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ゼレンカとバッハ

ゼレンカはバロック期の作曲家な訳ですが、バロック音楽といえばバッハ、バッハといえばバロック音楽です。従ってゼレンカとバッハのつながりというのは、大変興味深いところです。

しかもゼレンカが住んでいたのはドレスデンで、ここはライプツィッヒより100Kmちょっとのところでした。はっきり言って隣同士のような関係です。
しかしこの二人の接点というのは実は直接的な証拠はほとんどありません。
というか、そういう物があればバッハ研究の過程でもっとゼレンカにも興味が払われたはずで、そうであればもっと遙か昔からもう少し紹介されていたはずです。

バッハはゼレンカをどう見ていたか?

CDのライナーノートなどには、バッハがゼレンカを高く評価していた云々という記載が時々見られますが、その根拠は主にエマヌエル・バッハが後年フォルケルのインタビューで以下のように答えています

バッハが晩年に尊重していた音楽家は、フックス、カルダーラ、ヘンデル、カイザー、ハッセ、両グラウン(カルル・ハインリッヒ・グラウン、ヨハン・ゴットリーブ・グラウン)、テレマン、ゼレンカ、ベンダだった。最初の4名を除いてバッハ自身が親交があった。

このそうそうたるメンバーの中にゼレンカが入っているわけです。

これが事実ならば少なくともバッハがゼレンカを評価していたのは確かでしょう。エマヌエル君の記憶に残っているということは、バッハが普段からゼレンカってすごいねと言っていたか、何かの機会にゼレンカのことを思い切り持ち上げたかのどちらかでしょうから。

しかしそれ以外の接点というと“マニフィカト ニ長調 ZWV108”にフリーデマン・バッハによる筆写譜が存在しているという事実のみです。これ以外の二人の関係を示す記録は残されていないようです。

バッハがゼレンカを評価していたのに、このようにつながりを示す物がないのはなぜでしょうか。
その理由の第1はまず、カトリックとプロテスタントという宗派の違いだったでしょう。そのためバッハとゼレンカで共通に使える楽曲がほとんどなかったことがまず大きな原因と言えそうです。ゼレンカの作品の大部分をなす詩編唱やアンティフォナが使えないのはどうしようもなかったことでしょう。
マニフィカトの筆写が残されているのはその僅かな例外と言えそうです。

もう1点挙げるならば、ゼレンカの音楽が難しすぎたことがあるかも知れません。
ルター派の場合もミサ曲のキリエとグローリアならば礼拝に使用されました。従ってゼレンカのミサ曲が使えないわけではなかったでしょう。
しかしゼレンカの音楽が、その当時世界最高水準にあったドレスデン宮廷楽団用に作られていたのが災いした可能性は大いにあります。いかにライプツィッヒの学生のレベルが高くとも、やはりその技術の差は歴然としていたでしょう。その上ゼレンカの作品の独唱パートは主にカストラート前提に作られているのも問題だったかも知れません。

というわけで、音楽のやりとりができない以上、あとは個人的に親しくないとそういったやりとりは行われませんが、二人はそこまでは親しくなかったということなのでしょう。

上記以外の未確認情報としては“Music of the Augustan Age"のゼレンカ伝で、バッハのロ短調ミサ曲の元ネタとなったヨハン・ヒューゴー・フォン・ウィルデラー(デュッセルドルフの宮廷楽長)のミサ曲の楽譜がゼレンカ経由でバッハに渡った可能性が指摘されていますが、どうなんでしょうか?

逆にゼレンカがバッハのことをどう思っていたかに関しては、全く資料がないと言っていいでしょう。

ゼレンカとバッハはいつ出会った?

それはともかく、エマヌエルの証言によれば、最初の4名以外はとあるので、バッハとゼレンカは面識があったことが窺えます。
ゼレンカはウィーンに修行に行ったとき以外はずっとドレスデンに留まっていたので、二人が出会ったとしたら、それはバッハがドレスデンに行ったとき以外には考えられません。

以下はバッハ事典よりバッハがドレスデンと関係したとき抜き出した年表です。太字の部分がバッハがドレスデンに行き、ゼレンカと会った可能性があるときです。
1709ワイマールにピセンデルが来る
1717/秋ドレスデンでのマルシャンとの競演未遂。
このときはまだゼレンカはウィーンにいる。
1723/5ライプツィッヒのトーマスカントールとなる。
1725/9/14大学の新定礼拝に関してアウグストI世に請願
1725/9/19-20ドレスデン訪問。ソフィア教会のジルバーマン・オルガン演奏。
1725/11/3大学の新定礼拝に関して再度アウグストI世に請願
1725/12/31大学の新定礼拝に関して再度アウグストI世に請願
1727/4/12アウグストI世の誕生日のための世俗カンタータBWV Anh.9
1727/8/3アウグストI世の命名日のための世俗カンタータBWV 193a
1727/9/3クリスティアーネ・エバーハルディーネ没
1727/10/3以前クリスティアーネ・エバーハルディーネ追悼のための追悼頌歌依頼
1727/10/14同追悼頌歌BWV198完成
1727/10/17大学追悼式:同追悼頌歌BWV198初演
1729/4/18ハイニヒェンの「通奏低音教程」とヴァルターの「音楽辞典」の依託販売者となる
1731この頃までにヴィルデラーのミサ曲ト短調を筆写
1731/9/14-21ドレスデン訪問。ソフィア教会と宮廷で演奏会。
9/13のハッセのオペラ クレオフィデを聴きにいった?
1732/8/3アウグストI世の命名日のための世俗カンタータBWV Anh.11
1733/2/15アウグストI世死去
1733/4/21アウグストII世のライプツィッヒ訪問
1733/6/23フリーデマンがドレスデンソフィア教会のオルガニストとなる
1733/7ドレスデン旅行。
1733/7/27ロ短調ミサ献呈
1733/8/3アウグストII世の命名日のための世俗カンタータBWV Anh.12
1733/9/5アウグストII世の息子フリードリッヒ・クリスチャン誕生日のための世俗カンタータBWV 213
1733/12/8マリア・ヨゼファ妃誕生日のための世俗カンタータBWV 214
1734/1/17アウグストII世ポーランド王即位記念:コレギウム・ムジクムで祝典音楽演奏
1734/2/19アウグストII世ポーランド王即位記念:世俗カンタータ BWV 205a
1734/8/3アウグストII世命名祝日:コレギウム・ムジクムで祝典音楽演奏
1734/10/5アウグストII世ポーランド王即位1周年記念:世俗カンタータ BWV 215
1735/8/3アウグストII世命名祝日:世俗カンタータ BWV 207a?
1736/9/27以前宮廷作曲家称号に関する嘆願(散逸)
1736/10/7アウグストII世誕生日:世俗カンタータ BWV 206
1736/11/1ゼレンカの聖三位一体ミサ
1736/11/19ドレスデンの宮廷作曲家に任命される
1736/12/1ドレスデン聖母教会のジルバーマン・オルガンで演奏会
1737/10/18助手任用問題に関してアウグストII世に請願書
1738/4/10以降BWV Anh.13 依頼
1738/4/28アウグストII世とその家族への表敬:BWV Anh.13
1738/5/5BWV Anh.13 の謝礼を得る
1738/5/22ドレスデンより戻る
1739/8/11以前フリーデマンが一時帰郷。ヴァイス、J.クロプフガンス来て家庭音楽会
1739/10/7アウグストII世誕生日:コレギウム・ムジクムが音楽演奏
1740/8/3アウグストII世命名祝日:世俗カンタータ BWV 206 再演
1741/4/29頃アウグストII世とその家族への表敬:カンタータ上演(作品不明)
1741/11/17ドレスデン旅行より戻る
1742/8/3アウグストII世命名祝日:世俗カンタータ BWV 208a
1746/4/16フリーデマン、ドレスデンよりハレに就任。

といった具合ですが、この時いったいどういうことが起こったのでしょうか? おもしろいんでいろいろ想像してみましょう。

1725/9/19-20 ソフィア教会のオルガン演奏
この時二人は初めて出会ったのでしょう。この時期はバッハはオルガニストとして有名でしたがゼレンカはまだこれからという時期です。多分宮廷楽長ハイニヒェンに「今度私のサブを勤めるゼレンカ君だ」とか紹介されたのかもしれません。ここでバッハは初めてゼレンカのマニフィカトあたりを聴いて「こいつは侮れん奴だ」と感じたのかも知れません。

1731/9/14-21 ソフィア教会と宮廷で演奏会
この時はハッセのオペラを聴きに行ったと言われています。この時ゼレンカはドレスデンの宮廷楽団の実質的な責任者だったので、確実に出会っているはずです。

1733/7 ロ短調ミサ献呈
この時は選帝候が崩御した騒ぎでてんやわんやだったはずですが、やはりゼレンカは責任者であり、バッハには会っているでしょうし、献呈されたミサ曲も見ているのはほぼ間違いなさそうです。ただゼレンカがミサ曲を演奏したかどうかは不明です。ドレスデンに献呈されたスコアは使われた形跡がないとどっかで見たような気がしますがどこだったか……

1736/12/1 聖母教会のオルガン演奏会
この時はバッハが宮廷音楽家に任命されての演奏会です。従って同じ立場のゼレンカとはやはり出会っていることでしょう。この直前にゼレンカが作った“聖三位一体ミサ イ短調 ZWV17”の第二キリエのテーマがロ短調ミサの第一キリエのテーマと何となく似ているんですが、そんな話が出たかも知れません。

1738/4-5 アウグストII世への表敬
この時はどうでしょうか…ゼレンカは病気だったかもしれません。

1741/4/29頃 アウグストII世への表敬
この時はどうでしょうか? 二人が出会う積極的な理由はないのですが、バッハも晩年に達しています。自分の音楽がシャイベにけなされたりして、時代の流れを痛感していることでしょう。そういうときゼレンカは同じ立場で通じ合える話相手だったでしょう。ですからやはり一度ぐらいは顔を合わせているのではと思います。
だとしたらここでバッハはゼレンカの「最後のミサ曲」の話を聞いたかもしれません。そしてバッハは「何で演奏されもしない音楽を作るんだ?」とゼレンカに質問したかも知れません。
それに対してゼレンカが何と答えたのかは分かりませんが、それより数年後、バッハはゼレンカの死を聞いてそのときの会話を思いだし、そのためにロ短調ミサ曲を完成させようという気になったとか……

結構マジで言ってたりして……


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