国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
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熊本県山鹿市の
  鹿央町霜野に
  ありますよ
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   法印重源の墓碑銘         BACK


重源の墓などが集められた石塔群

畑の畦の一角に集められた五輪塔

重源の墓碑の文字
その中にある
法印重厳(チョウゲン)の墓碑

  墓碑銘
   「慶長庚子(カノエネ=5年に当たる)6月4日 法印 重厳(チョウゲン)」  重厳が康平寺にいた頃の状況

天正15年(1587) 肥後国衆一揆がおこったが、豊臣秀吉方により鎮圧されて、内空閑氏滅亡
天正16年(1588) 加藤清正、肥後守となる
池田忠兵衛、禄高(ロクダカ)二千石をもって、山本郡(霜野荘も)を治める
文禄~
慶長初期
*外護者の内空閑氏が滅亡し、同時に戦乱を避けて逃げていた僧たちが康平寺に帰ってきたが、その時、天台系の僧たちだけでなく、真言系の僧たちもやってきた。この後、霜野のあちこちに残っている墓から、天台系と真言系のそれぞれの僧の墓と考えられるものがかなりある。

*おそらく頽廃した康平寺の堂舎を、この地(真堂浦)に再建するか、または、他の適地に移築するか、かなりな論議が交わされたと思われる。

*やはり天台僧らの意見が勝ったのか、霜野川の上流である本堂口の現在地に、慶致法印によって、規模を縮小して移建することになる。

*重厳が天台僧だったのか、真言僧だったのかははっきりしないが、康平寺の激動期にこの寺の僧として、かなりの苦労をしたと考えられる。

慶長 5年(1600) 康平寺住僧「重厳(チョウゲン)」入寂(ニュウジャク=死去)
寛永年間 慶致(ケイチ)法印、真堂浦から、康平寺を現在の地に再建
寛永13年(1636) 慶致法院入寂(康平寺にその位牌が残っている)
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