国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
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  鹿央町霜野に
  ありますよ
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  安永 8年(1779)康平寺の住僧 釈雙圓(しゃくそうえん)が
      『霜野山来歴略記』と併せて、書き残してくれた

   康平寺延寿院坊舎略記   BACK


康平寺延寿院坊舎略記
『康平寺延寿院坊舎略記』
 
 (『内空閑傳記』の中に所収)
江戸時代中期、康平寺住僧、釈雙圓によって書き残された康平寺関係の坊舎の記録
 これは、江戸時代中期、安永8年(1779)、当時の康平寺住僧、釈雙圓が、『霜野山来歴略記』と併せて書き残してくれた『康平寺延寿院坊舎略記』である。
 康平寺は、江戸時代初めの寛永年間に、慶致上人によって、もとの真堂浦の地から、本堂口の方へ移されているので、釈雙圓は、平安・鎌倉・室町時代の康平寺の姿は目にしていないわけだが、幾つかの康平寺に伝わる文書や、言い伝え、霜野に残っている遺跡や古老たちの話から、できるだけ往時の康平寺の全体像を残そうと考えて記したものと思われる。

 ただし、「千手観音の眷属」である「二十八部衆」のことは、「千手観世音菩薩、并に三十三身、脇士不動、毘沙門二十八佛子」と書いている。
 鎌倉時代に、京都の三十三間堂の「二十八部衆」を念頭に造立したころは、明確に「千手観音の眷属としての二十八部衆」と捉えていたが、長い間に、僧たちの間でも、その記憶は失われていたと思われる。

 また、釈雙圓は、康平寺は、天正八年(1580)の薩摩勢の放火と、天正十五年(1587)の佐々成政勢の放火で焼かれたと書いている。しかし、大きな厨子も、多くの仏像も焼け跡一つもない。これは、天正十五年の「霜野城の戦い」の際、内空閑鎮房は、自分の城の霜野城は焼き払って、その間に支城の牧野城へ逃げたが、康平寺は焼かなかったと考えられるし、佐々勢も焼いていないと言える。

 こうして、釈雙圓のおかげで、今ではその名さえ忘れられている坊舎名がたくさんわかって、大変ありがたい。

『康平寺延寿院坊舎略記』
 大講堂、古(いにしえ)ハ大伽藍、

 中古ハ九尺間五間四面、今ハ七尺(または)八尺間三間四面
  本尊 
千手観世音菩薩、并(ならびに)三十三身、脇士不動、毘沙門二十八佛子
 真堂、本尊 
阿弥陀佛、脇士 観音 勢至、堂右同 今ハ仮堂
 護摩堂、本尊 五大尊十二天、堂破滅
 薬師堂、右ハ三間四面、今ハ仮堂
 大日堂、右ハ二間四面、右同
 不動堂、右ハ二間四面、右同
 虚空蔵堂、右ハ二間四面、右同
 大講堂前鐘楼、破滅
 一切経堂、同
 宝蔵、同
 鎮守山王二十一社、但(ただし) 鎮西阿蘇大神宮 右ハ宝殿三間ノ五間、今ハ二間ノ三間
  同宮安座 今ハ二間三間
 拝殿、右ハ三間二十一間、今ハ二間三間
 白山宮、古ヨリ宝殿二間三間、拝殿 破滅
 熊野権現宮、社破滅
 妙見宮、右同
 稲荷宮、同
 八幡宮、同
 辨財天堂、但 泉山本堂、前二ヶ所社破滅
 仁王堂、破滅
 四方ノ峯ニ鐘楼、仁王堂ノ内一所 正院村ノ内一所 鈴麦村ノ内一所 大浦村ノ内一所、破滅
 當山開基 
暁圓上人、山内本谷院主
 東西南北ノ谷衆徒在
 
東谷東福寺、破滅
 
西谷西福寺、破滅
 
南谷真福寺、破滅
 
北谷長福寺、在本尊十一面観世音 堂二間三間
 鎮守山王宮 宝殿、二間三間 拝殿、二間三間
 以上 坊数九十九坊 寺領本田(ほんでん)五百五十町  

 中興 禎重法印 衆徒數堂社并、寺領如先規(先規の如し)
 御伏見院 御願圓満御祈祷将亦寺邉掟蒙勅命其文曰、

    肥後国霜野庄康平寺之事
  住僧禎宣申請為御祈祷可祈精(請の誤りか?)御願圓満
  兼亦寺邉停止甲乙人乱入可禁断殺生之由可令加下知給者
    院宣     如此(かくのごとし)
  仍(なお)執達(しったつ)如件(くだんのごとし)
     正安四年壬寅十一月十一日 按察使(あぜち)頼藤

 再中興 禎貴法印 山内谷院主
  別當 幸満坊
  學頭 高橋坊
  千満坊
  杉本坊
  明星坊
  般若院
  大教院
  宝壽院
  福満坊
  奥蔵坊
  中谷坊
  中山坊
  東谷 東福寺
  西谷 西福寺
  南谷 真福寺
  北谷 長福寺
 以上坊數十七坊、寺領本田拾一町外畑地有。

 縁起 文章 宝物等数多(あまた)有之(これあり)トイヘドモ、内空閑鎮房公、
 霜野在城ノ砌(みぎり)、薩摩勢寄来放火ス。其後、佐々陸奥守同放火ス。
 両度ノ兵火ニ寺院、経藏焼亡ス。依之傳来書、宝物多消失ス。下略ス。

 霜野山康平寺来歴ノ叓(こと)ハ、縁起ヲ略シテ其アラマシヲ記スナリ


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