国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
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熊本県山鹿市の
  鹿央町霜野に
  ありますよ
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「しもの」の名称と範囲の変遷         
参考:『鹿央町史』、『菊水町史 絵図・地図編』、角田豊著『肥後国霜野山康平寺』と『曼荼羅の里霜野』


「しもの」の表記

 「下野」と「霜野」

・「下野」は
   「大山(国見山)のふもと」の意か。
・「
霜野」は、
   東にある「春日山(糟塚山)」に対して、
   西に位置するこの谷あいの野を指すのに、
   秋の「霜」を意識して名付けたものか。

霜野の範囲を示す地図イラスト


霜野の領域が、
   江戸時代末に6分の1に縮小

江戸時代末には、
 それまで霜野村だったのが、
 
霜野村・仁王堂村・北谷村
 梅木谷村・大浦村・中浦村の
6村に分割

明治時代になると、
 上の6村が1つの 
「山内村」に合併、
 
霜野・仁王堂・北谷
 梅木谷・大浦・中浦の6区
 *江戸時代までの「下野山内村」とは
  範囲が違う。


村名と、その範囲の変遷

平安時代初期
 村(荘)名は
未詳 9世紀「真堂廃寺」建立 

平安時代中期
 
霜野荘(?)
 康平元年(1058) 「
霜野山延寿院康平寺」建立

鎌倉時代
 
霜野荘
 永仁2年(1294)異国降伏祈祷の関東御教書が康平寺に下される『国郡一統志』(山本郡霜野山康平寺の条)
*但し、『国郡一統志』は、江戸時代の北島雪山の著、しかし、この記述は「康平寺文書」から記載したか。

 正安4年(1302年)院主禎宣が願い出て、康平寺が御祈祷所となる
 「肥後国
霜野荘康平寺・・・」という記述
  『国郡一統志』、『霜野来由記』、『肥後国史』


江戸時代

 
霜野村(or下野村or下野山内村)
 
「江戸絵図」(永青文庫蔵、県立博物館蔵)
 「天和(テンナ)3年(1683)・・・山本郡
 
下野山内村」(日吉神社の棟札)
 「宝永7年(1710)・・・山本郡霜野村」
 (27年後の日吉神社の棟札)


江戸時代末までに
 それまでの霜野村が中浦村や北谷村など、しだいに6ヶ村に分割されていき、小さな霜野村となった

明治時代
6か村が合併し、
山内村となり、その一つの区の霜野

昭和30年(1955)
 鹿央村(米野岳村・山内村・千田村の合併)の中の霜野

昭和40年(1965)
 
鹿央町(町制施行)の中の霜野

平成17年(2005)1月15日
 山鹿市
(旧山鹿市・菊鹿町・鹿北町・鹿本町・鹿央町が合併)の中の霜野

             


江戸時代初期
慶長(ケイチョウ)国絵図(クニエズ)
永青文庫蔵(熊本大学付属図書館寄託)
『菊水町史 絵図・地図編』所収

霜野村の村高「1161石余」とある。
当時の霜野村(現在の山鹿市鹿央町の旧山内地区)の水田
全体から収穫できると計算された米の量。

慶長期の霜野の絵図

江戸時代初期
正保(ショウホウ)国絵図
永青文庫蔵(熊本大学付属図書館寄託)
『菊水町史 絵図・地図編』所収

 やはり「下野村」だけで、隣村は米野(メノ)村や、用木(モテギorモトイギ)村などがある。
 「西郷」とあるのは、山本郡の西部の意。

 「下野山」とあり、現在の国見山は「しものやま」と呼んでいたことがわかる。
 山には、雑木が繁っていて、特に「松」が多い。

 「古城上の」とあるは、中世の山城で、日吉神社のそばにある居館ではなく、戦いに備えた内空閑氏の権現岳の上にある城。

正保期の下野山(国見山」)の絵図




江戸時代初期
正保(ショウホウ)国絵図 元禄10年(1697)書写
永青文庫蔵(熊本大学付属図書館寄託)
『菊水町史 絵図・地図編』所収

 下野村、村高「1161石余」。
 権現岳城は、「上野古城」と表記。

正保期の権現岳城の地図

江戸時代初期
正保(ショウホウ)国絵図 縮小して書写
永青文庫蔵(熊本大学付属図書館寄託)
『菊水町史 絵図・地図編』所収

 下野村
 現在の国見山は、「下の山」とある。

正保期の山本郡(霜野を含む)の地図

 


江戸時代前期
元禄(ゲンロク)国絵図
永青文庫蔵(熊本大学付属図書館寄託)
『菊水町史 絵図・地図編』所収

 下野村、村高「1161石余」。
 現在の「北谷(区)」を
  「下野村之内 長福寺村」、
 「中浦(区)」を「下野村之内 中浦村」としている。
 しかし、村高は「下野村」にだけ記述。

元禄国絵図


江戸時代後期
天保(テンポウ)時代の肥後国の絵図
熊本県立図書館蔵
『菊水町史 絵図・地図編』所収

 池辺啓太の正確な測量による絵図
 「
霜野村」の表記が大きい。
 小村をたくさん書き込んでいる。

 霜野区:霜野村・馬背(マゼ)村
 仁王堂区:小路(クウジ)村・ハイタカ村
   小屋敷(コヤシキ)村・中富(ナカトミ)村
 北谷区:三郎丸(サブロウマル)村
   長福寺村・石久保(イシノクボ)村
 梅木谷区:梅木谷(ウメノキダニ)村
 大浦区:記述なし
 中浦区:中浦(チュウノウラ)村
   土穴(ツチアナ)村・古閑(コガ)村

天保時代の肥後国の絵図



江戸時代後期
宝暦(ホウレキ)時代以降の
内田手永絵図

  内田手永の東に位置する
  「
霜野山」が描かれている。

宝暦時代以降の内田手永絵図

資料から考察すると、

1.「霜野(下野)村」は、昔から江戸時代末まで「旧・山内村」全体を指す地域だった。

2.「国見山」は、江戸時代末まで、「霜野(下野)山」と呼ばれていた。

3.現在の霜野区から、菊水町の方へと流れている川は、
  現在の地図には、「江田川」と記されているが、江戸時代末までは、「
霜野(下野)川」と呼ばれていた。

4.康平元年(1058)に建立された「康平寺」は、「霜野山(ザン)延寿院康平寺」という寺号を持っているが、山号の「霜野山」も「霜野山(ヤマ)」から名付けている。
  その山岳密教寺院の堂舎は、「
霜野村」全体に配置されている。
  里人と多くの修行僧は、生活に必要な水を、霜野山から湧き出す清らかな「
霜野川」に頼っていた。
  すなわち、江戸時代までは、霜野は康平寺あっての村だったと思われる。

5.康平寺の衰退と、霜野村の縮小は、軌を一にする。
  江戸時代末に衰退した康平寺を立て直すために、寛永年間に、慶致法印が真堂浦から、規模を縮小して現在地に移転した。
  しかし、人々の宗教離れ、明治になってからの神仏分離令、廃仏毀釈、政教分離の世の流れに、康平寺と霜野の  有機的なつながりが切れて、寺の衰退と、村の縮小は止めることができなかったと言える。

 

 

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