国見山(霜野山)の麓の山岳密教寺院                          文字サイズ:               
康平寺バナー
熊本県山鹿市の
  鹿央町霜野に
  ありますよ
トップページ 
康平寺案内図 
堂舎配置図 
霜野村とは 
康平寺の歴史 
真堂廃寺 
地蔵菩薩立像 
千手観音立像 
二十八部衆 
天部リスト 
日吉山王宮 
考古学資料 
古文献資料 
昔話と伝説 
康平寺管理組合 
写真いろいろ 
仏像を描く 
説明パンフレット
英文の説明 
        霜野の昔話と伝説    No.3 



糟塚山(春日山)と井堀山
*『鹿央風土記』(角田豊著)の
 「霜野むかし話」をもとに、熊本
  弁にして再構成したもの


「昔話と伝説のもくじ」へ




3.
たっくらべと了見迫(リョウケンザコ)
 霜野の東に、「糟塚(カスツカ)山」(200.6m)という山のある。
 その山がどうしてできたかと言えば、昔むか~し、すぐそばの駄原(ダノハル)という所に、駄原長者のおんなはった。
 駄原と言うところは、名前からして、古代の交通機関、馬を養って、古代の官道で人や物資の輸送に役立てち、今で言う、高速道路にあるサービスエリアのごつ、大事な役目ば果たしとったらしか。今は、あの甘~か「植木スイカ」の名産地たい。


 そん長者の所にゃ、た~くさんの奴婢(ヌヒ)の働いとったけん、毎朝作る味噌汁(ミソシュル)の糟がいっぱい出(ズ)る。そるば長者の下僕(シモベ)が馬の背に積んで、捨てにいきよったら、だんだん小積(コズ)まっていって、山になったって。
 そっでも、毎朝、味噌汁ば作る。味噌糟の出(ズ)る。糟塚山に捨(ウシ)つる。こうして、どんどん高(タコ)うなっていく。

 その糟塚山の隣にゃ、井堀(イボリ)山のある。井堀山の高さは、207.7m。あたりば払って、いばっとった。
 ところが、毎日、隣の糟塚山が高うなる。きっちり毎朝、長者の下僕が、馬の背に積んできた味噌糟ばドサッと小積(コズ)んで行く。

 井堀山は、気が気じゃ無か。昨日までは俺(オル)より低かったが、今日は俺と同じ高さになっとる。明日(アシタ)は越(コ)さるるかもしれんとハラハラしとったら、そこに一人のお百姓が通りかかった。

 井堀山は、「もしもし、そこを通るお百姓。あんたは、俺と向こうの糟塚山と、どっちが高(タ)っかて思うか。」と、精一杯背伸びして尋ねた。
 すると、お百姓、かわるがわる両方の山ば見比べとったが、「了見(リョウケン)に来(コ)んなぁ。」と言うて、行ってしもうたて。つまり、「(自分にゃ)判断が(胸に)来ない。」て言うて、井堀山の苦悩も知らんで、さっさとはってた(行ってしまった)わけたい。

 その後、どうなったかはだ~れも知らん。みんな自分の仕事に忙しかもん。
 でも、そのお百姓の話を聞いた村人たちは、そのあたりを「たっくらべ(高比べ)」と言い、また、その谷あいを「了見迫(リョウケンザコ)」と呼ぶようになったて。


 ところで、その糟塚山は、もう一つ名前ば持っとるもん。「かすつかやま」の他に、「かすかやま」、または「かすがやま」て言う名前たい。漢字に直すと、「春日山」。品の良か名前なぁ。
 奈良の東大寺のそばに春日山て言うて、鹿のの~んびり遊んどる山のあるて。そこの神さまは、「春日大明神」ちゅうて、東大寺ば建てた藤原氏の氏神さまて。この神さまのお使いが「鹿」たい。それで、奈良じゃ鹿がえら~い大事にされとる。「春日」と「鹿」と「藤原氏」は何かつながっとるね。

 それで、この「春日山」と「藤原氏」のつながりば、山鹿市鹿央町の霜野で探ってみると、『霜野来由記』に、平安時代の終わり頃、霜野の入っとった「三重郷」という村は、藤原氏の荘園になったこつのあるて書いてある。『霜野来由記』の中に、『事蹟通考郷荘沿革』によると、鳥羽天皇の保安元年(1120)、藤原信通(ノブミチ)が父の宗通(ムネミチ)からその臨終に際し、三重荘(ミエノノショウ)を伝領した、と藤原頼長の日記『台記』に見えると書いてあるて。

 フムフム、やっぱ「春日山」ていう呼び方は、大切ばい。

 そして、霜野の東にあって、「春」をイメージさする「春日山」に対して、霜野村の西に聳える「国見山」ば、昔は、「秋」をイメージして「霜野山」て言いよったっわけたい。だけん、「国見山」ていう言い方は、明治以降のことだもん。
 米作りば初め、作物ば育つる農民にとって、東にあって、朝日の昇る山と、日の沈む西の山は、農作業の大事な時期ば見定むる暦の基準になる山だったつたい。(おしまい)

  「昔話と伝説のもくじ」へ
        TOPページに戻る