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そして、この国見山の松の大木のてっぺんには、「大天狗」がいて、小枝には「小天狗」どもが侍(はべ)っていたそうな。 『肥後国誌』(山北郷稲佐村の条)に、国見山の玉名郡側の麓にある、稲佐村から見上ぐると、「国見山、兀山(こつざん)ニテ、岩巒(がんらん)峙(そばだ)テリ、上宮権現(じょうぐうごんげん)大天狗、国見嶽頭(くにみだけとう)ニ鎮座(ちんざ)スト言ヘドモ森も祠(ほこら)モナシ。」て書いてある。 つまり、「国見山は、大きか岩がゴツゴツとそばだっとって、山頂に上宮権現が鎮座しとんなはるが、森も祠ものうて、大岩そのものが権現様じゃ。そこにゃ、神の使いの大天狗・小天狗が控えとる。」てち。
大天狗は、真っ赤な顔に、長か鼻の岩のごつ出っ張っとる。目の太うして、えすかごつ光っとる。黒紋付きに、一本歯の高下駄。手にはヤツデの葉っぱの団扇(うちわ)をかざし、自由自在に飛行しなはるて。 小天狗がうんとおって、目玉の太うして、鳥のくちばしのごつとんがっとる。「烏(からす)天狗」てもいうよ。大天狗に命令さるっと、パーッと八方に飛んで行くって。
夕方、小天狗どもは、餌を取りに人里に飛んで行って、遊びほうけとる子どもばさらって行く。 そるから、国見山の太か松の木の上で、宴会の始まる。うまかものを腹一杯食べて、上機嫌の大天狗が、ヤツデの団扇ば翻(ひるがえ)しながら、舞い始むる。 「ワーレハ、コノ山ノ大天狗、権現様トハ、オレノコト、狐ヤ猿ヤ蟒蛇(うわばみ)ヤ鼠(ねずみ)・鼬(いたち)ニイタルマデ、コノ俺サマノ眷属(けんぞく)ジャ。人間ナドトハ片腹痛イ。・・・」と豪語すると、小天狗どもはギャッギャッと鳴きながる羽ばたきして・・・、 「天狗、天狗、三天狗(みーてんぐ)、オーレモ加担(かたっ)テ四天狗(よーてんぐ)、泣キ虫、弱虫、洟(はな)垂レ小僧、オレサマタチガ引ッ捉エ、ゴ覧ニ入レテ見セマスル。・・・」 さんざん賑(にぎ)おうて、松の枝もたわんで、今にも突(つ)っ欠(か)ぐるごたる。 夜の山中は、百鬼夜行、あらゆる動物や魔物が虚勢ば張って、わがもの顔に振る舞うそうな。
夜が明くると、今まじの噪(さわ)ぎはどこへやら、朝日が木々の葉ば透かして差し込み、雫がポトリと垂れて、また、いつもの静けさに戻っとる。
大天狗がおる上宮権現は「国見山」ばってん、中宮権現は、熊野権現社を祀ってあった「権現山」で、中世の頃は、内空閑(うちのこが)九代鎮房(しずふさ)が、山城ば築城したって。でも、鎮房は、天正15年12月に、佐々成政(なりまさ)に攻められて落城、翌年3月3日には、筑後(チクゴ)の柳川(ヤナガワ)で殺されたって、かわいそうかなぁ。 上宮・中宮に対して、下宮(げぐう)はどこか、て言うと、あの「日吉神社」、またの名は「日吉山王(さんのう)権現宮」て。つまり、日吉神社は、神体山である国見山を拝む拝殿だったつたい。
ところが、その大事な国見山が、明治の終わり頃、山火事になってしもうて、全山紅蓮(ぐれん)の炎に包まれたって。一早く逃げ出したものもおったかも知れんが、ほとんどは死んでしもうたらしか。
里人はえすか目に合わんでようなったばってん、なんかちょっと寂しかね~。 でもね、こっそり教えると、「天狗」はま~だ今でも、霜野におるよ。 日吉神社の高か階段ば上った所に神殿のあって、その中の左右の柱に「火王(ひのう)さん」と「水王(みずのう)さん」という、長か鼻のお面の掛かっとる。 大天狗はね、今ではその2つのお面(神さま)になって祀られ、霜野の人々が大事にしとるとよ。(おしまい)