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ところが、あーた、去年の平成17年、この田舎にバイパスば通すて言うち、掘りよんなはったら、縄文時代から江戸時代までの遺跡にぶち当たったてったい。そこは、昔の霜野村の一部だった北谷の稗田(ヒエダ)遺跡だったつたい。 そこからとつけむにゃぁこて、遺物のゾクゾク出てきて、たまがったことに、字の書いてある土師器(ハジキ)の皿の出たったい。何て書いてあったかて言うと、「泉寺」て書いてあったとたい。そして、霜野にゃ、「泉山」ていう山のあるもん。寺号に、山号ばつけることがよくあったけん、どうも「泉山泉寺」の確かにあったわけたい。しかも、その皿は、9世紀の頃の地層から出とるもん。
そうなると、「真堂廃寺」ば中心にして、この「泉寺」も重要な寺だったわけたい。 そして、「泉山」の隣の山は、「稲荷山」て言うち、「永仁六年(1300)の板碑」の立っとる所で、山頂は巨岩が累々と横たわって、古代の巨石信仰の場所らしか。それで、古墳時代はおろか、弥生時代の信仰の場所だったかも知れん。 稲荷山ていうとは、とても重要な名前だもん。「稲を荷なう」という「米」に関する名前だし、江田(菊水町、今では和水町)の船山古墳の銀象眼の鉄剣銘ば、日本一古か文字て、長か間、熊本人な威張っとたら、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘がもっと古かて判定の下ったことがあったばってん、そこが「稲荷山」ていうもんな。「稲荷山」て聞いたら、簡単にきつねとか、油揚げば連想せんで、重要な山て思わにゃん。
「泉山」で伝わっとるとは、「泉山神社(今は、日吉神社に合祀しとる。)」と、「泉山の弁天堂(朽ち果てたばってん、弁天様だけは、そこの土地の持ち主の家に安置されとるらしか。)」だけで、どうしたわけか、「泉寺」という名前は、霜野に伝わっとらんもん。霜野の者は、昔から学問は無かばってん、子々孫々に伝えにゃん大事な事は、決して伝え損ないのなかごつ、しっかり伝えとるとに、こればっかりは抜けとったなぁ。
ところで、「泉山」で大事な言い伝えが、もう一つあるとたい。それは、名前からもわかるごつ、「泉山」から、とてもきれいか、とてもおいしか水の、泉となって湧き出しとることたい。 霜野て言う所は、国見山(霜野山)を始め、低っかばってんたくさんの山で囲まれとるけん、至る所から水の湧き出して、昔から立派な井戸が作られとるもん。それで、多くの修行僧を養う飲み水も不自由せんし、千枚田を潤す水も十分にあっとたい。そして、どこの水も澄み切っていて、とてもうまかもん。その中で、一等うまか水が、この泉山の水たい。
この「泉山」から湧き出た水は、小川となって、柄杓淵(ヒシャクブチ)さん落ちていき、後は、赤迫で霜野川に合流しとるが、この小川をさかのぼると、「八之窪(ハチノクボ)」に出る。以前はここまで小さな段々状の水田が作られとった。杉林ば抜け、雑木林の中ば少し行くと、山の斜面の岩肌ばくぐって、清水が湧き出しとる。
昔、一人の木樵(キコリ)が、この山さん入って、木ば樵(コ)りよったて。そしたら、どこからともなく、プ~ンととてもよか匂いのしてきたて。酒好きの木樵は、匂いに引かれて進んでいくと、どうもこのせせらぎから匂いの出とるごたる。手に掬(スク)うて飲うでみた。酒だった!それも今まで飲うだことのなか、うまか酒だったけん、喜んで何杯も何杯も飲んで、千鳥足で家に帰ったて。 それからは、木樵は毎日仕事をしては、おいしい酒でのどを潤していた。 ある日のこと、仕事がすんで、腹一杯泉の水を飲うで、ふと思いついて、「折角のおいしい酒、持って帰って、家でゆっくり飲んでみよう。」て、ひょうたんに一杯詰めて持って帰った。 夜、晩酌に飲もうと、ひょうたんを傾けて杯に注ぎ、顔をほころばせて飲んでみると、何とそれは、ただの水だったって。(おしまい)