Green happines : 07

 カルデアのボイラー施設は、ごくごく普通の高層ビルにある施設の何倍もの規模があるそうだ。よって資格のない私も手伝いとして同行する事がある。設備の点検の補佐ならまだしも、今回は清掃込みの大作業。なのでいつもの制服の上につなぎを身に着ける。
 作業に必要な道具を抱えて廊下を歩きながら、私は朝のミーティング時に端末に配布された資料に目を通していた。先をすたすた歩く先輩方は昨夜、職員寮区画にある談話室で昨夜見た映画の話題に花を咲かせている。
 近々、外壁内の粒子加速装置の点検を行うらしく、そこに私の名前が記述されていた。今まで参加したこともなかったため、寝耳に水だった。迷った末、先をゆく先輩に声をかけて尋ねてみると、
「そんな心配するような作業じゃないよ。システムと冷却装置の点検。あと外壁に霜が付いてたら取るくらいだ」
「難点はまあ、寒い事ぐらいだな。不安ならダストンに聞けばいいよ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
 ダストンというのは、技師班のトップメンバーの一人ダストンさんのことである。宇宙線研究の第一人者であり、学術に没頭した結果路頭を彷徨っていた所を、初代所長のアニムスフィアさんに拾ってもらったという経緯を持っている。そして私の幼少からの知り合いでもあり、研究者として憧れの人であり、また大いに尊敬できる人だ。
 その人と肩を並べて作業ができるということに息を呑み、それから端末の資料に記された名前を二度見して、内心喜んだ。やる気が満ちてくる。
 そのおかげで、フィルターの煤取りや点検の補佐などもスムーズに行うことが出来た。作業もだいぶ早めに終わったので、ボイラー清掃に携わった班員はそれぞれ道具を片付けたら別の作業に合流する事となった。資格を持っている先輩がたは最後に一通り点検をするとのことで、彼らと別れて一人で廊下を歩いた。
 外壁の円周に沿った広い廊下に出ると、ふと向こうから藤丸くんが歩いてくるのに気がついた。一人だけでとぼとぼと歩いている。
 藤丸くんもやがて私に気づくと、少し思案げだった表情をゆるめた。私は小走りで近づく。
「こんにちは藤丸くん。お疲れ様です」
さんもお疲れ様。何か作業でもしたみたいだね」
「そうです。ボイラー室の点検」
「……ああ、道理で」
 私の顔を見ながら、納得したようにうんうん頷く藤丸くん。
「藤丸くん、マシュさんは?」
「マシュはちょっと、女性サーヴァントに呼ばれちゃってね。だからどうしようかなと」
 曖昧に言葉を濁している。
「んんと、呼び戻さなくてもいいんですか?」
「うん。午前でやること済ませたから、今日は午後から自由なんだ。だからね、話がしたいって連れてかれちゃって」
「そうなんですか」
 藤丸くんが申し訳無さそうな表情をしているのに気がついた。私が首を傾げると、藤丸くんが言う。
「あの、さん。鼻のてっぺんに煤がついてる」
「へっ!? ……ほんとに?」
「うん」
 袖でごしごしと拭いてみる。というか先輩方、どうして教えてくれなかったんですか。
「と、とれたかなぁ?」
「とれてないです」
「んんんー……これでどうだっ!」
「自信満々なとこ申し訳ないですけど、全然取れてないです。むしろ悪化してます」
「……うう」
 煤は伸びるから厄介だ。洗濯物についた嫌な汚れの筆頭格。藤丸くんのアドバイスを聞き、あれこれ模索しながら袖で鼻をこするけど、悪化の一途をたどるばかりだ。
「そもそも、汚れた袖で拭くのが駄目だと思うんだよ。ほらさん、ハンカチ」
「だ、だめーっ! 汚れるから駄目!」
 見かねた藤丸くんが綺麗なハンカチを出そうとするから、必死に首を振って拒否する。それでも私にハンカチを押し付けてこようとするから、逃げるように後ずさった。こんな煤でまっさらなハンカチを汚すのは忍びない。
 と、ふんわり生ぬるい風が右頬にあたる。藤丸くんがギョッとして私の右隣を見るから、私も釣られてそっちに視線を向ける。
 エルキドゥさんがいた。びっくりして思わず悲鳴を上げてしまったけれど、エルキドゥさんは気にする素振りを見せない。
「い、い、いつからここに!?」
「最初からいたよ」
 そういえば、サーヴァントは霊体化というものが出来るというような話をしていた。それじゃあ今まで一人だと思っていた藤丸くんは、実はエルキドゥさんと一緒にいたという事なんだろうか? なんて考えていたら、唐突にエルキドゥさんの右手が私の方に伸びてきた。逃げる間もなく、白い袖を顔に押し付けられる。
「んんっ!?」
「じっとしてて」
 汚れている鼻のところを、袖でこすられた。力任せにこするわけでもなく、丁寧に拭うみたいな手付きで、何度も何度も袖を往復させる。
「取れたかな……うん、取れてる。でも気になるなら、顔を洗ったほうがいいと思うよ」
 そう言ってエルキドゥさんは手を引っ込めた。その際、真っ白い上着の右袖が黒く汚れてしまっているのが見えた。
「あの、袖、汚れて……あ、洗濯っ」
「いいよ。魔力で元に戻るから」
 魔力で元に戻るとは一体どういう意味なのか。藤丸くんに助けを求める視線を向けると、その視線に気づいた藤丸くんが、かくかくしかじか説明してくれた。
 今のエルキドゥさんは実体化しているけれど、霊体化、つまりさっきみたいに透明な状態になると、聖杯に登録されている霊基のデータにのっとって、現実との差異を比較し修復できるのだという。そういえばカルデアの電力の殆どを、そのサーヴァントの魔力に注ぎ込んでいるだとか聞いた覚えがある。
「僕らは霊体化する事によって、身体に負った傷を癒やす事もできるんだよ。全て魔力でできているからね。だからこうした衣服の汚れも修復できるのさ」
「へ~……便利ですねぇ……」
 想像の範疇を超えているせいか、私の口から出た声は間抜けじみていた。
「わかっているのかわかっていないのか。……まあ、いいけれどね」
 エルキドゥさんはふっと目を細めると、少し半透明になった。エルキドゥさんの向こう側が透けて見える。えっ? と思った瞬間には、その姿が霧散してしまった。
 ふわふわと空気中を漂う粒子を掴もうとすると、指先が触れた瞬間に消滅してしまう。他の粒子も、やがて空気に溶け込むようにして消えていった。
 幻想的な光景を目の当たりにして、私はぽかんとするしかない。
「消えちゃった」
「サーヴァントってそういうものだから」
 そういうものってどういうものだろうなんて疑問を口にするのは、野暮な気がした。
 藤丸くんが言うには、実体化しているときより霊体化しているときのほうがサーヴァントにとっては楽なのだという。だからカルデアに召喚されてからは必要とされる以外は霊体化を維持し、ひたすら眠り続けているサーヴァントがいるらしい。逆も然りで、料理好きの例のサーヴァントだったりは霊体化するのが稀だという。エルキドゥさんは実体化より霊体化して過ごす割合が多いようだ。ともすれば、エルキドゥさんに遭遇できる機会はものすごく貴重な気がしてきた。
 粒子を掴むことがかなわなかった指先を見つめる。
「……お礼、言いそびれちゃった」
 思ったことが、ぽろっと口からこぼれた。
「いや、見えないだけでまだいるはず」
「ほ、ほんとに?」
 辺りをきょろきょろと見回してみるけれど、目に見えるのは藤丸くんだけだ。他には誰もいない。
「ぁ、ありがとうございますっ!」
 誰も立ってないところに向かってお礼を言うと、思ったより大きな声が出た。シンと静まり返った廊下に私の声が反響する。反響音が止んだら、空虚な感じが増してきた。助けを求めたくなって藤丸くんを見れば、微笑ましいものを見るかのような目つきで見てくるものだから、なおさら虚しさが増す。
『お礼を言われるほどの事ではないよ』
「きゃあっ!?」
 いきなり、エルキドゥさんの声がどこからか聞こえてきた。でも、その声はなんだか頭の中に直に響いてきて、耳で捉えているわけではないと瞬時に理解する。脳の奥深くに染み渡るような奇妙な感覚のせいで、首筋のあたりにぶわっと鳥肌が立つ。でもそれは一瞬のことで、エルキドゥさんの声が聞こえたという歓喜が、未知の感覚に対する怖気を打ち消してしまう。
「わっ、ほんとにいたっ! ど、どこにいるんだろ?」
 きょろきょろ見回して、空気の中を探るように手を動かしてみる。藤丸くんが笑っているけど気にしない。
『そっちにはいないよ』
「ええと、じゃあこっちですか?」
 見えないエルキドゥさんを求め、手をばたばたさせる私。
『ぜんぜん違う方向だね。こっちだよ』
「どっちかわかんないですよ~!」
 だんだん混乱してきた。俯いて肩を震わせている藤丸くんの周りをぐるぐる回ってみる。
「エルキドゥ、頼むからさんで遊ばないでくれ」
『ごめんよマスター。の反応がおかしかったから、つい』
 藤丸くんが怪訝そうな表情を浮かべて空中を見つめるから、私は自然と足を止めた。私がじーっと見つめると、藤丸くんは「なんでもないよ」と誤魔化すように首を振る。
「もしかして、エルキドゥさんがそこにいるんですか?」
「あ……いや、違うから」
『こっちだよー』
「エルキドゥ、謝ったのに二言目で遊び始めるのはやめよう」
『うん。申し訳ないとは思ってる。これで最後にするよ』
 エルキドゥさんの姿は見えないけれど、藤丸くんに窘められて素直にうなずくその姿が容易に想像できてしまい、私の口もとが勝手に緩んだ。
 さて。藤丸くんの休み時間を無作為に消費させるのはこれ以上迷惑だろうし、私も仕事に戻らなければいけない。こんな所で油を売っていてもお互いに良い方向には働かないだろう。でも、久しぶりに藤丸くんとエルキドゥさんと少し話ができたことは素敵な収穫だった。これを午後のやる気に上乗せしていく。
「それじゃあ藤丸くん、またね」
「はい。さんも気をつけて」
 手を振って藤丸くんと別れ、廊下を道なりに進む。T字の分岐点に差し掛かると、直進せずに暗がりのほうへと曲がって進んだ。
 清潔感あふれる壁が続くが、ある区画を堺に養生シートが張り続けられるようになる。そのまま道なりにすすむと、技師班が使う搬送用エレベーターが設置されている区画が見えてきた。
 人間用のものとは違い、高さも幅も最大荷重も倍以上違う。機材運搬用と称する割に、使う予定がない日は皆移動用として平気で使っているので、私も手を出すようになった。まあ、近いほうが便利という話だ。
『こっちに来たのは初めてだな。大きな昇降機だね』
「運搬用ですからね、中もすごく広いですよ。ここら一帯は整備専用通路みたいな感じですから、研究員の方々がこっちを使うメリットはほぼないですし、普通は近寄りませんよ」
『あそこに見慣れない機械があるね。なにかな?』
「あれはフォークリフトです」
 区画のすみっこにこじんまりと駐車されている二台のフォークリフト。あれが有るのと無いのではぜんぜん違う。重い荷物が入ったダンボール箱を倉庫から人の手でえっちらおっちら運ぶくらいなら、機械で一気に必要な階まで運び、そこから台車で細かく運搬したほうが楽なのだ。というような事をかいつまんで告げると、ふんふんと納得するような声が返ってきたのを合図に、私はエレベーターの下降ボタンを押した。
 それから、ようやくハッと気付いた。
「エルキドゥさん!? なんでいるんですか!?」
 シーンと静まり返る空間をキョロキョロと見回す。誰もいないけれど、声がしたのは確かだ。
「返事してくださいよー!」
 呼びかけてみても何の反応も返ってこない。まさか今のは幻聴だったのだろうか? 自分の頭を一瞬疑ったが、さっきのやり取りは記憶に新しく、鮮明に思い出せる。
 いる、絶対にいる。
 根拠のない確信を胸に秘めていると、エレベーターが止まってブザーが鳴った。人間用のはチーンと可愛い音がするけれど、運搬用は人身事故に繋がりかねないからビーッと結構大きい音がする。その音におっかなびっくりしつつ、開いたドアの先に足を踏み入れずに私はエレベーターの扉をすぐに閉じた。
 しばらくして。
『折角来たのに、どうして閉めるんだい?』
 辛抱たまらなかったのだろうか、エルキドゥさんが尋ねてきた。
「エルキドゥさんがいるからですよ」
 むう、と不満そうな唸り声が聞こえる。むうと言いたいのはこっちです。
が僕を目視できない以上、僕がここにいるという事にはならない。そう思わないかい?』
 猫を使ったあの有名な思考実験みたいな事を言い出した。まったく、何に影響されてるんだろうこの人は?
「思いません。適当な事を言って誤魔化さないでください。どうしてここにいるんですか?」
『どうしてって、ついて来てしまったからだよ』
 思わず脱力した。そのままへたりこみそうになるのを何とか堪える。
「な、なんでついてきちゃったんですか~」
『何故って……何故だろう?』
 不思議そうに自問自答するエルキドゥさんの声。あの、視線を斜め上にしながら考え込む様子が目に浮かぶようだ。そのまま黙り込んでしまうから、ここにいるのか不安になってしまい、思わず「エルキドゥさん?」と声をかけてしまった。
『多分、と話がしたかったんだ』
「……話?」
『うん』
 エルキドゥさんが長考の果てに出した答えは私からすればなんとも可愛い理由に思えてしまい、口もとが緩みそうになってしまう。
『マスターとはいつだって話ができる。マスターに呼ばれたら僕は文字通り飛んでいけるのさ』
 それこそどこへだって行けるとも――と言葉尻に付け加えながら、私のすぐ目の前、手を伸ばせば届く距離にエルキドゥさんが姿を表した。とても穏やかな表情を浮かべている。
「でも、とはたまにしか会えないだろう? この前図書室で会った時はそれなりに言葉を交わすことができたけれど、ほんの少しの間の事だ。たとえ会えたとしても挨拶程度で終わってしまうしね」
 私はエルキドゥさんのマスターではないから、接する機会が少ないのはしょうがない事だ。もしも会話という行為を求めているのであれば、それこそ他のカルデア職員に話しかければいいのだけれど、あいにくエルキドゥさんが他の職員に話しかけているところを見たことがないし、申し訳ないけれど想像がしにくい。もしかすると、ほとんど会話はないのかもしれない。
 だとするならば、とても得難い言葉を向けられているのはすぐに理解できた。
 それが、私にとっては勿体ないほど大きな好意である事も。
「そう言ってもらえるのは嬉しいです。でも、今はまだ作業が残ってるので無理ですね」
「手厳しいね」
「エルキドゥさんだって、藤丸くんと一緒にいたのは何か用事があったからじゃないんですか?」
「そうだね……今はマスターの補助役を任命されてはいる。でも、呼ばれたから応じた、それだけだよ。詳細な説明は受けていない」
「用事があるようなものですよね、それ。大変、エルキドゥさんを藤丸くんのところに返しに行かないと」
「僕を落とし物か何かみたいに言わないでほしいな」
「今となっては似たようなものですよ」
「……僕は落とし物だった……?」
 自己の概念にゆらぎが生じたのか、疑問を持っているご様子。
 とりあえず端末で連絡を入れれば事はスムーズに運ぶのではないかと思ったが、端末に登録されているのは仕事を共にする技術局の人がほとんどだ。藤丸くんの連絡先は登録されていない。あとで藤丸くんの連絡先を聞いて置こう、なんて考えながらポケットに忍ばせた手を元の位置に戻す。無線でわざわざ技師班の連絡網に回した所で無駄だろうし、結局足で歩いて藤丸くんに会いに行くしかなさそうだ。
「エルキドゥさん、行きましょう」
 私が声をかけると、エルキドゥさんは眉間に少しシワを寄せて、反抗的意思を目で訴えてきた。
 仕方なく左手を掴んで引っ張ってみるけれど、これが動かない。ビクともしない。
 たとえば軽自動車とかに体当りすると、タイヤがはずんでちょっと動いたりする。そういう可能性すら感じさせないほど微動だにしない。まるで足の裏に太い根っこでも張り巡らせているかのようだ。
 こんな状態になったせいで気付いたけれど、エルキドゥさんって大根とかカブみたいな色合いをしている。これが童謡の大きなカブみたいに引っこ抜けるような余裕があってくれればいいのだけれど、そんなのを微塵も感じさせないほどとにかく重い。緑豆モヤシみたいに細いのに重い。なんというかもう、自分の目的を達成するまでは梃子でも動かないぞという強固な意思を感じる。もしかしなくともエルキドゥさんて、かなりの頑固者なんじゃないだろうか。
 ――そういえば、エルキドゥさんの目的って何だったっけ? 考えて、ハッとした。
「エ、エルキドゥさんっ!」
「説得しようとしても無駄だよ」
 やっぱり頑固者だ。いや、今はそうではなくて。
「藤丸くんのところまで送ります。もし見つからなかったら、エルキドゥさんを遺失物として司令室までお届けします」
「だから僕は落とし物のたぐいではないと」
「その間、歩きながらお話しましょう」
 遮るように言えば、エルキドゥさんが目を丸くする。不満そうに寄せられた眉が、ゆっくり元に戻っていく。
 手を引っ張ると、エルキドゥさんの身体が簡単に傾いた。重かったのが嘘みたいに、とたとた歩いてきて、隣に並んでくれる。ホッと胸をなでおろして手を振りほどこうとすると、エルキドゥさんは手を握ったまま離してくれない。今度はこっちに問題が生じてしまった。
「エルキドゥさん?」
「……」
 エルキドゥさんは無言だ。何か面白い悪戯でも思いついたみたいに微笑んでいるからたちが悪い。
 さっきはエルキドゥさんを無我夢中で引っ張るほうに集中していたから、まったく気にも留めていなかった手の感触に意識が集中してしまう。手触りはすべすべで、手汗も感じなくてカラッとしてて、ひんやりしていて冷たい。
 なんだろう。最初は気恥ずかしかったけれど――何かが違うと気付いたら、一瞬で熱が引いていった。
 見てくれは人間の手と同じだけれど、でも、違う。直感めいたものがそう告げている。生きている人の手じゃない。生物として明確に違う。隔たりがある。
 そもそも、エルキドゥさんが生物なのかすら不明だ。
 でも、エルキドゥさんの動作は人間と同じく自動的であり、思考は自立していて能動的だ。それは生物と、ひいては私となんら変わりないわけで――手触りが違うからって、なんだっていうんだろう。
 思考に没頭している内に、エルキドゥさんが手を緩めた。離れようとするその手を、私はなぜか追いすがるように掴んでしまった。開きっぱなしだったエルキドゥさんの手が、控えめな力できゅっと握り返してくる。
 おそるおそるエルキドゥさんの顔を見れば、微笑むように目を細めているけれど、どことなく嬉しそうに見える。きっと私のうぬぼれに違いない。慌てて顔をそらす。
「とりあえず、藤丸くんと別れた場所に引き返しましょうか」
「……そっちだと、マスターと会うのに遠回りになってしまうね」
 思わず目を丸くした。
「藤丸くんがどこにいるか、わかるんですか?」
「わかるよ。僕は気配感知に長けているからね。何十キロ先にいようが、僕にはわかるんだよ」
「すごいですね」
 感嘆の溜息混じりに言うと、エルキドゥさんは少し誇らしげだ。
「でも、やっぱりさっきのところに戻りましょう」
 誇らしげな気配が一転して、しおしおになった気がする。
「何故かな?」
「その、藤丸くんがいる場所に向かうって事は、お話する時間が減っちゃうって事ですから」
 ぱああああ。今のエルキドゥさんに効果音をつけるならこんな感じだ。
 なんだろう。エルキドゥさんは大声をあげて笑ったりはしないし、表情も少し硬い感じがするけれど、それでも乏しいながらに表情がコロコロ変わるのが可愛いし、とても愛嬌を感じる。不思議な人だ。
「エルキドゥさんは、今日は何をしていたんですか?」
 とりあえず当たり障りのないきっかけとして尋ねてみると、隣を歩くエルキドゥさんはすぐに答えてくれた。
「朝、レイシフトに向かうマスターを見送って、それからは自室で待機していた。帰還したマスター呼ばれて今に至るよ。特に何もしていないね」
「そ、そうですか。図書室で本を借りていたみたいですけど、読書とかは?」
「今日はそういう気分ではなかったからね。ただ静けさに身を委ねていたよ」
 言い方は凄くもっともらしいけれど、ただぼーっとしていただけじゃないんだろうか。それとも瞑想してたとか? 謎すぎる。
「そういうは顔を煤で汚すのに気付かないほど、ひたむきに作業を頑張っていたようだね。僕とは正反対だ」
「今日はいい事がありましたからね、それをやる気に換算しました!」
「いい事?」
「個人的な理由で尊敬している方がいるんですけれど、その人とようやく肩を並べて作業できる日が来そうなんですよ」
「へえ。よかったね」
「はい!」
 自分でも些細な事だとは思うけれど、それでもエルキドゥさんによかったねと言ってもらえると、不思議と嬉しさが倍増した。口もとがニマニマする。これなら煤で汚れた甲斐があるというものだ。
 と思ってから身体を傾ける。さっきエルキドゥさんが私の顔を拭ったと思しき袖を見る。
「どうかした?」
 私が不躾にじろじろ見たせいで、エルキドゥさんは怪訝そうだ。
「そういや、さっきの煤汚れが見当たらないなって思いまして」
「うん。消えたと思うよ」
 エルキドゥさんが私に見えやすいように、わざわざ右手を掲げてくれる。
「わっ、ほんとにない! エルキドゥさんの言ってたこと、嘘じゃなかったんですね!」
「……」
 たしなめるようにギュッと手を握られた。ちょっと痛い。
「本当に便利ですねえ……衣服も元に戻っちゃうなんて。便利ですねえ」
 思わず便利と2回口に出してしまう。
「じゃあ、たとえば私のこの汚れたツナギをエルキドゥさんに着せたら、魔力で綺麗になったりしませんか?」
「しないね。そもそも僕が身にまとっているものは衣服というよりも、魔力で作った体の一部のようなものだからね。こういう形として聖杯に登録されてしまっているんだよ」
「なるほど。サーヴァントのみなさんが毎日同じ格好なのはそのせいなんですね」
 食堂に立つエミヤさんは毎日同じ格好だったから、てっきり着る服がないのかなとか不安になっていたけれど、そういう事だったのか。今になって改めて考えると、エミヤさんに対して大層失礼な偏見を持っていたんだな私。
「一応、着替えることはできるんですよね?」
「うん。実体化している時であれば着替えることは出来るよ」
 ふんふん、と頷いて、視線を真下に。
「エルキドゥさんっていつも裸足ですけど、平気なんですか? 何か踏んで『痛っ』とかなったりしないんですか? 靴とか履いたりしませんか?」
 ただでさえ場所によっては暖房が行き届いていないカルデアでエルキドゥさんのような軽装でいられると、見ているこっちとしてはたまったものではない。ましてや裸足でいられると視覚の暴力だ。
「怒涛の質問だね。平気だし、これで動き回るほうが性に合っている。靴は不要かな」
「でも寒そうです。エルキドゥさんの手、冷たいし」
「……冷たい?」
「はい。ひやっとしてます」
 例えるならすべすべの紙に触ったときのような感じだ。でも紙だってずっと触っていると体温を吸収してほんのりあったかくなったりするけど、エルキドゥさんの手はそうもいかない。まるで体温を感じさせない。
 エルキドゥさんは不思議そうに私を見て、それから握っている手に視線を移すと、
「それなら、これでどうかな」
 得意げに言うエルキドゥさんの目は金色だ。何かをやらかしたようだけれど、何がどうなっているのかわからない。エルキドゥさんに尋ね返そうとしたところで、ふとエルキドゥさんの手があったかくなっている事に気がついた。にぎにぎしてみると、にぎにぎされる。
の体表温度を測定し、平均値を割り出してその温度に設定してみたよ。どうかな?」
 言いながら微笑むエルキドゥさんの目は、いつもの緑色に戻っていた。
「……あったかいです」
 あったかいけど、自分の体温の平均値だと言われるとすこぶる微妙だ。でも、ひんやりしている時と比べて、手に馴染むような感じがする。
「他に違和感はないかな」
「ないです。なんだか、普通の人と手を繋いでいるみたいですよ」
「そうか。なら実体化の際にはこの温度を維持しようかな」
 なんとも言えない事をごく当たり前のように言うから私の心境は複雑だ。けれど、エルキドゥさんは満足そうだし、私も手があったかくて満足だし、まあいっか。
 エルキドゥさんがこうして、自分よりも遥かにひ弱な存在を模倣する事により、人に寄り添おうとしているのだと考えると、なんだか胸があったかい気持ちで一杯になった。
 模倣は、人間にとっては生きるために必要な行為だ。子は親を模倣することによって歩き方や言葉の発し方を学ぶ。だから、エルキドゥさんに模倣の対象として選ばれるのはとても喜ばしい事だと思う。
「ふふー」
 頬がほころんでしまう。
「どうしたの、薄気味悪く笑って」
「薄気味悪いってなんですか!? 嬉しくて笑ってただけですよー!」
 声を荒げる私を、エルキドゥさんは面白そうに見ている。エルキドゥさんなりの冗談だったのだろうか。少し傷ついたけど、悪戯っ気を発揮してくれるようになったのは、親しくしてもらえている証拠だ。
「たかだか手の温度を上げただけだ、そんなに喜ぶようなことかい?」
「兵器を自称する人が、戦闘とは無関係な戯言に耳を貸して実行に移してくれたっていうのは、嬉しい以外の何物でもないですよ」
の指摘は大いに熟慮する余地があっただけさ」
「そですか」
 しただけ、あっただけ、とエルキドゥさんは言うけれど、その『だけ』を向けてくれるのが嬉しい。それだけでエルキドゥさんに対する気後れが少しずつ和らぐのだ。
 なんだか気持ちが有頂天になってしまい、繋いだ手を前後に軽く揺らしながら歩く。エルキドゥさんは困惑した様子で肩を強張らせていたけれど、歩いている内に一緒に合わせてぷらぷらと手を振ってくれるようになった。まるで小さい頃に戻ったみたいだ。
「エルキドゥさんって、こうして手をつないで歩くのは初めてですか?」
「そうでもないけれど……どうしてそう思ったの?」
「手をぶんぶん振ったら、ちょっとぎこちなかったです」
「奇怪なことを始めたなと警戒したんだよ。とはいえ、僕もこうして手を繋いで振って歩くというのはした事がなかったけれどね」
「なるほど、子供っぽい事はしなかったと。まあ、エルキドゥさんて、大地にしっかり根を下ろしてどっしり構えてそうですもんねえ」
「いや、根は下ろしていないよ。動けなくなるからね」
「もののたとえですよ。そういえばさっき手を引っ張った時ものっすごく重かったですけど、どういうカラクリなんですか?」
「……。君は、思い切りよく聞いてくるね」
「はい! エルキドゥさんの核心に迫っていきたいですから」
 私の返事を聞いて、エルキドゥさんは口もとは嬉しそうに緩ませるけれど、眉は困ったように下がっているという曖昧な微笑を浮かべる。聞いちゃまずかったみたいだ。
「あっ、答えたくないなら結構です、すみません……」
「元気がいいなと思った次の瞬間にはしぼんだり、本当に忙しいね。……答えてあげたいけれど、マスターの害につながらないか考えていたんだよ。僕の性能について君に説明して、もし君がそれを誰かに話したら、それは人づてに広まっていくだろう? そうして僕が敵と対峙するとき、敵がその広まった情報から対策を練って予期せぬ戦法を繰り出してくるかも知れないからね」
 奥深いところまで考えている。考えなしに聞いてしまった自分が恥ずかしい。
「す、すみません。そこまでの機密情報だとはつゆ知らず」
「人の話は最後まで聞いてくれるかい? まあ、そこまで考えてから、今は別に聖杯戦争のさなかでもなく、僕が対峙すべき敵はこのカルデア内から情報を引き出す余地がないと判断した。たとえそうなったとしても、僕はそう簡単に負けはしないし、大丈夫だろうとね」
 自信満々に言って、それから親切に解説してくれた。
 エルキドゥさんいわく『変容』というらしい。サーヴァントであるエルキドゥさんが持つ特性のひとつだそうだ。身長体重体温はもちろん、ありとあらゆる体の構造を組み替えることができるという。
「なんだか、チートっぽいですね」
「チート……ズルという意味だね? これはれっきとした僕の性能によるものさ、ズルではないよ」
「その変容っていうのは、どんなものにもなれるんですか?」
「そうだよ。とはいえ、純然たる水や気体に変容しろと言われたら、とても難しいけれどね。分離ができないから、見てくれはそれなりでも奇妙な物質になってしまうだろう」
 ものには限度がある、という事のようだ。
 とりとめのない話をしながら二人で肩を並べて歩く。自分でもびっくりするくらい口が回るのがわかるし、エルキドゥさんもこの前よりも多く喋ってくれて、私の話に合わせて相槌も打ってくれる。たわいもない話がこんなに楽しく感じるのはいつぶりの事だろう。とても久しい事のように感じた。エルキドゥさんも楽しんでくれていたらいいと、穏やかに微笑む顔を見ながら差し出がましい事を考える。
 そうしている内に、いつの間にかさっき藤丸くんと遭遇した場所まで来てしまっていた。
「やっぱり、いませんね」
「うん。でも、気配は近いよ」
 少し張り詰めたような空気をまとわせて、どこか遠くを探るように見つめるエルキドゥさん。空いた片手を持ち上げて、人指し指で向かうべき方向を差し示す。
「あっちかな」
「はい。行きましょう」
 不思議なもので、辛く感じる時の体感速度はすごく遅くて、いつになったら終わるんだろうとやきもきするけれど、楽しい時間は呆気なく過ぎてしまう。
「見つけたー! やっと見つけたーっ!」
「……見つかってしまったね」
 肩をすくめるエルキドゥさんに微笑み返して、声がしたほうに顔を向ける。藤丸くんがこっちに慌ただしく駆け寄ってくるのが見えた。その奥には、真っ白い上着を羽織った人がいる。すごく特徴的な外見は、今までに見たことがない。もしかすると藤丸くんがエルキドゥさんを探している間に、一緒に探すことになったのだろうか。
 藤丸くんの視線が少し下がる。エルキドゥさんと繋いだままになっている手に視線が集中しているのを感じて、私が慌てて手を解こうとするよりも先に、エルキドゥさんがパッと手を離した。足を踏み出して藤丸くんのほうへと歩み寄っていく。その背中をぼんやり眺めながら、暖かいままの手をゆるゆると握った。
「マスター、手間を取らせて大変申し訳なかったと思っているよ」
「笑顔で言うことじゃないよねそれ……」
「見合う収穫があったからね」
 悪びれた様子のないエルキドゥさんに、藤丸くんはもうお手上げだと言わんばかりに盛大に溜息をついて、こっちに身体を向けた。
さんごめんね。仕事の邪魔をしてしまって本当にごめん」
「い、いえ。大丈夫ですから!」
 ぺこぺこと謝られてしまうと、エルキドゥさんとのお喋りを長引かせるために遠回りする道を選んだのが忍びなくなってくる。後先を考えず行動してしまった事を猛省しなければ。
「そ、それじゃあ藤丸くん、私はここで失礼します」
「うん。それじゃあね、さん」
 藤丸くんに頭を下げたところで、
、またね」
 顔を上げると、藤丸くんの隣でエルキドゥさんがにこやかに手をふっていた。本当に、マイペースな人だと思う。
「はい、また」
 手を振り返して、私は小走りで次の作業場所へと向かったのだった。

 小走りで廊下の向こうへと去ってゆく姿を見送ってから、エルキドゥはくるりと身体を反転させて立香に向き直った。ほんの少しの間そばを離れただけなのに、立香は表情に疲労をにじませている。もはや、やつれているといっても過言ではない。別れた時は、べつだん普通だったはずだ。
 エルキドゥは怪訝そうに首を傾げてから、傍らにいるマーリンに目を向けた。
「僕がいない間に、マスターに何かしたのかい?」
 対するマーリンは、困惑げな微笑を浮かべている。
「……私の名誉のために言っておくがね、マスターが疲労困憊しているのは君を探していたからだよ。散歩している私が見かねて手を貸すほどにね」
「そうか。疑って申し訳ないね」
「うん。君が気ままに振る舞うのは勝手だ。しかし、周囲の迷惑も少しは考えたほうがいいと私は思うけれどね。ほらマスター、君からも何か言いたまえ」
「次からは勝手にいなくならないようにしてくれ、頼むから。ほんと頼むから」
「ほんの遊び心のつもりだったんだけれど……ごめんよマスター」
 申し訳無さそうにするエルキドゥをこれ以上責める気にもなれず、立香はこの話は一旦終わりだと言う意味もこめてしっかりと頷いた。
「そういやエルキドゥ。さんのこと名前で呼ぶようになったんだね。いつから?」
 会話の中で気付いたことをさり気なく聞いてみると、エルキドゥは一度まばたきをしてから口を開いた。
「少し前からだよ。……もしかして、駄目かな?」
「いいや。いつの間にそんな事になってたのかなって、ちょっと驚いただけだから」
 カルデア内におけるサーヴァントの待機時行動は基本的に制限をかけていないため、自由行動が主だ。しかしエルキドゥは自発的に動きはすれど、興味のあるサーヴァントに接触しにいくことがほとんどで、職員に話しかける事はレアケースに近い。それが親しげに名前を口にし、手をつないで歩く程度には親交を深めているとなると立香にとっては予想外でしかないのだ。明日の天気は快晴なのではないか? と疑うくらいである。
「もしマスターが気にするのであれば、そうなった経緯を話そうか?」
「……いや、いいよ。まあ、気にならないと言えば嘘になるけど、無理して話さなくてもいい」
「じゃあ内緒にしておこうかな」
 ふふっと楽しそうに笑うエルキドゥを見て、立香はまあいいかと思考を打ち切った。あのエルキドゥが人に馴染もうとする姿勢を見せているというのは、喜ばしい事他ならない。
 とりあえず喉が乾いたから食堂でお茶でも飲みにいかないかと立香が提案すると、エルキドゥとマーリンは二つ返事で応じた。
 勝手に歩き出すエルキドゥの背中を見ながら、立香は一向に立ち止まったままのマーリンを振り返り、見かねて近寄った。マーリンは「ほうほう」と頷いたまま、廊下の向こうを見つめている。
「フクロウの真似かな?」
「ふふふ。獲物を狙う猛禽類、さしずめそんな所だね」
「ほら、エルキドゥに置いてかれるよ」
「はいはい、わかったよ」
 適当な返事とともにマーリンが足を踏み出すと、ちゃっちゃと歩く、と立香が背中をバシバシと叩く。痛がるマーリンの声に気付いたエルキドゥが振り返り一旦立ち止まると、立香はエルキドゥのほうへと小走りで駆け寄った。
「老体はいたわって欲しいんだがね」
 ふっと、マーリンは微笑む。
「しかし、粘土に芽吹く種もあるという事だね、珍しい。どれ、花開くようであれば収穫しておこうか」