような気分になるんだ。なんだか、とても心地が良いような気がするんだよ」
「ええと……」
 言いよどむ立香の口もとが自然とひきつった。変態か? と内心不安になる。そんな立香に対し、エルキドゥは一度目配せをして、少し苦いものが混ざった笑みを浮かべた。
「今のマスターの目は、おかしなものを見る目だね」
「いや、そんな事は」
「ううん、気を使わなくていいよマスター」
 慌てて取り繕う立香をよそに、エルキドゥはゆるく首を振った。
「僕自身、おかしいという自覚はあるんだよ。だからね、正直に指摘して貰えるほうが僕としては助かるのさ。僕の自己診断機能が正しく作動しているからこそ、認識機能に異常が発生しているという核心が持てるからね」
 ふざけた姿勢を取りながら大真面目に語るエルキドゥを前にして、立香はすぐに真顔に戻った。やや考え込むような素振りを見せた後エルキドゥの隣に腰を下ろし、マシュも手招きして呼び寄せる。そうまでしても姿勢を崩さないエルキドゥに苦笑を浮かべつつ、立香は口を開いた。
「おかしいって、俺にはそう思えないけど。何か心当たりでもあるの?」
「マスター、にミサンガを貰った時の事は覚えているかい?」
「覚えてるよ」
 いまだ右手首に結ばれたままのミサンガに視線を落として、立香は頷いた。
「それじゃあ、がフレーム問題の話をしてくれたのは?」
「……なんとなく、かな」
 と立香は口にしたものの、いまいち覚えていなかった。どういう話だったか必死に記憶を掘り起こしていると、隣に座るマシュが身体を前に傾けるようにしてずいっと身を乗り出してきた。
「確か……視界に映るものを一つの風景、つまりフレームとして捉えた場合、人間は的確な判断ができますが、未熟な人工知能は的確な判断ができなくなってしまう……といった話ですよね?」
「うん、マシュの言う通りだよ」
 エルキドゥは頷いて両頬から手を離し、親指と人差指で四角い枠組みを作った。枠の中に見える景色をぼうっと眺めながら言葉を続ける。
「どうしてかわからないけれど、視界にがいると、そっちを真っ先に認識するようになってしまったんだ。この前だって、マスターを優先すべき状況なのに、気がつくとについて行ってしまった。これはまさしく誤作動だろう? でも、直す方法がわからない」
 言い終わると、手の枠組みを床へと向ける。
「おまけに、今や気配感知まで使ってしまう有様なんだよ。は今15メートル真下にいる。周囲に複数の気配があるから、きっと何かしているんだろうね。……いつ終わるのかな」
 エルキドゥは小さな溜息をこぼして、両手を頬に当て直した。物思いに耽る様子で、またぽやぽやし始めている。
 立香は無言でエルキドゥを眺めた後、隣のマシュに顔を向けた。マシュも無言のまま立香と顔を見合わせ、互いにキョトンと目を丸くする。立香は迷った末、ポケットから端末を取り出した。メモアプリを開いて文字を打ち込み、その画面をマシュに見せた。
『どういう事だろう?』
 立香には、エルキドゥがこうなった理由がなんとなく察する事ができる。だがこの予想は正しいものなのか、マシュと確認したいがための行動だった。
 そのまま端末をマシュに渡すと、マシュも同じように文字を打ち込む。しばらくして立香に端末を返してきた。
『多分ですが、エルキドゥさんはさんを好意的な人物として捉えているように見えます。好意といっても、私や先輩に向けるのとは違ったものに思えます。先輩はどうですか?』
『ほぼ同じだよ。とりあえず、突っついてみても大丈夫かな?』
『おそらくは』
 文字だけのやり取りを終えると、立香とマシュの間にはどことなくそわそわした空気が漂っていた。
 きっと今からする行動は、エルキドゥにとっては余計なお節介になるかもしれない。下手を打つと自爆するかもしれないから、慎重かつ丁寧に。立香は自分にそう言い聞かせながら、誤魔化すようにひとつ咳払いをしてみせると、エルキドゥへ顔を向けた。
「変なこと聞くけど、エルキドゥはさ、さんの事が好きなの?」
「……好き?」
 一呼吸の間を置いて、エルキドゥは穏やかに頷いた。
「うん、そうだね。もそうだけれど、ここにいる人間はみんな好ましいよ。マスターも、マシュも含めて」
「そ、そうじゃなくて……俺が言いたいのは、さんの事が特別に好きなのかなって事」
 エルキドゥはキョトンと目を丸くする。
「特別に好きな個体は無いって言ってたし、もう作る気もないみたいだったけど……でも、今の俺からするとそう見える。……あ、いや、俺の勘違いならそれでいいんだ。ごめん」
 立香は緊張しつつ、エルキドゥの反応を待った。しかし、反応が一向に返ってこない。
 怪訝に思い、おそるおそるエルキドゥの顔を覗き込む。目を丸くしたままの状態で固まっていた。試しに小突いてみても、ほんの少し揺れるだけだ。嫌な予感がして顔の前で手を振ってみるが、無反応。いつもの透き通るような美しい目は、暗澹として濁りを帯びている。
 エルキドゥは――動作停止していた。
「ええええっ! なんで!? どうしてっ!?」
 あたふたする立香の隣で、マシュが神妙な面持ちになる。
「今の先輩の発言は、エルキドゥさんをそこまで追い込むほどの破壊力があった、という事でしょうか?」
「何を冷静に分析してんのマシュ!? 俺そんな大層な事言ったかな!?」
 大騒ぎする二人をよそに、エルキドゥは固まったまま動かない。
 どうやら藤丸の問いかけのせいで、思考の海に漂った果てに寄る辺を見つけられず、意識を失ったようだった。しばらく会話は無理だろうと察した二人は、このままエルキドゥを放っておくわけにもいかず、エルキドゥの意識が復帰するまで待つことにした。
 しかし、戻らない。10分待っても戻らない。何分くらいかかるんだろうかと立香とマシュがやり取りをしても、ずーっと固まっている。しびれを切らして軽く肩をたたいてみるが、目ぼしい成果は得られなかった。これ以上刺激を与えるのは気が引けるから、結局こうして座って待つほかない。
 立香はなんともいえない申し訳無さに見舞われた。マシュも同じようで、自分の膝の上に置いた手をじっと見つめている。このまま戻らなかったらどうしようという不安から逃げるように視線をさまよわせると、ふと廊下の向こうに上から下までほぼ真っ白という奇抜な格好の姿が見えた。
 マーリンだ。うろうろしている。散歩の最中のようだが、しかし様子がおかしい。壁ばかりを見分しては、首を傾げたりしている。立香が怪訝な視線をマーリンに向け続けていると、彼もようやく立香に気付いたようで、足早にこちらへ近づいてきた。
「おやマスター、それとマシュに……まあ、いいか」
 マーリンはエルキドゥに視線を向け、動作停止している事にすぐ気づいて口を閉ざした。
「やあマーリン。何してるの? 散歩?」
「探しものだよ。……ええと、ほら、この前マスターと一緒に居た時に見かけただろう? だったかな、そんな名前の女の子」
 杖を肩にあてて、それに軽くもたれるような姿勢を取りながらマーリンは言う。立香はマーリンの探しものを不可思議に思いつつ、口を開く前に一度エルキドゥに視線を向けた。相変わらず動作停止しているのを確認して、マーリンに再度向き合う。
さんに何か用事なの?」
「ちょうど刈り時になったから気配を頼りに探しているんだが、彼女がいる部屋の入口がどこにあるかわからなくてね。壁の中に機械を収納している部屋があると聞くから、きっとそこにいるんだろうけれど……マスターは知らないかい?」
「知らないし、さんは多分仕事中だから邪魔したら駄目だってば……それより、何だよその刈り時ってのは」
「言葉通りさ。いい具合に育っているからね、収穫して食べるんだよ。私は夢魔だからね」
 絶句するマシュの隣で、藤丸はただただ驚愕した。マーリンが好む感情の中でもひときわ大好物である“それ”が彼女の中で育っていたことにまったく気付かなかったからである。ともすれば、エルキドゥがこうなってしまったのも多少の納得ができた。
 立香がそんな事を考えていることも露知らず、マーリンはびっくりしたように瞬きを繰り返して、それから困惑したように微笑んでみせる。一見すると柔和で友好的に見えるが、実際はまったくそういう意図は孕んでいないのがこのマーリンという夢魔の本質だ。
「……だ、駄目ですマーリンさん。それは絶対にいけません!」
「マーリン、さんは駄目だ。我慢してくれ」
「十分我慢したとも。マスターにはわからないと思うけれど、君から貰う感情はまあまあ悪くないんだが、可も無くといったところでね、やはり女の子の恋心に勝るものはないと思ったよ。あれほど美味しいものはないからね」
 マーリンは恍惚とした様子で語り終わると、一つ溜息を吐いていつもどおりの表情に戻った。
「そもそもの話だけれどね、マスター。あの子が恋愛感情を抱いている相手は、元を正せばただの土くれだよ?」
 立香はぎょっとした。
「おまえっ……本人のいる前でなんて事を!」
「どうやら意識がないようだからね。聞いていないさ」
 マーリンに促されるかのように立香はエルキドゥに視線を向けたが、確かに彼の言う通り未だ動く様子がない。内心、ほっと胸をなでおろしてしまう。
 そんな立香の挙動にふっと笑みを浮かべて、マーリンは穏やかな口調で語り始めた。
「今は人の輪に馴染めるよう自分を再定義しているが、本来は思考力を備えた大きな粘土の人形だ。いわば化け物なんだよ。たとえばマスター、私が意思を持ち言葉を話す泥人形を作ったとして、君はそれに恋心を抱いてくれるかい?」
 杖にもたれかかるように立っていたマーリンだが、やがて「よっこいしょ」と地べたに腰を下ろした。
「無機物に恋心を抱くなんて、生殖機能を持つ生物としては甚だおかしいものさ。命を紡ぐ事を拒むのは、あらゆる理に対する冒涜だよ。そんなもの、摘み取ってあげたほうが世のため人のため、そして私のためになると思わないかい?」
 立香は一瞬たじろぎそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「最後に本音を出すな! ……それは当人の問題であって、俺たちがどうこう口を出す問題じゃないだろ?」
「違う」
 マーリンがぴしゃりと言う。立香は思わずつばを飲み込んだ。
「君は積極的に関与するべきなんだよ、マスター。君がこのカルデアに『エルキドゥ』というサーヴァントを召喚した事によって発生した全ての事柄の責任は取るべきなんだ、カルデアのマスターとして」
 立香の態度が強張っているのに気がついたのか、マーリンはマスターの緊張が解けるよう穏やかに微笑んで見せる。
「異常というものは伝染するんだ。異常と接し続けると、それが慣れに変わり、やがて当たり前となる。そうなったら元々の“普通”を持つ人間は、異常に慣れた人間を“異常者”と見なすだろう。エルキドゥという異常に慣れてしまったら、あの子は普通に暮らせなくなってしまうよ。魔術適性もない、ただの人間なのだからね」
 言い終わるなり、マーリンは仕込み杖から剣を素早く引き抜いて剣を振り払った。金属音と共に火花が散る。向かってくる鎖を剣の腹で受け流し、マーリンは立ち上がって飛び退るように後退し、距離を置く。
 唐突な展開に硬直していた立香だったが、隣に座っているエルキドゥがゆっくり立ち上がる姿が視界の端に映り込むと、ハッと我に返った。慌ててエルキドゥにしがみついて抑える。こんな微々たる力ではエルキドゥを止められないことは重々承知だったが、やらないよりはマシなはずだ。
 珍しく表情に嫌悪をにじませるエルキドゥの瞳が金色に光っているのを見て、立香はヤバいと直感した。臨戦態勢だ。
「エルキドゥ、待った! ストップ!」
「ごめんねマスター、待てないよ。とても不愉快なんだ」
「頼むから一旦落ち着いてくれー!」
「十分落ち着いているとも」
 エルキドゥはマスターを気遣うように語りかけ、それからマーリンに顔を向ける。対するマーリンは更に後退しようとしたのだが、右足首に鎖が巻き付いている事に気づき、身動きがとれないことを理解すると、今度は演技っぽく肩をすくめてみせた。
「どこから聞いていたのかは知らないが、私としては事実を羅列しただけで癇癪を起こす人形の相手をするつもりはないんだがね」
「思考の処理に殆どのリソースを費やしていただけで、五感は機能させておいたままだ。最初から全て聞いていたよ」
「そうかい、ややこしいものだね。とりあえずこの鎖を解いておくれ」
「申し訳ないけれど解く気はないよ。……君は人間ではないから、手加減する必要はなさそうだね」
「おや、やる気満々のようだね。でも君が暴れたところで私は逃げ切れる自信がある。困るのはマスターだよ」
「それはどうかな? 逃げ切れるかどうかは、やってみないとわからないよ」
「……まったく、血の気が多いのは困りものだね。君はずっと猫をかぶっているべきだと思うよ。本性が凶暴だと知られたら嫌われてしまうだろうからね」
 人で無し同士の売り言葉に買い言葉の応酬を耳にしながら、立香は目眩を覚えた。胃痛もしそうになってくる。
「そもそも、あの子の中では君が一番の特別な椅子に座っているというのに、君はどうなんだい?」
「……僕?」
「座る椅子が一つしか無いのに、その椅子にもう誰か座ってしまっている椅子取りゲームなんて誰も見向きしないだろうね。きっと君もそうなるだろうさ」
 エルキドゥが小さく身じろぎするので、立香は必死にしがみついた。
「マシュー! 助けてー!」
「は、はい!」
 焦りつつ様子を伺っていたマシュは、立香の助けを求める声に半ばパニックに陥り、どうしたらいいのか視線をさまよわせる。結局、立香の反対側からエルキドゥにしがみついた。
 少年少女に板挟みになったエルキドゥは、しばらくマーリンを睨み続けていたものの、やがて眉をハの字にして困惑げな表情になり、左右にしがみつく二人を交互に見た。この二人に害を加えることはエルキドゥの現在の定義に反するものであり、好ましいことではない。ましてや片方は自分のマスターであり、もう片方はマスターの最も信頼する盾である。身動きを取ろうと思えば取れるが、エルキドゥにはできなかった。
「二人とも、離れてくれないかな。これでは本領発揮できないよ」
「しなくていいから!」
「そうです! いったん落ち着きましょう!」
 左右から同時に声をかけられ、エルキドゥは硬直する。嘆息混じりに両手を持ち上げると、二人の体がビクッと震えた。
「……わかったよ」
 エルキドゥは二人の背中をぽんぽんと叩いて、戦闘体制を取りつつあった身体から力を抜いた。それを察して、立香もマシュもゆるゆると力を抜き、エルキドゥから離れる。いつの間にかマーリンの足に巻き付いていた鎖も消滅しており、マーリンは自分の足に異常がない事を確認してから安堵の息を吐いた。
「鉾を収めてくれて何よりだよ」
「君は気に食わないが、マスターに落ち着けと言われてしまったからね」
「結構、結構。……まあ、何やら勘違いしているようだから訂正させてもらおう。心を食べると言っても感情を少し貰うだけだよ。あの子が君に抱いている感情の地盤は変わらない。例えるならば、そうだね……。無調整の牛乳から脂肪分を取り除いて、無脂肪牛乳になるくらいの違いしかない」
「いやそれかなり違うからねマーリン。口当たりが相当こざっぱりするから」
 立香の言葉をさして気にせずにマーリンは言葉を続ける。
「それに最大限の譲歩はするつもりさ。まずは本人に伺いを立てて、それからマスターにも伺いを立てて、双方からオーケーを貰ったら頂こうとね。というわけでマスター、許可をくれたまえ」
「令呪をもって命ずる、さんの感情を喰うのを我慢しろマーリン!」
 立香の右手の甲から、まばゆい光を放たれる。それは一瞬の事で、場にいる全員がぽかんとしている間に、手の甲に浮き上がっていた令呪の一角がじわりと薄れて消えていった。
「マ、マスターの鬼ーっ! 鬼畜ーっ! 悪魔ーっ!!」
「悪魔はお前だろーっ!」
「私は夢魔だよ!」
 廊下にマーリンの声が響き渡る。それを合図に立香はずんずんと足を踏み出してマーリンの方へ向かい、正面切って文句を言う。それを合図に、二人はやいのやいのと言い合い出す。マーリンは杖の先端で立香の頬をゴリゴリし、立香は四方八方に跳ね散らかった白髪を引っ張って応戦している。しまいには取っ組み合いを始めてしまった。
 喧嘩というにはやや間抜けっぽい空気をまとわせる二人をマシュはぼんやりと見つめ、おそるおそるエルキドゥに視線を向けた。
「エルキドゥさん、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。それより、マスターに加勢したほうがいいだろうか」
「い、いえ……しなくてもいいかと」
 立香は両手を頭上に持ち上げて奇声を発したかと思えば、それを振り下ろす。油断していたマーリンは肩筋にもろに喰らってしまい、目をちかちかさせながらたたらを踏み、やがて尻餅をついた。立香はその隙にをついて飛びかかり、あれよあれよという間にキャメルクラッチが決まった。ギブアップの合図なのかマーリンが右手で床をバンバンと叩いている。
「……僕は、どうしたらいいんだろう」
 マシュは一瞬、何のことか判別がつかなかった。どことなくシュンとしているエルキドゥを見てようやく言わんとする事を察し、そして加勢しに行くつもりなのかと考えた自分を密かに恥じた。
「その、差し出がましいようですが、マーリンさんの言っていた椅子をもう一つ増やすことはできないんでしょうか?」
「……増やす?」
「私は、そうやって大事なものをゆっくり増やしました。先輩だって、きっとそうだと思いますよ」
 マシュはエルキドゥに微笑みかけて、それからプロレス技を決めて悦に浸っている立香を見つめた。床に突っ伏すマーリンの背中に座り、両手をあげてガッツポーズを取っている。その間抜けな光景を見ていると、なんだか自分の発言の説得力が減っていくような気がして、マシュは猛烈に不安になった。
 エルキドゥもぼんやりと立香を眺め、しばらくして困ったような顔をマシュに向ける。
「つまり、僕の一番だと思っている椅子を増やせばいいのかな?」
「そ……それはちょっと違うような気がしますが……」
「違う? 何が?」
「ええと……」
 言いよどむマシュに、エルキドゥが首をかしげる。なんといったらいいものかマシュが逡巡していると、
「君は、あの子とどうなりたいんだい? あの子との在り方、それが重要だよ」
 床に突っ伏したままのマーリンが両手で上半身を起こして、そんな言葉を投げてよこした。
「既存の椅子を増やしたら、それ以上でもそれ以下でもない関係がまたひとつ増えるだけだろう? それとは違う関係がいいのであれば、増やす椅子に別の名称を付けるべきだろうね」
 マーリンは「あいたたた……」と呟きながら床に突っ伏した。腰をやられているようだった。
 エルキドゥは目をぱちぱちとしばたたかせると、思案するようにややうつむきがちになる。
と、どうなりたいか……どう在りたいか……」
 小声で独り言をぼやきながら、思案を巡らせている。
 しばらくして、
「余裕がないから、とても難しそうだな」
 エルキドゥが自虐的に微笑むものだから、マシュの表情はもちろん、立香の表情も曇る。
「でも……うん。頑張ってみるよ」
 意気込むように言って、エルキドゥは笑った。

 お昼どきを過ぎた食堂はがらんとしていたが、作業に従事した班員が押しかけると割とにぎやかになった。一人で食事を始める人もいれば、気の合う人同士で一緒のテーブルに座って食事を始めたりと、それぞれに分かれていく。私はというと、一人でカウンター席に腰を下ろしていた。
 ただでさえ大きな悩みの種を抱えているのに、作業工程で順番を間違えるという初歩的なミスを犯したせいで気分はもうどん底だった。ダストンさんには怒鳴られなかったけれど、いたわるような言葉をかけられたのがかえって辛い。首にかけていたゴーグルを外し、端末の資料を読み直していると、ブーディカさんに名前を呼ばれた。私のぶんの昼食のトレーを持っている。それを受け取ると、一旦端末をポケットにしまった。流石に端末を見ながらの食事は行儀が悪い。両手を合わせて、のろのろと食事を始める。
 仕事のミスは散々反省したからとりあえず置いといて、エルキドゥさんだ。私がエルキドゥさんの事を好きなのは別にいいけれど、問題はエルキドゥさんがどう思っているかだ。
 以前、ここでミサンガを渡した時、余裕が無いとエルキドゥさんは言っていた。記憶領域の空きが足りないから他に気を配る余裕がないという、そんなニュアンスだったように思う。
 そもそもサーヴァントは、特異点の修復のために協力しているからここにいるのであって、別に誰かと仲良くなるためにいるわけじゃない。
 そんな状態で告白したところで、ごめんねと微笑んで断られるイメージしか思いつかない。成功する見込みが想像できず、食欲が減っていく。おまけに振られて距離を置かれるというのが一番堪える。
 もしかすると、私の気持ちをどうにかしたほうが穏便にいくんじゃないだろうか。
 私がエルキドゥさんに何かを求める権利なんて、もとより持ち合わせていないのだから――。
 そこまで考えてから、ぶんぶん首を振ってテーブルに突っ伏した。テーブルにおでこを押し付けて唸り声をあげていると、
「失敗は成功のもとだぞ」
「あんま落ち込まないのー」
 何かを勘違いした先輩方が私の背中をばしばし叩きながら声をかけてくれる。見てくれは理系組織と見せかけでおきながら蓋を開ければ体育会系ってのはよくある話だ。痛みを伴う励ましにお礼を言うと、先輩方は満足した様子で食事を受け取り、テーブル席へと移動した。
 私も食べなければ、と食事に手を付け始めると、トレーの隣にマグカップが置かれた。紅茶がなみなみと注がれているけれど、表面に白くて丸いマシュマロが五つ乗っている。顔を上げると、やっぱりブーディカさんだった。
「飲み物、用意してなかったみたいだから……よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 どうして紅茶にマシュマロが入っているのか。ココアにマシュマロを入れる飲み方は知っているけど、こんな飲み方なんてした事ない。初めての事に戸惑いつつカップを持って軽く揺らしていると、カウンター越しのブーディカさんから笑う気配を感じた。
「ちょっと元気が無さそうだったから、マシュマロはおまけ。つっついて飲むとすごく美味しいの。それで元気だしてくれると嬉しいな」
 にっこり笑って、ブーディカさんは奥に引っ込んでしまった。ブーディカさんの背中を目で追いかけて、手元の紅茶に目を落とす。食堂でしか交流のないブーディカさんですら、私が本調子でない事を見抜かれてしまった。
 とりあえず、気にかけてくれたブーディカさんのためにも前向きに考えよう。紅茶に口をつけると、溶けかかったマシュマロと紅茶が混ざり合って、ふんわりした甘さが口の中に広がった。これは食後にじっくり飲んだほうがしっくりくる感じがした。カップを置いて食事に手を付ける。食欲が復活したおかげで、さっきとは大違いのペースで食事が減っていく。

 聞き慣れた声に名前を呼ばれ、びっくりして振り返る。
 いつの間にか、エルキドゥさんが後ろに立っていた。
 気持ちの整理がまだついていないのに、こんな状態で会いたくはなかった。緊張で固まる私をよそに、エルキドゥさんは穏やかに言葉を続ける。
「こんにちは、今日はえらく重装備だね」
「こ、こんにちは、エルキドゥしゃん」
 噛んだ。恥ずかしいやら情けないやらで途方も無い屈辱感に見舞われる。でもエルキドゥさんが気付かないのが幸いだ。いや、あえて触れないだけかもしれないけれど。
「隣に座ってもいいかな」
「ど、どうぞ」
 エルキドゥさんは椅子を引いて、ちょこんと座った。こぢんまりと収まる姿勢が、何だかいつものエルキドゥさんらしくないような気がする。何かあったのかな?
「今日の作業はもう終わりかい?」
 エルキドゥさんはテーブルの上に置きっぱなしのゴーグルを不思議そうに指先でちょいちょい突きながら尋ねてきた。その仕草を見ていると、緊張が和らいでいく。
「ううん、……あ、いいえ。午後もまだやりますよ」
「そうか。今日の仕事はもしかすると、この前が説明を受けていたやつかな」
「そ、そうですそうです」
「大変だった?」
「ちょっと大変です。建屋内だけど、暖房が効いていないので寒くて。おまけに今日、手順を間違えるポカをやらかしたから、後でもう一度資料を見ておかないと」
「なるほど。怪我しないように気をつけてね」
「はい」
 言葉が途切れた。なんとはなしにエルキドゥさんを見ると、エルキドゥさんもこちらを見返してくる。お互いに顔を見合わせていると、耐えきれなかったのかエルキドゥさんが首を傾げた。
「僕の顔に何かついてるかな」
 どこか少しおろおろした気配をまとわせながら、気遣うように尋ねてくる声は優しい。思えば前にも同じことをこの食堂で尋ねられたような覚えがあるけれど、あの時と比べるとずっと雰囲気が柔らかくなったような気がする。
 こんな些細な変化を見て取って、とてつもなく嬉しく感じてしまうのは、私が単純だからだろうか。
 うじうじ悩んで積み上げてきたものよりも、この一瞬で感じた喜びのほうが大きかった。それが悩みの塊を全部打ち壊してしまった。
 やっぱり、好きなんだなぁ。実感する。
「い、いえ。……なんていうか、エルキドゥさんって不思議だなあって」
「……不思議?」
「その、いろいろ悩み事があったんですけど、……エルキドゥさんの顔を見たら、悩みが吹っ飛んじゃいました」
 ほんのちょっと照れ臭くて誤魔化すように笑う私を、エルキドゥさんはきょとんとした顔で見つめてくる。それから少し身じろぎして、やがて微笑んでくれた。
「僕も今日いろいろ言われてね、悩んでいたんだ。でも、君の顔を見たら、どうでも良くなったかな」
 一瞬驚いて、それから笑ってしまった。エルキドゥさんもくすくす笑っている。珍しい。
「お互い顔を見て悩みがなくなるのも、おかしな話だね」
「そうですねぇ」
 しみじみ言ってから、スープを飲む。お皿に残った最後のプチトマトを食べる。
「まあ、エルキドゥさんはただならぬ破壊力を備えてるようですし、私の悩みなんていちころですよ」
「おかしいな、僕の兵器としての破壊力は君には一度も見せた事がないと思うのだけれど……」
「いろいろ言われたっていうのは、藤丸くんとマシュさんにですか?」
「……。うん、そうだよ」
「二人にガツンと言われちゃったんですか?」
「うん、まあ、そんなところかな」
 言いにくそうにしている。藤丸くんとマシュさんに何を言われたか気になるけど、深く追求するのはやめたほうがよさそうだ。
「よくわからないですけど、何かお力になれそうな事があったら遠慮なく言ってください」
「うん。……でも、大丈夫だよ。これは僕自身でなんとかしなければいけない問題だと思うから」
 すごく前向きな発言に驚いたけれど、よくよく考えるとエルキドゥさんの後ろ向きなところをあまり見たことがない。私もエルキドゥさんを見習って、前向きに考えよう。
 ごちそうさまをして、最後のとっておきとして残していた紅茶を飲んで一息つく。熱で溶けかかったマシュマロが紅茶と混ざり合って、ふんわり甘くて美味しい。
「それ、おいしい?」
「おいひーです」
 笑顔で答えると、エルキドゥさんはふっと微笑んだ。その表情のままじーっと見つめてくるので、息が詰まって落ち着かなくなってきた。どきどきしてくる。
「あ、あんまり見られると、ちょっと飲み辛いんですが」
「視界にちょうどよくがいるから仕方ないよ。それに、壁やテーブルなんか見ていてもつまらないし」
 納得できるような、納得できないような……。とりあえず気にしないように努めるのが一番かもしれない。
 紅茶を飲みながら、エルキドゥさんの視線から逃れるようにして食堂を見回してみる。一緒に作業を行う先輩方は結構残っていた。食べ終わってない人もいるし、食べ終えて食後の談笑に花を咲かせていたりもしている。ともすれば、時間がくるまではここで過ごしていいかもしれない。
 とにかく、午後からの作業でヘマをしないよう資料を見直そうと端末を取り出すと、エルキドゥさんが少し身体を傾けてきた。首を傾げてみせると、エルキドゥさんが口を開く。
の休憩時間が終わるまで、しばらくここにいていい? 邪魔はしないから」
「構わないですけど……エルキドゥさん、何か用事とかは」
「暇だから大丈夫だよ。の休憩はいつまで?」
「あと30分くらいです」
「そうか」
 エルキドゥさんは頷いて、邪魔をしないと言ったくせに端末を不思議そうに覗き込んでくる。他の人ならきっと嫌悪感で端末を隠してしまうかも知れないけれど、エルキドゥさんならまあいっかと思ってしまうのは、惚れた弱みというやつなのだろうか? 結局、エルキドゥさんにも見えやすいように端末を移動させてしまう始末だった。
 休憩が終わるまでの間、エルキドゥさんは何も言わず、ずっとそばにいてくれた。
「それじゃあ、がんばってね」
「はい、がんばります!」
 仕事に向かう私を見送ってくれるエルキドゥさんに感謝の気持をこめてぶんぶんと手を振って、私はその場をあとにした。ちょっと歩いてから悪戯心が芽生えてきて、さりげなく後ろを振り返ってみると、エルキドゥさんはまだそこにいたままだった。
 振り返った私に気付いて、エルキドゥさんは大きく手をふる。
 なんだか元気をもらえたような気がしてきて、私も大きく手を振ってから駆け足で待機室へと向かった。