国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
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熊本県山鹿市の
  鹿央町霜野に
  ありますよ
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 安永 8年(1779)康平寺の住僧 釈雙圓(しゃくそうえん)が書き残した

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霜野山来歴略記 『霜野山来歴略記』
 
 (『内空閑傳記』の中に所収)
    

江戸時代中期、康平寺住僧、釈雙圓によって書き残された康平寺の記録
 室町時代末期、肥後の国衆一揆が起こり、隈部親永らと共に戦った霜野城の城主、内空閑鎮房が柳川で謀殺され、霜野村も、康平寺も荒廃した。
 江戸時代に入り、康平元年(1058)から1600年ころまで、天台宗の寺院だった康平寺に、あちこちの戦いで行き場を無くした僧たちが、天台系も真言系も入りこんで来て、時には争い、時には協力して、ほぼ30年経った頃の寛永年間に、真堂浦にあった康平寺を、現在の本堂口へと移した。

 さしも荒れていた康平寺も、太平の世が続くうち、しだいに財政を立て直し、本堂をはじめ、霜野中にある多くの堂宇が補修・造営され、昔ほどではないが、密教寺院の形を整えてきた。
 そして、江戸時代中期、安永8年(1779)、当時の康平寺住僧、
釈雙圓が、それまでの康平寺の歴史を辿り、この『霜野山来歴略記』と、『康平寺延寿院坊舎略記』を書き残してくれた。

『霜野山来歴略記』
 肥ノ後州 山本郡 霜野山 延寿院 康平寺 往古者(は)顕密(けんみつ)ノ道場ニテ、人皇五十一代平城(へいぜい)天皇第三皇子 暁圓(ぎょうえん)上人開基也。天聴ニ奏聞有リテ、大伽藍(だいがらん)建立有リ。四方ノ峯ニ鐘楼並ニ、仁王門、東西南北ノ谷ニ四箇寺、九十九谷ニ僧舎九十九坊堂舎建立。
 後冷泉院
(ごれいぜいいん)御宇 康平元戊戌(ぼじゅつ)年(1058)五月勅願所ト為ル。
 高倉院御宇 嘉応年中
(1169~1171) 小松重盛再興。
 伏見院御宇 応(
永の誤り)仁(えいにん)二甲午(こうご)年(1294)五月二日 勅願ニ依リ、異国降伏之(の)御祈祷 修行シ奉ル。
 御伏見院御宇 正安
(しょうあん)四壬寅(じんいん)年(1302)十一月十一日 勅命有リ。異国降伏御願圓満御祈祷奉修修行寺邉ノ掟勅命蒙リ訖(おわ)ル。
 人皇百一代 後小松帝御宇 明徳年中
(1390~1394) 山本ノ郡主 内空閑(うちのこが)備前守 藤原基貞(もとさだ) 修理ヲ加フ。
 大永
(だいえい)二壬午(じんご)年(1522) 十一月十八日 内空閑刑部太輔 長載(ながとし)造立有リ。祈願所ト為ス。内空閑刑部太輔 鎮房(しずふさ)城郭ヲ霜野ニ遷シ、康平寺ヲ菩提寺ト為ス。
 
※干時(ときに) 天正九年(1581) 薩摩勢 霜野ニ寄ス。兵火ニ寺院焼失ス。 内空閑家代々ノ位牌 並ニ寄進ノ佳物傳来ス。下之(これ)ヲ略ス。
                              肥之后州 山本郡霜野山康平寺
  旹
(ときに) 安永八己亥(きがい or つちのとい)年(1779)十月吉祥日
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