Green happines : 08

 本日の私の業務は掃除だった。しかし、ただの掃除とあなどるなかれ。水漏れの発生した箇所の水を取り除くという大掃除だったのである。まずゴム長を履いて水たまりの中に立ち、乾湿両用掃除機で水を吸い上げる。その間他の班員が水漏れ発生箇所を特定するのをサポートしつつ、ひび割れた水道管の修復および、湿気のこもった部屋内の換気を行うために送風機を設置。仕事を終えたころには全身が痛みを訴えていた。
 クタクタの状態で待機室に戻ると、珍しい人が私を出迎えてくれた。
「ダストンさん!」
「お疲れ様。元気そうで何よりだ」
 喜びで疲労が一気に吹っ飛んだ。ソファに浅く腰掛けるダストンさんの方に小走りで近寄ると、彼は苦笑を浮かべて見せる。
「とりあえず、着替えを済ませなさい」
「は、はい」
 あたふたしながらロッカールームに向かう。洗濯カゴに今日の作業着を突っ込み、ゴム長の表面を軽く水洗いしてから保管場所にしまう。自分でも身体が冷えていることがわかったので、ロッカーから薄手のジャンパーを取り出して羽織った。
 待機室に戻ると、ダストンさんがコーヒーを用意して待っていてくれた。砂糖を入れようとすると、もう入れてあるという事を告げられ、手を引っ込めた。お礼を述べて息を吹きかけながら飲むと、微笑ましいものを見るかのような目つきで眺めてくるから少し恥ずかしい。
 しばらくしてダストンさんが真面目な顔つきになったので、なんとなく居住まいを正した。
「明日、粒子加速装置のメンテがあるだろう? 資料には目を通したか?」
「はい」
「そうか。とはいえ、は初参加だ。はっきり言ってしまうと、俺としては不安なところがある。今日は幸い作業もそれなりに早く終わったようだし、夕食までまだ時間もあるだろう? その間に口頭での説明をしたい。いいかな?」
「わかりました」
 頷く以外の選択肢はない。二つ返事で了承して、コーヒーを一気に煽って飲む。急いで後片付けをして、二人揃って待機室を出た所で、
「そういや、この前出した課題はどうだ?」
 ダストンさんがそう尋ねてきた。
 課題というのは、文字通り課題だ。
 私は今通っている学校に休学届を出して、このカルデアに身を置いている。初代所長マリスビリー・アニムスフィア氏の助力もあって休学を許されたが、もしかすると休学期間の上限を超えてカルデアに滞在するかもしれなくなってきている。そうすると退学も視野に入れなければならなくなるし、そうなったら私の最終学歴が中卒になってしまう。
 それを見かねたダストンが、得意分野に限ってなら教えてやらんでもないと申し出てくれたため、私はその好意に甘えて勉強を教わっているという次第だ。
「終わらせました!」
「ならちょうどいいな。それじゃ、研究室に持ってきなさい」
「はい!」
 頷いて、一旦ダストンさんと別れた。
 急いで部屋に戻って筆記用具など諸々を手に取り、忘れ物がないかチェックしてから、早歩きでダストンさんの研究室へと向かう。奇妙な高揚感に包まれながら黙々と足を進める。いつもは目を奪われる廊下の窓に目もくれず、お疲れ様と声をかけてくる先輩に対して立ち止まらずに声をかけて通り過ぎる。
 やがて食堂区画に立ち入ると、

 名前を呼ばれ、お疲れ様ですと返事をしようとして踏みとどまった。今の声は耳慣れたものではあるけれど、事務的なものではなかった。
 顔を上げて周囲を伺うと、円形のカフェテーブルに、エルキドゥさんが座っているのが目に飛び込んできた。にこやかにこっちを見ている。同じテーブルには藤丸くんとマシュさんもいた。三人でお茶でもしているようだ。
「三人ともこんにちは。休憩中ですか?」
 とりあえず、近寄ってみる。今まで急いだぶんがパーになるけれど気にしない。
「そんなとこ。さんもどう?」
「ブーディカさんが焼いてくれたんです。ひとつどうですか?」
 テーブルの中央には丸みを帯びた焼き菓子がいくつか乗った器が置かれている。おいしそうだ。甘そうなお菓子の香りと、二人の言葉の誘惑に負けそうになるのをぐっと堪える。
「そうさせて欲しいのは山々なんですが、これからちょっと用事があって」
「用事?」
 私を見上げながら、エルキドゥさんが首をかしげる。
「明日、粒子加速装置の点検作業に初めて参加することになったので、その説明が今からあるんです。……ええと、この前エルキドゥさんにちょっとだけお話ししたアレです」
 そう言ってみたが、エルキドゥさんは覚えているのだろうか。尊敬する人と肩を並べることが出来ると語った覚えがあるが、あの時の返答は当たり障りのないものだったし、覚えていない可能性のほうが高いような気がする。
「ああ……の言っていた『いい事』というやつかな」
「そうです、それです」
 覚えていてくれたのが嬉しい。
「その説明をしてくれるのは、が言っていた尊敬できる人とやらなのかい?」
「はい。なのでどうしても外せないんです。また今度ご一緒お願いしますね」
「なら、僕もついていっていいかな」
 私が「えっ」と驚きの声を上げるよりも先に、エルキドゥさんは席を立っていた。
「興味があるんだ。構わないよねマスター」
「えぇ……、いや……、あー、うん、いいよ」
 藤丸くんは初め困惑の表情を浮かべた後、曖昧に言葉を濁し、やがてめんどくさそうに了承した。言外に『勝手にしろ』と言う意味が込められているような気がする。
「ありがとうマスター」
 と、お礼を述べるエルキドゥさんに苦笑を浮かべる藤丸くんだったが、すぐにチラッとこっちを見て、すみませんと視線で訴えてきた。
 いつの間にやら勝手に話が進んでしまっていて、私は置いてけぼりだ。かといってこのタイミングで断るのも気の毒だし、正直言いにくい。
「あの、研究室に入れてもらえるかわかりませんよ?」
「構わないよ。駄目だったらマスターのところに戻るから。ほら、せめて一つ食べていきなよ」
「あ、ありが……むぐっ!?」
 おもむろに焼き菓子を一つ手に取るエルキドゥさん。くれるのだろうかと片手を持ち上げた瞬間、お礼を述べている最中の口に無遠慮にお菓子を突っ込まれた。ぐいぐいと強引にお菓子をねじ込まれながら、柔らかいお菓子でよかったと場違いな事を考えてしまう。硬いお菓子だったら唇が痛い事になっていたに違いない。
 外側はサクッとしてて、中はしっとりふわふわ食感のアーモンド風味のそれを咀嚼する。間にクリームが挟まっていたみたいで、徐々に口の中でとろけるように甘みが広がって美味しかった。なんて名前のお菓子なのかはわからないけれど、一口で好きだなと思うお菓子だった。あとでブーディカさんに聞いてみよう。
「い、いきなりひどいですよエルキドゥさん」
 文句を言うと、エルキドゥさんはふっと笑った。
が好んで食べそうだと思ったんだ。美味しかったかい?」
「お、美味しかったですけど……」
「けどはいらないよ」
「……美味しかったです」
 私の返答にエルキドゥさんは満足そうに目を細めて笑う。その顔を見ただけで『けど』の先に続けようと思っていた言葉を失い、反論する気持ちもどこかにいってしまった。美人はずるい。
「それじゃあ藤丸くんにマシュさん、ごゆっくり」
「うん、エルキドゥの事よろしく頼むね」
 挨拶もそこそこに二人と別れた。
 小走りで進む私の斜め後ろを、エルキドゥさんがちゃんとついてくる。パタパタと足音を立てて走っているけれど、私と違って呼吸を乱す素振りも見せない。やっぱり鍛え方が私と違うんだろうなあと思ってから、ふと疑問が芽生えた。
 そもそもの話、エルキドゥさんって呼吸しているのだろうか。人に似せてあるとは言っていたけれど、酸素を取り込む仕組みまで模倣しているのか謎だ。今までの事を思い返してみると、エルキドゥさんはほとんど息を乱す素振りは見せないし、ゆったりした上着に包まれているから呼吸による肩の動きもわからない。
 くだらない事を考えているうちに、ダストンさんの研究室のある区画までやってきてしまった。徐々に足をゆるめながら、呼吸を整えるために深呼吸を繰り返す。いつの間にか隣に並んでいるエルキドゥさんを見れば、やっぱり呼吸しているかどうか、目視では判別しにくい。
 怪訝そうにじっと見つめている私に気付いて、エルキドゥさんはこっちに顔を向けるとやや首を傾けた。
「エルキドゥさんって、呼吸してるんですか」
 率直に尋ねてから、もっと他に言いようはあったんじゃないかと内心頭をかきむしりたい気持ちでいっぱいになる。
 案の定エルキドゥさんはものすごく不思議そうな顔をしてから、考え込むように視線を斜め上に向けた。そのまま動かなくなってしまったので、あまりにも言葉足らずに聞いてしまった事を謝罪しようかと思ったところで、エルキドゥさんの口から「ああ……」と合点がいったような呟きが漏れた。
「しているよ。人間のように酸素を体内に取り込む必要はないけれど、僕の核の冷却は必要だから」
「そ……そうですか」
「人も動物も呼吸のついでに冷却を行っているんだろう? 合理的でいい仕組みだと思う」
 そうなんですか、という言葉は飲み込んだ。
 廊下を進むうちに、ダストンさんの研究室の扉が見えてきた。扉の前で立ち止まり、インターカムにふれる。指紋認証を経てようやっと、呼び鈴が作動する。やがてスピーカーから『誰だ?』と音声が聞こえてきた。
です」
『早かったな。今開ける』
 通信が切れるなり、扉が勝手に開いた。扉のすぐ横にダストンさんが立っている。ダストンさんはいつものように私を目に止めたあと、エルキドゥさんをちらりと見て何も言わずに部屋の奥に引っ込もうとする。スルーするのかと思ったが、エルキドゥさんを二度見してから怪訝そうに戻ってきた。
「どういう事か説明を頼む」
 ダストンさんの声はいつもより少し低い。怒声が飛んでくるのは覚悟の上だったけれど、緊張で目眩がしそうだ。
「こちらはエルキドゥさんといいます。サーヴァントの方で」
「見りゃわかる。用件は?」
 遮るようにダストンさんは言う。
「私とダストンさんの話を聞きたいそうです」
 ダストンさんの視線が私からエルキドゥさんに移る。エルキドゥさんはほんの少し身じろぎしてから、右手を軽く腰のあたりまで持ち上げて口を開いた。
「おおむねは彼女の言う通りです。僕はあなた方に深い関心があります。邪魔をするつもりは毛頭ありません。よければ話を聞かせて欲しいです」
 人の良さそうな笑みを浮かべて穏やかそうに語るエルキドゥさんを見ながら、やっぱりエルキドゥさんって初対面の人にはこうなんだなあ、と場にそぐわない事を考えてしまう。
 ダストンさんは私とエルキドゥさんを見比べて逡巡するような素振りを見せると、
「わかった。とっちらかってるが気にしないで欲しい。あと機材には触らないでくれよ」
 そう言って部屋の奥へと引っ込んでいく。
「行きましょう、エルキドゥさん」
「うん。……お邪魔します」
 エルキドゥさんを研究室の中に招き入れると、素直に従ってくれた。控えめな仕草でそろりそろりと足を進める。警戒しているのかもしれないけれど、見ているこっちからするとちょっと面白い。
 研究室の中は相変わらず不思議な香りのする空気が充満していた。紙の匂いと、機械の匂いと、薬剤の匂いがごちゃまぜになったようなその空気の中にいると、どこかほっとしたような気持ちになる。
 エルキドゥさんは初めて入る部屋がそんなに珍しいのか、しきりにキョロキョロと辺りを見回していた。サーバー、書棚、素粒子観測装置、コピー機などなど、あらゆるものに目を留めてはきらきらと輝くような眼差しを向けている。好奇心旺盛な子どもみたいで、なんだか微笑ましい。
「二人とも、突っ立ってないでこっちへ」
 ダストンさんは研究室の隅にあるホワイトボードを引っ張り出しながら、部屋の中央の白いテーブルへ移動する。エルキドゥさんを眺めている場合じゃなかった。私はテーブルの上に持ってきた筆記用具を一旦置いて、キャスター付きの椅子を二人分取りに行き、まずエルキドゥさんを座らせた。背もたれがきちんとついている椅子なのだけれど、エルキドゥさんはちんまりと浅く腰掛けて所在がなさそうだ。ダストンさんはそんなエルキドゥさんを気にする素振りも見せない。あたかも居ないものとして扱っているようだった。
 ダストンさんは自分のデスクからアーロンチェアを引っ張ってくるついで、机の上にあった紙束を手に取って私に押し付けてきた。黙って受け取る。角の所をホチキスで止めてあるそれは、粒子加速装置の説明資料だった。
 ダストンさんが椅子に腰を下ろすので、私も腰を下ろす。それを合図に、すぐに説明が始まった。
 まずこの装置がなんのためにあるのかという解説が始まる。もともとこの施設は何十人に及ぶ『マスター』を集団で一斉にレイシフトさせる事を目的としており、粒子加速装置の設計を円形状にしたため、施設の形も円形状になったという。つまり施設あっての装置ではなく、装置あっての施設なのだと。しかし諸々の事故により今はマスターが一人しか居ないため、フルスペックでの出番がほぼない。かといってレイシフトをしないわけではないので、稼働を停止させるわけにもいかない。
 粒子加速器の電動回路は量子コンピューターにより出来ており、冷却には液体窒素を使用している。それにより絶対零度を維持しているため、ノイズの発生を極力抑えた安定稼働を可能にしている。それでも小数点以下でエラーが発生するのだが、そこを魔術で補っているという。つまり、魔術と科学が融合した夢の装置だ。
 エルキドゥさんは今の説明を理解できているのだろうか。隣に座るエルキドゥさんの横顔をちらっと盗み見ると、真面目に聞いているようにも見えるし、わからないから聞き流しているようにも見えた。どちらかわからない。
 次に、メンテナンスの手順についての説明が始まる。さっき渡された資料を見ながら順に解説が入り、私がわからないところがあると、ダストンさんは椅子から立ち上がってホワイトボードに図説を書き込んでくれる。それを逐一メモしながら、ダストンさんの解説にだけ耳を傾け、意識を集中させる。
 ダストンさんによる詳細な説明が終わった頃には、かなりの時間が過ぎていた。それでもまだいまいちわからない。緊張から、口の中が乾いているのがわかる。
「何事も慣れだ、慣れ。経験を積んでいけば、自ずと仕組みを理解できるようになる」
「……そうなるといいんですが」
「なるさ。あと勝手に不安がっているが、そう簡単に壊れやしないよ。どれ、課題を見てやる」
 筆記用具の下にある課題をまとめてダストンさんに渡すと、彼は椅子に腰を下ろして胸ポケットからペンを取り出し採点を始めた。その間、やることもないので資料に目を落とす。1ページ目からしっかり読み解いて脳みそに蓄えておかなければと意気込んだ所で、不意にエルキドゥさんの存在を思い出した。隣を見ると、エルキドゥさんは興味津々そうに、ダストンさんが私の課題にチェックをつけているのを眺めている。
「どうしてに教育を施しているの? 僕のマスターではだめなのかな」
 尋ねるエルキドゥさんの口調は、平常時のものだ。いつの間にやら人見知りモードが解除されている。
 ダストンさんは一旦手を止めてからエルキドゥさんを見て、それからまた課題に目を落とした。
「君のマスターというと、藤丸立香候補生だね。この分野に対する興味が立香君にあるなら教えるのはやぶさかではないが……君は立香君がこの手の物理学に対して興味を示したところを見たことがあるのかい?」
 手を動かしながら、エルキドゥさんに尋ね返している。
「……ないね」
「じゃあ駄目だ。自分からやりたいという強い意思がなければ到底続けられん。たとえ日々の暮らしを圧迫することになっても、続けようとする意思がなければ無理だ」
 まさに、経験者は語るだ。
「まあ、偉そうなことを言ったが……友人夫婦の一人娘なんだ、この子は。二人に任された以上、俺には面倒を見る義務がある」
 カリカリ、とペンの音だけが聞こえる。数秒の空白を挟んでから、
「そうなのかい?」
 エルキドゥさんが今度は私に尋ねてきた。
「はい、私の両親とダストンさんとは学生時代からの友人なんです。私の両親は遺伝子工学に精通していて、ダストンさんとは研究分野が違うんですけれど、とても気が合う人だと」
「遺伝子工学?」
 こてんと首をかしげるエルキドゥさん。
「遺伝子の書き換えを行うんです。私の両親はゲノム編集を筆頭に、クローン技術から人工子宮の研究にも手を出していました」
 エルキドゥさんの顔が、困惑混じりの微笑に変わる。遺伝子の書き換えだなんて、自然の摂理に反する冒涜だ。エルキドゥさんはこれを聞いてどう思うのだろう?
「その手の分野では権威と言ってもいいほど有名で……、私が生まれる前にカルデアに技術提供を行っているんですよね?」
「ああ、そうだ。こいつがここに潜り込めたのも、その見返りの一つのうちだな」
 私を顎で示しながらダストンさんは言う。対する私は少し耳が痛い。
「高い金出して名門校に通っておきながら、我儘言ってわざわざこんな僻地くんだりまで来て。普通に学校に通っていたほうがよっぽど楽なのにな」
「良い学校に通って学歴を得るよりも、ダストンさんから薫陶を賜りたかったんです」
「そうやって二匹目のドジョウを狙うつもりか?」
「とんでもない。私には知識と経験がまったく足りません。でも、ゆくゆくはそうなれたらと思います」
「はあ。……ええと、エルキドゥ君だったか? 君もこいつの前でべらべら喋らんようにな、色々吸い込まれるぞ」
「わ、私を掃除機みたいに言わないでくださいよ!」
 あまりにもくだらないやりとりを交わす私とダストンさんを、エルキドゥさんは交互に見比べる。しかし困ったような笑顔は崩さない。呆れているのだろうか。
「どうやら二人の付き合いは長そうだね。いつごろからかな」
「こいつが赤ん坊の時に一度顔は見てる。俺をしっかり認識してもらえたのが、初等部中学年の時だな」
 ダストンさんは一旦手を止めると、エルキドゥさんの方を見てゆっくりと語りだした。
 カルデアに缶詰状態の日々ではあったが、それでも長期休暇が貰える機会がやってくると必ず私の家――自宅兼研究所に足を運んでいたのだという。私の父が宇宙線分野に理解を示していたため、意見交換と気分転換もかねていたようだ。
 語り終わったダストンさんは、あの頃は平和だったなあと最後に付け加え、それから今度は私に視線を向ける。どこか遠くの景色を見るような、懐かしむようなその眼差しに、居心地の悪さを感じた。
「良かったら、と仲良くなった切欠について教えて欲しい」
 エルキドゥさんが無邪気に尋ねる。
「切欠なぁ……研究所の水槽を眺めていたのに声をかけたのが発端か」
「そうですね」
 水槽にはあまりいい思い出がない。曖昧に笑う私を見て何かを察したのか、ダストンさんはふうと溜息をつく。これ以上昔話を語る気はないようで、採点作業に戻ってしまった。私も特に語ることは持ち合わせていないので資料に目を戻すと、エルキドゥさんがちょいちょいと袖を引っ張ってくる。
「水槽というと、水生生物を飼育し、その生体を観察するためのものだね? 何を飼っていたの?」
 いつもは嬉しく感じるエルキドゥさんの好奇心旺盛な瞳が、今は少し困った。
「その、私の弟妹です」
 エルキドゥさん表情に、困惑が浮かぶ。
「弟妹? のきょうだい?」
「そうです。遺伝子の編集を行ったせいなのか、それとも子宮の環境を模した水槽の中での生育を試みたせいなのか、どちらが原因なのかはわかりませんが、長生きはできませんでしたね」
 エルキドゥさんの眉間に皺が寄る。どことなく不快感をにじませている。この手の話はやっぱり駄目だったみたいだ。
 人ですら、こういった話題に不快感を示す人は珍しくない。ましてや法律で禁止されている事をもろにやっていたのだ、私の両親は。初代所長はそれも科学の発展の礎となるだろうと受け入れたが、人間が神のまねごとをする愚かさを当前とし、生命に対する冒涜を平然とやってのける精神。神に近しい存在であるエルキドゥさんにとっては不快極まりないだろう。
「聞いててあまり気持ちの良い話ではないですよね。この話はこれで終わりということで」
「ううん、聞きたいな」
 エルキドゥさんがふるふると首を振る。はぐらかそうと思ったのに、こうもまっしぐらに突っ込んで来られると、困惑が先立った。
「で、でも」
「でも、僕は聞きたいな。話して?」
 有無を言わさぬ言葉の圧力を感じる。困った。視線をさまよわせて、行き着いた先はダストンさんだった。助けてくださいと目で訴えると、ダストンさんはふうと息を吐いて、面倒そうに立ち上がる。
「一旦休憩にしよう。コーヒでも飲むか。淹れてくるよ」
 ダストンさんの溜息は、エルキドゥさんの追い風となってしまった。唖然とする私をよそに、ダストンさんはのっしのっしと歩いて給湯スペースへ向かってしまう。この研究室ではコーヒーメーカーが置かれていて、インスタントコーヒーというものは常備されていない。いくら機械を使うとは言え、豆から抽出すると結構時間がかかる。
 ダストンさんはごちゃごちゃした話をするのがきらいだ。身の上話なんかもあんまりしてくれないし、他人のそういった話もあんまり聞こうとしない。
 つまるところ、逃げられたのである。
 性分だから仕方ないとは言え、この状況で二人きりはさすがに気まずい。それに、エルキドゥさんの聞きたい事もいまいちハッキリしない。どう話せばいいものかなと思案を巡らせていると、
「早くして」
 ぺちぺちとテーブルを軽く叩いて催促までしてきた。案外この人はぐいぐい来る一面があるんだという意外性に驚きつつも、そういう性質の持ち主なんだとすんなり受け入れてしまえるのがエルキドゥさんの不思議なところだ。
「その、何をどこから話したらいいものか、ちょっと迷ってまして」
が話しにくいところは話さなくてもいいけれど、できれば最初から全部話してほしいかな」
 私に対して気を使いつつも、かなりの欲張りさを覗かせてくる。こうやって強引に懐に潜り込んでくるやり方は人によって良し悪しが別れるものだけれど、エルキドゥさんなら仕方ないかと思ってしまう。
「それじゃあ、両親の研究の話からでいいですか?」
「うん」
 エルキドゥさんがこくりと頷く。素直な子供みたいな仕草のおかげで、自分のことを話す――私の中に存在する暗箱の中身を見せる緊張感が少し和らいだ。
 ひとかどの研究者である両親が試験管ベビーの研究に携わるようになったのは、私が生まれてすぐの事だ。何を目的としてその分野に手を出したのかは不明だけれど、おそらく研究に対する支援が目的だったのだろう。
 小さな私にとって、両親は素晴らしい研究をしていると――いや、今でもそうなのだろうけれど――とても輝いて見えた。そんな両親に、お前は自慢の子供だ、将来はこの研究を引き継ぐんだぞ、と言われた時は、両親の期待に沿えるよう元気に頷いたものだった。
 けれども歳を重ねるにつれ、円筒形の水槽の中に注がれた液体神経の中を浮かぶ小さな胎児を見て、だんだん恐怖が芽生えてきた。
 生きている時は水槽の中央に位置しているが、低部に沈むか上部に浮かんでいる時は大概弱っているときで、やがて水槽の水が抜かれて中身が入れ替わる。中身の行方を両親に尋ねると、お前は気にしなくていいと返ってくる。それよりも勉強を頑張りなさいと言うので、黙ってそれに従う。
 あの子供は人工培養によって生まれたが両親との血縁関係があった。つまり私の弟か妹にあたる。しかし学校の友だちの弟と妹の和やかな話を聞いていると、私と弟と妹に対する印象のズレが生じてしまい、だんだん薄気味悪くなってきた。それでも研究所に忍び込んで観察するのは止めなかった。そんな私を両親は気にもとめなかった。太いコードに躓いて転ぶ私より、顕微鏡を見ている事のほうが多かった。
 およそ気分が暗くなるような生々しい話だ。だから、他人行儀を装って淡々と語る私の顔を見つめるエルキドゥさんの表情は終始穏やかで、だからこそ言葉を引っ張り出す事ができた。
「だんだん気付いたんです。両親は研究しか眼中にないと」
 頑張ってテストで100点をとっても目ぼしい反応がない。クリスマスや誕生日に冷凍食品をレンジで温めて、一人で夕飯を済ませるわびしさ。
 自慢の子供だから。両親の口癖じみた言葉は、世辞でしか無かったのだ。
「ふてくされている時に、遊びに来ていたダストンさんが声をかけてくれたんです」
 そんな事を喋っていると、ちょうどダストンさんが戻ってきた。マグカップとシュガーポットを乗せたトレーをテーブルに置いて、私とエルキドゥさんの前に配る。
 お礼を言って受け取る私を見てから、エルキドゥさんも礼を述べ、それからシュガーポットに手を伸ばした。蓋を開けて角砂糖を4つ摘み上げ、私のカップと自分のカップの中にそれぞれ2つずつ放り込む。そして、トレーの隅に置かれた金属製のスプーンを手にとって、勝手にくるくるかき混ぜてくれる。
 あっけに取られる私をよそに、ダストンさんはほうと感心した様子でコーヒーに口をつけている。
「あの時助言を貰えていなかったらどうなっていたのか、今思うとちょっと怖いですね」
 ダストンさんに向けて言うと、少し苦いものが浮かんだ笑みを返してくれた。エルキドゥさんが砂糖を2ついれてくれたコーヒーに口をつけると、甘くておいしくてホッとした。
「助言って?」
 エルキドゥさんが不思議そうに尋ねると、ダストンさんはカップから口を離した。
「視点を変えろと言ったんだ。可能性が多岐に渡るのに一つの事や考えに執着するのはよくない。それを長く続けているとな、人間の精神は疲労して衰弱してしまう」
 エルキドゥさんは、目をしばたたかせている。
「幼いうちからああでは人格形成に支障をきたす。そういうのは経験を積んでからでいいんだ。自分の気持ちを殺して優先すべきではないんだよ。第一、同じものばかり見ていてもつまらないだろ?」
 ダストンさんいわく、夏季休暇の時期に研究所の奥で表情筋が死んでいる子供がいるのでびっくりして声をかけたら、友人夫婦の一人娘であり、なおさらびっくりしたという。ダストンさんは友達と遊ぶことなく家にこもって勉強ばかりする私をみかねて、さまざまな事をしてくれた。研究所にあった光線銃を用いて二重スリット実験を実演するも、子どもの私にはまだ理解が及ばない範疇であると知ると、次は庭に引っ張り出されてペットボトルロケットの実験を行った。
 ダストンさんが語り終わるまで、エルキドゥさんはコーヒーに口をつけず静かに黙って聞いていた。
「あの時は、水浸しになって遊んで楽しかったなあ……夏休みのいい思い出です」
 私が懐かしむように言えば、ダストンさんは苦笑を浮かべた。
「そうかい、そりゃ良かった。俺としては子供の扱いに慣れてないもんでな、内心は右往左往だったぞ」
 五日間という短い滞在期間のほとんどを、ダストンさんは私との遊びに費やした。レンタカーを借りてきてドライブに連れ出され、森林公園や海に足を運んで自然の中で遊び、ショッピングモールにも連れて行ってもらった。旧友である両親との対話よりも子供の私に構う事を優先してくれたのは、今でも感謝しきれない。
「まあその結果、君のご両親が想定していたルートからの脱線だ。おかげで恨みを買ってしまったよ」
「私は感謝しています。これでイーブンです」
「相殺するにはちょっと足りない気がするんだがなあ」
 私達のくだらないやりとりを、エルキドゥさんは真剣そうに眺めている。
は後悔していないのかい?」
「何をですか?」
 エルキドゥさんの唐突な質問に、思わず質問で返してしまった。
「生みの親の期待を裏切ったことだ。恨みを買うという事は、そういうわけだろう?」
 するとエルキドゥさんはこちらがわかりやすいように尋ね返してくる。親切なようでいて、けれどもずばずばと切り込んでくる感じが少し痛い。
「そうですね……両親との仲がギクシャクしてしまったのは後悔しています。もっとどうにかできたんじゃないかって」
 コーヒーを一口飲む。
 どのみち言葉足らずの間柄だったから、こうなるのは時間の問題だった。仕方がないと切り捨てるほかない。
「でも、好きでもない事を続けて自分も両親も傷つけるよりはよっぽどマシです。ここにいるのはちゃんと自分で選んだ事ですし、それは後悔してませんよ」
「……本当に?」
「はい! そのおかげでエルキドゥさんにも会えましたから!」
 エルキドゥさんは目を丸くして驚いたような顔をして、何度もまばたきを繰り返す。
「そ……そう」
 そう言って、エルキドゥさんはコーヒーに口をつけた。それ以上は何も聞いてこない。満足してくれたのだろうか。
 やがてダストンさんも採点作業に戻ってしまい、私もコーヒーを飲みながら資料に目を通した。
 無言の空間というものは一緒にいる人によっては居心地が悪くなったりするものだ。でも今は不思議とそういう感じは一切ない。とはいえ、他の二人がどう感じているかはわからない。
 私がコーヒーを飲み終わる頃にはダストンさんは採点を終わらせ、惜しくも満点を逃した課題と、新しい課題を一緒くたにして渡してくれた。大事に受け取って、資料と共に重ねる。
「よし、終わり。そろそろ飯の時間だろう? ほら、帰った帰った」
 ぱんぱん、と手を叩いてお開きの合図をする。ゆっくりコーヒーを飲んでいたエルキドゥさんだったけれど、煽るように一気飲みして、空になったカップをテーブルの上に置いた。流石に片付けくらいは私がするべきだ。空になったマグカップをトレーに乗せて、急いで給湯スペースへ向かう。
 洗ったマグカップを流しの水切りに乗せている最中、
「何かおすすめの本はないかな?」
「本? そうだなあ……これなんかどうだ」
 そんな二人の会話が聞こえてくる。布巾で手を拭いて戻ると、エルキドゥさんは三冊かの本を大事そうに両手で抱えていた。何を借りたのか気になったけど、背表紙を覗き込むのはあまりにも行儀が悪い。気にしないようにつとめて、私も荷物をまとめた。
 エルキドゥさんと一緒に廊下に出る。ダストンさんはまだほんの少しだけ後片付けが残っているとのことで、まだ研究室にいるらしい。
「二人とも、今日はありがとう。貴重な話を聞くことが出来てよかった」
「そこまで貴重ってわけでもない。それじゃ、明日はよろしく頼むぞ」
「はい、がんばります」
 挨拶もそこそこに、扉がしまったのを確認して廊下を歩く。さっきは遠慮がちに後ろをついてきていたエルキドゥさんだったけれど、今は隣に並んで歩いてくれている。
「私は一度部屋に戻りますが、エルキドゥさんは一旦お部屋に戻りますか?」
「そうだね。このままマスターのところに戻るわけにはいかないし」
「それじゃ、途中まで一緒に行きませんか」
「うん。そのつもりだったよ」
 エルキドゥさんは二つ返事でこくりと頷いた。サーヴァント用の居住区画と職員用の居住区画はちょうど東西に別れたところにある。東館と西館の分岐路まで一緒に行くことにした。
の言っていた他と違う理由が、ようやく知れたような気がする」
「……そですね。全部話してしまいましたね」
 エルキドゥさんに打ち明けたことにより、私の引き出しの中身はもはや空っぽだ。好奇心を満たしたエルキドゥさんは、これからも私と話をする機会を設けてくれるんだろうか。にわかに不安が生じてしまう。
の話を聞いて、なんとなくだけれど、僕も似たようなところがあると思った」
 エルキドゥさんがぽつりとつぶやく。この隣の人と私に似通った所があるとは思えなくて、思わず首を傾げてしまった。
「似たような所?」
「僕はね、創造主の命に逆らってしまったのさ。僕が制しなければならない相手と友人になってしまった」
「それは……良い事じゃないんですか?」
 エルキドゥさんが、ふっと笑う。
「うん、僕にとっては良い事だったよ。でも神々にとってはそうじゃないんだ。誓いを破ってしまい、不興を買うこととなった」
 言い終わると、エルキドゥさんは立ち止まってしまった。つられて私も立ち止まる。エルキドゥさんは穏やかな微笑を浮かべていたけれど、少し複雑そうな表情に見える。
「僕が彼らにとっての“いい子”であれば、女神の怒りから天罰として死の呪いを受けることもなかったかも知れないな。……まあ、今となっては過去の話だけれどもね」
 エルキドゥさんが、自分の過去の事を喋ってくれた。思いがけない事態にまず驚いて、それから少しの混乱が生じた。私の話を聞いて何か思うところがあったのかも知れない。こうして口に出すということは、少なからず気がかりが残っているという事ほかならない。
 そしてエルキドゥさんにとって私は、そういう事を話してもいい対象と見られているようだ。それがとてつもなく嬉しかった。
「な、なんと言ったらいいのか自分でもよくわからないんですが……」
 だからこそ、次に続ける言葉は慎重に選ばなければならないような気がした。
「エルキドゥさんを造った人は、エルキドゥさんが必ず事を成してくれるのだと勝手に期待して、予想と違う結果になったから勝手に裏切られた気になって、失望してしまっただけじゃないですか? だから、結果がどうであれ、エルキドゥさんはそのままでいいと思います」
 エルキドゥさんが、ほんの少し瞼を持ち上げる。
「私も両親の期待に添えるよう頑張れば、いつかは両親に見てもらえるんだと勝手に期待して、失望したんです。意思疎通が不足した状態で、自分の目標と他人の目標を同一視すると、互いに悲しい事になっちゃうから。……だから、無理して理解しようとしなくていいと思います」
 ぱちくりと瞬きするエルキドゥさんの顔を見ていられなくて、なんとなく俯いてしまった。
「す、すみません。知ったふうな口を聞いて。おまけに、支離滅裂で、生意気なことを……」
「……ううん、かまわないよ」
 笑う気配がする。恐る恐る顔をあげると、エルキドゥさんはやっぱり微笑んでいた。でも、さっきみたいに複雑そうな含みは感じない。ただただ優しそうに笑っている。
 そのままお互いじっと見つめ合って、奇妙な空白が生まれた。居心地が悪くなってきて視線をずらそうかと思った所で、エルキドゥさんが不思議そうに首をかしげる。
は、両親に見ていてほしかったの?」
「……へっ!?」
 変な声が出た。
「そ、そんなことは」
「さっき自分で言ってたよ?」
「……ううっ」
 エルキドゥさんから視線をずらす。
 否定したい気持ちでいっぱいになるけれど、エルキドゥさんに嘘はつけない。
「見ていてほしかったんだね」
「は、……はい」
 優しい圧力に適うわけがなく、肯定してしまった。
 思えば、かまってもらえない寂しさが原動力だった。そう認めてしまうと、自分がとてつもなく浅ましい人間のように思えてくる。おまけにそれをエルキドゥさんに見透かされてしまい、ことさら恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。
「なら、僕がの事を見ているよ」
「…………えええっ!?」
 言葉の意味を理解した途端、素っ頓狂な声が出ると同時に、心臓が跳ね上がった。
「な、な、なんで……?」
 なんでそうなるんですか? と尋ねたかったのに、呂律が上手く回らない。最後の方は言葉にならなくて、口をパクパクさせるだけになってしまった。
 エルキドゥさんは私から一度視線をそらし、一呼吸の間を置いてから、じっとまっすぐに見つめてきた。
「その……純粋に好ましいと思ったんだ。ひとりの人間として」
 好ましい。その言葉にひときわ心臓が跳ね上がって、身動きが取れなくなった。そうしているうちに足元からじわじわ熱がのぼってくる。顔が熱い。エルキドゥさんの顔を見ていられなくて、俯いてしまう。
 床を見つめながら、冷静になれと自分自身に訴える。
 エルキドゥさんは私のことを好感の持てる人間だと言っただけだ。それ以外に他意はない。おまけにエルキドゥさんはサーヴァントであり、私はただの人間だ。強者と弱者。エルキドゥさんはおそらく、人間が動物を可愛いと愛玩するのに近い気持ちで言ったんじゃないかと思う。つまるところ、憐憫からくる同情に違いない。
 必死に考えていると、ふいに視界に白い足が映り込んだ。何故かエルキドゥさんが私の足元に本を置いている。
 どうしてそんな事をしているんだろうと疑問に思った瞬間、
「顔が真っ赤だ。……触れてもいい?」
「……へっ?」
 いきなり冷たいものが頬を包みこんできた。そのまま顔を持ち上げられる。
 すぐそばに、エルキドゥさんの顔がある。
 私の頬に触れているのがエルキドゥさんの手のひらだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
「これで、おさまればいいのだけれど……」
 冷たい手が、私の頬を撫でる。思わず息を呑んだ。
 いつだったか、エルキドゥさんは手の温度をあったかくするとか言っていた。それでも今この瞬間、私の頬に触れている手が冷たいということは、意図的に温度を下げてくれているという事だ。
 何のため? きっと、目も当てられないほど赤くなっている私の頬の熱を下げるためだ。どうにもずれているような気がするけど、それがエルキドゥさんらしくて、どうしてか胸がつまる。
 哀れみでこんな事をする人だろうか? エルキドゥさんに疑念をいだくのは、とても失礼なことだ。
「ぅ……そ、その」
「うん」
 うまく言葉にできない私をいたわるように、エルキドゥさんが頬をなでてくる。
「そ……そう言ってもらえて、光栄です」
「そ、そう、……そうか。……良かった」
 エルキドゥさんはいつもより優しい笑顔をたたえて、頬を撫で擦ってくる。ちゃんと言えたご褒美のつもりなのかな? くすぐったくて目を細めると、今度はぴったりと手のひらをくっつけて頬を包み込んでくれる。効率よく冷やしているつもり、なんだろうなあ……。考え込んでいると、親指の腹ですりすりとなぞられて、やっぱりくすぐったい。
 しかし、顔が近い。エルキドゥさんのまつげの長さが分かるほどの至近距離。すごく嬉しいのに、それがとても辛く感じるのは初めてのことだ。おかげで心臓がどきどきして、うまく呼吸ができない。全身の血の流れが倍速になっているんじゃないかという錯覚すら覚える。
 つまるところ、エルキドゥさんがいくら私の頬を冷やそうとしたところで、その熱は絶対に収まらない。それをどうにかしてエルキドゥさんに伝えたいのだけれど、エルキドゥさんが大真面目な表情をして私を見つめるものだから、何も言えない。頬にさわさわと触れる手はあまりにも優しくて、心地よさに思わず目を細めると、今度は表情を崩して微笑むものだから、言葉を失ってしまう。
 打開策が見つからない。ひとつも会話のない静やかな空気の中、エルキドゥさんから与えられる慰撫にただひたすらじっと耐えていると、
「おうい」
 後頭部に軽い衝撃が走った。
 少し首を動かすと、ファイルを片手に構えているダストンさんが視界の端っこに映り込む。おそらく、ダストンさんがこれで叩いたのだ。
「ふたりともなあ、こういう事は誰も見てないところでするもんだぞ」
 ダストンさんがにやにや笑いながら言うものだから、無意識にビクッと身体が震えた。
「ひッ!?」
「……うん?」
 引きつった声を出す私とは対称的に、エルキドゥさん不思議そうに首を傾げるのみだ。
「いやー、あついねえ。青春だねえ……」
 ダストンさんはからかうようにぼやきながら私達の横を通り過ぎ、そのまま立ち去ってしまった。
 本一冊分の距離をはさんで顔を突き合わせて、しかも私の両頬をエルキドゥさんが両手で固定しているというこの状況は、第三者であるダストンさんの目にはどう映るのか――理解した瞬間、頭に電撃が走ったかのような衝撃を受けた。
 ぞわぞわと怖気に似た感覚が足元から登ってくる。怖気はやがて鳥肌に変化し、くらくらと目眩がした。遠ざかるダストンさんの背中に違うんです、そうじゃないんですと言い訳したいのに、それができない。
「……どういう事だろう?」
 尋ねながらも、エルキドゥさんは相変わらず頬をなでてくる。くすぐったい。さっきの衝撃で頭のネジが外れてしまったみたいで、思考がうまくまとまらない。頭の中で片付けようとしても、くすぐったさによって遮られる。
「しょ、正直に言うと、ですね……」
 動揺する心をなんとか落ち着かせて、喋る。
「い、今のこの状態は……は、恥ずかしいです。……すごく」
 それでも、くすぐったくて言葉がとぎれとぎれになるし、声も引きつったようにしか出せなくて、とにかく格好がつかない。最後なんか、もう消え入りそうな声になっていた。このまま消えてなくなりたい。
「……恥ずかしい?」
 エルキドゥさんはそう呟いて、いつものあの考えこむときの表情を浮かべて、そのまま固まってしまった。
 やがてエルキドゥさんは私と目を合わせると、とても困ったような表情になった。そして、のろのろとした動作で両頬から手を下ろす。そのままぎこちなく二歩ほど後ずさって――。
 ――ぽふんと、頭から煙を吐いた。
 風圧でエルキドゥさんの長い髪がふんわりと広がる。頭のどこからこんな煙が出てくるんだという疑問が先立ったが、それよりも立ち上る白煙にスプリンクラーが作動するんじゃないかという不安が勝った。天井に目を向けたけれど、私の不安とは裏腹に白煙はすぐに霧散して立ち消える。スプリンクラーはその白煙を火災による煙だと認識する事はなかった。
 エルキドゥさんに視線を戻すと、微動だにせずそこに突っ立っている。首を傾げてみるけれど反応は返ってこない。どことなく目に光がないような気がする。何かとんでもないことが起きてるのではないかと思ったら、頬にたまっていた熱が一気に引けていった。
 しばらくすると、エルキドゥさんの目に光が戻ってくる。ぱちくりと瞬きをして、エルキドゥさんの焦点が私を捉えたような気がした。
「こういう時は、どう言えば最善なのかわからないな。……ごめんね」
「い、いえ。大丈夫です、謝らないでください」
 エルキドゥさんの態度がいつも通りだったから内心ほっと胸をなでおろす。
 しかし、今の煙は何か意味があるのかな。尋ねようと思ったけれど、聞かないほうがいいような気がしなくもない。迷う私をよそにエルキドゥさんは二歩近づいて、床においた本を拾い上げて、また二歩後ずさる。ものすごくぎこちない動作はおよそエルキドゥさんらしくない。
 もしかすると、エルキドゥさんも恥ずかしくなったのだろうか。だとすると、なんだかすごく申し訳ない気持ちでいっぱいになるし、それにともない気恥ずかしさがぶり返しそうになってくる。
「それじゃあ、行こうか」
「は、はい」
 エルキドゥさんが何事もなかったかのように歩き出すのに困惑しつつも、慌てて追いかけて隣に並んだ。
 ――しかし、会話がない。
 というか、何を話したらいいのかわからない。いつもどんな事を喋っていたのかすら思い出せない。それに、エルキドゥさんと一緒にいるとすごく落ち着いて話せられる空気が、今はどこかぎくしゃくしていて変な感じだ。今までに感じたことのない奇妙な居心地の悪さに耐えきれず、視線を床に落として歩く。
 しばらくして、エルキドゥさんが気になって視線だけをそっちにやると、エルキドゥさんと視線がかち合った。エルキドゥさんが私を見ていた事にびっくりして、そんな私にエルキドゥさんもびっくりした様子で、ふいっと顔をそらしてしまう。私も再び床に視線を落とす。
 なんなんだろうこの空気。何か喋って、普段どおりの空気に戻さなければ。
 そう考えれば考えるほど、焦る気持ちが増していく。それに比例するかのように、どんどん言葉が消えていく。気づけば頭の中はもう真っ白で、手詰まりだ。なんでこんな変な感じになってしまったんだろう。
 床に落としっぱなしだった視線をのろのろと持ち上げ、何となくエルキドゥさんに向けてみる。果たしてと言ってしまったら失礼だけれど、なんとなくそんな予感はあって――エルキドゥさんがふいっとそっぽを向くのを見て、結局また視線を定位置に戻してしまった。
 変な空気をどうにかしたいけれど、どうにもできなくて、もどかしさだけが募っていく。
 そもそも、エルキドゥさんみたいなとびきり綺麗な美人にあんな事されたら、誰だってこんなふうになるはずだ、絶対。エルキドゥさんもエルキドゥさんで、自分の容姿に対して自覚がなさすぎる。
 ともかく、原因は私にある。私が変にエルキドゥさんを意識してしまっているせいで、気持ちが落ち着かないからだ。だからそれをなんとかすれば、きっといつもみたいになれるはず。
 そこまで考えてから、ある事に気付いた。気付いてしまった。
 どうして私はエルキドゥさんの事を、こんなにも意識してしまっているのか。
 まるで、好きな異性といる時みたいに――。
 じわじわと体温が上昇するのがわかる。そのせいで足がもつれそうになるのを何とか堪えて、不意にエルキドゥさんに目を向けると、1秒ほど目が合ってから、結局視線を逸らされてしまった。
 エルキドゥさんも一体なんなんだろう。見ているよって言ったから、有限実行で見ていてくれてるのかな? それはそれで何だかおかしいような気がするけれど、エルキドゥさんだからと考えると妙な説得力があって納得してしまう。
 そうして結局、何の会話もないまま、分岐点までやって来てしまった。
「それじゃあ、僕はこっちだから」
「……あ、はい。また」
「うん、さよなら。また明日ね」
 エルキドゥさんはそう言うなり、早足でぐいぐい進む。その背中に手をふるけど、エルキドゥさんは振り返る事なく廊下の先に消えていってしまった。
 手を下ろす。ひとり取り残される格好になって、小さな溜息が口からこぼれた。
 また明日、とエルキドゥさんは言ったけれど、明日は作業で会えるかどうかもわからない。でも、そう言ってもらえたのが嬉しくて、なんだか口もとが変になる。とりあえず、会えたらいいなと願ってしまう。
 エルキドゥさんと別れたら、なんだか頭がふわふわしてしょうがない。部屋に戻るまでの道のりの記憶が残っていない。
 夕飯も何を食べたか曖昧で、いつもはベッドに入ったらすぐに眠れるのに、今日はすこぶる寝付きが悪かった。