Green happines : 11

 朝、立香は昨日と同じ制服に身を包み、カルデアの廊下を歩いていた。昨日と同じように雪が降る景色を眺めながら歩き、欠伸をひとつ噛み殺す。
 ここしばらくはマシュと二人で朝食をとるのが常だったので、何か話題はないかと思案をめぐらせる。いつものパターンであれば補助役に任命しているサーヴァントと一緒に朝食をとり、そこから話題が広がるものなのだが、今補助役に任命しているサーヴァントのクラスはバーサーカーであり、意思の疎通を取る事が難しい。
 早朝、部屋に挨拶には来てくれるのだが、それだけだ。それ以外の補助は出来ないものかと色々四苦八苦はしたものの、横に立って威圧感だけを放ち続けるので、少々扱いに困った結果こうなっている。仕方がない。
 いつもマシュと合流する場所まで来ると、昨日と違う光景に立香は首を傾げた。
 マシュの隣に、何故かエルキドゥが立っている。遠くから二人に声をかけられ、立香は小走りで近寄った。
「おはようマシュ。それにエルキドゥも」
「おはようございます、先輩」
「うん、おはようマスター」
 いつもとは違う状況ではあったが、マシュの挨拶は普段どおりだ。だから立香も昨日とは違う状況を怪訝がる事はなく、自然な態度でエルキドゥに向き合うことが出来た。
「めずらしいね、どうかしたの?」
「マスターに報告しておきたい事があるんだ、どうしても」
 立香が尋ねると、エルキドゥは穏やかに言う。とりあえず話を聞かないことには始まらないので、立香は頷いて応じた。こうして3人そろって食堂に向かうのは久しぶりで、どこか少し懐かしみを覚える。
 食堂のテーブルにはぽつぽつと人が座っていて、がらんとしている。職員の人達は早朝から動き始めるので、立香たちが朝食をとる時はだいたい空席が多い。エルキドゥの話の中身がどういったものか予測がつかないので、立香は迷った末にカウンター席を選んだ。ここならテーブル席にいる人達の耳を遠ざける事ができるし、聞かれたとしてもいつもの料理好きサーヴァントくらいでそこまでダメージはないはずだ。
 マシュと立香はそれぞれ好きな朝食を用意し、立香が選んだ席の両隣に二人も腰を据えた。いただきますと手を合わせて食事を始める。エルキドゥはいつものようにコップにお湯を注いで口をつけている。
「それで、話って?」
に告白したんだ」
「……んぶッ!?」
「せ、先輩っ? 大丈夫ですか!?」
 ライ麦パンをうまく飲み込めず、喉につまらせて咳き込む立香の背中を、マシュがとんとんと叩くように撫でている。
「マスター、食事はよく噛んで、ゆっくり食べたほうがいいよ。続きを話してもいいかい?」
「どっ、どうぞっ」
にも好きって言ってもらえた」
 咳き込む直前の姿勢のまま固まる立香の隣で、マシュがひゅっと息を呑んで両手で口元を覆う。
 数秒の間を置き、立香はめいいっぱい咳き込んで、なんとか落ち着きを取り戻してから言葉を発した。
「それは……つまり、付き合うというアレ?」
「マスターの言うあれがどれかは知らないけれど、そうだね。昨日の今日だから、あまり実感は湧かないけれど……」
 エルキドゥは尻すぼみに言い、視線を手元に落とした。コップをくるむように持ったまま、人差し指どうしを突き合わせている。珍しい仕草をぼんやり眺めて、立香はエルキドゥの表情を伺った。その横顔はどことなく気恥ずかしそうで、見ている立香もそんな気分になってきてしまう。
「エルキドゥさん、おめでとうございます」
「ありがとう、マシュ」
「え、えーと、……おめでとう?」
「どうして疑問形なのかは謎が残るところだけれど、マスターもありがとう」
「い、いや、だってさ、こういうの初めてだから。俺もどうしたらいいのかわかんないんだよ」
「こういうの?」
 エルキドゥがキョトンと目を丸くする。
「サーヴァントから、誰かと付き合うって報告を受けることがだよ。……えーとマシュ、違反ではないよね、これ」
「……職場内恋愛に関する条項は、存在しなかったように思います」
 マシュはそう言ったが、実際はそうではない。軍隊の規範にのっとったかのような、まるで重箱の隅をつつくような様々な規約が過去に存在していた。しかしいつ頃からか定かではないが、ある一人のドクターの手により、職員の精神に負荷をかけかねない規約がすげ替えられ、振る舞いは自由になった。違反に対する罰則も、より軽度な処置に変わったのだ。
「たとえ規約に触れていたとしても、何とかなりそうな気がしますが」
「つまり、俺が頑張ればいいって話になるのか。……マーリンが言ってた責任ってこれかぁ……」
 そう言って項垂れる立香に、応援するような眼差しを向けるマシュ。そんな二人をエルキドゥは不思議そうに眺め、やがて気遣うような表情を浮かべた。
「……もしかすると、言わないほうがよかったかい?」
 立香はガバっと顔を上げて、
「ううん、それはないよ」
 にこやかに笑って首を横に振った。
「エルキドゥがきちんと話してくれて俺は嬉しい。焚き付けちゃった手前、どうオチがつくのか気になってたし」
「そうか、ならよかった。……それじゃあ、本題に移ってもいいかな」
「あれ? 今のが本題じゃなかったの?」
「今のは前座だよ」
 エルキドゥはふっと微笑んでみせたかと思うと、打って変わって真面目な顔つきになった。その変化に立香も触発され、思わず居住まいを正してしまう。
「マスターである君の事は最優先すると約束しよう。でも、の事を優先する許可が欲しいんだ」
 まっすぐな眼差しに射抜かれ、立香は目を丸くしたのち、ふっと笑った。
「いいよ。許可する」
「……えっ?」
「いやいや、なんで言った本人がびっくりしてるの?」
「拒否されるかと思ったんだ、なんとなく。そのために説得する口上もいくつか用意したけれど……あれこれ考えたのが無駄になってしまったな」
「心外だなぁ。マスターと言っても形式の話だし、サーヴァントの意思を尊重することを第一に考えないと」
「でも、マスターはマーリンの意思は尊重しなかっただろう?」
「あれは俺の道義に反するからしょうがないよ」
 これで話はおしまい、といった様子で立香がパンにかじりつく。マシュも食事を再開するので、エルキドゥは二人の顔を見比べた後、口元を綻ばせながら白湯に口をつけた。
「あ……あのう、今の話、ホント?」
 と、いきなり声がして、三人一斉に顔を上げる。
 カウンターに半分隠れるようにして、ブーディカが覗き込んでいた。その奥では洗いたての食器を腕に抱え、呆れた表情のエミヤが立っている。やっぱり聞かれるよなあ、とぼんやり考える立香の隣で、エルキドゥは眉間に皺を寄せていた。
「盗み聞きは関心しないよ」
「だったらここで話すな。筒抜けだ」
「……それもそうだね」
 エルキドゥはエミヤに同調するや、穏やかな顔つきに戻った。それからブーディカに顔を向ける。
「うん、本当の話だよ」
「……はぁ~。だからか、最近あの子がおかしかったのは……」
「おかしい?」
「一人でいる時、浮かない顔をしてる事が多くてね。体調不良かと思ったんだけど、……恋の悩みってやつだったのね。そう考えると納得」
 うんうんと一人で勝手に頷くブーディカの後ろで、エミヤはせせこましく動いている。ブーディカは一度ちらっとエミヤを見ると、再度三人の方へ顔を向けた。手伝うより、話をするほうを優先させたようだった。
「ちょっと聞いていい?」
「何かな」
「あの子の事が好きになった切欠とかあるの?」
 尋ねられたエルキドゥは、ぱちぱちと目をしばたたかせている。
「ブーディカさん、そういうプライベートな事を聞くのは流石によしたほうが……」
「まあ、俺も気になるかな」
「先輩まで!」
「マシュだって本当は気になるんじゃない? 目輝いてるよ」
「うううっ」
 場にいる皆の視線がエルキドゥに向く中、マシュだけが肩をすぼめてうつむいている。エルキドゥはなんとも言えない居心地の悪さを感じつつ、呆れ気味に苦笑した。
「みんな多感だね。……気がついたら好ましい人間だと思うようになっていたから、わからないな」
「わからない?」
 ブーディカが首をかしげる。
「ただ、を個として意識するようになったのは、ミサンガをなくしてからだと思う」
「ミサンガ?」
「マスターとマシュが腕につけてる装飾品さ。……というかマスターもマシュも、まだ解けていないんだね」
「うん。技師班の人にね、結び目に接着剤つけると解け難くなるって聞いたから、マシュと一緒につけたんだ」
 立香はそう言って右腕を出し、手首に回されたミサンガの結び目をエルキドゥに示すように見せた。立香の言う通り、結び目の紐が接着剤で硬化し、てらてらと光っている。それを見たエルキドゥは、あからさまに不機嫌そうな顔になった。
「それ、どうして僕に教えてくれなかったの?」
「これ知ったの、エルキドゥが無くした後だったし。というか無くしたのが切欠で意識するようになったってんなら、接着剤つけたら余計だめじゃない?」
「……それもそうだね。なら仕方ないか」
 エルキドゥの眉間の皺が、すぐに解けた。
「んんと、つまり……あの子からミサンガを貰って、なくしちゃったのが切欠って事?」
 ブーディカが尋ねると、エルキドゥは素直な動作で首を縦に振った。
「うん。今になってあらためて考えると、取るに足らない感じがするけれど」
「そ、そんな事ないですよ。結果論で言えば、さんのお願いが叶っていますので」
 顔を伏せていたかと思いきや、ばっちり聞いていたらしいマシュがずいっと身を乗り出して意気揚々に語るものだから、エルキドゥは目を丸くした。まばたきの後に視線を斜め上に向けて考え込んだかと思うと、
「そうか……そういえば、そうだね」
 どこか気恥ずかしそうに呟いて、人差し指どうしをつつきあわせてもじもじし始める。そんなエルキドゥをブーディカはしげしげと眺め、立香へと顔を向けた。
「えぇと、話がいまいち要領を得ないんだけど……説明お願いできるかな?」
「ミサンガって結ぶ時に願掛けするのは知ってる?」
「うん。聖杯からの知識だけど」
「なら話は早いね。エルキドゥは何も願わなかったから、さんが代わりにお願いしたんだ。エルキドゥと仲良くなりたいって。冗談交じりっぽかったけれど」
 立香の説明にブーディカはキョトンとしていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「ふふ、そっか。それは素敵な事だね」
 どこか機嫌が良さそうにニコニコしながら、ブーディカは調理場の奥へと引っ込み、一人もくもくと後片付けをしているエミヤの手伝いを始めた。てきぱきと動く二人の姿をカウンター越しに眺めながら、立香はふと思い立った様子でエルキドゥに問いかけた。
「なあエルキドゥ。気がついたらっていうけど、なんかこう、ハプニング的な出来事はなかったの?」
「ハプニング?」
 エルキドゥは怪訝そうにしている。
「危ない所を助けたとか」
「ないよ」
 エルキドゥが首を横に振って否定すれば、マシュが体を前のめりにして会話に混ざってくる。
「では、偶発的に押し倒してしまったりとかは?」
 エルキドゥはしばらく考え込み、
「うん。ないね」
 やがて苦笑混じりに答えた。
「よくわからないな……逆に聞くけれど、人間はそういった出来事がなければ好きにならないのかい?」
「えっ」
 思いがけない質問に、立香は目を丸くした。
「僕はレイシフト時にマスターもマシュも助けている場面があったはずだよ。でも、マスターとマシュは僕にそういう感情は抱いていないだろう? 野生動物にしたって、そういった経験を経てつがいになるわけじゃないはずだ。違うかい?」
 首をひねるエルキドゥに対して立香もマシュも何も言えず、ただ無言のままうつむいた。
「くっ……はははははっ!」
 カウンター脇の返却口にたまった食器を回収しにきたらしいエミヤが話を聞いていたらしく、我慢ができなかった様子で笑い声を上げている。見かねたブーディカが「笑わないの!」とすかさず窘めたものの、エミヤはさして態度を改める気はないようだった。
「エルキドゥの言う通りだ。そんなのでいちいち好きになっていたらキリがない」
 くつくつ笑うエミヤに、立香とマシュはことさら体を小さくするばかりだ。ブーディカはそんな二人を微笑ましいものを見るかのような目つきで眺め、次はエルキドゥに視線を向けた。
「ね、あの子のどういうところが好きなの?」
「……君はやけに気にするね」
 目を輝かせるブーディカとは対称的に、エルキドゥは呆れ眼だ。
「無味乾燥な日々の中に面白いネタが転がり込んできたら、突っつき回して遊びたくなるものだろう」
「僕はオモチャではないんだけれどね……」
 エミヤに揶揄され、エルキドゥが不満を顕にするものだから、ブーディカが慌てて取り繕うように首を振った。
「違う違う、オモチャにしたいわけじゃないの。単純に気になるだけ。質問はこれで最後にするから」
「一挙一動が可愛いところだよ。これでいいかい?」
「わー即答……。でも、なんだか流されたような気がするな」
「この状況で大真面目に答えたら、さらに馬鹿を見そうだからね。あと恥ずかしいのもある。でも、可愛いのは本当だよ」
「そっかぁ」
 ブーディカは満足げに微笑んでうんうんと頷いている。片付けに戻る背中を見送り、エルキドゥは手元のコップに目を落とした。残り少ない白湯をあおるようにして飲み干す。空になったコップを立香のトレーの上へと無遠慮に乗せた。
「マスター。話すことも話したから、そろそろ僕は部屋に戻るよ」
 エルキドゥはそう言って席を立った。
「えー、せめて俺たちが食べ終わるまでもう少し待ってよ。聞きたいこともまだまだあるし」
「そう言ってもらえるのは喜ばしい事だけれど、話しているうちになんだか自爆してしまいそうだ。それじゃマスター、よい一日を」
 引き止めようとする立香に微笑んで応じると、エルキドゥは踵を返し、すたすたと歩いてその場を立ち去った。
 立香は遠ざかるその後ろ姿を体ごと振り返って暫く眺め、やがて体の向きを元に戻した。食事を再開する前に、盛大に溜息をつく。カウンターのそばに来ていたエミヤが、目ざとくそれに気付いて声をかけた。
「どうしたマスター、溜息なんぞ吐いて」
「すっごく今更な話だけど、ああ見えてエルキドゥも年上なんだなって思ってさ。ちゃんと考えててホッとしたけど……それ以上に、そんな風に考えてた自分がすごく恥ずかしいような感じだ」
「まあ、サーヴァントのほとんどは、君たち若輩者とは違って人生の宿題を終えているからな」
 エミヤが言うと、マシュが口を開いた。
「酸いも甘いも噛み分けている、という事ですか?」
「そういう事だ」
 立香はもう一度溜息をつき、エルキドゥが勝手にトレイに乗せたコップに目を向けた。
 エルキドゥにしたって最期は望んではいない終わり方ではあっただろうけれど、その最期を迎えるに当たって宿題は終えているのだろう。そんな者たちのマスターであるという立場をあらためて感じ取った立香は、肩に荷が重くのしかかってくるのを感じた。
「……はあ、しっかりしないと」
「その意気だ、マスター」
「精進します」

 明日はきっと素敵な一日になる。そう思って挑んだ今日は、予想外にとんでもなかった。
 休憩時間の待機室。ロッカーの扉につけられた鏡を見つめながら、午前中の出来事を引きずらないようにと何度も自分に言い聞かせ、ロッカーからいわくつきの荷物を持ちだし足早に食堂に向かう。エルキドゥさんに会えるという高揚で気分は落ち着いたが、それでも腹の虫はおさまらない。
 区画に足を踏み入れて、最初に出会ったのはやっぱりエルキドゥさんだった。
!」
 ぱたぱたと駆け寄ってくる姿に猛烈に胸が締め付けられる。しかし、今は人がまばらな時間帯で、区画内の雑音は少ない。そんな中でエルキドゥさんのよく通る声で名前を呼ばれると、かえって少数精鋭の視線を大いに集めることになる。とてつもなく気恥ずかしいのでちょっと控えて欲しいような気もした。
 なんともいえないまま、無言で手に下げていたトートバッグをエルキドゥさんに差し出す。途端にエルキドゥさんは怪訝そうな、曖昧な笑みを浮かべた。
「……どうかしたのかい?」
「これ、技師班からエルキドゥさんに」
「うん?」
 困惑をあらわにしつつも、エルキドゥさんは両手で受け取ってくれた。バッグの中を覗き込み、おずおずと中身を取り出す。クッキーの缶だ。エルキドゥさんが確かめるように振ると、かさかさと音がする。
「中身は見た目と違うものが入っているみたいだね。こうなった経緯を教えてくれるかな」
「せ、説明すると長くなるのですが」
「手短に話して?」
「……。技師班の一部の間で、私がエルキドゥさんと付き合うか、秘密裏に賭けを行ってたんです。その賭け金です」
 エルキドゥさんは心底びっくりした様子で目をしばたたかせている。遠慮すること無く缶の蓋を開け、中身の紙幣を確認し、ことさら目を丸くしている。あからさまに戸惑っていた。
「餞別、だそうです」
「……これは……困ったね」
 エルキドゥさんは何が何やら、といった様子で困ったように笑い、手元の缶に目を落としている。その姿を見ているとなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいいっぱいになる。やっぱり黙っていたほうがよかったかもしれない。後悔の念にとらわれていると、私のお腹が空気を読まずにくーと鳴いた。
 恥ずかしい。顔を上げるエルキドゥさんと視線がかち合わないように、慌てて顔をそらす。
「……す、すみません」
 一拍の間を置いて、エルキドゥさんがくすっと笑う声がした。
「色々と突っ込みたい所があるけれど、……まずは食事にしようか。取っておいでよ」
「そうします……」
 とぼとぼとカウンターに向かって食事を受け取り、エルキドゥさんと離れた席に腰を落ち着けた。なんだか恥ずかしいやらで体温が熱いし、食事をするのに邪魔なので上着を脱いで椅子にかけようとしたところで、
、その上着、貸してもらっていい?」
 エルキドゥさんが身を乗り出して言うから、今度はこっちが目を丸くする番だった。
「え? ええと……ど、どうぞ?」
 首をひねりつつ立ち上がってエルキドゥさんに上着を渡すと、エルキドゥさんはそれを両手で受け取った。何をするのかと思いきや、いそいそと上着を羽織ってどこか意気込んでいる。何がしたいんだろう? まあエルキドゥさんだし仕方ないか、と適当な理由をつけて納得しつつ、席に座り直す。
 しかし、いつも白い上着のエルキドゥさんが黒い防寒具に身を包んでいるのを見ると、ものすごい違和感だ。そして美人は何を着ても似合ってしまうのだという事実を再認識する。うらやましい。
「それで、賭け事についてなんだけれど」
「うっ……ハイ……」
「どうしてこれが僕に回ってきたのかな?」
 件の缶が入ったトートバッグをトントンと指先で示すようにつつきながら、エルキドゥさんは言う。
「発覚した時、ダストンさんが脅しをかけたんです。そんな事してたって本人にバレたら怖いぞ、って」
「なるほど。……あずかり知らぬ所で勝手に恐れられるのも奇妙な話だ」
「あの、お酒の席での事が発端らしいので、どうか穏便にお願いします」
「僕は別にこんなので怒ったりはしないさ。それに、僕から何か危害を加えようだなんてこれっぽっちも思わないよ。第一、面倒だ」
 エルキドゥさんは、穏やかに微笑んでいる。
「とりあえず……こういうのをもっけの幸いと言うのかな。まあ、貰えるものなら貰っておくよ」
「そ、そうですか……」
 角が立つこともなく話が終わり、思わずほっと胸をなでおろした。
「で。賭け金の分配が決まったって事は、が喋ったのかい?」
「ちちち、違いますよ!」
 慌てて否定する。そんな私をエルキドゥさんはしげしげと眺め、その次の言葉を促すように首を傾げてみせた。
「……ひ、非常に情けない話なんですが、挙動不審が過ぎてバレました」
 思い出したくもない朝の待機室の出来事を思い出してしまい、思わずううう、と唸り声が口から漏れた。
 何が理由かはわからないけれど、きっと私の動作が何をするにもギクシャクで、とにかくぎこちなかったのだと思う。それを気にした先輩に「何かあったの?」と無邪気に尋ねられ、返答に窮した私に対し、皆が追い打ちをかけた結果、ずばり言い当てられてしまった。
 朝の待機室。出勤する人が増えれば増えるほど、話はどんどん広がっていく。しこたまいじられとてつもなく恥ずかしい思いをしたのだ。そして恥ずかしくて死ぬかと思うほどの祝福の言葉も受けた。だから、怒るにも怒れない。それに私だって逆の立場だったら質問しまくる側に回っていたと思う。
 そんな私の心情を察したのか、エルキドゥさんは目を細める。
「ふふっ」
「わ、笑わないでくださいよ」
「ほら、ご飯が冷めてしまうよ」
 促されるまま、しぶしぶ昼食を口に運ぶ。あたたかいトマトスープの程よい酸味が口に広がった。美味しい。勝手に頬が綻んでしまう。ローストポークのようなものが挟まったサンドイッチもこれまた美味しい。
 あれもこれもと食べるのに夢中になって、ふと気づいてエルキドゥさんを見る。頬杖をついて、心底微笑ましそうにこっちを見ているから、少し恥ずかしい気持ちもあるけれど、幸せの方に加算されてしまう。
「おいしいかい?」
「おいひーです!」
「それはよかった」
 ふふ、とエルキドゥさんが笑っている。私の食べ方がおかしいのだろうかと少し不安になる。
が何かを食べている時は、だいたい嬉しそうだね」
「だって、おいしいですし」
「うん。そんなを見ていると、なぜだろうね、僕も嬉しくなるよ。面白い感情だと思う」
 思わずぽかんとしてしまった。
 私がご飯を食べている時のエルキドゥさんは大概ニコニコしている事が多い。たとえ会話がなくとも、黙ってニコニコ見つめてくるから、何が楽しいんだろうと疑問に思うことがしばしばあったけれど――そういう事だったのかと理解したら、なんだか気恥ずかしいような、むず痒いような気になってきた。
 自分とフィーリングが合う人が笑顔でいると、見ているこっちも嬉しくなるっていうのは、私にだって経験がある。エルキドゥさんは食事を必要としないからこそ、味覚を刺激される私の変化を目視することで楽しみ、この空気に共感することで味わっているのだろう。
 自然と笑顔になってしまった私に微笑み返してくれるエルキドゥさんを、大事にしたい。いや、もっと大切にしたいなと思った。
 食事を終えて一息し、片付けをすませる。そのまま会話に花を咲かせるかと思えば、道すがら話がしたいというエルキドゥさんの提案により、廊下に移動することになった。
 サーヴァント用の宿舎区画の分岐点まで、ゆっくり歩きながら二人で話す。食堂と違って人目もないから、遠慮せずに話ができるのが楽しい。
 ふいに話題が途切れた。そのタイミングを見計らっていたのか、エルキドゥさんがおもむろに羽織ったままだった私の上着を脱いで手渡ししてきた。そういえばエルキドゥさんに渡したままだった、と今更気づいてしまうほど会話に夢中になって、その存在が頭から抜け落ちていた。危ない危ない。
「寒いって何度も聞いていたから、あたためておいた。余計なお世話かもしれないけれど」
「へっ!?」
 びっくりしながら両手で受け取って、表面を確かめるように触ってみる。いつもの手触りの防寒具だけれど、手のひら全体に温かさを感じた。いそいそと羽織ってみると、やっぱり温かい。
「ほ……ほんとだ、あったかい!」
「熱くないかな」
「ちょうどいいです。あったかいー……」
 着ている上着をぎゅーっと抱きしめるようにしてみると、まるでお風呂に浸かった時のようにじわじわと温かさが染み込んでくる。このまま温もりに浸ってしまいたくなったけれど、この熱が逃げないように急いでファスナーを首元まで上げた。
「余計なお世話だなんて、そんなこと全然ないです。すっごく嬉しいです!」
「喜んでもらえてよかったよ。今の僕にとっては、こんな些細な事でしかの役に立てそうにないからね」
 エルキドゥさんはそう言って、一切の屈託を感じさせない笑みを浮かべた。
 兵器としてのエルキドゥさんは、確かに私にとっては無用の長物だ。技師班員は特異点にレイシフトして戦うわけでもなく、施設の中を縦横無尽に駆け巡って整備にあたるだけ。
 そんな行動を踏まえてエルキドゥさんなりに導き出した答えが、この温かさということだ。その混じり気のなしな純粋な善意を目の当たりにして、不思議と胸の奥まで温かくなってきた。
「……えいっ」
 心を突き動かされるようにして、真正面からエルキドゥさんにしがみついた。割と勢いよく飛びついたけれど、エルキドゥさんはびくともしない。べつだん目立った抵抗もないし、たぶん受け入れてくれている。体を重ねるようにしているとエルキドゥさんの体温がいつもより温かいのに気付いて、心臓がどきどきしてきた。
「ほ、ほんとに嬉しいです。ありがとうございます」
 エルキドゥさんは驚いた様子で私を見下ろしていたけれど、やがてふわっと微笑んだ。
「顔を合わせた時はいつもと変わらないのかなと思っていたけれど、そうでもなかったね」
「さすがに、人目をはばからず、というわけにはいかないですし……」
「……人目をはばかるとこうなるんだ?」
 からかうような調子でエルキドゥさんは言う。いつもなら悔しさのあまり唸り声のひとつでも上げていたかも知れないけれど、くすくす笑うエルキドゥさんを見ていると、そんな気持ちはこれっぽっちも湧いてこない。
「嬉しくて、つい。……迷惑でした?」
「ううん、そんな事ないよ」
 エルキドゥさんは、ふるふると首を横に振る。
「それじゃあ、もう少しだけ付き合ってもらえますか?」
「うん、喜んで」
 エルキドゥさんは身をかがめて例のトートバッグを床に置くと、私の背中に手を回して抱きしめ返してきた。ぎゅっと抱きしめられた途端、無意識に体がこわばって心臓も勝手に跳ね上がる。だというのに何故か不思議と安堵してしまった。
 私もエルキドゥさんの背中に手を回して、眠りに落ちるみたいに目を閉じて身を委ねる。するとエルキドゥさんが私の後頭部に手をそえた。おずおずとした手つきで頭を撫でてくる。ぎこちない動作だったけれど、壊れものに触れるかというくらいの優しい力加減。それがかえって気持ちいい。この状況に対する嬉しさと、微笑ましさと、心地よさが混ざりあった吐息が漏れる。
 しばらくそのまま、ぎゅっと抱き合う。エルキドゥさんも私もお互いに体を預けあって、たまに抱きしめる腕にちょっと力を込めて遊んだりする。
 凄く気持ちがいいけど、なんだか気付かないうちに底なし沼に片足を突っ込んでしまったかのような恐怖に近い錯覚を感じた。このままでいると、時間を忘れてしまいそうでほんの少し怖い。
 腕をゆるめて、ほんの少し体を離して、エルキドゥさんと真正面から顔を見合わせる。
「あの、エルキドゥさん」
「ん?」
「満足したので、そろそろですね」
 午前中の作業で感じた気だるい疲労感は不思議と消えていた。思考もすっきりしていて、まるで充電が完了したかのように万全な状態なのが自分でもわかる。
 エルキドゥさんは目をしばたたかせると視線を斜め上に向けて、いつもの考え込む仕草を取った。今となっては見慣れた表情だけれど、相変わらずの仕草がいつにも増して可愛く思える。しばらくその顔を眺めていると、エルキドゥさんはふっと笑みを浮かべた。
「でも、僕はまだ満足していないよ」
「わ、わっ」
 今度はエルキドゥさんがひっついてきた。最初こそ慌ててもがいたけれど、抵抗するようにぎゅーっと抱きしめられてしまうと、大人しくするしかない。
 おそらく、休憩の残り時間はまだ余裕があると思う。昨日と違って早く食堂を出たし、あまり頼りにはならない私の体感時間がそう告げている。でも、遅刻はぜったいに出来ない。出来ることなら早めに待機しておいたほうがいい。
 でも、こんな風にしてくれるエルキドゥさんを引き剥がすなんて事は、到底できそうにない。
「エルキドゥさん」
「いやだよ」
 駄々をこねるような一面を垣間見せてくれるものだから、吹き出しそうになる。
「そ、そうじゃなくてですね、今度は私が腕を上にしてみたいです」
 言いながら手をバタバタさせると、エルキドゥさんは何も言わずに私の脇の下にすべりこませてくる。私も手を持ち上げながら背伸びをして、飛びつくようにエルキドゥさんの首の後ろに手を回した。
 頭を抱き寄せて、さっきのお返しと言わんばかりに撫でてみる。するとエルキドゥさんの身体が一瞬ビクッと震えて手を引っ込めそうになったけど、それ以上の抵抗はなかった。受け入れてくれたみたいだ。何度か撫でるうちに、エルキドゥさんが背中を曲げてもたれかかってくる。私の肩に顔を預けるどころかこすりつけてくるのが、なんだか催促されているみたいでちょっと嬉しい。何度も手を往復させると、エルキドゥさんのサラサラの冷たい髪が、だんだんあったかく感じてきた。
「エルキドゥさんって、髪に何かお手入れとかしてるんですか?」
「特にしていないよ。どうして?」
「手触りつるつるで、癖もないし、まっすぐストンってしてる。すっごく綺麗だなって」
 エルキドゥさんの髪の毛をすくい取ってみると、手からサラサラとこぼれ落ちた。見事だ。ここまで素直だともう嫉妬の感情すら湧かない。
「そういう風に僕の髪に触った人間の女の子は、が初めてだな」
「そうなんですか? 意外。……ふふん、これはみんなに自慢できますね!」
「自慢できるような事ではないと思うよ。というか誰にするんだろう」
 私の軽口にエルキドゥさんは呆れた調子で返すけど、肩口に一度だけ頬ずりしてくるあたり、まんざらでもないみたいだ。
「えへへ、触り続けたら綺麗な髪になれるご利益とかないかな……ないですか?」
「ないよ」
 エルキドゥさんが即答するから、残念と笑って肩をすくめてみせると、
「でも、どうだろうね。もしかするとあやかれるかもしれないよ?」
「……なるほど」
 言い方はもっともらしさ満点だけれど、要するに、もっと撫でてという事らしい。かわいい。
「ふふふ。……よーしよしよし!」
「うわっ? ちょ、ちょっと?」
 エルキドゥさんの頭をわしゃわしゃと撫でまくってみた。髪の毛が絡まることは考慮せず、揉みくちゃにしてみる。
 流石に怒られるかなと思ったけれど、エルキドゥさんは意外にも肩を震わせて笑っていた。綺麗な素材で出来た鈴の音みたいな声で耳元でくすくす笑うから、聞いてるこっちもくすぐったくなる。こんなに機嫌良さそうに笑っているのは初めて目にするし、ともすれば撫でるのを止めたら逆に文句を言われるんじゃないかという不安が生じた。なので思う存分撫で回す。
 撫で回しているうちに、気付くと私の息はあがっているし、エルキドゥさんの髪の毛が四方八方に散らかるようになってきた。手ぐしで整える。あれだけサラサラな髪は絡まること無く、すぐに元通りになった。
「もうおしまい?」
「あ、あやかりたいのは山々なんですけど、腕が疲れてきました……」
「健啖なくせして軟弱ー」
「うううっ、私の食欲は今関係ないですよねっ!」
「ほら、腕おろして」
 エルキドゥさんは言いながら腕をゆるめて、隙間を作ってくれる。言われたとおりにその隙間に腕を滑り込ませる。おろしたままなのもどうかと思ったので、エルキドゥさんの背中に回した。
 ぎゅっと抱きしめると、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。
「エルキドゥさん、満足できました?」
「ううん。でも、そろそろ終わりにしないと駄目みたいだね」
「そうして貰えると助かります。進捗は予定より早く進んでますし、今日頑張れば明日には……」
 私が言葉を紡いでいる最中に、肩に頭を預けていたエルキドゥさんが体を起こした。
 頬に柔らかい感触があたって、すぐに離れていく。しばらく落ち着いていた熱が、また足元からじわじわ登ってきた。
 エルキドゥさんが体を離して、いたずらっぽい笑みを浮かべながら私の顔をじーっと見つめてくる。途端に何を喋ろうとしていたのかその先がすっぽり頭から抜け落ちてしまった。
「……が、がんばりますね」
「うん。頑張ってね」
 なんとかかんとか言葉を絞り出す私に対して、エルキドゥさんは余裕綽々の笑みを見せる。悔しさのあまり、反骨精神が刺激された。私も負けじと背伸びをして、エルキドゥさんの頬にキスをする。
 エルキドゥさんは一瞬面食らったような表情になってから、眉を寄せた。
「昨日のお返しのつもりだったのに……」
「昨日は昨日、今日は今日ですよ!」
「でも総数を見れば僕はに負けている。兵器である僕が人に負けるだなんて、ゆゆしき事態だ」
「これって勝ち負けだったんですか!?」
「勝ち逃げはゆるさないよ」
 穏和そうな見た目に反して、発言はひどく物騒なにおいがする。慌てて逃げようとするとすぐに腕を掴まれた。何をされるかわからず身構える私に対してエルキドゥさんはどんな手を繰り出してくるのかと思えば、なんて事はない頬への軽いキスだった。しかも2回。嬉しいけどちょっと恥ずかしい。
「これで僕の勝ちだね」
 エルキドゥさんは満足そうに勝ち誇った笑みを浮かべるから、なんにも言えなくなった。思うにエルキドゥさんは後先考えずに行動するフシがあるような気がする。反射神経で生きているというか、なんというか……とはいえ私も人のことを言えないけれど。
 とりあえず、エルキドゥさんの自負は相当なものらしい。私に勝ったと信じて疑わない様子で私の頭を慰めるかのように撫でるその姿は、ともすれば自信満々に無防備だった。私が一歩近づいても態度をあらためない所がちょっと抜けていて不安になるけれど、私のことを気の置けない相手と思っていてくれるんだろう。
 それが、何より嬉しかった。
 背伸びして、お返しに2回。そしてとどめにもう1回、頬に唇を寄せた。エルキドゥさんが硬直している間にパッと体を離して距離を取る。さっきみたいに、腕を掴まれることはなかった。
「そ、それじゃあ時間なので! 失礼します!」
 一度頭を下げてから、脱兎のごとく走り出す。ちらっと振り返ると、エルキドゥさんは追いかけずにその場に棒立ちのまんまだ。追いかけてくる様子はない。たぶんエルキドゥさんが本気を出せば、私なんかすぐに追いつかれるだろう。たぶん見逃してくれているんだと感じた。
 そのまま走って、エレベーターの中に飛び込んだ。急いでボタンを押して一息つく。
 そしてはっと我に返って、思わずその場にしゃがみこんで頭を抱えてしまった。今の状態で戻ったら、また朝の二の舞になってしまう。平常心を取り戻さなければと自己暗示を試みるけれど、うまくいかなかった。
 やっぱり後先考えて行動すべきだと、しみじみ痛感してしまった。

 うわずった声の挨拶を残して逃げるように駆けていった少女の後ろ姿を一人ぼんやりと見送ったエルキドゥは、やがてふっと微笑んだ。
「こういうのを、油断大敵と言うんだろうね」
 やるだけやられてしまった。逆転したと思ったらやっぱり負けに戻ってしまったのである。さてここからまたどうやって逆転しようかと思考をめぐらせつつ、エルキドゥは足元に置きっぱなしだったトートバッグを摘み上げた。
 部屋に戻ろうと体を反転させた所で、
「まったくだな」
 聞き慣れた声がして、エルキドゥは目を見開いた。金属同士が擦れるような音がして、思い当たるその気配に息を呑む。
 わずかに首をひねると、音の発生源である人物を視界の端にとらえてしまい、エルキドゥは思わず手に提げている荷物を取り落しそうになってしまった。
 しばし無言。
「……やあ。久しぶりだね」
「たわけ。そっちは壁だ」
 エルキドゥは、混乱のあまり壁に話しかけるという痴態を晒した。それを生前の友人である英雄王ギルガメッシュに呆れ気味に突っ込まれ、しぶしぶといった様子でギルガメッシュに向き合った。久方ぶりに会う友人の顔を眺め、エルキドゥは昔の眩しい日々を懐かしむかのように目を細めた。とはいえ、蛍光灯の明かりが黄金に反射して眩しさを感じたのは事実である。
「ギルは……元気そうだね。何よりだよ」
「まあな。おまえは、しばらく見ぬ内に壁と話すほど“広い交友関係”を築いたと見える」
 ギルガメッシュが強調するように言うものだから、エルキドゥはぐうの音も出ない。まあ、もとより出す気もないのだが。
「で、いつからそこにいたんだい?」
「さてな……まあ、頭を撫でられ、気色悪いやり取りを交わす事を良しとし、悦に浸りながら薄気味悪い笑顔を浮かべていたあたりからかも知れんな」
 エルキドゥは内心頭を抱えた。それをおくびに出さないように努める。
「そんな顔はしていないよ。……していないはずさ、たぶん」
「悦に浸っていた事は否定せんのだな」
 ああ言えばこう言う、ともまたちょっと違うが、ギルガメッシュはいつもこうだ。相手の発言に隙があれば、そこを突いて面白がる悪癖がある。唯一無二の友人ではあるが、厄介なタイミングで厄介なのに引っかかってしまった自分の天運をエルキドゥは呪った。
 エルキドゥが空いた片手で顔を覆って俯くと、ギルガメッシュが怪訝そうに眉を吊り上げた。
「壁の次は床と話す気か? 酔狂にも程があるぞ」
「違うよ。僕の気配感知能力は誰よりも優れている自信がある。けれど、君がここにいる事を目視してやっと気が付いた今の自分自身に呆れているんだ。……穴があったら自爆したいところさ」
「己の恥を呑み下すのに自爆を選ぶのは止めろ」
 俯いたままのエルキドゥを鼻で笑ってから、ギルガメッシュは廊下の向こうに目を向けた。エルキドゥに対し無遠慮に構い倒していたあの少女の姿はない。しかし、視野が狭いのか、それともギルガメッシュが立っていた場所がエルキドゥの死角となっていたのかは知らないが、英雄王の存在にまったくもって気付かなかったのはある意味見事だ。ギルガメッシュの腹立たしさが一周して呆れに変わるほどである。
「どこからどう見ても些々たる雑種にしか見えん。だのに、懐かれただけでこうも腐るとはな。粛正宝具が聞いて呆れるぞ」
 挑発じみた物言いにつられ、エルキドゥは顔を上げた。
「君の目からはそう見えるかもしれないけど、僕は違うよ。それに、懐いたのは僕の方だ」
 言い終わると笑顔になるものだから、ギルガメッシュはひどくつまらなさそうな顔をする。
「ふん。我への敬意よりも、あれに気を回すほうがよほど大事と見える」
「おかしな事を言うね。友人である君に嘘はつけないから、正直に話しているまでだ。それとも嘘をついて欲しいのかい?」
 応じるエルキドゥは笑顔のままだ。ギルガメッシュはその友人の顔を胡乱な目つきで眺め、やがて小さく嘆息して見せた。珍しく動揺を見せるエルキドゥを煽り立てようとしたが、すぐに調子を取り戻してしまったのが面白くない。
 つまらんと言わんばかりの表情を浮かべるギルガメッシュに、エルキドゥは言う。
「僕の目からするとね、とても好ましい人間だよ。この輪の中で自分が未熟だという自覚を持ちながら、一所懸命に役立とうとする姿はかわいいんだ」
 ギルガメッシュが呆れ眼になった。
「すごくかわいいんだ」
「やめろ。惚気るな。にじり寄ってくるな。1ミリたりとも興味は無いぞ」
「一途に見てもらえるのはいいものだね。好きになった子に好きだと言ってもらえると奇妙な万能感に包まれるし、優越感に浸れる。恋という曖昧で不規格なモノのどこがいいのか僕にはよくわからなかったけれど、人間の営みの中ではなかなか良いと思えるよ。恋をすると良い方悪い方どちらかに傾くと本で読んだけれど、僕は良い方に傾いたような気がする」
「人の話にまったく耳を貸さん末期症状が出とるではないか。そもそも日頃どんな本を読んでいるんだおまえは。悪い方に傾いとるぞ」
「そうかな? ところで、ああいう事をしている時にどことなく多方面から視線を感じるような気恥ずかしさが生じるんだけれど、この現象はなんていう名前なのかな? ギルは知っているかい?」
「やかましいわ。壁なり床なりにでも聞いていろ」
 そう言うと、エルキドゥは考え込む素振りを見せる。何を考えているか定かではないが、下手をすればまた壁や床相手に対話を試みるという痴態を晒し始めるかも知れないという懸念がよぎり、ギルガメッシュは眉間に皺を寄せる。エルキドゥを思考から引き戻すために言葉を続けた。
「そもそも、いつからだ」
 主語が曖昧な質問だったが、それでもエルキドゥは意図を汲み取った。
「昨日からだよ」
「なんだと」
 にこやかな回答に、ギルガメッシュは驚愕した。
「明らかに付き合いたての初々しい空気ではなかっただろうが。恥を知れ、恥を」
「恥はたくさん知ったさ。まあ、僕の負けず嫌いと、彼女の負けず嫌いの一面が重なってああなったのかな。そこがまたかわいいのだけれど」
「隙あらば惚気るのをやめんか」
 話を止めろと言わんばかりに、ギルガメッシュは片手を振り払う。話の主導権を取り続けなければ、惚気倒される事は必定ならない。それを危惧し、視線をさまよわせる。その間一秒。
「時に、それはなんだ」
 エルキドゥが手に提げているバッグを顎で示すと、エルキドゥはギルガメッシュが見えやすいようにわざわざ両手で持ち直してから。
「ああ、これかい? なんと言ったらいいんだろうね……職員の間で賭け事があったようで、かくかくしかじかで、賭け金をすべて貰うことになったんだ」
「まるで意味がわからんが、まあいい。おまえもとうとう黄金律を理解するまでに至ったか」
「ふふ。良い方に傾いた結果だろうね」
「…………」
 笑顔のエルキドゥに対し、ギルガメッシュはまた眉間に皺を寄せる羽目になった。場の主導権を取った所で、相手の頭がお花畑の状態だと無条件に相手のペースを持ち込まれると気付いたからである。
「なんてね。これは僕ではなくてあの子がもたらした結果だ。そもそも、人間のお金も財宝も権力も、僕には不要なものさ。黄金律を理解するだなんて、夢のまた夢だろうね」
「あっさり切り捨てるか。なれば、それをどうするつもりだ」
「うーん……飾っておこうかな」
「飾ってどうする。貨幣は使うものだ。生きているうちに全てな」
 そう言い放ち、ギルガメッシュは歩き出した。きょとんとするエルキドゥの脇を通り過ぎ、エルキドゥが振り返ってその背中を見送ろうとしたところで、金属音がぴたりと止まる。
「たわけ、さっさとついて来んか」
「どこに行くんだい?」
「売店だ。そこで金の使いみちでも見繕えばよかろう」
 そう言って、またガシャガシャ鎧を鳴らして歩き出す。エルキドゥは一度まばたきをし、手元の荷物に視線を落としてふっと笑みを浮かべると、ギルガメッシュの後を追うように足を踏み出した。近すぎず遠すぎずの距離感を維持して話しかける。
「そういえば、と出会ったきっかけなんだけれどね」
「くどい。興味が無いとさっき言ったであろう」
「僕にもそういうのを話したい年頃というやつが訪れたんだと思う」
「来るのが遅すぎるわ」
 一度話し始めてしまえば、会話はそれなりに弾む。しかし、互いの口から出る言葉は、中身のないものばかりだ。使い古され真新しさもなく、好奇心を刺激されることもない。もはや惰性に近い感覚。
 お互いにわかっているのだ。緊張感の欠片もないほど気心を知り尽くし、話すことがないほど長い付き合いというのも、一長一短なのだということを。
 ましてや両者とも人生をそれなりに全うしているからこそ、いつまでも過去にすがってはいられない。カルデアで気配を感知したものの、エルキドゥが会いに行かなかった理由がこれだ。それはギルガメッシュも同じである。
 それでも、久しぶりに出会った旧友との会話は、それなりに楽しいものだった。