国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
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熊本県山鹿市の
  鹿央町霜野に
  ありますよ
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 江戸時代、霜野のことを物語風に記したもの。著作者不明。

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『 霜 野 物 語 』
 
 (『肥後古記集攬』の中に所収)

 * 読みやすいように、句読点や読み仮名などを付記
    
 『 霜 野 物 語 』
 爰に、肥の後州、山本の郡、霜野山康平寺と申ハ、後冷泉院の御字、康平元年の草創にて、かくれなき霊場也。比(これ)ハ、卯月半(なかば)の事なれバ、山々の躑躅(つつじ)さかりにて、錦をさらすごとくなるに、貴賤老若群集することおびたゞしけれバ、予も一人二人の友にさそはれて参詣し、かなたこなたと見めぐらす処に、やそぢ(八十路)あまりの禅門、つえにすがり来りしかバ、ちかづきよりて、「所の事ハ申に不及(及ばず)、見えわたりたる名所をかたり給へ。」と望しかバ、
 禅門答て申様、「山賤(やまがつ)の身にて侯ヘバ、くハしくハ覚へ侯ハざれ共、多々承及たる趣、荒増(あらまし)語り申べし。

 抑(そもそも)、当寺霜野山康平寺圓壽院の本尊ハ、千手観音、并に、白山大権現、薬師十二神、新堂(真堂)は、坐像のあミだ(阿弥陀)如来、林麓に、大日如来、并、山王二十一社、三方に東福寺、南福寺、北福寺、鐘楼も。北谷山長福寺の本尊ハ、十一面観世音、薬師の十二神、并に、梅木明神。そも此社の由来ハ、当国前ノ太守、加藤肥後守、国中検地の砌(みぎり)より、三百余石の余地を打出し給ひ、梅木谷村と名づけ、先郡主、小代氏の家人、後に、内空閑鎮房につかへし、荒木甚兵衛と云者、鎮房家滅亡の後、大浦村に居たりしを、此村の庄屋とし玉ひ(給ひ)ける。甚兵衛が孫、喜三右衛門と云者、阿蘓大明神の霊夢をうけ、宮地にいたりて、大宮司、中務大浦友貞につげて、一ノ宮、健岩竜命、二ノ宮、姫大明神ヲ勧請して、梅木大明神と号し奉る。時に万治二年十月也。

 そなたハ米野嶽能満寺本尊、正観音、薬師堂、白山堂あり。
 北にあたって、小原村新宮渕、此所に、月の夜、水上に釈迦温盤(涅槃)の影うつる七不思議などもあり。
 山鹿に名におふ醫王山日輪寺、大宮大明神、貴楽(私年号か?)二年の草創也。清滝権現、金剛乗寺の権大僧都、宥明(ゆうめい)法印の墓もあり。
 扨(さて)又、町に温泉有、是ハ、其かミ(その上)、此処、鹿すが(春日)山ニて有し時、宇野源次郎親治といふ者、狩猟の為に山に入り、此湯に鹿の入れるのを見て、其身も入湯しけるより、貴賤、湯治の為に集て、山鹿湯町とさかえたり。

 南嶋に百妻が池あり。是ハ昔、在原業平(ありわらのなりひら)つくし(筑紫)にくだり給ふ時、かなたこなたにて契り給ひし百人の上﨟(ろう)、跡をしたひて此所に尋ね下り給へ共、行方しれざれバ、此所に身をなげ空敷(むなしく)なり給ふ故、「百妻が池」と申也。其かたはら(傍ら)なる森に笠をかけ給ふ故、「笠懸の森」といふ。南嶋中ノ町に、業平の墓、上﨟達の墓、今にあり。
 知田(千田)村にハ、聖母八幡宮、神功皇后を祭れる也。社檀の前に、八嶋の気色(景色)をうつしたり。北にあたって、不動岩と首石有り。
 相良ハ、吾平山相良寺三光院、本尊四十臂(ひ、ひじ)の観世音(千手観音)也。緒方三郎惟栄、此寺を焼し時、観音、惣(たちまち)御かたちを顕し、緒方をけころ(蹴殺)し給ふとて、首を提げおはします。仏罰誠に恐るべし。木部の反橋ハ、冥土迄聞えあるとなり。

 常磐に見ゆる矢筈嶽、木野に松尾大明神、南ニハ木葉町宇都宮大明神、白岩権現、名誉希代の自然石有。鈴麦村に池王宮、仁王、四十七代廃帝第三の皇女、配流(はいる)の所なり。皇女、竜田の紅楓をうつし、賞翫(がん)し給ひしが、終に池水に身をなげさせ給ふ故、錦神と号し、池王大明神とも申す故、大内裏屋敷〈割り注:平内裏と唱ふ〉、別府の原、九葉の楓、今にあり。
 山北に、西安寺、時頼公の建立也。那智山霊現(龍源)寺、熊野三社権現、本宮・新宮(神宮寺)あり。巨易(益)山善日院円台寺、薬師十二神、白山権現、山王二十一社、菱形八幡宮、応神天皇、誉田八幡麿也。小野村に七国大明神、希代の自然石、清冽(れつ)たる清水小野小町の旧跡あり。今藤村ニ鎮興寺、祇園社、牛頭天皇(大王)也、二田に阿曽(阿蘇)六宮、此地より阿曽(阿蘇)山よく見ゆる。ある人の歌に、
 一切衆生(サシモグサ=「積み」の枕詞) つミにかはりて
   もへ(燃え、萌え)出(いづ)る けぶり(煙)ぞ 神のすがたなるもの

 大宮ハ、ミだ(弥陀)やくし(薬師)観音なり、阿曽(蘇)山ハ、雲照院岩戸寺と申也。外宮ハ十二宮大明神、一の宮ハ健盤竜命、二の宮姫大明神、三宮ハ国竜大明神、四宮姫御子大明神、五宮彦御子大明神、六宮姫宮大明神、七宮朝彦大明神、八宮新姫大明神、九宮ハ若彦大明神、十宮弥姫大明神、十一宮国造大明神、十二宮金凝大明神と申奉る。并に、北宮大明神、霜宮大明神、乙姫大明神、煙山大明神。南北に黒川、白川の両川あり。垂玉(たるたま)、橡木(とちのき)、湯谷とて三所に温泉あり。是、県(あがた)上宮の末流也。飯田山ハ大院常楽寺と申也、本尊ハ南無大師作、開山ハ日羅大師、百済国より五輪の石塔、四季に花咲藤を持来り給ふとて、今に此所に残れり。金海山釈迦院、大恩寺本尊ハ釈迦如来、開山弉善大師、渡唐ましまし(=あそばし)て、唐土におひて(於いて)赤栴檀(せんだん)にて、きざミ(刻み)給へる霊像也、偖(さて)又、蓮台寺に桧垣の塔あり。
  年をへハ(経ば) 我黒かミ髪も 
    白河の ミつ(水)はくむ(汲む)まで 老にける哉
とよミしも、桧垣の遊女の老のすゑによミ侍るとなり。

金岸(峯か)山、蔵王権現、岩戸ハ観世音菩薩、鼓滝あり。おとにきく鼓かたきをうち見れハ、沢(河か)辺にちゝとたんぽゝの花とよミしも、此所ぞかし、それよりをく(奥)に、鶯の観音あり、宇土にハ裸嶋、たはれ嶋とも申とかや。

 八代に妙見大ぼさつ、八月朔日(一日)前の夜に、かの辺の海上に龍宮より万燈籠をとぼし奉る、世の云伝たる不知火也。
 扨又、横嶋に八人の人柱を沈め給ふ、経とまりと申す潮塘有り、小田の丸池鯉鮒の名所也。伊倉に南北両八幡、并に丹信(倍)津あり、合志の大津と此津ハ、いにしへ唐船着岸の津也。肥後に弐ツの入江也。

 扨又、肥後の名物にハ、小代松茸、麓の蓴菜(じゅんさい)、腹赤鯛、長須(長洲)姥貝(うばがい)、木葉ほうろく、菊池のり、小場の大鮎、河原大根、竹迫芋、半田たばこ、銭塘瓜、水前寺苔、江津鮒、八代みつかん、大野柳、其外名所旧跡、名物土産、かたるにことばもつくされずと語侍る処に、こざかしき土民四、五人ひょふたん(瓢箪)に酒をいれて来りつつ、御物語の面白さに少々持参と申せは、扨々きどく(奇特)の志やと、各打寄、賞翫し、其後、件の禅門に岩野の古城にいにしへいかなる人住給ふぞと、たつね(尋ね)けれバ、小野良実の一族居住なりと、こと(答)ふ。

 霜野・萩原・日平の古城の城主ハ、いかなる人ぞと問に、禅門こたへて、先ツ萩原城主をバ、永野壱岐守親次とて隈部親永の甥也、親永の先祖を大膳太夫親重といふ。延久五年に日向国を給り下向せられしが、国中の者にせばめられ、国の住居成りがたく、菊池をたのミ肥後に来たり、隈府に居住し給ふ故、隈部とぞ申ける。文永・弘安年中に、菊池殿、博多の沖にてむくり(蒙古)こくり(高麗)を亡し、首をひたゝれ(直垂)につゝミて禁中に奉る。彼鬼の血ひたゝれに星の如く付たるを御覧有て、赤星と名字を下され、御感状に短冊を添らる、其歌に、

  肥後の国 矢筈がたけの麓にぞ 鬼を欺く ものゝふハ あれ
   
*(古歌には、「つくしなる矢筈が岳の麓には鬼とりひしぐ武士ぞ住む」とある。)

 此短冊、正観寺に納らる。扨又、首をになひ(担)さしのぞきたるを、ゑひらん(叡覧)有て、何者ぞと御尋有ける時、百姓なりと奏聞す、此者竹笠をかぶりたる故、笠鬼荷丸(かさおににまる)と名乗を被下、人々の笠名字の先祖也。

  其後、肥前の竜造寺、菊池に押懸、赤星が跡を隈部領地とす。
 萩原の永野壱岐守親次ハ、米野・萩原・江田村ニて三百町を領しけるを、いかなる遺恨ありけるにや、元亀三年三月三日、隈部親永おしよせ、城を責落す。親次が家の子、石原・河原とて両人あり、河原が智略ニて、城中を忍出、筑後に落行。当時ハ、秋月長門守殿に勤仕す。石原も同前にのがれ、米野村に其末今にあり。
 扨又、花むれの城主をば、小森田弾正親廣といふ。是も隈部一族ニて、日平・下小田村ニて弐百五十丁を領す。其子を、又、次郎親光と云。家人に田川隼人佐・本山備前とて弐人あり。其比、熊本の城主を、鹿子木寂心といふ。男子三人ありけれ共、いづれも器量なかりしかバ、春日村の百姓、後藤丸五郎、出田村の城氏に内通し、小勢を以て押寄しニ、元来大臆病の人々にて、あハてさわぎて、天草さして落られける。

 則(すなはち)、其跡に城越前守、入(いれ)かはる。其比(そのころ)木葉宗雲といふ人、出田の城を望む故、後藤丸が取持にて、城氏の手下になし、出田の城をゆづられける。此時山本・菊池ハ肥前領。玉名・山鹿は豊後領。飽田より南ハ薩广領也。城氏さつま勢を手引して国中の小城小城をせめ取(ら)しむ、木ノ葉(木葉宗雲のこと)・平川を案内者として、先ツ霜野の城をせめんとて、しのびの者を遣し城の様子を見せらるゝに、要害稠敷(きびしき)城なれバ、急帰りて、かくといへば、それをまづ差置べしとて、駄ノ原より引かへし、日平の城にかゝり、蝶浦(中浦のこと)迄責よせ、太郎丸清右衛門と云者呼出し、今度花群の城、責口案内を頼むへし。城を落し本望をとげバ、嶋津殿へ申上、一稜(ひとかど)所領宛行べし。是ハ当座のしるしとて鳥目五百疋引れける。清右衛門ハ親光が家子なれ共、慾心の義理を忘れ、先にたつて案内せしかバ、やすやすと城をせめ落し、親光の腹きらせ首取て帰りける。大将うたれしかバ、責口にむかふたる田川・本山も腹かき切て失(うせ)にけり。
 扨、城氏ハ清右衛門を呼出し、案内故ニ輙(たやす)く城をおとせし事、満足是に過ず、約諾の所領宛行ふ間、受取へしといふとひとしく、細首うち落してぞ捨にける。時に天正八年十一月也。此時何者かしたりけん、さつま勢のかへり道に一首の狂歌をたてにける、

  薩广衆ハ あかぎれ足か ひゞきれか 霜野をよけて 日平討也

 扨又、霜野の城主ハ内空閑氏也。是ハ後嵯峨天皇の御代、伊賀国上野の城主、服部備前守、肥後山本郡にて五百五拾町給り、即、山本郡内村、垣の内と云所につき、在名を称して内空閑刑部太輔元鎮と申ける。譜代相伝の家人にハ、平・履脱(轡貫のこと、くつぬき)・井手・中和田・正院・三俣・竹下等也。元鎮、産神なれバとて巌島大明神の社を正院村の建立す。元鎮より代々相続て九代と申、十二代とも申伝ふ〈割り注:其名不知〉。六代目、中務太輔資鎮(六代目は、親貞)とて無比類(比類無き)勇士也。
 芦北綱木(津奈木)の城の合戦に、城・赤星・田嶋・鹿子木・内空閑、十六度の軍ぞ、無比類働也。
 資鎮出陳のとき中指(差し)の矢に一首の歌を書て巌嶋宮に納ける、

  つなぎ(「津奈木」を掛ける)置 駒の手綱を 引たてゝ めいよの太刀を 内(打ち)の空閑也

 扨(さて)、敵陳(=陣)に破て入、火花をちらし戦ひ、究強の敵数十人切ふせ、其身も空敷(むなしく)成にけり。八代目を但馬守鎮資とそ申ける。代継の男子なき故、隈部親永の次男を養子にして新刑部太輔鎮房と号す。つきしたかふ侍に、牧野・栗原・三木・三宮・金穴・虎口・垂水以下二十余人也。其後鎮資の内室に男子出生あり。摂津守鎮照と云。
 親、鎮資病死の後、譜代の家人は鎮照に家をつがせんと云。鎮房かたの侍ハ、元来惣領なれハ、誰人かあらそふへき、鎮房こそ家督よといふ。これによって郎徒共、中(仲)あ(悪)しくへたゝ(隔)り、互にそしり侮る。然処に、七月盆躍(踊)の刻、鎮房かたの若者ハ無器用也。いや鎮照方の者とも(共)ハ下手なりと雑談し、忽(たちまち)口論意趣となり、既に合戦に及ひけり。

 夫より連枝不和になり、呉越のことくなりしに、それ迄城氏としたしくおはしける故、城殿、其外、歴々衆中打よりあつかいを以て、南三百町ハ鎮照の領分、北方二百五拾町ハ鎮房領分とわけられ、鎮房は霜野権現岳の城にうつり、鎮照ハ尾平の城にうつらる。
 然処に熊本の城主、城氏、もとハ薩广の味方なりしが、少の意趣出来て薩广勢押寄、即時に越前守をはしめ(初め)こと/\く責滅し、木葉・平川に降参させ、悉く薩广の手下にいれ給ふ。
 然間、右、日平責、帰陳の刻、道の辻ニたてたりし落書の遺恨をさん(散)ぜんため、宗雲親子を案内者とし、霜野の城を責んとて諸方の手わけをなし、追て(追手)搦手八方よりおしよせ閧(かちどき)の声をあけに(上げに)ける。

 城中思ひよらさる事なれハ、上を下へとかへしける。さハ云なから、我も/\とはしり出、矢合(合わせ)をぞしたりける。追手の敵、中谷に押寄出るをおそ(遅)しと待かけたり。城中の兵には、虎口・金穴・緒方・市安以下の者共、岩地蔵口をかためける精兵の手利とも、小高き所に立より、矢束をとひて押ミたし、さん/\にぞ射たりけり。敵大勢なりと申せ共、過半射ふせられ、皆引色に見へにけり。

 かゝる処に何者かしたりけん、上の原より岸(峯か)かけをつたひ、中谷へつとはしり出、横矢にひやうとはなつ矢、虎口籐兵衛が弓手の腕にしたゝかにたち、弓をからりと落しける。され共もとより大剛の者にて、足にて弓をあげ、馬手に取持て城戸の内にぞ入にける。
 其矢をぬひて見けるに、三年竹の節をかなる、十二束三ツふせ、鷹の羽にてはぎたる羽の間に、朱を以一首の歌を書付たり、

  敵とても かはる心はなけれとも 君にひかるゝ 梓弓かな

と書たり。

  是をよミ是をきく人きく人、「敵ながら屋さしさ(優しさ)や」とかんせぬ(感ぜぬ)ものこそなかりけれ。かたき大勢なりと申せ共、要害きびしき城なれハ、責(攻め)入へき方便なく、打かこミ居る処を、城中ゟ(より)見すまし大勢立ならびさんさん(散々)に射かけられは、叶ハじ(かなわじ)とやおもひけん、一度にばつと引退く。
 搦(からめ)手にハ牧野宗倫・同弾正・同淡路・同平馬・同丹波・毛利(森)・角田等七十六騎ニてさゝへたり、寄手の大将にハ木葉宗雲父子五百余騎ニて泉山の麓より山王宮の前にかけ出かけ出、爰をせんどゝ戦ける。半時斗(ばかり)の合戦に、敵味方の手負・死人を見わたせば、さんをミだせる(算を乱せる)ことく也。

 かくてよせ手の軍兵あまり手しげく切たてられ、かなはじとや思ひけん、皆迯(にげ)足に成にけり、城中より此由を見すまし、牧野弾正一番に駒かけ出し迯る敵を追つめ追つめ、あたるを幸にさんざんに切ふする。
 或ハ谷に馬を駈落し馬にしかれて死るもあり、半死半生の仕合にて生どらるゝもあり、腹かき切て死るもあり。され共大勢引たてたるくせなれハ、引かへし勝負をするもの一人もなし。
 大将宗雲、せんかたなくただ一人取てかへしふミ(踏み)とゞまり、長刀を水車にまはし、弾正にわたりあい、火花をちらし手をくだきてぞ戦ひける。
 牧野ハ、元来手きゝ(手利き)にて、なんなく宗雲が細首突てはね(刎ね)たをす(倒す)。弟、牧野平馬、すきまなくはせ(馳せ)来り、宗雲が首、水もたまらずかき落し、目より高くさしあけ上げ、「よせ手の大将、宗雲が首取たるぞ」とよばゝりけれバ、牧野兄弟一族ども、弥(いよいよ)きほひ(気負い)かゝつて追かけたり。

 敵大勢なりといへども、僅(わずか)の小勢に切たてられ、案内しらぬ楠板(坂か?)を、我おとらじとせき合て、迯(逃げ)上りける程に、そばなる瀧にせき落され、疵(きず)なき死人かずしれず、おわれて迯る味方をも敵ぞと心得て腹かき切死るもの数しれず。
 かゝりける処に、宗雲嫡子、帯刀(たてわき)十八歳になりにけるが、夫婦岩(みゅうといわ)といふ所にふミとゞまり、手の者若党共ニ云けるハ、「我不肖の身ながらも弓矢の家に生をうけ、たま/\此戦場にむかひ、眼前に父をうたせてかへることやある、龍門原上の土に骨ハうつむ(埋む)とも、其名ハ残すためしあり。今一度弾正と見参し、親が死骸を枕とし、討死せんとおもふ也。こころざしのかたがた、後見をたのむなり」と取てかへし、楠坂に押寄、閧をどつとあげ、「唯今是まて(まで)よせ来る兵をいかなるものとおもふらん、今朝の戦に討死したる木葉(木庭)三郎入道宗雲か(が)嫡子、帯刀と申者也、迚(とて)もの事に、某も弾正殿に参会し、某が首を牧野殿に奉るか、弾正殿の御首を此こつは(こっぱ=つまらない我)にたまはる(賜る)か、桟敷の前のはれ軍(いくさ)、只壱人、此方へ御出侯へ。某もただ壱人、罷出ん」とよばハりける。

 弾正、此由聞よりも、「扨ハ、宗雲殿の御嫡子帯刀殿ニてましますよな、やさしくも出させ給ふものかな、ねかふ(願う)処の幸ヒ、坂を下りさせ給へ、広き所にて花めずらしく一軍(ひといくさ)仕らん。」と、かけ出る。
 牧野一族我劣らじと走り出んとす。弾正屹(きっ)と見かへり、「不覚なり。かたがた(方々)、か程やさしき若武者よりただ一人と望られ(望まれ)、見(?)つき勢を頼てハ軍に勝(勝ち)ても恥辱なり。たとへ運命つきはて討死すとも見つぎ給ふまじ、それより見物侯へ。」と小踊してこそ出にける。
 元来初度の軍に切勝、心いさミきおい(気負)懸つて田面につとかけ出て、「帯刀殿に見参。」と大音によばゝれハ(=ば)、帯刀ハ、長刀の鞘はづし(外し)ずかずかと走り寄、牧野が鑓と打ちがへ(違え)、追ツまくつ、志バしが程ぞ戦ひける。
 双方共に手を握りかたづを呑て見物す。帯刀いかゞおもひけん、うしろ足をふミ迯、足を見せにけり。弾正弥(いよいよ)きほひかゝり、「是程の小冠者、何程の事か有べき。」とおもひ、あなとり(侮り)追詰追詰突(か)んとしけるを、坂川の辺までおびき出し、能(よき)時分とや思ひけん、帯刀ふミとゞまり、長刀柄長く差(し)のべ、牧野が鑓とからりとあはせ、しばし戦ひ、牧野が真たゞ中と突、鑓を、弓手のかたにまき落し、おがミうちに丁(ちょう)とうて(打て)バ、無さん(無残)やな、弾正が冑の正面胸板まで割付たり。人ハ運命尽ぬれバ諸天の加護もなかりけり、かの弾正ハ常に仏薩を深く信じ奉り、首に摩利支天の絵像をかけたりしを、啄木(啄木組みの紐)より水晶の軸をかけて二ツに切て落しける。

 牧野一族此由見聞くよりも、「扨(さて)こそ申つれ、首を敵にとらすか。」と、各きつさき(切っ先)をそろへて切てかゝれバ、帯刀叶ハじとや思ひけん、急ぎ首を打落し、後ロ手(後ろ手)にかいつかミ、味方の陳に引て入。首を見れば、かた顔計ぞ残りける。帯刀が家人等、主の命にかはつてふミとゞまりふミとゞまり討死しける間に、難なく其場をのかれ(逃れ)ける。
 鎮房ハ、「帯刀ていの小冠者がいかでか牧野に及ぶべき。」と嘲(あざけ)り笑ひ居たりしに、思ひの外に杖柱とも頼ミたる弾正うたれしよりして、家滅亡の先表(さきしるし)と、後にぞおもひしられける。
 天正十五年、秀吉公、西国に打入せ給ふ時、当国よりハ小代伊勢守一番に小倉迄出むかひて降参す。是ゟ(より)伊勢守を案内者とし薩州せんだい(川内)迄通り給ふに、靡(なびか)ぬ草木もなかりけり。西国の諸侍、悉(ことごとく)御手にしたがい申故、御上洛ましましぬ。
 かくて当国の守護職として佐々陸奥守成政を熊本の城に残し置、隈部親永本領の上に八百町加増給り、肥後国の横目役仰付られ、内空閑兄弟も本領の上に用木村・江田村にて五十町の加増給り、兄弟とも三百町つゝ(ずつ)の城主となり、嘉悦の眉をひらかれける。
 然処に親永、陸奥守殿の下知に不随(随わず)仰を背故、陸奥守殿、立腹限なく、即、御馬をむけられ、手いたくせめ給ふ。親永たまり得ず、坊主になって降参せらる。

 嫡子親安ハ、山鹿の城にたてこもりけるを、陸奥守殿すぐにおしよせ、夜昼息をもつかず、責(攻め)戦ふといへ共、此城、要害きびしき事なれバ、かたく守りて落(おち)ず、殊に城中にハ、有働大隅兼元とて、一騎当千の一族一千余り、中にも中原、糸木など云(いう)究強(くっきょう)の兵、楯こもりたる事なれバ、毎度寄手をかけくづし、多くの首を取たりける処に、熊本の城にハ、阿蘓(阿蘇)、三舩(御船)、隈庄、和仁、辺春(へばる)等押寄たりと注進せしかバ、成政一夜の間に城より東西に附城を拵へ(こしらえ)、西には大木左(弥か)助、東にハ二田半助を大将として残し置き、其身ハ分田表より板井を通り須屋原に出給ふに、小天、竹崎、田尻、内田、牛嶋、山の上に陳(陣)取てひかへ、成政に使を立テ、「恐れながらこなたへ御越侯へかし、御勢を一手になし、よせ来る敵共追払ひ申さんため、我々爰にひかへたり。」と申けれ共、成政かれらが心を不審に思召、御返事延引に及故(及ぶゆえ)、各連判の起請文を書認て差上けれバ、子細なしと、かの勢と一ツになり、阿曽(阿蘇)勢一揆の敵を追払ひ御帰城あり。
 成政おぼしめしけるハ、最早山鹿の付城に兵粮不足なるべしと、同名与左衛門に大勢を差添兵粮をはこはせ(運ばせ)らる。此事、内空閑家来ども聞傳へ、都方の人々の出立、さぞゆかしかるべき、見物せばやと云儘(言うまま)に、数十人、六ノ辻に立出、往還の筋爰(ここ)かしこ、峯かげに二三人づゝなミ(並び)居つゝ、今や今やと待ける処に、先勢見あやまり、ふせ(伏せ)勢そと心得、急キ立帰、大将に向て、「伏勢侯也、御用心侯へ。」と申ける。
 与左衛門聞て、「しかりとて猶予すべきに非ず、しらぬ躰にていづかたへもくけ地をゆけ。」と下知をなす、郎等共歩道を引かへて今藤のかすだう(糟堂)さして引おろす。見物の者共此由見るよりも、すはや聞しにかはりたる臆病なり、都勢少しおどして見ばやと云儘に、はやりをの若者共鬨(とき)の声を噇(どう)とあげ峯かけ(陰)より忍び出、鉄炮をうちかけゝれば、運の尽たる与左衛門にて眉間にあたり、馬よりさかさまに落けれバ、与左衛門が家人共驚きさわぎて迯去、一人も討死するものなかりけり。

 かゝりしかバ、□(邪の下に心)(よこしま?)に、打落ちしたる事なれバ、与左衛門が首切て勝鬨あげて引かへす。成政、大(おおい)に仰天し、山鹿の附城(つけじろ)に兵粮を入る事を筑後・筑前に頼給へバ、両国よりはこびける。
 此事天下にもれ聞へ、上使として蜂須賀阿波守・生駒式部太夫・毛利市正・浅野弾正少弼・安国寺、豊前小倉に下着せられ、先ヅ、安国寺方より山鹿に使を遣し、親永父子に被申(申され)けるハ、「今度籠城の段、心得がたし。天下に不足あるや。陸奥守に対して意趣ありや。委細に被申(申さる)べし。」と有けれバ、親永、答て申様、「ゆめ/\天下に対し何の不足か侯べき。陸奥守殿むたひ(無体)に押かけ給ふ故、無為方(しかたなく)一戦に及ふ処也。」と申けれバ、「先(まず)合戦をやめ給へ。陸奥守儀は、都へ召返さるべし。各今度の様子神妙の至り感入たり、御前宜敷ひろう(披露)共とげ、本領案堵の儀疑有まじ。其せうこ(証拠)にハ、我々請(請人?)に、たち申也。」と有しかバ、親永父子・有働是を誠と心得、下城す。

 是によつて山鹿のおさへとして生駒式部太夫、菊地の蜂須賀阿波守、山本にハ毛利市正、熊本にハ浅野弾正を被差置(差し置かれ)、「親永・親安・有働其外一族、天下の御前よろしく御披露申べし、何も上洛しかるべし。」と、たばかりすまし、つき出し、爰彼(ここかしこ)ニて切殺し、天正十五年十二月に親永父子・有働一族が首、取てさし出せられける。
 陸奥守ハ尼崎にて切腹仰付らる、検使、加藤清正也。安国寺、筑後柳川、立花左近将監のもとに有て諸方の実否を聞るゝに、佐々与左ェ門を討(討っ)たる事、内空閑一家の者共しわざの由、四方ニ隠れあらざれば、柳川より使をたて、「其方儀、天下の御前宜敷侯、御礼のため上洛然るへし、弥(いよいよ)首尾能(よく)評定仕らん間、当地へ御出有べし。」と被申きたりけれバ、鎮房、是を誠と心得、はなやかに出立、筑後へこそハ被越(越され)ける。
 其比、山本の上使ニは、毛利市正、内村に居住故、鎮房、霜野の城を退き、新領牧野の城に被居(居られ)侯間、安国寺の使を誠ぞと心得、家人荒木弥介に名乗の一字をゆるし、荒木弥介鎮則と号し、牧野の留守居に被差置(差し置かれ)、其外の侍、不残(残らず)引具し、天正十六年三月朔日柳川に着給ふ。

 在家に宿取ておハしけれバ、歴々のかたかた(方々)御見舞数多し、鎮房思ハれけるハ、「明後日は桃花の節会(せちえ)なれバ、嘸(さぞ)客多かるべし、茶湯道具取寄よ。」とて、足軽壱人申つけ、牧野の館につかはしける、鎮則、是を聞、大事の道具、足軽にもたせ遣ハさん事心元なく、自身もたせて急きける。かくて、鎮房が方に安国寺より、「城に御出侯へ、見参せん。」と使をたつ。
 明れバ、三月三日の早旦に、はなやかなる出立、留守は牧野平馬壱人残し置、城をさして上られしを、(安国寺恵瓊は、鎮房の家来たちを)大勢の中に取こめて、一人ものこらす討取ぬ。

 鎮房壱人、漸く切ぬけかたはらにかけより、腹十文字にかき切、終に空敷(むなしく)成給ふ。
 伊形市右衛門、御形見を取持て肥後に帰りけるが、北の関にて荒木弥介に行あひて、かくと語り、両人打つれ霜野にかへり、形見の品々、康平寺にさし上(げ)、七日七日、三十五日、四十九日、百ヶ日、第三年迄御ぼだひ(菩提)をとぶらひ(弔い)奉る。
 伊形ハ元の屋敷、荒木ハ大浦村に居住して、卅三年の御弔ハ両人肝煎(肝入り)にて、鎮房被官・筋目の者に相ふれ、仏事懇に弔申けり。

 扨又、右に申せし赤星滅亡の事、肥前竜造寺隆信方へ嫡子三郎・二女安姫(やすひめ)を証人(人質の意)に出し置給ふを、「赤星(は)二心有由」、讒言有けれハ、隆信腹立し給ひ、三郎・やす姫を筑後竹の井原に引出し磔(はりつけ)にかけ給ふ。赤星、此遺恨をはらさんとて嶋津殿を頼ミ隆信をうたせ(討たせ)まゐらす。三と(度)の敵なれハとて、隆信の首を赤星につかハさる。赤星の内室見たまひて、我子の敵ぞとて、からす丸の木履(ぼくり、下駄のようなもの)にて縁より下に蹴落さる、女の身として大将の首を蹴給ふ科むくひ(報い)けるやらん、赤星の家忽(たちまち)に滅亡す。

  内空閑鎮照は小代伊勢守をたのミ、石尾にありしが、鎮房、筑後にて討れ給ふ由を聞ながら、「鎮房ハ実ハ(隈部)親永の子なれバ殺されしも道理也、我ハ服部家の末なれバ、何の子細か有べし。」と、領分の内(うち)、江田村牧野の館にうつり給ふ。
 此事、安国寺聞給ひ、内空閑譜代の家人こぶしろ喜左衛門に、「いかにもして鎮照を討取、是を京地におくりなバ、明所二百町を宛行ん。」と被申(申され)けれバ、こぶしろ、大に悦び、豊後野縫殿介ニ、舞野蔵人・米渡尾・馬野・岩尻・久米野等大勢を催し夜討にす。牧野城を七重八重に取まき閧(とき)の声をあげにけり。
 城中おもひよらぬ事なれバ、上を下へとかへしける。鎮照方僅弐十五人なり。くら(暗)さハくら(暗)し、可防(防ぐべき)方便なく、ただひしめきたる計(ばかり)也。
 されども鎮照下知をなし、からかさ(唐傘)ミの(蓑)などに火をつけて投出(投げ出し)乱入(乱れ入り)、敵にわたりあひ火をちらして戦ひけり。二十五人の者共何れも大剛の者共なれバ、手元にすゝむ兵を三十七キ(騎)切臥せ切たを(倒)し、引しりぞき(退き)みてあれバ、味方も七騎うたれけり。
 鎮照見給ひ、「今ハ、ノがれ(逃)ぬ処也、討死せん。」との給ひて、切て出給へバ、打残されたる家人どもゝ続て切て出に、鎮照ハ強力のきこへありて、しかも剱術を得られけれハ、みづから手にかけ十七キ(騎)切臥せ給ふ。家人共が手にかけて三十五騎切ふせ、近付(ちかづく)敵を四方にはつと追ちらし給へバ、主従三人にぞ成られける。鎮照、「今ハ是迄也。」と城中に引退侯、「静に腹切らん、介錯せよや。」とのたまひて、たとふ(畳)紙を取出に、御首(みしるし)のめぐ(回)りおしのごひ(押し拭い)、「硯やある。」と有けれは、「侯(=ございます)」とて、やたて(矢立)を参らする、則(すなわち)筆を取て、
   はたち余り 三年(みとせ)の秋を限にて 本来空に今かへるなり
と書とゞめ、腹十文字にかき切給へバ、太刀取やがて御首をうち落し、各(おのおの)腹かき切て、終に空敷(むなしく)成にけり。時に天正十六年九月也。

 天正十六年戊子、加藤主計頭(かずえのかみ)、清正公、当国御拝領有て、入国あるとひとしく悪党共を改、一々に呼出し、今の高麗門辺にして手づから悉(ことごとく)、首を刎給ふ。清正公御じひ(慈悲)深くわたらせ給へバ、なびかぬ草木もなかりけり。清正去ましまして(お亡くなりになって)、忠広公の御代となり弥(いよいよ)目出度、御子あまたましましける。忠広ふかく色ヲ好ませ給ふ故、御内室しつと(嫉妬)の恨にてひよくれんり(比翼連理)の御中、忽(たちまち)不和になり、殊に御国元に御子出生ましましけるを、ねたませ給ひ、御嫡子、豊後守殿に、「忠広公、叛反の企あり」と自筆に三ヶ条の目安を書認させ、将軍へ捧給ふ。是によつて寛永六年忠広公ハ出羽庄内に流され給ふ。御内室・御子達も同しく流刑と聞えける、其後一両年が間、上使下り給ひて国の支配をし給ふ故、京代とぞ申ける、
 同九年、細川忠利公、当国御拝領ニて御入国、御家御長久万々歳、めでたかりける事ともなり。  山本郡住人何某しるす

 右者、蟠竜元水叟、頃日(けいじつ=最近)被得借本懇望写之(借本を得られ、之を写すことを懇望す。于時(時に)、宝永七寅年夏四月廿七日、慎軒主人松田秀誠蔵本ト云々。
 一本ニハ、山本郡霜野記ト云、大同ニシテ文面少シク異ナル処有ト云々、同書奥書ニ云。 右霜野雑記者、山本郡霜野康平寺の辺ニて、元禄十三年ニ彼所の者、此写寺僧ニ間合、書シ物ト云々。
    
 于時(時に)文正五壬午年閏正月八日写之畢(之を写し畢んぬ=これを写し終わった)。   大石眞麿

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