Green happines : 05

 見上げた空は青く澄みきっていて、エルキドゥはその高さに目がくらむような錯覚を覚えた。天高くに浮かんで輝く太陽はむっとする熱気を放ち、照りつける日差しで熱せられた地面から蜃気楼が立ち上る。雨上がりの後だからか、湿気を含んだ風が頬を撫でていく。カルデアの建物内に充満する閉塞感とは真逆の開放感。エルキドゥは喜びに体を震わせた。
 このままどこかに飛んで行ってしまいたいような気にさせられるが、今はそれどころではないのを思い出す。
「うわっ、顔に血飛んだぁっ!」
「せ、先輩、大丈夫ですか?」
 振り返ると、魔獣ウガルの亡骸を前にして、立香とマシュがナイフを片手に四苦八苦していた。顔に赤黒い血飛沫が付着し顔をしかめている立香の頬を、マシュがタオルでぬぐっている。
「マスター、手伝おうか?」
「ううん、大丈夫だよ。エルキドゥは休んでいて」
「……わかったよ」
 エルキドゥはふうと息をつく。もう少し頼って欲しい所もあるが、自分でやりたいというのであれば仕方がないだろう。
 あの魔獣は先刻エルキドゥが仕留めたものだ。原初の産毛が欲しいという立香の個人的な理由と、カルデアの食料として肉が欲しいという台所事情から、見つけ次第優先的に狙うようにしているのだ。
 ウガルは半人半獣だ。その肉を人間が食べるのはどうなんだろうとエルキドゥは思っているが、ウガルの見てくれはそこらの四足獣となんら変わらない。立香とマシュはその事を知っているのだろうか。それとも知りながら仕留めているのか気になったが、そういった話題を振られない限りは黙っておこうとエルキドゥは決めていた。教えを請われない限りは何も言わない。それにきっと、知らないほうが良い事もあるのだ。
 エルキドゥはあらためて、あたりの景色をぐるりと一望する。敵影もなく、気配感知を使っても土中に住まう虫やネズミのような小動物の気配しか感じない。ここ一帯はしばらく安全なはずだ。人の手が一切加わっていない平地を眺めながら、エルキドゥはほっと息を吐いた。
 自然のままにある風景は、どうしようもなく心が落ち着く。それゆえ、カルデアにいる時は少し落ち着かない。最近はある事情で実体化を続けているものだから、人工的で無機質な壁や低い天井を見て、どうしても居心地の悪さを感じてしまう。兵器として定義しながら、人工物から自分勝手に応力を感じるとは情けないという自覚がエルキドゥにはあるが、いまいち慣れないのだから仕方がない。
 実体化を続ける発端となったある事情の存在を確かめようと左手を持ち上げたところ、突風が吹いた。風で髪が煽られる。砂埃が舞い、エルキドゥは目をつむって風が止むのを待ってから、左手首に視線を落とした。
 ――ない。
 ずっと巻き付けていたミサンガが、消えている。
 エルキドゥは二回まばたきをし、やがて焦燥に襲われた。
 焦りのままに左袖をまくって、ミサンガが無いのを確認してから、今度は混乱に襲われる。足元を確認し、半径数メートルの地面にそれらしきものが落ちていないのかを確認し、今度は上着の裾をまくって腹部を確認。
 上着の裾を口に咥え、今度はパンツの中を確認しようとした所で、
「何やってんのよあんた。馬鹿なの?」
 頭上から声がして、エルキドゥは固まった。口に咥えた裾をもとに戻す。
 自分は何をやっていたんだろうとエルキドゥは自問自答する。混乱のあまり挙動がおかしくなっていたのだと結論づけながら、身をかがめて足元の石ころを拾い上げると、声のした方向へと投げ放った。
 エルキドゥが返事をするかわりとして投げた石ころは、エルキドゥの軽々とした動作とは裏腹に、ビュンと風を切って飛んでいく。
「ッ!? あ、危ないじゃない!」
 天舟マアンナに騎乗しているおかげで、イシュタルは飛んできた豪速球の石ころを回避し事なきを得た。イシュタルはそのまま、放物線を描いて地面に落ちる石ころの行方を見守ってから、エルキドゥのほうへ鬼の形相のような顔を向ける。が、エルキドゥはすでにイシュタルに背を向けて別の方向へと移動を始めていた。
「もうっ、なんなのよー!」
 一人で勝手に金切り声をあげるイシュタルなど存在しないかのように、エルキドゥは振る舞い続ける。
 そんな騒がしさに立香とマシュはウガルの死体から視線をずらした。ふてくされているイシュタルと、無表情に不機嫌そうなエルキドゥを見比べて、立香は胸中にやや苦いものが広がるものを感じた。人選ミス、だなんて言葉が頭に思い浮かぶも、立香はすぐに振り払う。
 気配感知で敵を察知し、中近距離攻撃に特化しながらも、どんな場所であろうと大地に足をつけている限り要塞と変化する事も可能でありながら、そこから固定砲台としての機能を発揮する事ができるエルキドゥ。
 空を移動して敵を視認し、超遠距離から威力の高い精密射撃を可能とし、魔力放出をおこなえばおよそエルキドゥに引けを取らない破壊力を持つ一撃を放つことができるイシュタル。
 お互いに声をかけあえばスムーズに敵が仕留められると選んだのだが、相性が悪く、当たり前のようにうまくいかなかった。覚悟はしていたことだが、やっぱり次からは別々にしようと立香は決め込んだ。
 しかし、喚いているイシュタルは放って置くとして、エルキドゥの表情はあまりよくないのに立香は目ざとく気がついた。
「エルキドゥ、どうかしたの?」
「……なんでもないよ」
「そこ、マスターには露骨に口を利くのやめなさいよ」
 エルキドゥが返事をしないものだから、無視されたイシュタルがまたやかましくなる。
「先輩、とりあえず作業を進めましょう」
「……うん、そだね」
 小声でそんなやり取りを交わして、立香とマシュはもくもくと作業を進める。
 そんな二人のウガルの解体の様子を、イシュタルは「ほーう」だの「へえーっ」と感心めいた声を上げながら、マアンナに騎乗したまま観察をしている。
 エルキドゥといえば、少し離れたところにぼんやりと立ち尽くしながら、左手首をじっと見つめていた。己自身の記憶を掘り起こし、最後にミサンガを見たのはいつだったか確認する。レイシフトでここに転送され、ウリディンムと交戦を行った時はまだ存在していたのを確認する。それ以降からは見当たらない。
 おそらく、戦闘により紐が解けてしまったのだろうと、エルキドゥは自己解釈を終えた。何もない手首から手のひらに目をやると、脳髄が――記憶領域がちりちりと焼けるような感覚に襲われ、エルキドゥはかぶりを振る。
 紐が解けることに意義があるのだ、と誰かが言っていたのをエルキドゥは思い出す。それでも奇妙な焦りが胸中から消えない。
 途方に暮れるというのは、エルキドゥにとって久しぶりのことだった。
 立香とマシュの、つたないながらの解体作業が終わると、今度は荷造りが始まる。集めた素材はめったな事じゃ型崩れを起こさないという理由で、頭陀袋に乱暴に詰め込んだ。
 切り分けた肉はあらかじめ用意していた経木という、木を薄く削って作ったものに包んで、クーラーボックスの中に詰め込んでいく。本当ならビニール袋などを使えば楽なのだが、使用済みのものは燃やして廃棄する事ができないので、昔ながらの経木が役立っていた。
 立香が想定していたよりも肉の量が多く、持ってきたクーラーボックスに入り切らないものはそのまま放置することにした。後で動物や虫が食べて、自然に返してくれるだろう。
「それじゃ、戻ろうか。二人とも、協力してくれてありがとう」
「どういたしまして」
「ま、感謝しなさいよ」
 立香が礼を述べると、エルキドゥは穏やかに返したが、イシュタルは偉そうだった。女神という身分が為せる態度だろう事は承知だったので、立香は特に気にもしない。それよりも、エルキドゥからいつものような覇気を感じないのが、立香には不思議でならなかった。
 きっと気のせいだろうと、立香はカルデアへのゲートを開くために、腕に取り付けた端末をいじる。
「え、エルキドゥさん」
 唐突に、隣のマシュが慌てた様子で、エルキドゥに向き直った。
「ミサンガが……」
 立香が手を止めて、エルキドゥの左手に目をやり、それからあっと小さく声をあげた。エルキドゥの顔に目を向けると、エルキドゥは目を細めてふっと微笑んだ。
「うん、どうやら戦闘でほどけてしまったみたいだね」
「そ、そうですか……残念です」
「そうだね。残念だけれど、仕方がないさ」
 立香は手を動かさず、じっとエルキドゥの表情を伺い、
「今から探そうか?」
 立香が尋ねると、エルキドゥはゆるゆると首を振った。
「一応僕も探してみたんだ。でも見つからなかったからいいよ。それに、解ける事に意義があるものなんだろう?」
「それは、そうなんだけれど……」
 思えばウガルを解体していたあたりから、エルキドゥの様子が少しおかしかった。その事を気付かないふりをして放置していた自分に立香は後悔しつつ、腕の端末に手を伸ばす。
「それは、マスターと似たような柄なの?」
 と、無言を貫いていたイシュタルが口を開いた。
「うん。色が違うだけで、ほぼ同じ」
「ふうん……マシュもつけてるわね。二人共、ちょっと見せてくれない?」
「あっ、はい!」
 マアンナに騎乗したままのイシュタルに見えやすいよう、立香とマシュはそれぞれミサンガを付けたほうの腕を掲げてみせた。イシュタルは双方の腕に巻き付けられたミサンガをふんふんと眺め、お揃いなのね、と小さく呟いた後に、
「なるほど、さっき挙動不審だったのはこれが原因ね。……まったく、ポンコツだとどうしようもないわね」
 エルキドゥに挑発的な言葉を投げかけた。
「僕がポンコツなのは認めよう。でも、君に指摘されると腹が立つな」
「うわあっ! ストップストップ!!」
 立香は慌てて二人の間に入り込み、石ころを拾い上げそうになっているエルキドゥをどうどうとなだめる。
「そうね。……マスター、5分ちょうだい」
 マアンナに乗ったまま、イシュタルは空高くのぼっていく。ものの数秒で声も届かないところまで到達すると、マアンナを縦向きに方向転換し、どこかへ飛んでいってしまった。
 立香はぽかんとそれを見送り、マシュと顔を見合わせる。マシュも困惑した様子だった。それからエルキドゥを見ると、珍しくぽかんとしていた。
 何の会話もないままに、おとなしくイシュタルが戻ってくるのを待つ。
 イシュタルの言う通り、5分経過した所で、空から落ちてくるようにイシュタルが戻ってきた。
「探したけど、見つからなかったわ」
 マアンナから地に降り立つと、髪を手で払いながらイシュタルは言う。
「見たとこ高価なものでもなさそうだし、諦めなさい」
「……そうだね。探してくれてありがとう。こればかりは感謝するよ」
 エルキドゥが言い終わると、イシュタルはフンと鼻で息をしてそっぽを向いた。
 カルデアへのゲートを通じて帰還すると、立香の身体にどっと疲れが押し寄せてくる。マシュも表情に疲労をにじませている。
 マスターの帰還の知らせを耳にし、やって来たエミヤにクーラーボックスを渡すと、彼は夕食の準備のため食堂へ戻っていった。獣の皮やら素材の詰まった頭陀袋をダ・ヴィンチに預けるかわりにねぎらいの言葉をもらい、立香はサーヴァントとマシュを引き連れて廊下に出た。
「疲れたし、いったん休憩にしない? 作業はそれからでも遅くないし」
「賛成です」
「二人はどうする?」
「ついていくよ」
 エルキドゥが即答する隣で、イシュタルは一瞬気まずそうな顔になりながらも、フンとひとつ鼻を鳴らして。
「そうね、付き合うわ」
 立香はマシュと顔を見合わせて、それからぎこちなく微笑み合う。何事も起きなければいいなと念じながら立香が足を踏み出すと、順々に足を踏み出し始める。四人で適当な会話を交えて廊下を歩く。
 雑談に身を投じていたエルキドゥだったが、徐々に口数が少なくなってきた。
 やがて会話する三人の背中を見るように歩き、そしてT字廊下の分岐点に差し掛かった所で足を止めた。エルキドゥが足を止めても、前方の三人は会話に夢中で気付かない。
 エルキドゥは大窓の向こうで降りしきる雪の中、あいまいに伝わってくる陽光を見上げてから、右手に分岐する通路に顔を向けた。通路の向こう、陽光が届かない場所に人の気配がある。とはいえ、エルキドゥにとってはお得意の気配感知でわかっていた事だった。
 エルキドゥが耳をすませる。三人のやかましい声にまぎれて、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。見知らぬ声の持ち主と、談笑めいたやり取りをしている。
 このまま突っ立っていても三人から置いてけぼりにされるだけだ。足を踏み出して三人に追いつくべきなのだが、エルキドゥはどうしても気が漫ろになる。
「マスター、やっぱり僕はいいよ」
 背中に声をかけてから、エルキドゥは返答も待たずに通路の方へと足を進めた。
 歩きながら、物事の優先度が違うのではないかとエルキドゥは自問自答する。話しかけて何か意味はあるのかとも。答えは見つからないが、それでもそわそわした気持ちは高ぶっていき、自然と足早になった。
 目標との距離が徐々に縮まる。
 手を伸ばして届きはしないけれど、それでも声が届くまでに距離がつまると、エルキドゥは足を止める。
「あの」
 たった二文字の言葉を発するだけなのに、普段よりも声が少しうわずってしまい、エルキドゥは自己嫌悪に苛まれた。

 いきなり後ろから声をかけられ、思わず肩がビクッと震えた。隣の先輩もビックリしたのか、同じようにビクッと体を震わせている。二人で顔を見合わせる。カルデア職員に声をかけられる時は名前で呼ばれるのが常だ。つまり、私達の名前をよく知らない人が声をかけてきたということになる。
 おそるおそる後ろを振り返ると、見覚えのある姿が立っていた。こわばった緊張がゆるゆるとほどけていくのを感じる。
 しかし、エルキドゥさんの姿を見たのは、何日ぶりだろうか。
 隣の先輩が困惑のままに固まっているので、私が話しかけるほか無かった。
「こんにちは、エルキドゥさん。お久しぶりです」
「うん。一週間とちょっとしか経っていないけれどね」
 私の顔をまっすぐに見ながらエルキドゥさんは言う。ほどけた緊張がぶり返しそうになる。
 隣に立つ先輩は相変わらず固まったままなので、大丈夫ですよという意味をこめて目配せをする。先輩は困惑げに私とエルキドゥさんを交互に見比べた。そして、私に少し黙っていてと軽く睨むようなアイコンタクトをよこしてから、エルキドゥさんへ穏やかな作り笑いを向け、
「ええと、何かトラブルでも?」
 技師としてしごく当たり前の質問をした。
 問いかけられたエルキドゥさんは、ゆるゆると首を振ってみせる。
「いいえ」
「それでは……他に何か用事でも?」
「はい。ですが、貴方にはありません。隣の人に用事があります」
 エルキドゥさんが言い終わるなり、先輩がふーっと息を吐いた。次の瞬間には、私を肘で小突いてくる。なんでだ。
 そんな私達の言葉のないやり取りを、エルキドゥさんはしげしげと観察するような眼差しを向けてくる。無性にいたたまれなくなって二人して誤魔化すに咳払いをすると、エルキドゥさんは視線を下へとずらした。私達が手に下げている工具箱を見つめ、眉を下げる。
「見たところ、まだ作業中のようですね」
「いえ、終わって戻るとこよ。その用事とやらは、長くなりそうなの?」
 先輩が問いかけると、エルキドゥさんは視線を斜め上に向けて沈黙した。次第に先輩と私の間に困惑の空気が生まれようとしたところで、やっと口を開いた。
「どうでしょう。……わかりません」
 そう話すエルキドゥさんを眺めて今更気付いたけれど、藤丸くんと居た時と比べて、いまのエルキドゥさんはどことなく対応や口調が硬くて平坦だ。なんでだろう。先輩と初対面だからだろうか?
 思い返せばエルキドゥさんと食堂で初めてやり取りをしたときも、同じような態度を取られたような気がする。もしかするとエルキドゥさんは、そういうきらいがあるのかもしれない。
 しかし、いつまで黙っていたらいいのだろう。なんて私の疑問をよそに、エルキドゥさんと先輩は会話を続ける。
「とりあえず、あたし達はこの工具を戻したいのね。重いから」
「はい」
「で、これ持ったまま、立ち話するのもなんでしょう?」
「……出直したほうがいいでしょうか?」
「ううん。今から技師班の待機室に行くから、ついてきてくれる? そこならゆっくり話もできるでしょ」
 そう言って、先輩はくるりと身体を反転させて歩き出してしまった。私は慌ててその背中を追いかける。追いかけながら後ろを振り返り、エルキドゥさんがついてくるのを確認してから、先輩の横に並んだ。
「い、いいんですか?」
「いいんじゃない?」
 と先輩はニッと笑ってみせた。それ以降は、後ろのエルキドゥさんを気遣ってか、ろくに会話らしい会話もなく無言のまま歩みをすすめる。足を踏み出すたびに、そわそわとした気持ちが膨れ上がっていく。
 エルキドゥさんの用事とはいったいなんなのだろう。マスターの藤丸くんを連れ立っていないところから察するに、完全に個人的な理由からくるものだ。そこまで親しい仲でもないから、エルキドゥさんの私に対する用事というものが一切想像がつかない。
 もしかすると、何か気に障ることでもしてしまったんだろうか?
 誰に? エルキドゥさんが単独で会いに来た事から察するに、藤丸くんへの対応がなってないだとか? そこまで考えてから、エルキドゥさんはそんな事をするような性格ではないな、と妄想じみた予測を打ち消した。
 一人で勝手にあーでもないこーでもないと思考を巡らせているうちに、いつの間にか待機室の前までやって来てしまった。見慣れた扉なのに、部屋の中に入るのに緊張してしまう。
 しかし、先輩は一向に扉を開ける気配がない。私が開ければいいのかとドアノブに手を伸ばした所で、ふと扉に関係者以外立入禁止の文字が描かれたプレートが貼り付けられているのに気がついた。
 関係者っていうのは技術局の中の技師班を指しているのだろうけれど、思い返してみると医療スタッフやオペレーターも入ってきて雑談していたりする。部屋に入られて困ることも特に無いからって、割と出入りが自由だ。
 いったい、どこから関係者で、どこまでが関係者なんだろう?
「……先輩、サーヴァントって、入れていいんでしょうか?」
「あんたが刺激しなきゃ大丈夫でしょ。それに、何かあったらあんたが責任取りゃいい話」
「そんな」
 危機管理が適当すぎる。
「危害を加える気はないので安心してください」
 私達のやり取りを聞いていたらしいエルキドゥさんが、気遣うように話しかけてくる。
 とりあえずドアを開けて、そそくさと部屋に足を踏み入れた。ドアを開けてエルキドゥさんが入ってくるのを待って、静かに閉める。
「お疲れーっす」
 壁際の長椅子に横たわっていた男性職員が義務的に言葉をかけてくる。それから私と先輩と、それからエルキドゥさんを順番に見る。何度も目をしばたたかせたのち、サイドテーブルの上にあった雑誌を手にとって開くと、そのまま顔の上に乗せて寝たフリを始めた。近くにいる職員に頭をはたかれても、寝たフリを強行し続けている。
 他の職員も「お疲れ様」と私達に義務的な挨拶をかけつつ、エルキドゥさんという想定外の存在を視界に収めると、困惑した様子で硬直していた。エルキドゥさんに視線が集まっているけれど、エルキドゥさんはいたって普通の表情だ。おどおどしたり、びくびくしたりもしていない。平然とそこに立っている。さすがサーヴァント、肝が座っている。
「とりあえず、隅の方に座って」
「わかりました」
 先輩が部屋の隅、誰も座っていない折りたたみテーブルを指差しながら耳打ちしてくるので、すぐにうなずいた。確かにあそこなら話もしやすい気がする。
「荷物よこして。片付けとくから」
「はい、ありがとうございます」
 先輩に工具箱を預けると、隣接する倉庫の方へとすたすた歩いていく。その後姿を見送りたいところだけれど、エルキドゥさんの方を見た。
「エルキドゥさん、こっちです」
「うん」
 エルキドゥさんを誘導した瞬間、他の職員たちがにわかに席を立ち始める。私とエルキドゥさんが向かう方とは正反対の一箇所へと集まりはじめた。気を使ってくれているのだろうか。
 エルキドゥさんはそんな人の流れを不思議そうに見つめた後、部屋の中を物珍しそうにキョロキョロ見回しながらついてくる。
 折りたたみ式のパイプ椅子を引いてエルキドゥさんを座らせ、
「しょ、少々お待ちください」
「……うん」
 緊張で少しどもる私を、エルキドゥさんはほんの少し首を傾げて不思議そうに見上げて、小さくこくんとうなずいてくれた。そのまま所在なさげに大人しくちょこんと座っているのを尻目に、私は足早に給湯スペースへ向かう。
 エルキドゥさんは白湯ばかり飲んでいるから、お出しするのはお湯のほうがいいのかなと思ったけれど、流石にそれはどうかと思ったので簡単にインスタントコーヒーを二人分作った。というか、この部屋には紅茶なんて小洒落たものはなく、それしか選択肢がない。
 紙コップをステンレス製のカップホルダーに差し込み、それをトレイに乗せる。念のため、角砂糖の袋とクリーミングパウダーの瓶とスプーンもあわせて持っていく。エルキドゥさんに必要かどうかはわからないけれど、一応あったほうがいいと思ったのだ。
「お待たせしました」
「うん」
 テーブルの上にトレイを置いて、エルキドゥさんの前にコーヒーを差し出す。エルキドゥさんはカップの中の黒い液体をキョトンとした顔で見つめていた。
「も、もしかして、コーヒー苦手でしたか?」
「ううん。好んで口にすることはないけれど、飲めなくはないと思う。大丈夫だよ」
 大人しく白湯を持ってくればよかった。若干の後悔に唸り声をあげたくなるのをぐっとこらえながら、エルキドゥさんの対面に私のぶんのコーヒーを置いて、それから椅子に腰掛けた。顔を上げるとエルキドゥさんと目が合う。
「エルキドゥさん、お砂糖使いますか?」
 尋ねながら角砂糖の袋を手繰り寄せて示すと、エルキドゥさんはうんともすんとも言わない。不思議そうに首を傾けている。埒があかなさそうだったので、私は袋から角砂糖を二個つまんでカップの中へ静かに落とした。それをやっぱりエルキドゥさんは不思議そうに眺めている。
「コーヒーはですね、悪魔のように黒くて、地獄のように熱くて、恋のように甘いのが一番だそうですよ」
 過去の偉人の言葉を借りて場を濁してみると、
「……そうなんだ」
 エルキドゥさんがようやっと口を開いてくれた。
「というのはただの受け売りで……こうしないと私、飲めないんですよね」
 ブラックコーヒーは苦手だ。砂糖を2つ入れて、甘くして飲むのが今の私の口にあっている。ミルクも入っているとなおいいけど、クリーミーパウダーは好きじゃないから使わない。プラスチックのスプーンを手に取り、コーヒーの中の角砂糖を溶かすためにくるくるかき混ぜる。
 そんな私の動作をエルキドゥさんはしげしげと眺めて、おもむろに手を伸ばした。袋から角砂糖を二個つまみあげて、コーヒーの中にぽとぽと落としている。てっきりそのまま飲むかと思っていたから、びっくりした。
「……お砂糖、そんなに入れちゃって大丈夫ですか? 結構甘くなっちゃいますよ?」
「そうなのかい? というか、君もそんなに入れているだろう?」
「私はこうしないと飲めないからいいんですよ」
「なら、僕もいいよ」
 そう言って、エルキドゥさんはスプーンでくるくるとかき混ぜる。エルキドゥさんを見て気付いたけれど、見目麗しい人というのは、どんな仕草でも様になるものらしい。私が一人で勝手に感心していると、エルキドゥさんはスプーンを置いてコーヒーに口をつけた。
「……甘い」
 率直な一言に苦笑してしまう。エルキドゥさんは甘さに感激しているわけでもなく、かといってその甘さを嫌がっているふうには見えない。淹れ直したほうがいいかなと様子を伺うも、すするように飲んでいるから多分大丈夫だろう。私もコーヒーに口をつける。口の中に甘さが広がると、頬が勝手に緩んだ。
「それで、話なんだけれどね」
 エルキドゥさんが切り出してきたので、私はどうしてか居住まいを正してしまった。どんな話が飛び出してくるのだろう。エルキドゥさんのお話とやらに対する好奇心と恐怖が五分五分でせめぎあっている。
 エルキドゥさんは左腕を持ち上げて、白い衣服の袖をゆっくりたくしあげた。真っ白い腕があらわになる。
 何をするのかと思えば、その腕をこちらに差し出してきた。まるで見せつけるように。
「君から貰ったミサンガを無くしてしまったんだ」
「……へっ?」
 思わず素っ頓狂な声が出る。エルキドゥさんの腕から手首に視線をずらす。
 エルキドゥさんの言う通り、私が結んだミサンガは、そこに存在していなかった。エルキドゥさんの顔を見ると、ちょっと申し訳無さそうに微笑んでいる。
 私はもう一度、エルキドゥさんの手首に視線を落として、
「そ……そんなことですかぁ~」
 盛大に安堵の息を吐いてしまった。よかった、何かけちを付けられるとかそういう話じゃなくて本当によかった。
「……そんなことって」
 エルキドゥさんが不満そうに言葉を発して、眉を寄せる。怒らせてしまったかなと動揺しながら、私は口を開いた。
「ええと、ミサンガは解けるのがお仕事なんです。使い捨てなんです。解けたって気付いた時に、お願いがどうなってるかって確認するのが目的なんですから」
 エルキドゥさんはキョトンと目を丸くして、それから視線を斜め上に向ける。そしてまたむうと眉を寄せたかと思いきや、今度はうつむきがちになってしまった。そしてカップを両手でくるむように持って、人差し指の指先どうしを突っつくように動かしている。
「あれは、君が作ったものなんだろう?」
「そうですよー。夜なべして、目の下に隈を作りながらコツコツとですね……あっ、いや、今のはウソ、ウソですっ! 20分くらいで出来ます!」
 最初冗談まじりに話すと、エルキドゥさんはそれを真に受けてションボリと肩をすぼめ、私が慌てて訂正すると、今度は胡乱な目つきになって値踏みするように見つめてくる。すみませんでした、もうしません。
 やがて、エルキドゥさんはふうと小さくため息を吐いた。
「……その、僕の中でもいまいち整理がついていなくて、なんと言えばいいのか分からないのだけれど」
「はい」
「なんだろう。確かにあったんだ。でもレイシフトしたら無くなっていて、今もこうして無いんだ。……本当に、なんと言えばいいんだろう」
 エルキドゥさんは、ほとほと困り果てたような顔をしている。
 たかだかミサンガが無くなっただけで、こんなに話してくる人を見るのは人生で初めてのことだから、私もどう接したらいいのかわからない。
 エルキドゥさんは、私と話す事で何をしたいんだろう? 何かを期待しているんだろうか? エルキドゥさんの思惑はいまいちよくわからない。だからこそ、冗談なんて混ぜないで真摯に応じなければいけないような気がした。
「んんと……ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「いいよ、何かな?」
「エルキドゥさんが物を無くすのは、これが初めてですか?」
 尋ねると、エルキドゥさんは視線を斜め上に向けた。やがて、懐かしむような、穏やかな表情を浮かべる。
「武器を投擲して無くすことは日常茶飯事だったし、装飾品であればままある事だったよ。あとは綺麗な石だなと思って拾ったはいいけど帰った時には見当たらなくなってたり、なんて事もあったかな」
「じゃあ、物を無くして悲しんでる訳ではなさそうですね。まあ、紐を簡単に編んで作った、そこら辺にあるありふれたものに悲しんでもって感じですしねぇ」
「……ありふれたもの」
 エルキドゥさんはぽそっと呟いて、怪訝そうに首を傾げた。
「あれは本当にありふれたものだったのかな? 君が作って、君の願いが込められてる時点で、無類だと思うのだけれど」
 私が適当に作ったミサンガにこんな言葉をくれたのは、多分エルキドゥさんが初めてだ。
 そしてきっとこんな言葉をくれるのは、エルキドゥさんが最初で最後の人になるだろう。
「……まぁ、エルキドゥさんの言うとおりに見れば、世界にたった1点しかない激レアものですねぇ」
 大昔の英雄だった人にそんな言葉をかけてもらえる幸せをしみじみと噛み締めながら、私はコーヒーに口をつけた。味わうように飲んで、ほっと息をつくと、エルキドゥさんもコーヒーに口をつける。
 しばらくの間をおいてから、私はハッとして口を開いた。
「もしかして、割と大事にしてくれてましたか?」
「……どうだろう。でも、無碍にはできないと思った。僕が霊体化したら外れて落ちてしまうし、ひいては君の願いの実現につながらないだろうから、実体化は維持していたよ」
 数秒の沈黙。
「ともすれば大事にしていたのかな。無意識のうちに。そして今、なんとなく物足りないような気持ちになっているのは、それを無くしてしまったからかな?」
 きょとんとした顔で、エルキドゥさんが私に尋ねてくる。対する私もきょとんとするばかりだ。
 なんだろう。なんなんだろうこの人。本気で言っているのかな? 首をかしげると、エルキドゥさんも同じ方向に首をかしげてくる。本気で言ってるのかもしれない。
「……エルキドゥさんがそう思ったなら、多分、そうです」
 無意識につめてた息を吐いて、強張っていた手をゆっくりほぐす。
「なんというか、遠回りでしたね。……エルキドゥさんが前に言ってた壊れかけの意味が、ちょっとわかりました」
 エルキドゥさんの思考回路は、まっとうに情緒を積み重ねた人のようにシンプルにはできていない。遠回りなのがエルキドゥさんにとっては近道で、壊れかけにしても折り目正しく壊れている感じだ。
 それは、エルキドゥさんが粘土だから? いや、違う。きっとこういう性格なのだ。人にしたって、他の人と少し違うところがあるなんてのは、なんら珍しいことじゃない。それが個性として輝く場面だってある。
 私のこの予想は単なる思い込みかもしれない。けれど、自分が粘土でできているだとか、兵器だとか自称してよくわからない印象のエルキドゥさんに対して大きな『親しみ』を感じるきっかけとしては、十分だった。
「というか、びっくりしましたよ。あんなの大事にしてくれるなんて」
 奇妙な照れ臭さというか、気恥ずかしさが芽生えてくる。そんな状態で呟いた私の声はいささかふてくされた調子になっていた。ほんの少しだけ動転した気を落ち着かせるため、コーヒーに口をつけると、いつもより甘く感じた。
 そうしてふと、視線を感じて振り返る。正反対の一角で、こっちを見ながらニヤニヤしている数名の先輩方がいる。よくよく考えれば、あっちで会話らしい会話が発生しなければ、こっちの会話は筒抜けだ。今のやり取りを聞かれていたのかもしれないと思うと、無性にいたたまれなくなってくる。
「僕からもひとつ聞いていいかな」
「へっ!? は、はい。なんでしょうか?」
 慌ててエルキドゥさんに顔を向ける。
「その……君の願いは叶ったのかな?」
 どうしてここまで気にするんだろう。背中に突き刺さる視線はひとまず置いておくことにして、エルキドゥさんの言った事に思考を巡らせた。
「どうでしょう。……でも、こうやって一緒に座ってコーヒーを飲むのは、ミサンガを渡した時には予想もしていなかったです」
「そうだね。まさか僕も、こんなに甘いものを飲むとは思っていなかったよ」
 エルキドゥさんの口調は穏やかなものだけれど、私は思わず息を呑んでしまう。
「だ、だから言ったじゃないですか。甘くなりますよって」
「だって君がごく当たり前のように入れるから」
「人のせいにしないでください。普通の人はお砂糖1個で十分ですよ。なんなら入れなくてもいいってくらいで」
「なら、僕は普通の人ではないからこれでいいかな」
 話が脇道にそれてしまった。とはいえ、話題を蒸し返してしまったのは私が原因だ。
「でも、仲良くなったかって言われると、よくわからないです。私はエルキドゥさんの誕生日も、好きなものも、嫌いなものも知らないです。知らないことだらけです」
 カップの中のコーヒーを見つめながら、私は正直に喋った。
 知らないことだらけの間柄で、こうして席を共にしているというのは、仲良くなったと言えるのだろうか。最初のころに比べれば大きな進歩かもしれない。でも、その進歩っていうのは歩幅一歩分くらいで、微々たるものだ。
 コーヒーからエルキドゥさんに視線を移すと、エルキドゥさんはほんの少し首を傾けて、視線を斜め上に向けていた。今気づいたけれどこの仕草、エルキドゥさんが何か考え込む時の癖みたいなものなのかな。
 やがてエルキドゥさんは傾けた頭を元に戻して、私の顔をまっすぐに見つめてきた。
「僕の誕生日は……わからない。おそらく僕の誕生日というものは暦の上では存在するだろうけれど、僕が野に下った時は自我があって無いようなものだし記憶にない。人が残した記録に残っていないなら無いんだと思うよ。好きなものは……個体に関しては予備がなくて考えないようにしているから答えられない。でも、他のものなら答えられる。陽光は好きだよ。草木も好きだし、木々の合間から降り注ぐ木漏れ日は天の梯子のようで美しいから好きだ。川のせせらぎも無心で耳を傾けられるから好きだ。嫌いなものも答えられるよ。カビとかサビが嫌いだ。あとは、イシュタルという女神も嫌いだ」
 ぺらぺらと喋るエルキドゥさんに、私はあっけにとられてしまった。
 息継ぎする間もないくらいに語るエルキドゥさんの言葉はゆっくりしていて抑揚がなく、ひどく穏やかなものだった。それでも好きなものを語る時は少し嬉しそうに口元をゆるめて、嫌いなものを語る時は眉間に少しシワを寄せていた。
 エルキドゥさんが私の言葉を真に受けて、気を使って語ってくれたのだ。あまりにも真面目すぎるその対応に、私の方がいたたまれなくなってくる。けれど、それ以上に嬉しく思った。その嬉しさが口元に出ないよう、頑張って気を引き締める。多分無理かもしれないけれど。
「話してくれてありがとうございます、嬉しいです。工具のサビにはこれから気をつけるようにしますね」
 今の自分が思っていることを、正直に喋った。とはいえ、これからがあるのかどうかわからないけれど、それはきっと私次第だ。
 伝え終わったら、なんだか一世一代の一仕事を終えた気になった。奇妙な満足感に無性に口もとが緩みそうになって、それをごまかすようにコーヒーに口をつけた。そんな私を、エルキドゥさんはきょとんとした顔で見つめてくる。
「……僕も、君のことをほとんど知らない。よければ教えて欲しい」
 コーヒーを吹き出しそうになった。空気ごと一緒に飲み込んで、事なきを得る。
「ぇ、ええと……何を話せばいいでしょうか?」
「さっき君が僕に尋ねた事でいいよ。誕生日と、好き嫌いについて」
 誕生日はともかく、好き嫌いについてどこまで話せばいいのやら。思案を巡らせるけれど、奇をてらった回答よりも素直な回答を求められているような気がしたから、思いのまま口に出した。
 私が語る自分の事について、エルキドゥさんは合間合間にふんふんと頷いて、真面目に聞き入ってくれた。
「他に、何か聞きたいことはありますか?」
「他は……そうだ。君の名前も教えて欲しいな」
 一瞬、面食らってしまった。
「えーと、……前に名乗りましたよね?」
「うん。でも、ちゃんと聞いていなかったから」
 思い返してみれば、私は藤丸くんとマシュさんに名乗っただけであって、エルキドゥさんはその場にいただけだ。じかに面と向かって名乗ったわけじゃない。
「それじゃあ、あらためて。といいます。カルデア技師班所属です」
 エルキドゥさんは私の顔をじっと見ながら、

 私の名前を復唱して、ほのかに口元をゆるめた。
「うん、覚えたよ。忘れない」
「本当ですか? 次また名前聞くの無しですよ?」
「約束するよ。ところで、僕も改めて名乗っておいたほうがいいのかな?」
「いえ、けっこうです、エルキドゥさん」
 名前を強調するように言うと、エルキドゥさんが目を細めて微笑んだ。
 どことなく愛嬌を感じるその表情は私が初めて目にするもので、エルキドゥさんとは数回顔を合わせているはずなのに、どうしてか初対面の人に会ったような奇妙な錯覚を覚えてしまう。そして、エルキドゥさんが初めて私に向けた笑顔でもあり――それを見ていると、何故かはわからないけれど、エルキドゥさんがカルデアに存在し続ける限りは、ずっと覚えていてくれるんだという根拠のない確信を持ってしまった。
 話が一旦落ち着いたから、コーヒーに口をつける。少しぬるくなっていたけれど、飲みやすい温度でちょうどいい。

 唐突に名前を呼ばれて、私はエルキドゥさんに視線を向ける。
「はい、なんですか?」
「呼んでみただけ。
 さえずる小鳥みたいに名前を呼ぶ。
 最初は悪ふざけかと思った。でも私の名前を呼ぶエルキドゥさんは無邪気で、とにかく毒気がなくて……真面目にやってるんだと気付いた次の瞬間には口の中のものを吹き出しそうになって、慌てて片手で口もとを抑えた。うつむいて、こみ上げてくる笑いを必死に堪える。いきなり、可愛いことをしないで欲しい。
 しかし、この短時間のやり取りの中で、私のエルキドゥさんに対する印象が変わった。変わってしまった。
 物静かでたおやかに落ち着いていて、高嶺に咲く花のような美しさと、握っても掴めない霧のようなつかみどころの無さがあったのに、今はどうだろう。少女然とした美貌はあまりにも幻想にすぎていて、声をかけるのに躊躇してしまうような近寄りがたさがあったけれど、今は不思議と幼さを覚えるような親しみやすさがある。
 無意味な会話をよしとせず、口数は必要最低限にとどめる人かと思ったら、思いのほかぺらぺらとお話してくれた。もしかすると、割とおしゃべりなほうなのかもしれない。なんだか、色んな所に愛嬌が隠れている人だ。
 これでもまだ、エルキドゥさんの全容は把握できていないのだと思う。でも、これから先もこんなふうにおしゃべりができたら、きっと全容を把握できるようになれるかもしれない。といっても、言葉を交わせる機会があればの話だ。なにせ今回は、一週間以上経ってからエルキドゥさんに会ったのだから。
 あれこれ考えていると、ふいに影がさした。
「よかったらどうぞ」
 声とともに、テーブルにお菓子が入った器が置かれる。
 顔を上げると先輩だった。どうやら気を使ってくれたらしい。私が小声でお礼を言うと、先輩はニヤっと笑い、立ち去る間際に私の肩を軽く小突いていった。
 そうだった、やり取りが後ろに聞こえている可能性があるんだった。内心頭を抱えつつ、差し入れのお菓子に手を伸ばす。
。それはクッキーというものかな」
「エ、エルキドゥさん、名前を呼ぶ時は1回でいいですから! ……はい、クッキーです」
 業務用の、おおきい缶に入ったすっごく安いやつ、という言葉はあえて口には出さない。茶色くて丸いクッキーに齧りつくと、バターの風味と甘さが口の中に広がった。こう見えて、けっこう美味しい。
 私が一枚食べ終わった所で、エルキドゥさんがおずおずと手を伸ばしてクッキーを手にとった。
 まんまるのクッキーを、エルキドゥさんが目をまんまるにして見つめている。
 緩慢な動作で一口齧って、味を確かめるように咀嚼している。その間、エルキドゥさんの視線は斜め上だ。こくんと飲み込んで、それからもぐもぐと普通に食べ始めた。なんだか、小動物のようで可愛い。
「お口に合いました?」
「正直よくわからない。……でも、うん、悪くはないよ」
 一枚食べて、コーヒーを飲んで、もう一枚に手を伸ばしている。気に入ってくれたようだ。
「さっき、ひとつ聞いていい、って言ったのを訂正してもいいかな。いくつか聞いてもいい?」
「どうぞ」
 別に質問くらい、どれだけしても構わないのに。真面目な性分なのかな。
は、普段は何をしているの? 今日は、この前みたいに厚手の上着を着ていないけれど」
「今日は各階層ごとの電気設備の点検をしました。基本的には、電気、上下水、空調、ボイラー設備の点検ですね。たまに除雪だとか、倉庫整理だとか、清掃に、システムのメンテナンスもやりますよ」
「なるほど。……この施設の維持管理にあたっているんだね」
「といっても、まだ技術者としては未熟だから、教えを請うばかりで。早く一人前になれたらいいんですけど」
「そうか。がんばって」
 エルキドゥさんは穏やかにそう言って、目を細めて微笑んだ。
 それからいくつか他愛もない話をして、エルキドゥさんがコーヒーを飲み終わると、ささやかなお茶会はお開きとなった。
 先鋒を切って部屋のドアを開けて、エルキドゥさんを廊下に招く。
「ご馳走様でした。……またこういう機会が設けられたらいいのだけれど」
 お世辞の挨拶だろうけれど、そう言ってもらえたのは嬉しい。
「そうですね。機会があれば、私もまたエルキドゥさんと話をしたいです」
「……うん」
 エルキドゥさんが、口もとをゆるめて頷いた。
 静かに遠ざかっていくエルキドゥさんの背中を、姿が見えなくなるまで見送ってから、私は部屋の中へと戻った。
 エルキドゥさんがいなくなった部屋で、技師班員はいつもの調子を取り戻していた。けれどもニヤニヤと微笑ましいものをみるかのような目つきで眺められるのは少し恥ずかしいのでやめて欲しい。
 エルキドゥさんが飲み終えたカップを片付ける。今日はとても充足感に溢れた一日だった。また今日みたいに話ができる日があったらいいなとありもしない日について考えながら、私は残ったクッキーを口に運んだ。

 今日の作業に必要な機材を抱えながら、端末片手に廊下を歩いていると、ふいに数名の人だかりが目に飛び込んできた。職員の制服を身に着けていないということは、サーヴァントの方々みたいだ。
 しばらく眺めていると、藤丸くんの姿が合間に見えた。なんだかこんな光景を前に見たような気がする。
 どうやら取り込み中のようだし、わざわざ声をかけに行くのも気が引けた。そのまま廊下を左折しようかと迷った所で、真っ白い服の裾が――エルキドゥさんの姿が見えた。わずかに身体を傾けて、私の方を見ている。
 表情は、遠くてわからない。とりあえず頭を下げてみると、エルキドゥさんは無反応でこっちを見ているばかりだ。やっぱり、覚えてないのかな? と落胆してしまう。
 人だかりが移動し始める。
 移動する人の波が発生しても、エルキドゥさんはその場に佇んでいた。藤丸くんが移動しているのに、動こうとしない。じっとこっちを見ている。まるで何かを期待しているみたいにも見えた。
 何をしたらいいのかわからないままに、私は端末をポケットにしまいこんで、その手をおそるおそる持ち上げた。
 手を振ってみる。
 すると、エルキドゥさんの髪が少し揺れた。エルキドゥさんが右手を胸のあたりまで持ち上げる。
 エルキドゥさんの真っ白い手が、ひらひらと左右にゆれる。その動作を目にして、思わず息を呑んだ。
 ――手を、振ってくれた。
 そして満足したのか、エルキドゥさんはくるりと身体を反転させて、藤丸くんの後ろを追いかけるように足早に歩き出す。
 気がつけば溜息を吐いていて、それでようやっと我に返ることが出来た。
 手を振ってもらった。振り返してもらった。
 たったそれだけなのに、今日一日いっぱい頑張れそうな気がした。それを確かめるために「うしっ」と一人意気込んで、私も足早に歩き出した。