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そん長者の所にゃ、た~くさんの奴婢(ヌヒ)の働いとったけん、毎朝作る味噌汁(ミソシュル)の糟がいっぱい出(ズ)る。そるば長者の下僕(シモベ)が馬の背に積んで、捨てにいきよったら、だんだん小積(コズ)まっていって、山になったって。 そっでも、毎朝、味噌汁ば作る。味噌糟の出(ズ)る。糟塚山に捨(ウシ)つる。こうして、どんどん高(タコ)うなっていく。
その糟塚山の隣にゃ、井堀(イボリ)山のある。井堀山の高さは、207.7m。あたりば払って、いばっとった。 ところが、毎日、隣の糟塚山が高うなる。きっちり毎朝、長者の下僕が、馬の背に積んできた味噌糟ばドサッと小積(コズ)んで行く。 井堀山は、気が気じゃ無か。昨日までは俺(オル)より低かったが、今日は俺と同じ高さになっとる。明日(アシタ)は越(コ)さるるかもしれんとハラハラしとったら、そこに一人のお百姓が通りかかった。
井堀山は、「もしもし、そこを通るお百姓。あんたは、俺と向こうの糟塚山と、どっちが高(タ)っかて思うか。」と、精一杯背伸びして尋ねた。 すると、お百姓、かわるがわる両方の山ば見比べとったが、「了見(リョウケン)に来(コ)んなぁ。」と言うて、行ってしもうたて。つまり、「(自分にゃ)判断が(胸に)来ない。」て言うて、井堀山の苦悩も知らんで、さっさとはってた(行ってしまった)わけたい。
その後、どうなったかはだ~れも知らん。みんな自分の仕事に忙しかもん。 でも、そのお百姓の話を聞いた村人たちは、そのあたりを「たっくらべ(高比べ)」と言い、また、その谷あいを「了見迫(リョウケンザコ)」と呼ぶようになったて。
ところで、その糟塚山は、もう一つ名前ば持っとるもん。「かすつかやま」の他に、「かすかやま」、または「かすがやま」て言う名前たい。漢字に直すと、「春日山」。品の良か名前なぁ。 奈良の東大寺のそばに春日山て言うて、鹿のの~んびり遊んどる山のあるて。そこの神さまは、「春日大明神」ちゅうて、東大寺ば建てた藤原氏の氏神さまて。この神さまのお使いが「鹿」たい。それで、奈良じゃ鹿がえら~い大事にされとる。「春日」と「鹿」と「藤原氏」は何かつながっとるね。
それで、この「春日山」と「藤原氏」のつながりば、山鹿市鹿央町の霜野で探ってみると、『霜野来由記』に、平安時代の終わり頃、霜野の入っとった「三重郷」という村は、藤原氏の荘園になったこつのあるて書いてある。『霜野来由記』の中に、『事蹟通考郷荘沿革』によると、鳥羽天皇の保安元年(1120)、藤原信通(ノブミチ)が父の宗通(ムネミチ)からその臨終に際し、三重荘(ミエノノショウ)を伝領した、と藤原頼長の日記『台記』に見えると書いてあるて。 フムフム、やっぱ「春日山」ていう呼び方は、大切ばい。
そして、霜野の東にあって、「春」をイメージさする「春日山」に対して、霜野村の西に聳える「国見山」ば、昔は、「秋」をイメージして「霜野山」て言いよったっわけたい。だけん、「国見山」ていう言い方は、明治以降のことだもん。 米作りば初め、作物ば育つる農民にとって、東にあって、朝日の昇る山と、日の沈む西の山は、農作業の大事な時期ば見定むる暦の基準になる山だったつたい。(おしまい)