国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
康平寺バナー
熊本県山鹿市の
  鹿央町霜野に
  ありますよ
トップページ 
康平寺案内図 
堂舎配置図 
霜野村とは 
康平寺の歴史 
真堂廃寺 
地蔵菩薩立像 
千手観音立像 
二十八部衆 
天部リスト 
日吉山王宮 
考古学資料 
古文献資料 
昔話と伝説 
康平寺管理組合 
写真いろいろ 
仏像を描く 
説明パンフレット
英文の説明 
  霜野・康平寺の古文献資料
1
康平寺文書(モンジョ) 永仁 2年(1294) 康平寺に異国降伏のため祈祷をせよとの関東御教書(ミギョウショ)
正安 4年(1302) 康平寺を祈祷所と為すの院宣(インゼン)
2
稲荷山の永仁六年の板碑 永仁 6年(1298) たくさんの巨岩が横たわり、古代の巨岩信仰の跡かと思われる稲荷山の中腹に、円墳か経塚のようなこんもりした塚があり、その上にある阿弥陀如来の梵字が書いてある永仁6年の年号が入っている板碑(イタビ)がある。
3
如法経塔銘文 元亨 2年(1322) 院主禎久(テイキュウ)の菩提(ボダイ)を弔うため、13名の弟子の大徳(ダイトコ)たちが建てた如法経塔(ニョホウキョウトウ)の銘文
4
法華妙典一千部読誦の碑 天文 5年(1536) 妙芳禅定(ゼンジョウ)尼のために、尼たちが法華妙典を一千部読誦したことを示す真堂浦にある碑文
5
開基暁圓上人の位牌 天文15年(1546) 院主禎賀(テイガ)が造立した康平寺の開基暁圓(ギョウエン)上人の位牌
6
院主禎賀を弔う碑文 天正 2年(1574) 里人がミースさんと呼ぶ院主禎賀を弔う碑文
7
法印重厳の墓碑銘 慶長 5年(1600) 小さな石に刻まれた法印重厳(チョウゲン)の墓碑銘
8
国郡一統志 寛文 9年(1669) 北島雪山(セツザン)が記した肥後最古の地誌
9
肥後国誌 宝永 3年(1706) 井沢蟠龍(バンリュウ)が北島雪山の『国郡一統志』15巻と、辛島道珠の『肥後名勝記』を踏まえて、『肥後国誌』17巻をまとめ、『肥後地誌略』も著(アラワ)す。
享保13年(1728) 成瀬久敬(キュウケイ)が『新編肥後国誌草稿』18巻を著す。
明和 9年(1772) 森本一瑞(イチズイ)が『肥後国誌草稿』を増補して、『肥後国誌』25巻とする。
明治17年(1884) 水島貫之、佐々豊水が、森本一瑞の原本を増補校訂し、さらに、八木田桃水の名著『新撰事蹟通考』をはじめ、『古記集覧』、『雑華錦語集』、『阿蘇文書』、『桃源問答』、『古塔調査録』を引用補入して、『肥後国誌』14巻を著す。
大正 5年(1916) 後藤是山(ゼザン)が、『肥後国元始大略』、『天草島鏡』、『求麻(クマ)外史』、『南郷事蹟考』、『(旧肥後領)豊後三郡等』の新しい史料を増補して、『肥後国誌』上・下二巻を出版した。
昭和46年(1971) 青潮社が、後藤是山の『肥後国誌』上・下二巻を、復刻再刊した。
平成12年(2000) 青潮社が、『肥後国誌 拾遺』を出版した。
10
内空閑(ウチコガ)記 寛文11年(1671) 荒木鎮実(シズミ)が、康平寺を菩提寺として守護した内空閑(ウチノコガ)氏のことを記したもの
11
内空閑傳記 年代不詳 竹下泰菴正運が、祖父や兄が記述した内古閑氏のことを撰録した伝記
12
霜野来由記(ライユキ) 享保17年(1732) 小野彦次郎宇治兼将(カネマサ)が、内空閑氏の興亡と康平寺の盛衰の跡を古老などから聞き集めて書き記したもの。(ただし、歴史的な正確さに欠けるところがかなりある。)
13
面山(メンザン)和尚の漢詩 享保年間
(1730年前後)
熊本の玉竜山禅定寺の面山和尚が康平寺を訪れ、あまりの荒廃ぶりに感慨に堪えず、思わず賦(フ)した七言律詩
14
霜野山来歴略記 安永 8年(1779) 康平寺の住僧であった釈雙圓(シャク ソウエン)が、康平寺の来歴について著したもの
15
康平寺延寿院坊舎略記 安永 8年(1779) 釈雙圓が、康平寺の坊舎について著したもの
  16 霜野物語  年代不詳  著作者不明。霜野のことを物語風に記したもの
史料的価値は低い。 
  17 花蔟山(ハナムレヤマ)参詣
天女夢物語
 
享保 8年(1723)  花蔟山の毘沙門堂に参詣した古老が語るという『大鏡』風の趣向を取った物語で霜野のことも書いてあるが、『霜野物語』と大同小異。 
        TOPページに戻る