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「みょうじょう」と言う字は、「明乗」なのか、「妙浄」なのか、「明星」なのか、本当はわからんとたい。「院」は、お坊さんたちのおんなはる建物にも言うし、そこに住んどるお坊さんにも言うもん。 とにかくこの「明乗院」には、「入定仏」伝説のあるとたい。 と言うのは、私の父が子どもだった頃、夕方遅くまで遊んでいると、おばあさんが「明星院さんの風鈴の聞こゆる。早よ、内に入らんと迎えに来らすぞ。」と言っていたそうで、それば聞くと、父は家の中さん急いで逃げ込んだてったい。どこの家でも、遊びほうけている子どもを夕方呼び戻すために、あの「国見山の大天狗」や、この「明星院さん」のお力ばお借りしよったわけたい。でも、たぶん、霜野の人は、夕方になると、この「風鈴の音」の聞こえよったて思う。
康平寺には、修行するたくさんのお坊さんがそれぞれ住まいなはる小さな「院」または「坊」(建物)が、九十九院(坊)あったて伝えられとるもん。ちょうど大学の近くに学生が小さな部屋ば借りてそこから大学に通うような案配たい。 安永8年(1779)住僧の雙圓が書いた『康平寺坊舎略記』には、江戸時代の頃は十七坊しか残っとらんて言うて、「山内谷院主別当、幸満坊、高橋坊(学頭)、千満坊、杉本坊、明星坊、般若院、大教院、宝寿院、福万院、奥蔵坊、中谷坊、中山坊、東福寺(東谷)、西福寺(西谷)、真福寺(南谷)、長福寺(北谷)、以上坊数十七坊、寺領本田拾一町外畑有・・・」てある。ここには、「明星坊」て、書いてあるが、どうもこれが、いつの時代かわからんばってん、入定しなはったお坊さんのおんなはった建物で、そこに住んで修行すると、その人は「明星坊」ちゅうわけたい。江戸時代の頃は、「明星坊」て言う字ば使いよったつだろうなぁ。
ところで、「入定」て言うとは、やおいかん修行だもん。有名かつは、あの真言宗の宗祖「空海」が高野山で、数ヶ月かけてすべての飲食を断って、承和2年(835)3月21日、入定仏となったそうばってん、誰でんでくるこつじゃなか。 空海は、今でも高野山奥の院の御廟に生前の姿のまま生きとる(即身仏になっとる)そうで、高野山では係のお坊さんが、毎日、衣服と食事ば運んでいきよんなはるてったい。 霜野ん入定仏さんには、衣服も食事も運ばんばってん、昔は、榊ば供えてお参りしよったらしか。今では、霜野ん人も「明乗院」さんば知っとる者はほとんどおらんよ。
わが霜野の「入定仏」又は「即身仏」の「明乗院さん」は、きっと若い頃は仏の加護によって世の安泰ば求めて真剣に修行したばってん、天変地異や、多くの災いが人々を苦しめるのを見て、ある時発心(ホッシン)し、明乗院の土地に穴を掘って入り、五穀断ち、十穀断ちをして風鈴を鳴らしながら、一心不乱に人々のためにお経を唱えながら入定して、即身仏になったて思わるる。
天明3年(1783)、山形県の湯殿山で、96歳の真如海上人が激しい修行をして即身仏になったそうで、江戸時代にも入定するお坊さんがいたらしか。 ばってん、私は、霜野の「明乗院さん」は、鎌倉時代の人ではなかったかなて思うとる。あの「如法経塔」を立てて、康平寺の中興の祖、禎久法印の菩提を弔った十三人の弟子の一人に、「明乗大徳」というお坊さんのおんなはる。空海の入定仏伝説が強烈なインパクトを持って、高野聖(コウヤヒジリ)などによって全国の寺院に流布されて行き、この話に感銘を受けたお坊さんが、入定したて思う。
今では、薄暗い山になって、そこに「院」と言われる僧の修行する建物があったとは、誰も気づかん所ばってん、私の家の近くにあるその明乗院から、昭和63年7月大雨が降った時、豪雨で水が溢れて土砂や石ころが大量に、家の木戸口を埋め尽くしたったい。 その時、父は何かありはしないかと目を皿のようにして探したら、「石鍋の縁」のようなものを拾ったてったい。それは、鹿央町の教育委員会の人に渡したて。しかも、明乗院の下にある家の畑(以前は、田んぼだった。)からは、昔から砕けた土器の破片がたくさん出る。長年田んぼとして耕したけん、小さくに砕けとるばって、灯明皿のようなもの、須恵器のようなものの破片たい。それに、非常に美しい龍泉窯の碗のかけらも父は拾っていて、それは、今、装飾古墳館にあるとたい。
実は、この私も「明乗院」へ行って、台風で根こげした杉の根元から、赤い「灯明皿」のようなものの破片を拾たったい。 まだまだ調べれば、きっと何か出てくると思うよ。