小野彦次郎宇治兼将(かねまさ)が、 内空閑氏の興亡と、康平寺の盛衰の跡を 古老から聞き取って書き記したもの。
大石真麻呂の『肥後古記集覧』巻16に 収録されている。
夫(それ)盛者(しょうじゃ)必衰、世ノ習(ならい)。人ノ禍福(かふく)、何(いづ)レカ定メガタキ叓(こと)ナガラ、茲(ここ)ニ、山本郡霜野城主、内古閑(うちのこが)氏ハ、山本郡司トシテ、世々菊池ノ家臣也。 其(それ)先(まず)、伊賀国ヨリ当国下向(げこう)有(あり)テ、九代ト云傳(つた)フ。家富榮(とみさかえ)、武勇ニ秀(ひいで)シ家ナリシニ、天正ノ末年ニ至テ、跡形モナク滅亡有シ也。 片田舎ノ叓(こと)ナレバ、書籍ニ書顕(かきあら)ハセシ叓モナク、年月重ヌルニ従ヒ、古老ノ人モ無ク成リ、後世内空閑氏霜野城ノ来由、霜野山康平寺ノ因縁トモニ、知ル人有間鋪(あるまじく)ト予(おもい)、彼方此方ト古老ノ説ヲ聞求メ 、一巻記畢(しるしおはる)。 若(も)シ、人、委鋪(くわしき)叓(こと)聞伝ヘ、正説アラバ後世消添(しょうてん)ヲ仰(あおぐ)而已(のみ)。 干時(ときに)享保十七壬子(みずのえね)歳(1732年)夏至念日(ねんじつ、20日のこと) 柳盛子(りゅうせいし)、小野兼将(おののかねまさ)、自序。
伊賀ノ国上野城主、服部伊賀ノ守藤原鎮基(しずもと)ノ長子、備前ノ守基貞、人王九十一代、伏見院御宇(ぎょう)永仁元年癸巳(みずのとみ)六月、肥後山本郡五百五十町ヲ賜(たまわり)テ、内村ニ下向シ、垣ノ内と云フ所ニ居住ス。伊賀ヨリ供ノ士六人、平、轡貫(くつぬき)、樽見(たるみ)、正院(しょういん)、竹下、中和田、是レ譜代(ふだい)相傅(そうでん)ノ侍也。内村ノ内ト云フ字ヲ取リ、伊賀ノ国ニテ基貞出生(しゅっしょう)ノ地ヲ古閑ト云フニ依(より)テ、内古閑ヲ以(もっ)テ家号トス。氏神ハ厳島(いつくしま)大明神ヲ伊賀ヨリ奉護下向アリシヲ、正院村ニ東向キニ社壇ヲ造立アル。
内空閑代ニ菊池家旗下(きか)ニシテ、所々(しょしょ)軍功有然(しかあ)ルニ、天文廿三年(1554)十一月、菊池義武(よしたけ)滅亡ス。以後、一国ノ士皆面々ノ所領ニ引キ篭(こも)リ、或(あるい)ハ薩摩方、肥前方、大友方ト国中三ツニ分カル。小城主所々ノ小セリ合間モナシ。内空閑八代目を民部太輔(たゆう)鎮資(しずすけ)トゾ申シケル。菊池郡隈府(わいふ)城主、隈部但馬ノ守源親長(ちかなが、親永のこと)ノ娘、御菊御前ヲ嫁取リシテ、三年ニ及ブマデ一子ナシ。依之(これによりて)、御臺(みだい、奥方のこと)ノ弟、源三郎ヲ養子トス。是ヲ刑部(ぎょうぶ)太輔鎮房(しずふさ)ト云フ。其ノ後、実子誕生有リテ、備前ノ守鎮照(しずてる)トゾ申シケル。世々内村ニ居住有リテ、尾平山(おひらやま)ヲ以テ、城トス。
或時、盆踊リシケルニ、家中ノ侍踊リシテ登城シ、其ノ夜、戸石小路面々ノ宅ニ打チ寄リ、冷(ひやか)シ話(ばなし)有リシ折カラ、「鎮房方は下手」ト云フ。「鎮照方ハ不調法者(ぶちょうほうもの、下手ということ)」ト、タガイニ云ヒ合フ。其ノ比(ころ)、鎮房方ト云フハ、御臺ニ山鹿ヨリ付キ来タル士、鎮房方ニ付キ来タル侍也。鎮照方ハ、内空閑譜代ノ侍ナリ。「踊コソ下手ナリトモ、太刀打チハ負ケマジ」ト云ヒ募リ、双方合戦(かっせん)ニオヨビ、戸石ノ小路ヲ東西南北ニオヒツ返シツ、戦ヒケル。亥ノ下刻ヨリ丑ノ下刻マデ合戦スルニ、手負、死人多カリケル。城内ヨリ老士ヲ出(い)ダサレ、双方押シ分ケ、ナダメラル。
鎮房方ノ侍、牧野宗輪(そうりん)父子、栗原利菴(りあん)、其ノ外、虎口、三木、甲斐、蟹穴、緒方、野中等打チ寄リ、「養子ニテモアレ、総領(そうりょう、長男のこと)ナレバ、誰(たれ)カ世継ギヲ妨ゲン(誰も、鎮房さまが世継ぎであることを妨げることはできない)」ト云フ。 内空閑譜代ノ侍、平、轡貫、正院、市女(いちやす、一安のこと)、樽見、井手、荒木等ハ、「二男ニモセヨ、内古閑ノ実子、正統一跡ノ事、誰カ是ヲ妨ゲン」ト云フ。兄弟争論ニ及バントス。
依之、其ノ比、熊本ノ城主、城十郎太郎久基是ヲ扱ヒテ、南、弐百七拾五町、鎮房ノ領分、牧野・栗原代官ニテ内村ニ住ス。北、弐百七拾五町、鎮照ノ領分、平・轡貫代官ニテ伊知坊村、山城村ニ居住シテ、是ヲ支配ス。 鎮照ハ内空閑代々ノ居城ナレバ、尾平城ニ住シ、鎮房ハ、霜野ニ移リ、権現山ヲ城トス。山王宮ノ上ノ山故(ゆえ)、権現山ト云フ。今ハ館(たち)ト云フ。
大手ハ中谷(なかんたん)岩地蔵口、搦手(からめて)ハ山王宮、西ニ国見嶽(だけ)アリ。茶臼山ヲ以テ本城トス。兄弟トシテ山本一郡ヲ領シ、其比ハ、豊後府内城主、大友義鎮入道宗麟ノ幕下(ばっか)ニテゾ有リケル。霜野城ノ城跡ヲ掘リテ見ルニ、焼ケタル米、銭、矢ノ根、太刀、盆、茶碗、鍋、釜ノ類、今ニ出ヅル。
内空閑親貞(ちかさだ)討チ死ニ之事
藤原基貞ヨリ六代目ヲバ、中務(なかつかさ)太輔親貞ト申シテ、文武ノ達者タリ。薩摩勢打出デテ、葦北郡津奈木ノ城ヲ責(*攻)ムル。菊池ヨリノ下知(げち)ニ依リテ肥後ノ国侍、城・赤星・田嶋・鹿子木・内空閑後詰(あとづめ)也。一日ノ間ニ十六度ノ合戦アリ。内空閑中務太輔親貞、衆ニ勝レテ、相戦フ。親貞即チ等ニ云フ。「我必ズ討チ死ニスベシ。汝等古郷ニ帰リナバ、此ノ中脇差シヲ氏神厳島大明神ノ宝殿ノ破風(はふ)ニ打チ付ケ置クベシトテ一首。『ツナギ置キシ駒ノ手綱ヲ引キ返シ、名誉ノ太刀ヲ内ノ古閑也』ト読ミ玉ヒ、平、轡貫両人ニ暇(いとま)玉ヒテ後、大勢ノ中ニ駆ケ入リ、多人ヲ亡ボシ、終ニ討チ死ニ有リシトナリ。平、轡貫、主ノ遺骸並ビニ形見ヲ取リ持チ、内村ニ帰リ、遺言ニマカセ、中差シハ、氏神ノ宝殿ノ破風ニ打チ付ケ、死骸ヲ内村ノ西ノ平ニ葬リシトカヤ。
内空閑鎮房、鎮照、本領安堵之事
天正五年六月、太閤秀吉公、薩州征討ノタメ、西国ニ下向有ル。肥後ノ国ニ入リ玉ヘバ、国中ノ小城主駈セ集ヒテ、秀吉公ヲ守護ス。其ノ時、内空閑刑部太輔鎮房、同ジク備前ノ守鎮照兄弟共ニ先駈けシテ薩州ヘ趣ケル。所々ノ合戦、軍功有リテ、薩州平均(たいら)ニナリシカバ、秀吉公、肥後熊本迄帰陳有リテ、三日ノ逗留也。国中ノ侍等、軍功ニ従ヒテ、或イハ、本領安堵、亦ハ、加恩モ有リケリ。内空閑兄弟ニハ、本領安堵ノ上、五十町ノ加恩ヲ賜リ、本領合セテ六百町也。両人共ニ三百町ヅツノ領主ト成リ、喜悦ノ眉ヲ開キ、帰城有リシトナリ。玉名郡用木(もといぎ)、江田、日平(ひびら)諸村、大江田、藤田、前原、是加恩ノ地也。
内空閑一族、並ビニ郎従之事
基貞伊賀国ヨリ当国ヘ下向ノ時、供ノ一族五人、譜代之侍六人也。内空閑ニ世継ナキ時ハ、此ノ十一家ノ内ヨリ家ヲ継グベシトナリ。一族ニハ正院・帯刀・一安・飛弾武入・山城光政掃部(かもん)・一万田弾正也。郎従ニハ平、轡貫、井手、中和田・竹下等也。内古閑勘解由兵衛、大浦村ニテ四丁。井手参河守、霜野中原ト云フ所ニテ四丁、飛越ニ居住ス。弓ノ上手トカヤ。嫡子石見、次男山城各四丁ヲ賜フ也。 井手石見、子帯刀ト云フ。清正公時代、所ノ給人ニ供セラレ、高麗陣ニ立チ討死ニス。帯刀ノ子ヲ作左エ門ト云フ。加賀宰相ヘ三百石ニテ召シ出ダサレ、今ハ山本作左エ門ト云フ。 石窪左近、稗田村ニテ四丁、蟹穴入道久安、長福寺村ニ住ス。虎口藤兵衛入道一安、仁王堂村ノ内ニテ四丁、緒方志摩、蜻浦村ノ内ニテ四丁、嫡子打越中、平田村ノ内ニテ四丁、牧野河内、鞍掛村ニテ十五丁、一安武蔵、大清水(おそうず)村ニテ十五丁、栗原利菴、内村岩照寺ニ住ス。牧野双輪、同嫡子圖書(ずしょ)其ノ子四人、同弾正、同丹波、同主税、同平馬、内村下陣内ニ何(いづ)レモ住ス。光政隠岐掃部、其ノ外小給人、与力被官ノ者ハ記スニ及バズ。
内空閑氏系図、並ビニ定紋花押
服部伊賀守 鎮貞ノ長子服部備前守ト号ス 藤原鎮基 ------→ 基貞 ------------------------→ 伊賀国上野城主 永仁(明徳の誤り)元年肥後国山本郡五百五十 丁(石の誤り)ヲ賜リテ下向シ内古閑備前守ト改号有リ
式部少輔 掃部亮 刑部大輔 備前守 → 為載 -----→ 重載 -----→ 長載 -----→ 載久 -------→
中務大輔 式部少輔 民部大輔 → 親貞 -----→ 鑑貞 -----→ 鎮資 ----→ 鎮房(刑部大輔・養子)----------------------------------- → 鎮照(備前守・実子)
瓜ノ御菓子ヲ被下(くだされ)シニ依リテ
即チ瓜ヲ以ッテ定紋トシ、代々瓜ノ紋。
内空閑権大輔 ------------藤原鎮房-
霜野城合戦之事
天文廿三年(1554)十一月、菊池義武(よしたけ)滅亡以後、菊池家断絶ス。故ニ国中ノ小城主、薩摩方・肥前方・大友方ト別リ、日々夜々軍ノタユルヒマモナシ。其ノ頃菊池・山本両軍ハ肥前龍造寺隆信ノ幕下、山鹿・玉名両軍ハ大友方、飽田ヨリ南表ハ残ラズ薩摩方ニゾ成リニケル。山本郡ハ肥前方ナレドモ、鎮房ハ隈部親長(永)ノ弟タルニ依リテ、兄弟引キ別ッテ大友方ニゾ成リケル。 天正八年(1580)薩摩勢、肥後ニ打チ入ル。熊本ノ城主、城ノ久基ヲ案内者トシテ大友方ノ小城ヲ攻メテ手ニ入レントス。霜野ノ城主、内空閑鎮房ハ大友方ナレバ先ヅ是ヲ攻メントテ駄ノ原マデ打チ寄セケレドモ、難所ヲカカエシ城ナレバ、小勢(こぜい)ニテ攻ムル事アタハズ。直チニ玉名郡日平(ひびら)花群(はなむれ)ノ城ヲ攻ムル。一日一夜攻メ落トス。城主小森田左兵衛佐(すけ)鎮霍ガ首、並ビニ執権本山備後守田川隼人佐ヲ討チ取リ、帰陣ノ折柄、駄ノ原ノ道ニ一首ノ落首ヲ立ツル。
薩摩衆ハ アカゞリ(あかぎれ)足カ ヒゞ足カ 霜野ヲヨケテ(避けて) 日平討ツナリ
ト有リ。是ハ霜野家中ヨリ立テシトカヤ。天正七年(1579)十一月ニ、日平花群ノ城落城。薩摩勢ハ直チニ帰国シ、翌年(1580)、又勢揃イシテ、肥後ニ打チ入ル。城ノ久基ノ執権、木場平川ヲ案内者トシテ落首ノ遺恨ニヤ、一番ニ霜野ノ城ニゾ寄セニケル。岩野原ニテ手分ケ定メ、川上左京手勢三百余騎ニテ田原坂ヲ下リテ山伏峠ニノボリ、国見嶽ニ攻メ上ル。是笠ノ手ナリ。先勢三百余騎、木場宗蓮大将ニテ篠ノ尾・小豆ノ尾ニ旗ヲサシ上ゲ、東ノ表山王口ヲ攻ムル。新納武蔵守忠元、梅北宮内左ヱ門大将ニテ三千余騎大手ヲ攻ム。高椋中野原ニ打チ群レ、旗ノ手ヲオロシ、稗田口ノ田面ヨリ責メ上ル。城中ニ其比(ころ)五匁筒ノ鉄砲一挺有リシヲ笠ノ手川上ガ陣ニ打チ掛ケル。本陣ノ真中ニ打チ込ミケル故、川上少シ引キ退キテ、陣ヲ大手・岩地蔵口ハ、城中ノ侍大将虎口武蔵守鎮門(後入道シテ一安ト云フ。)金ノセイ札ノ指物ヲ指シカザシ、弓掲ゲ、木戸ヲ開キ、士卒ヲ下知シテ打ッテ出ル。岩地蔵ノ脇ニ大杉二本有リケル下ニテ鑓合ヒ始メル。双方入リ乱レテ戦フ。鎮門ハ常々弓ヲ好ミケル。寄リ手ノ侍大将川上出羽守(左京ガ弟ナリ。)高音ニ名乗ッテ鎮門ト互イニ矢ヲサシハサム。出羽早ク矢ヲ放ツ。鎮門ガ弓手ノ首ヨリ皮ヲスクヒテヒジマデ射通ス。鎮門弓ヲ捨テ、太刀ヲ抜キ、片手打チニ戦フ。続ク味方、堤掃部、正院内匠、荒木弥助、樽見弾正等入リ乱レテ、戦フ。鎮門終ニ出羽ニ出合ヒ、出羽ヲ討チテ首ヲ取ル。残勢ヲ追ヒ払ヒ、城中ニ引キ入レ、大将鎮房ノ前ニ出、川上出羽ガ首披露ス。射立テタル矢ヲ抜キテ見ルニ、染羽ニ鳥ノ舌ナリ。箙ニ朱ヲ以テ、
敵トテモ替ハル心ハナケレドモ 君ニヒカルゝ梓弓カナ
ト書ケル。敵ナガラモヤサシヤト其ノ比(ころ)申シアヘリ。
同搦手軍之事 付 牧野弾正討チ死ニ之事
山王口ハ城中ノ侍大将牧野圖書介(づしょのすけ)鎮秋(しずあき)・同弾正・同淡路・同平馬・丹波・毛利・角田等七十六騎ニテ堅メタリ。寄セ手、木場宗蓮(そうれん)、嫡子帯刀(たてわき)三百余騎、山王口東ノ坂口ニ九州ニカクレナキ大楠木二本有リ。此ノ所ヨリ城内ニ横入リニ攻メ入ル。牧野宗輪兼ネテ聞コユル軍配者ナレバ、少シモサワガズ敵ノ色ヲ見スマシ、「時分ハヨキゾ、カカレ」ト云ヘバ、圖書サイハヒ(采配)振リ立テ、士卒ヲ引キ連レ真逆ニ落トシ掛ケタリ。敵鑓合ワセモセズ、シドロニ引カントセシ所ニ、栗原利菴(りあん)、真堂ノ岸陰ヨリ手勢計(ばか)リニテ横合イニ突キ入リケレバ、敵右往左往ニ逃ゲタリケリ。城兵敵ヲクヒトメント名乗リ掛ケ掛ケ、射フセ切リフセ高名ス。木場宗蓮、泉山ノ麓ニテ只一騎返リ合ワセ、追イ掛クル。敵ヲ追イ払フ所ニ、牧野弾正掛ケ来テ、宗蓮ト戦フ。東ノ畑ノ真中ニテシバシ戦フトゾ見エシ。弾正、宗蓮ヲ突キ掛クル。牧野・平馬走リ掛ッテ宗蓮ガ首ヲ取リ、大手搦メ手ノ寄セ手一ツニ成リテ、楠坂ヲ七重八重ニセキ合ヒテ逃ル。北ノ谷ニセキ落トサレ、或イハ太刀長刀ニツラヌカレ死スルモ多カリケリ。残ル勢漸(ようよウ)トメウト(夫婦)石マデ引キ上ゲタリ。
木場帯刀軍兵ニ向カヒテ申シケルハ、「父ハイカニ」ト云フ。郎徒申スハ、「牧野弾正トカヤ云フ者ニ出合ヒ討チ死ニス」申シケル。帯刀聞クモアヘズ、「父モ討タセ是迄モ引キツル無念サヨ。一度弾正ニ出合イ、勝負ヲ決スベシ続ケ旁々(かたがた)。」ト取ッテ返シ、又楠坂ニ来タリ、城ニ向カッテ申シケルハ「只今是マデ参リ候フ者ハ今朝討チ死ニ仕リ候フ木場宗蓮ガ嫡子帯刀ト申ス者ニテ候フ。牧野弾正殿ニ親ヲ討タセ、生キテ帰ルベキニアラズ。アハレ牧野殿一人御出デ候ヘカシ。勝負ハ運ニヨルモノカ。帯刀モ一人罷リ出デ、牧野殿ニ見参ニ入レ度ク候フ。」ト高音ニ云フ。弾正聞キテ、「ヤサシキ志サゾアラン。」トテ出デントス。一族ツゞカントス。弾正云フ。「敵ニ詞(ことば)ヲ掛ケラレ、見続ク方ヤアル。」トテ、出デニケル。弾正ハ剱鍬形打ッタル甲(かぶと)ニ竜頭スヱテ火オドシ(緋縅)ノ鎧(よろい)ヲ着テ、三尺八寸ノ太刀ヲハキ菊池延寿ガ打ッタル片刃ノ鑓、鶫(つぐみ)ノ頭筒、金鉄ヲ以テ重子(かさね)ヲアツクハラセ其ノ外ノ金物皆銀ニテ誘一丈餘リ有リシヲヒッ提(さ)ゲ、小(こ)ヲドリシテ走リ出ヅ。「帯刀殿ノ御志尤モナリ。弾正モ一人罷リ出デ候フ。帯刀殿モ御一人是ヘ御出デ候ヘ。」ト高ラカニヨバハル。帯刀ハ卯ノ花綴リノ鎧ニ四方白ノ三枚甲、鍬形打ッタルヲ着テ三尺三寸ノ太刀ヲハキ、白柄ノ長刀ヲ脇ニカヒ込ミ、心静カニ只一人楠坂ヲ下ル。
山王ノ前ノ廣ミニテ両人声ヲ掛ケテ戦ッタリ。敵味方カタヅヲノンデ見物ス。木場請ケ太刀ニ成リテ後レ、足ヲ蹈(ふ)ミテ引キ退(の)ク。牧野彌(いよいよ)気迫懸ケテスキマモナク突イテカゝル。木場モ二丁程退ケレバ、城ハ遠ク味方ノアワイ近クニ成リケレバ、時分ハヨシト思ヒ、牧野ガセリ懸リテ突ク。鑓ヲ弓手ノ方ニ巻落トシ、蹈ミ違ヘ、長刀茎長ニ取リ延バシ、真ッ向(こう)ヲガミ打チニ丁ト切ル。甲ノ鉢胸板ガケス。頭ニ懸ケタル摩利支天ノ金輪二ツニ切レテ、上帯ノヘンマデ切リ付ケラル。牧野・丹波是ヲ見テ左申シツルコトヨ。帯刀ハ親ノ敵ヲ日ノ中ニ討ツ。我ガ為ニ又帯刀ハ眼前ノ兄ノ敵、ソコヲ引クナト切ッテ出ル。牧野ノ一族ツゞキケレバ、大手ヲ堅メシ城兵又打ッテ出デ、逃ゲル敵ヲ討チ取リケル。
帯刀ハ弾正ガ首取リテ、味方ノ勢ノ中ヘ懸ケ入リテ見テアレバ、片面計リゾ取リタリケル。木場ガ勢、薩摩勢右往左往ニ引キ退キ、小豆ノ尾・井堀・平田・中原ニ打チ群レ打チ群レ、諸勢残ラズ引キ取リケリ。牧野ノ一族ハ雑兵ニ目ヲカケズ、帯刀ヲ討タント心掛ケテ追ッテ行ク。帯刀ハ所々ニテ返シ合ヒ返シ合ヒ戦ヒシ故、高椋坂ヲ引ク時ハ、帯刀只一騎ニゾ成リニケル。爰(ここ)ニテ牧野ノ一族追イ付ク。「ソコデ引クナ」ト声を掛ケタリ。帯刀モ最早遁レヌ所ト思ヒ、坂八分程ニ蹈ミ留マリ、「旁(かたがた)聞キ玉ヘ。今朝ノ駈ケ合ヒニ親ヲ討タセ、候ト云ヘドモ、武運尽キセズ。二度目ノ駈ケ合ヒニ親ノ敵ヲ討ッテアダヲ報ユルコト本モウ(望)ナリ。味方多勢ナリト云ヘドモ、今茲(ここ)ニ一人モ続ク者ナク、必死極マレリ。旁(かたがた)又兄ノアダヲ報イントノコト至極セリ。イサギヨク勝負ヲ決スベシ。」ト追イ来タル敵ヲ見オロシ、小膝ヲ折リテ待チ掛ケタリ。
牧野ノ一族尤モナリトテ突イテ掛カル。帯刀モ手ヲクダキ、長刀ニテ請(う)ケツ返シツ戦ヒシガ、牧野圖書ニ突キ伏セラル。同ジク丹波走リ懸カリテ首ヲ揚ゲタリ。爰(ここ)ニテ軍(いくさ)ハ止ミニケリ。大手搦メ手ノ寄セ手敗軍スルヲ見テ、笠ノ手ニ廻リ、透キ間ヲ見テ居タリケル川上左京モ戦ハズシテ虎巴浦(このはうら=木葉村)ニゾ引キニケル。城兵敵ヲ討ツコト、大将雑兵都(すべ)テ三百余。天正九年八月十一日ナリ。
内空閑鎮房滅亡之事
天正十五年(1587)六月二日、当国一円佐々陸奥守源成正(政)ニ賜フナリ。之ニ依リテ国中ノ侍大小五十二人、皆成正ノ幕下ト成ル。内空閑鎮房モ五十二人ノ内ニシテ、成正モ他ニ異ナリテ思ハレシカバ、成正ノ正ト云フ字ヲ譲ラレシカバ、改メテ内古閑権太輔正利トコソ申シケル。然ルニ成正、隈部親長ト不和ノコト有リテ、隈部ノ城ヲ攻ムル。親永討チ負ケ、剃髪シテ降ス。親永ノ嫡子、式部太輔親安(ちかやす)、山鹿郡城村ノ城ニ盾籠ル。成正続イテ之ヲ攻ム。城堅クシテ落チズ。其ノ時、阿蘇ノ家臣其ノ外、菊池香(孝)右エ門武国・和仁・遍春(へばる)・大津山等与力シテ、成正留守ノ熊本ノ城ヲ乗ッ取ル。此ノ由、城村ニ注進ス。成正前後ノ敵ニ当惑シテ城(じょう)ノ城ニハ付城(つけじろ)ヲカマエ、勢ヲ残シ置キ、其ノ身ハ熊本ヘ引キ返ス。
本道ヲ行キナバ余党道ヲサヘギルベシトテ、甥ノ佐々与左エ門宗能(むねよし)ニ三百余騎指シ添ヘテ本道ヲ打タセ、成正ハ分田ヘ廻リ、板井原、栖屋原ヨリ坪井谷ヘト打チ通ル。然ルニ山本大関近所ノ僧俗男女「都ノ武士サゾ花ヤカナラン。」ト見物ノタメ大勢内村ニ出デ、所々打チ群レテ見物ス。与左エ門ガ先陣行キ掛カリ、伏兵有リト見アヤマリ、此ノ由宗能ニ注進ス。宗能聞キテ見ヌフリシテ今藤谷ヘ引キ下ロシ、吉松原ヨリ味取坂ヘ打チ出デント、カスドウ(糟堂)ヲ指シテ引キ下ロス。
見物ノ中、内空閑家来五、六人有リシガ、「扨々(さてさて)、臆病ノ都武士ノ行跡ヤ。オドシテ見ン。」トテ鉄砲二、三挺一度ニ放チ掛ケレバ、真ッ先ノ馬武者ヲ打チ落トス。宗能見テ「伏兵何程ノコトカアラン。駈ケ崩シテ通レ。」トテ、真ッ先ニ進ミテ駈ケレドモ、手ニ立ツ者モナシ。内空閑ノ家来余党共、案内ハ知リツ。コゝカシコノ岸陰々ニ走リ散リテ、鉄砲間ナク打チ掛ク。ヲクレテ引クハ討チ取リ、慕ヒ行ク。宗能モヤタケニ思ヒケレドモ、或イハ討タレ、或イハ落失シケレバ、鹿子木ニ着ケル時ハ、早ヤ宗能一騎ニ成リニケル。力及バズ慕ヒ来ル敵ヲ追イ退ケ、林ノ中ニ走リ込ミ、鎧ヌグ間モナク、草摺(くさずり)ヲ畳ミ上ゲ、自害シテ死ス。
肥後ノ騒乱大阪ヘ聞コヘ其ノ上成正(なりまさ)邪宗門タルニ依リテヨビ上ラセ尼崎ニ於イテ自殺セシム。秀吉、九州静カナラズ。国々ニ余党有リテ、秀吉ノ命ヲ重ンゼズ。依リテ上使トシテ蜂須賀阿波守生駒、式部太輔浅野弾正、少弼毛利市正、安国寺等豊前小倉ニ下ッテ国々ヲ征ス。五人ノ上使肥後ニ来タリ、蜂須賀ハ菊池、生駒ハ山鹿、毛利ハ山本、浅野ハ熊本ニ在留シテ、成正ニ敵セシ者共サガシ出ダシ、或イハタバカリ討チ、又押シ寄セテ討ツモ有リ。隈部一族、有働・大隅・兼元ガ従類、其ノ外残党ヲ伐討シ、天正十五年十二月ニ上使ハ皆上洛ス。
内空閑正利ハ隈部親永ノ二男ト云ヒ、其ノ上佐々宗能ヲ討チシ科(とが)有ルニ依リテ、天正十六年二月安国寺、又筑後柳川ニ下着シ、立花左近将監ト評シ合ヒ、内空閑ニ使者ヲ以テ申シ越シハ、「正利ガ事、秀吉公御前首尾宜シ、随ヒテ申談シ度キ事有リ。当地ヘ御入来候ヘ。」ト申シ来タル。余党退治ハ旧冬スム。身上ノコトトハ夢ニモ知ラズ。直チニ上洛スルコトモ有ルベシトテ、内室ヲモ供(ぐ)シテ上下三百余人、花ヤカニ出デ立チ、筑州ヘ越エラル。牧野ノ城ノ留守居ニハ、荒木弥助鎮則ヲ留メ置ク。三月朔日、柳川城下ノ在ニ着有リテ、則チ在ニ宿ヲ召シ、着ノ由ヲ告ゲラレケレバ、立花氏ノ家中歴々マデ見廻リアリ。中々念比(ねんごろ)ノ様子故、正利モ安堵ノ思ヒヲ成シケル。
然ルニ、同二日ノ晩景ニ安国寺ヨリ使者来タリテ、「早々御入来、悦ニ入ル所ナリ。明日ハ桃花ノ節句ナリ。、幸イノコト御登城アラバ、面謁スベシ。」ト申シ来タル。正利是ニ応ジ、旅宿ノ留守ニハ、牧野平馬ヲ残シ置キ、内室ニ付ケ置カル。正利供人等引キ連レ、三月三日ノ早旦、柳川ノ登城有リ。城内ニハ兼ネテ用意ノコトナレバ鎧武者数十騎コゝカシコノ詰々ニ伏セ置キ、内空閑正利ヲ舛形ノ内ニ入レスマシ、前後ノ木戸ヲサ(閉)シテ一度ニ打チ出デケル。思イモヨラズ其ノ上スハダ武者兵仗(ひょうじょう)モナケレバ、皆走リ懸ケ走リ懸ケ刺シ違ヘテ死ス。当リノ敵ヲ取リケル故、柳川勢モ二百余人討タレシトカヤ。正利モ郎従ノ皆討タルルヲ見テ生害有リケル。夫(それ)ヨリ柳川勢直チニ正利ノ旅宿ヘ押シ寄セケル。牧野平馬、相従フ者少々引キ具シ、表ヲ防グ間ニ正利常々側近ニツカハレシ初房ト云フ女(野中出雲ト云フ者ノ娘ナリ。)正相ノ前ニ行キ、生害ヲ勧メ申ス。内室(大津山河内守資冬ノ娘ナリ。)生害アレバ、初房介錯シテ主ノ鎧甲ヲ取リテ着シ、正利常々秘蔵有リシ左文字ノ小長刀カイフッテ兵馬ニ続イテ敵ヲ討チ、押シ寄セ来タリシ者ドモモ屋敷ノ外ヘ追い出ダサル。初房モ(生年十八才)終ニ討チ死ニシケル。平馬ハ敵ヲ追イテ行キケルガ、敵掘ヲ飛ビ越エ逃ゲケルヲ続イテ飛ビケレバ、向コウ岸ニ踏ミスベリ、掘リノ中ニ落チ入リシヲ、大勢集マリ掘ヨリ上ゲモタテズ、討チ取リケル。其ノ中ニ伊形市左エ門ト云フ者、形見共ヲ取リ持チ、其ノ場ヲ切リ抜ケ肥後ニ帰リ、正利ノ家来ノ者共申シ合ワセ、康平寺ニ於イテ三十三年ノ回忌マデ仏事執行セシトナリ。
内空閑備前守藤原鎮照ハ正利ノ弟ニテ、山本郡尾平城ニ居レリ。佐々成正ニ敵セシ輩、兄正利ヲ初メトシテ何レモ罰セラレシ。鎮照、成正ニ対シ敵セズ。秀吉公ノ悪(にくみ)何カアラン。其ノ上、兄鎮房ハ隈部親永ノ子ナリ。我ハ内空閑家ノ実子ナリ。然レドモ世上ノ躰静マルマデトテヒトマヅ尾平城ヲ退キ、小代伊勢守ヲ頼リ、玉名郡石尾村ニ暫ク世ヲ窺ヒテ居住アル。然レドモ何ノ沙汰ニモ及バザルニ依リテ、扨(さて)ハ我ガ身ニ於イテ科(とが)ナシ。何ヲカ憚ルベシトテ、兄正利ノ旧室江田村牧野ノ館ニ移住ス。此ノ事筑州ニ聞コエ、正利連枝サシ置クベキニアラズトテ安国寺、立花氏ト謀リ、玉名郡ノ小武士等ニ状ヲ認メ越シ、其ノ状ニ、今度(このたび)、正利鎮照兄弟悪逆天下ニ隠レナシ。正利武命ツキ果テ、筑州ニ於イテ討タレヌ。鎮照、猶(なお)悪意ヲ振ルイ、余黨ヲ集メ牧野城ニ盾(たて)篭モル。急ギ鎮照ヲ討チテ、首ヲ当地ニササゲナバ、明取弐百町安堵給フベキモノナリ。伋リテ下知件ノゴトシ。天正十六年九月日。安国寺判ト書イテ送リケル。
小武士等、是ヲ誠ト心得、岩倉縫殿助舞蔵人ヲ初メトシテ、米渡尾(めどの)、高野、岩尻、米野ノ者ドモ馳セ集マリ、三百余騎、夜中ニ牧野ノ城ニ押シ寄セル。城中思ヒモ寄ラズ、騒動ス。寄セ手、案内ハ知リツ。堀川ヲ打チ破ッテ乱入ス。鎮照、郎従共モ皆、己ガ宿所ニ有リシ故、有リ合ウ当番ノ士廿五人、鎮照ノ左右ニ従ヒ討ッテ出ル。散々ニ戦ヒ、一方ノ寄セ手城門ノ外ニ追イ出シ、暫ク引キ取ッテ見レバ、敵ヲ討ツコト三拾七人、城兵モ討チ死ニス。味方引ケバ、敵又込ミ入ル。鎮照又相残ル郎従ヲ引キ具シ、打ッテ出デ、散々ニ戦ヒ追イ払ウ。引キ取リテ見レバ、主従三人ニ成リヌ。イザ自害セント廣縁ニ駈ケ上ガリ、硯ヤ有ルト。
ハタチスギ三トセノ秋ヲ一期(いちご)トハ 今ゾ誠ニ思ヒ知ラルル
ト辞世シテ腹十文字ニカキ切リ玉ヘバ、郎従首ヲ打チ落トシ、屋殿ニ火ヲ掛ケ、共ニ煙ト成リニケル。鎮照廿三歳トゾ聞コエシ。天正十六年九月ト申スニ、内空閑氏九代目ニテ亡キ果テケル。鎮照一男藤助ト云ヒシ幼君有リシ。行方ヲ知ラズ。一女有リ。乳母是ヲ育ミシ。山中ニ隠レ、居軍散シテ後、筑州ニテ六歳ニテ又当国ニ帰ラレシ。昔被官ノ者相談シテ、玉名郡白金村、故有ル者ノ妻ト成ル。八十余歳ニテ終エシトカヤ。
霜野山康平寺之事
当国山本郡霜野山延寿院康平寺、開山暁圓上人ハ、人皇五十一代平城(へいぜい)天皇第三皇子ナリ。幼少ヨリ出家シテ、学問怠ラズ。諸国修行シ、此所ニ来タリ玉ヒ、山ノ景ヲ見玉フニ、岑(みね)ハ八葉ニソビヘテ、谷深シ。九十九ノ谷有リ。世ニ無双ノ灵地(れいち)カナトテ、此所ニオヒテ、千手ノ秘法ヲ行シ玉フ。然ル所ニ老翁現ジテ、上人ニ向カヒテ曰ク、「汝修スル處、千手ノ法。諸仏薩埵(さった)感応マシマシ、願クハ汝ニ千手ノ象ヲアタエン。」トテ、則チ自ラ御長(た)ケ八尺余リノ千手観世音ノ尊像ヲ作リテアタヘ玉フ。 其ノ時、上人曰ク、「老翁ハイヅクヨリ来タレルヤ。」老翁答ヘテ曰ク、「我ハ是、仏法應護ノ春日大明神ナリ。」トテ、東方ニ向カッテ飛行シ玉フ。上人、肝ニメイジ、御跡三拝有リテ、弥(いよいよ)修行怠ラズ。其ノ後、天聴ニ達シ、大伽藍建立シ玉フ。脇士三十三身、十九説法ノ尊像有リ。行基菩サツノ御作ナリ。昼夜六時ノ勤行怠惰無シ。
世々、天台ノ教法ナリ。阿部貞任、同ジク宗任降伏ノ為、日本ニ七ヶ所日叡山ヲ写サレシ、其ノ一ツト聞コエシ。七ヶ所ハ、三重・高原・殖生(はぶ)・佐野・島田・山本・本山。此ノ内、山本ト有ル、是霜野山ナリ。清和天皇ノ御宇、貞観七年ニ合志ヲ分ケテ山本郡ヲ置クトアレバ、其ノ比山本ノ有リシ。
第七拾代御冷泉院ノ御宇、康平寺元年ノ御建立タルニ拠リテ康平寺ト号セラル。九十九院有リ。四方ノ谷ニ発堂(ほつどう)有リ。東谷東福寺、南谷真福寺、西谷西福寺、北谷長福寺、四明ノ頂キニ鐘楼ヲ建テテ、此ノ鐘ヲ撞ク時、一山ノ僧徒、本堂ニ集マリ勤行セシトカヤ。 護摩堂本尊五大尊、経堂、宝蔵、不動堂、真堂本尊阿弥陀佛、聖徳太子ノ御作ナリ。鎮守山王廿一社。薬師堂虚空蔵堂、南ノ岑ニ白山権現、北ニ八幡大菩薩、熊野大権現、辰巳ニ當リテ稲荷、妙見大菩薩。其ノ外岑々谷々堂舎數知レズ。
第八十代高倉院御宇嘉応年中小松重盛再興有リ。第九十二代後伏見院御宇正安四年住僧禎宣法印請ニ依リ、御祈祷所ト成ルノ院宣(いんぜん)ノ写シ、左ニ記ス。
肥後国霜野ノ庄康平寺コト、住僧禎宣申請ニ依リ御祈祷所ト為ス。御願円満ヲ祈請スベシ。兼ネテ又、 寺邊ニ甲乙人乱入停止(ちょうじ)シ、殺生ヲ禁断スベキノ由、下知(げち)ヲ加ヘシムベシ。綸旨(りんじ) 院宣此クノ如ク、仍(よ)ッテ執達(しったつ)件(くだん)ノ如シ。 正安(しょうあん)四年(1302)十一月十一日 按察使(あぜち) 頼藤(よりふじ)
往古ハ寄付ノ田地数多ク有シト。土器田(かわらけでん)、風流田、花香田(かこうでん)、山王社祭田(まつりだ)等ノ名、今以ッテ所々ニ有リ。内空閑氏、霜野ヲ領地シテ、住スルニ及ンデ、祈祷寂滅共、康平寺ニ寄ス。同郡田原山(山本郡田原村ニ有リ、是大寺ノ旧跡)ヨリ真言宗廿坊ヲ移シ、祈祷所ト為ス。今ハ天台ノ坊ハ絶エ、真言ノ僧之ニ住ス。依リテ高野山誕生院ノ支配ナリ。寺院年々ニ破滅シ、内空閑氏ノ住所、霜野城焼亡ニ及ブ時、小路(くうじ)町屋共ニ寺社一同ニ焼失ノ後ハ、天下騒乱ノ所ナレバ、再建スル人モナク、無クガ如ク成リニケル。誠ニ大伽藍ノ旧跡繁昌ノ霊地ナリシニ、古ヘヲウシナヒ其ノ所ヲ知ル人モ無キコト悔シキカナ悔シキカナ。
山本郡霜野庄ハ永仁年中ヨリ内空閑氏代々知所ス。天正十五年六月、当國ヲ秀吉公ヨリ佐々陸奥守成正ニ玉フト云ヘドモ、内空閑氏、成正ノ幕下トシテ知行ス。同十六年六月廿七日、当国ヲ加藤主計頭清正・小西摂津守行長、其ノ比ハ内空閑氏滅亡ノ後ナレバ、清正領分ニテ家来池田忠兵衛、霜野貳千石一円に知行ス。寛永九年御入国以後給数多ニナル霜野ノ庄ヲ五ヶ村ニ分ツ。イツノ比ト云フ事知ラズ。南ノ一ヲ「霜野村」ト云フ。其ノ次「仁王堂村」、是レハ往古康平寺ノ仁王門有リシ所故名トス。其ノ次「長福寺」、是レ往古北谷長福寺ノ有リシ所故村ノ名トス。其ノ次「大浦村」、其ノ次「蝶ノ浦村」有リ。清正時代国中検地有リ。生駒御千(おせん、ふつう於千と書く)ト云フ者、是レヲ奉行ス。之ニ依リテ今「生駒竿」ト云フ事有リ。其ノ時、長福寺村大浦村両方ノ打出シノ高(たか)ヲ以テ一村トス。是レヲ「梅木谷(うめのきだに)村」ト改メ、其ノ故ハ、其ノ比、将軍家ノ御嫡長福君申シ奉ルニ依リテ、都(すべ)テ長福ノ二字替ル。其ノ時「北谷村」ト改号ス。長福君ハ家重公ノ童名ナリ。霜野谷六ヶ村都(すべ)テ弐千石ノ高ナリ。其ノ内北谷村高三百八十石ナリ。田拾丁四反六畝十五歩、畑十六丁六反弐畝拾八歩、此ノ内七丁五反ハ新地畑ナリ。野開畑弐丁四反余リ有リ。竈数三拾八竈有リ。
康平寺、當時真言ノ僧位ス日本七ヶ所ノ一ツナリ。号ノ霜野山延寿院、世々ノ帝ノ宸筆(しんぴつ)。勅願等、往古ハ数多有リシト云ヘドモ、大火ノ為焼失ス。 天台ノ衆徒方、学頭、高満坊ト云フ。真言ノ行者方、学頭泉満坊ト云ヒシト云ヘドモ、時代不分明。寛文・延宝ノ比(ころ)ノ住持深仙坊阿闍梨快偏法印、遷化(せんげ)ノ後、弟子住持ト成ル。深権坊権僧都阿闍梨快傳ト云フ。享保十六亥年七拾三歳遷化ス。其レ以後、度々住僧入院スト云ヘドモ、年ヲ経ズ替ワリケレバ出世モナケレバ記サズ。 往古ヨリ代々墓碑村内山下等、所々ニ有リト云ヘドモ、其ノ次々不分明ニヨッテ、此(ここ)ニ記サズ。 往古九十九院有リシ所々ノ堂舎、年々破滅ニ及ブニ付イテ仏神ノ像本堂ニ集マリケル故、今色々ノ像本堂ニ有リ。本尊御長(おんたけ)八尺余リノ観世音菩薩其ノ他十九説法ノ尊像脇士三十三身、在現ナリ。宝永四亥年二月十八日ヨリ同四月十八日マデ開帳アリ。
あいうえお大刃上人 真刃上人 瑃海上人 當寺開山 慧公和尚 尭運和尚 各々霊位 あいうえか朝勇上人 円朝上人 成龍居士 あいう天正十七年巳丑年八月廿八日之ヲ作リ畢ワル。右ノ通リノ位牌永福寺ニ之レ有リ。
時代其ノ次々不分明。 天文・弘治ノ住持、天興成竜ト云フ。今、永福寺ノ境内ニ大乗妙典奉納ノ塔有リ。天文十八年(1549)十二月、当寺中興開山成竜ト有リ。成竜遷化以後、寺焼亡シ、其ノ後、暫く無住ナリ。其ノ時ハ、村内ニ仮屋ヲ建テ、本尊ヲ置キ奉ル由、九郎左エ門下ノ屋鋪(やしき)ナリ。万治三子年(1660)ニ境内ニ小堂ヲ建テ、本尊ヲ遷シ奉ル。堂守ヲ置キ江南坊ト云フ。十七年在住ス。其ノ次、波心坊六年在住ス。其ノ次、義全坊四十八年在住ス。元文二巳年(1737)二月十一日寂ス。七十三歳。権阿闍梨義全坊宥仁ト贈ル。其ノ次、宥山坊入院ス。