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さてここで、バロック音楽及びバロック音楽家がなぜ忘れ去られたのかということを議論するに当たっては、バロック音楽とは何かということをもうちょっと明らかにしておく必要があるでしょう。

ということでこれから簡単に音楽史の復習をしてみましょう。

バロック音楽のジャンル

まず現在バロック音楽といえば、おおざっぱに言えば大体1600~1750年ぐらいの期間に作られたヨーロッパの音楽のことを指します。

1600年と言えば、初めてのオペラが上演された年で、1750年と言えばバッハの没した年です、なんてことがよく言われますが、理由はともかくそういうことにしておきます。

この時期の音楽は上演場所を元に分類すると、基本的に劇場音楽室内楽教会音楽、の3カテゴリーに分けることができます。

まず劇場音楽とは基本的にオペラやオラトリオのことだと思っていていいでしょう。オペラ劇場はベネツィアに発祥してから、数十年のうちに一挙にヨーロッパ中に広まって、どこにでもあるようになりました。

次に室内楽とは現在では小編成の器楽作品のことを指しますが、この当時はまずは室内カンタータのことで、それに加えて小編成器楽、といった感じでした。要するに貴族の屋敷で演じられる音楽や小コンサートの曲目と言うことです。

室内カンタータとは出張してきたオペラ歌手がパトロンのところで歌った小規模のオペラみたいな音楽と思えばいいでしょうか。

それに対して器楽は基本的には例えばテレマンの「食卓の音楽」というタイトルでも分かるように、BGM的な扱いをされていたようです。器楽が重要なレパートリーになるのは、おおむね18世紀以降のことになります。

そして教会音楽は礼拝に使用される音楽です。カトリックとプロテスタントでは当然内容が異なっており、プロテスタントではバッハの作品に見られるような宗教カンタータ、受難曲、コラールなどから構成されており、カトリックではミサ曲や聖務日課用の音楽からなります。

ここでまず重要なポイントは、当時はまず音楽といえば声楽が主だったということです。上記の3分類は演奏会場による分類ですが、まず劇場ではオペラやオラトリオなどは演じられても、器楽コンサートは行われませんでした。もちろんオペラの序曲などは器楽だけで演奏されましたが、これは開演ベルの代わりでした。

また教会ではもともと音楽は礼拝に付随する物なので、全部器楽ということはあり得ません。ただ「教会ソナタ」の名があるように、礼拝の所々に器楽だけの音楽が挿入されることはありましたが、普通は声楽曲が演奏されていました。

室内楽の分野でのみ、17世紀後半ごろから純粋な器楽が演奏されるようになっていきますが、これも多くはBGM扱いで、本気で耳が傾けられたのは室内カンタータの方でしょう。

古典派は器楽の時代、バロックは声楽の時代とよく言いますが、当時は間違いなく音楽といえば声楽のことだったのです。

さてこの後は、各音楽ジャンルに関してもう少し詳しくまとめてみましょう。

バロックオペラ

さて、バロック時代は声楽が非常に重視された時期でしたが、その中でも最も人々に愛されて影響力の大きかったジャンルと言えばオペラに他なりません。

またこの時期のオペラは、他のジャンルに対する影響も非常に大きな物があります。後でもう少し詳述しますが、オラトリオや教会カンタータ、バッハの受難曲にしても基本的な音楽形式はオペラから派生しています。また協奏曲のリトルネロ形式はオペラのアリアから、交響曲はオペラの序曲からと、器楽曲に対しても大きな影響を与えています。

そういう意味でバロック音楽を最も良く代表するジャンルはオペラということになるのです。

オペラの誕生

さて、通常の音楽ジャンルについては、いつ誕生したかということはほとんど分からないのが普通です。しかしことオペラに関してはそのジャンルが生まれたのがいつかはかなりはっきりしています。

これはオペラというのが自然発生した音楽ジャンルではなく、ある特定の人たちによって発明されたジャンルだからです。

このオペラを発明した人たちがフィレンツェのジョバンニ・デ・バルディ伯爵(1534-1612)をリーダーとするカメラータ・フィオレンティアーナという名のグループでした。

このグループのメンバーには、ガリレオ・ガリレイの父親ヴィンチェンツォ・ガリレーイ(1520年代後半-1591)も含まれていました。

このカメラータでは古代ギリシャ悲劇の復興を目指して研究していました。彼らはそこで古代ギリシャの演劇はすべて歌われることで演じられたと考えました。それは実は誤解だったのですがそれはともかく、彼らはそれを「再現」したと考えた「音楽劇」を創り出しました。これが後に言うオペラになるのです。

記録に残る最初の作品は1598年頃ヤーコポ・ペーリ(1561-1633)によって作曲された「ダフネ」ですが、これは一部しか残されていません。全体が残された作品は1600年に同じペーリによって創られた「エウリディーチェ」です。

この作品は当時の人に相当のインパクトを与えたようです。この上演を見たと言われている人の中にマントヴァの公爵ゴンザーガI世がいました。彼はマントヴァに戻ると自分の宮廷音楽家に自分の所でもそういう作品を作るように命じました。

この時そこで働いていたのがクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)で、1606年ににできあがった作品があの「オルフェオ」です。

この音楽劇において重要な点は、結果的に言うと彼らがレシタティーヴォという音楽形式を編み出したと言うことでしょう。

この当時の音楽はパレストリーナなどのミサ曲などに代表されるように、多声部の合唱曲が主流でした。しかしこのスタイルは歌詞のダイナミズムを表現するには今ひとつ不向きだと考えられていました。また音楽の技巧に走りすぎて、歌詞をないがしろにしているとの批判にもさらされていました。

それはある意味正しい指摘でした。実際に多声音楽を作ろうと思った場合、この当時は当然古典対位法によるしかなかったわけですが、それ故にいろいろなところで歌詞の流れを犠牲にせざるを得ませんでした。

これは多声音楽で対位法を使うからこその制限です。従って単声で歌えばその限りではありません。そのためにこの当時、モノディ形式というスタイルができあがりつつありました。すなわち、後に通奏低音と呼ばれるようになった低声の伴奏の上に、単声の旋律を重ねる方法です。

そしてこのモノディ形式で物語を歌うように語っていく音楽劇というのが、カメラータの面々が新しく創り出した形式でした。

そういったわけで、まさに彼らにとっては歌詞の表現こそがその目的であり、最優先事項でした。

ペーリのエウリディーチェの出版譜の序文には

音楽とはまず言葉とリズムであり、楽音自体は最後にある物、その逆ではあり得ない

とあります。

この考えこそがバロック期のオペラ及びその影響を受けた音楽を理解する上でのキーとなる概念だと言えます。

ヴェネツィア派

さてこうして生まれたオペラですが、最初の数十年はそこまで一気に広まることはありませんでした。オペラが本当にメジャーな存在になったのは、1637年ヴェネツィアに新サン・カッシアーノ劇場ができたことによります。更に1639年にはサンティ・ジョバンニ・エ・パオロ劇場、1640年にはサン・モイゼ劇場ができます。

これ以降ヴェネツィアはオペラの中心地となり、ヴェネツィアでオペラを作った音楽家をヴェネツィア派と呼びます。

初期の作曲家で最も重要なのはモンテヴェルディです。彼はもう70歳を過ぎていましたが、ここで傑作「ウリッセの帰還」「ポッペアの戴冠」を作りました。

モンテヴェルディの後継者として重要なのがピエートロ・フランチェスコ・カヴァッリ(1602-76)で、「ジャゾーネ」「セルセ」「カリスト」といった作品を残しました。また、ピエートロ・アントーニオ・チェスティ(1623-69)も重要な作曲家で「オロンテーア」やウィーンで上演された「金のリンゴ」などが有名です。

その他ヴェネツィア派として有名な作曲家はピエトロ・アンドレーア・ジアーニ(1616-84)、甥のマルカントーニオ・ジアーニ(1653c-1715)、アントーニオ・サルトーリオ(1630-80)、ジョバンニ・レグレンツィ(1626-90)、カルロ・パッラヴィツィーノ(1640c-88)、カルロ・フランチェスコ・ポッラローロ(1653c-1723)、トマーゾ・アルビノーニ(1671-1751)、アントーニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)などが挙げられます。

ヴェネツィア派と一括りにしていても、作風は当然時代と共に変わります。

初期の頃はカメラータの提唱した理想通り「音楽劇」という形で幕は進行していきました。しかし時と共にいわゆるレシタティーヴォとアリアの分離が発生してくるのです。

現在でも良く演奏されるいわゆる「イタリアオペラ」では、当然のように物語はレシタティーヴォによって進行し、ここぞというところでアリアが始まる、いわゆる番号付き構成になっています。それに対してワグナーが楽劇という概念を出して云々というのはよく知られている話です。

ここでカヴァッリの作品を聴いてみると、最初から最後まで一貫して音楽が流れていて、その構成から見ると実はワグナーの楽劇の方に似ていたりします。カヴァッリの作品でも感が極まったところではかなり音楽的になりますが、また完全に分離されているわけではありません。

逆にレシタティーヴォの部分でも後のように枯れておらず、非常に音楽的表情豊かです。

しかしこのスタイルはやがて廃れていって、レシタティーヴォとアリアが明確に分かれていく方向に変化していきます。

次世代のチェスティの頃にはその分離はかなり明確になっていたといいます。そして更にその次の世代では、番号付構成がほぼできあがっているようです。またアリアでもダ・カーポ形式が現れてきます。

こうしてヴェネツィア派によってオペラの基礎が築かれました。しかしヴェネツィアは18世紀に入るとやや凋落します。

代わってオペラの中心地となったのがナポリです。

ナポリ派

元々ナポリには優れた音楽学校があり、音楽の盛んなところでした。そこではフランチェスコ・プロヴェンツァーレ(1626c-1704)などが活躍していました。

しかしナポリがその重要度を増したのは何と言っても1684年アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)が王室礼拝堂楽長になって以降でしょう。彼は鍵盤楽器で有名なドメニコ・スカルラッティの父親です。

スカルラッティはバロックオペラのスタイルを集大成した人として重要です。後にオペラ・セリアと呼ばれるジャンルの確立に非常に重要な役割を果たしました。

そしてここから後にナポリ派と呼ばれる次のような人々が現れてきます。

ニコーラ・アントーニオ・ポルポラ(1686-1768)、レオナルド・ヴィンチ(1696c-1730)、ジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレーシ(1710-36)、ニッコロ・ヨンメッリ(1714-74)、トンマーゾ・トラエッタ(1727-79)、ヨハン・アードルフ・ハッセ(1699-1783)、アントーニオ・マリーア・サッキーニ(1730-86)、ニッコロ・ピッチンニ(1728c-1800)、ジョバンニ・パイジエッロ(1740-1816)、ドメーニコ・チマローザ(1749-1801)。

ナポリ派の頃になるとその影響力はヨーロッパ全域に及びます。そしてイタリア以外の地域でもナポリ派の影響を受けた作曲家が多数現れます。

ジュゼッペ・サルティ(1729-1801)、ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735-82)、フランチェスコ・ガスパリーニ(1661-1727)、ジョバンニ・ポルタ(1675c-1755)、アントーニオ・カルダーラ(1670c-1736)、フランチェスコ・バルトロメーオ・コンティ(1681-1732)、ジョバンニ・バッティスタ・ペシェッティ(1704c-66)、ジョバンニ・ボノンチーニ(1670-1747)、アッティーリオ・アリオスティ(1666-1729)、ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル(1685-1759)

このナポリ派の人たちの音楽の特徴として真っ先に上げられるのが、ホモフォニックでシンプルなスタイルでしょう。

例えばバッハの何かの曲のアリアを思い浮かべてみてください。その伴奏部の動きは大抵旋律と対位法的に動いているのが分かると思います。しかしナポリ派の作品のアリアの場合、いわゆる和音連打の和声的な伴奏が目に付きます。

シャイベがバッハを批判した際に頭にあったのは、こういったナポリ派のシンプルさでしょう。

このホモフォニックなスタイルが生み出された背景には、当時は作曲家よりも歌手のほうが遙かに力が上であったということが大いに関わっていると思われます。

当時の一流オペラ歌手は、その人気においても報酬においても作曲家より遙かに上を行っていました。また当時アリアを歌う際には、歌手が独自に即興変奏を加えることが当然でした。そもそもなぜダ・カーポアリアなどという物が生まれたかというと、歌手に好き勝手やらせるために他なりません。

もし当時の歌手が舞台で「与えられた楽譜に忠実に」歌ったとしたら、それはもう作曲者に対する悪質な嫌がらせだったに違いありません。

ここで歌手がアリアを即興変奏する場合、もし伴奏が対位法的に作られていたら、瞬時に伴奏の動きとマッチする変奏を作らなければならないわけで、非常にやりにくいことになります。失敗したら変な不協和音になってしまうかもしれません。しかしこれが単なる和音連打であれば、和声が違っていなければ不協和になることはありません。

歌手は当然歌いやすい音楽を要求するでしょう。その際に作曲家がより凝った伴奏を付けたくとも、歌手の要求の方が勝ってしまうわけです。その上シンプルな伴奏はそれはそれなりの美しさを持っています。

ナポリ派でホモフォニックな音楽が作られていったのは、こんな経緯ではないかと思うのですが…という理由はともかく、この音楽スタイルが新しいスタイルとして当時の人たちに受け入れられいったのは事実です。

バロックオペラの形骸化

音楽に限らずどういった分野でも、あるスタイルが生まれて発展したら、次にはマンネリ化して形骸化するのは世の常です。

それはバロックオペラも例外ではありませんでした。

オペラの誕生時には、オペラはあくまで音楽劇で、最初から最後までレシタティーヴォによって物語と音楽が進行しました。しかし音楽性の強いところが人気があったので、説明的な部分はレシタティーヴォ、登場人物がその感情を吐露する場面ではアリア、といったように音楽的な分業が進行していきます。

ナポリ派の時代にはそのスタイルが完成します。と同時にそのころにはそういった作り方をするのが「規則」になっていきます。

以下の引用は1732年、後の有名な劇作家カルロ・ゴルドーニ(1707-93)が駆け出しの頃に自作のオペラ・セリアの台本を見せたときに受けた「忠告」の一部です。

…オペラの三人の主役には、それぞれに五曲ずつのアリアを歌わせねばなりません。第一幕に二曲、第二幕に二曲、第三幕に一曲です。第二女性歌手や第二カストラートは三曲だけ歌わせてもらえるけれど、それ以外の歌手は一曲かせいぜい二曲で我慢せねばなりません。台本作者は作曲家に、音楽の明暗をなす三つの異なる声部を提供しなければなりません。荘重なアリアが二曲続かないように気を配ることも必要です。同様に注意を払って台本作者は、ブラヴーラ・アリア、劇的アリア、半ば荘重なアリア、メヌエット、ロンドを適切に配分せねばなりません。なによりも大事なのは、脇役たちの口に、たとえば情熱的なアリアやロンドなどが行かないようにすることです…

フーベルト・オルトンケンバー「心ならずも天使にされ」より

これを読めばどういったことになっていたかは明白でしょう。当時のオペラもはやカメラータの人たちが理想とした「音楽劇」なのではなく、文字通りに「仮装衣装付コンサート」と化していたのです。そういった意味では、当初の姿からほとんど180度反対側に来てしまっていたと言ってもいいかもしれません。

これはこれで現在の我々にとっては見物だとは思いますが、当時の人たちにとってはもううんざりだったようです。

そしてその流れの中から生まれてきたのがグルックのオペラ改革だったのですが…その辺のことを詳しく書いてると本論からはずれてしまうので(正確には面倒なんで…)今回は省略します(^^;

喜歌劇

これまでのオペラは主に神話劇や歴史上の人物を扱った堅い話が主流でした。しかし18世紀に入ると当世の登場人物による軽妙な物語を題材にした物が増えてきます。そしてやがて前者のいわゆる伝統的なオペラ・セリアに対して、オペラ・ブッファと呼ばれるようになります。

喜歌劇そのものは17世紀からありましたが、これが流行りだしたのはペルゴレーシの奥様女中のヒットからでしょうか。これはオペラ・セリアの幕間に挟まれたインテルメッゾという40分ぐらいの小話ですが、これがヨーロッパ中を巻き込んだ大ヒットになります。

それから喜歌劇がたくさんられ始めますが、その中でも有名なのが前述の台本家ゴルドーニとバルダッサーレ・ガルッピ(1706-85)のコンビです。

当時の作曲家は大抵オペラ・ブッファもセリアも両方書きました。そのため前述のナポリ派の音楽家は多かれ少なかれ、オペラ・ブッファを書いています。特にパイジエッロ、チマローザはこっちの方で有名です。

そしてこれらの喜歌劇の伝統はそのままモーツァルトにつながっていきます。

その他の地域

これまでは主にイタリアのことについて書いてきましたが、もちろんそれ以外の地域でもオペラは発展していきました。特に地方の場合は現地の音楽とイタリアの影響が融合して独特な物になっていると言います。

しかしその辺まで突っ込んでいるといつまでたっても終わらないし、そもそもここで音楽史を延々書くつもりもないので今回はカットします。

ということでリュリやラモーのフランスオペラ、ハンブルグのカイザーやテレマン、ベルリンのグラウン、ロンドンのヘンデル…といった興味深い人々がいっぱいいますが、いつかまた別な機会でということで。

器楽の発展

さて、現在バロック音楽というと、バッハとかヴィヴァルディの協奏曲や器楽作品に作品に代表されるような、さわやかな感じの室内楽っていうイメージが結構あります。

しかし前章にも書いたとおり、バロック期(1600-1750)においては、純粋な器楽作品というのはどちらかというと日陰の存在でした。

もちろんルネッサンス以前の時期から器楽曲は存在していましたが、まずはオルガンやリュートなどの独奏曲が主で、本格的な器楽合奏が始まったのは17世紀も後半になってからでした。

しかし18世紀に入ると器楽曲の地位は向上し、大きな進歩を遂げていくことになります。

ここでは器楽合奏及びオルガン音楽に関して簡単に解説します。

合奏音楽

ルネッサンス期にも器楽合奏が行われなかった訳ではないようです。しかしこの時期は声楽で使われる譜面を楽器で弾いてみました、といった感じで、器楽と声楽の区別はあまりありませんでした。

器楽がある程度声楽と独立した存在として認められたのはバロック期になってからで、バロック初期のジョバンニ・ガブリエリのカンツォーナはそのハシリのようです。しかしこれもまだまだ未分化で、器楽編成も適当なものでした。

現在の器楽合奏、すなわち「オーケストラ」の基礎を固めた、イタリアのボローニャにいた人々でした。

ここにいたマウリッツィオ・カッツァーティ(1620c-77)、ジョバンニ・バティスタ・ヴィターリ(1632-92)、ジョバンニ・レグレンツィ(1626-90)などが、現在いうところのトリオソナタ教会ソナタの形式を創り出しました。

ボローニャでは更にドメニコ・ガブリエリ(1651-91)、ジュゼッペ・トレッリ(1658-1709)、 ジャコモ・アントニオ・ペルティ(1661-1756)といった人達が続き、ボローニャ楽派と呼ばれることになります。

そのころドイツではいわゆるバロック組曲形式が形成されつつありました。

これはバッハの管弦楽組曲などに見られる、プレリュードの後に舞曲が何曲か続く形式です。これを創り出した人達は、パウル・ポイエル(1570-1625以降)、ヨハン・ヘルマン・シャイン(1587-1630)、そしてヨハン・ローゼンミュラー(1619c-84)といった人達でした。

この二つの伝統を融合して、金字塔とも言える作品を創ったのが、アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)でした。

彼の作品は出版され、ヨーロッパ中に強い影響を与えました。その作品op.1~6が現在でもしばしば演奏されています。

彼の影響を受けた人にピエトロ・アントニオ・ロカテッリ(1695-1764)やフランチェスコ・ジェミニアーニ(1687-1762)やアルビノーニがいますが、なんといっても有名なのはアントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)でしょう。

そしてさらにその後にバッハ、ヘンデル、テレマンといった人達が続くわけですが、このあたりに関してこれ以上説明する必要はないでしょう

鍵盤音楽

さて、合奏音楽とは別に、オルガンやチェンバロなどのいわゆる鍵盤音楽も、この時期に大きな発展を遂げました。

鍵盤音楽に関しては、イタリアよりもドイツの方が重要な働きをしています。

イタリアでも初期には、ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)がいました。彼はトッカータとフーガというオルガン音楽の形式の原型を作り、一つの伝統となります。

しかし彼の後を継いだのは、ミケランジェロ・ロッシ(1601/2-56)、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-67)、ヨハン・カスパー・ケルル(1627-93)といった南ドイツの音楽家達でした。

フレスコバルディと同時期に、フランドル地方で著名だったのがジャン・ピーターソン・スウェーリンク(1562-1621)です。彼はファンタジアといった形式の元祖で、多くの後継者に恵まれました。

ヤーコプ・プレトリウス(1586-1651)を始め、中部ドイツ地方ではサミュエル・シャイト(1587-1654)、ハインリッヒ・バッハ(1615-92)、ヨハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)、ヨハン・ミヒャエル・バッハ(1648-94)、ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)、ヨハン・クーナウ(1660-1722)などがいます。

また北ドイツ地方ではハインリッヒ・シャイデマン(1595c-1663)、フランツ・トゥンダー(1614-67)、マティアス・ヴェックマン(1619c-74)、ヨハン・アダム・ラインケン(1623-1722)、ディートリッヒ・ブクステフーデ(1637-1707)、ヴィンセント・リューベック(1654-1740)、ゲオルグ・ベーム(1661-1733)、ニコラウス・ブルーンス(1665-97)など、そうそうたるメンバーがいます。

そしてこの北ドイツと南ドイツのラインの交点に、バッハやヘンデルがいます。

バッハはよくバロックを集大成したといわれますが、実際に彼は今まで出てきた合奏音楽の伝統とオルガン音楽の伝統を共に受け継いで、それらを完成させた人でもあります。

宗教音楽

さて、バロック音楽の第3のジャンルになる宗教音楽ですが、これは他のジャンルと違ってまず第一に礼拝という儀式で使用されることを前提に書かれた物です。そのため宗派によって書かれる音楽ががらっと変わります。

カトリック宗教音楽

まずローマカトリックにおいては、ミサではミサ曲、晩課に使用される音楽としては各種詩編、マニフィカト、テ・デウム、リタニアなどの曲種が生まれました。

このあたりはルネッサンス以前からの伝統と特に変わるわけではありません。

しかしバロック期になって、その音楽の内容はがらりと変わります。

そのエポックメイキングとなったのが、モンテヴェルディ聖母マリアの晩課でしょう。これは当時最新の形式、すなわち本人のいうところの第二作法で書かれた作品です。

ただ基本的に宗教音楽は保守的でした。モンテヴェルディ本人も、ミサ曲に関しては第一作法すなわち伝統的なパレストリーナのスタイルで作っています。

この辺の所から、バロック期のミサ曲は旧態依然としたパレストリーナの亜流音楽が作られ続けていた、とまでいう人もいますが、これはとんでもない間違いです。

確かに教皇のお膝元であるローマでは音楽に関して比較的保守的だったのは事実です。

しかし既にグレゴリオ・アレーグリ(1582-1652)やオラツィオ・ヴェネーヴォリ(1605-72)の作品を聴けば、それをパレストリーナスタイルと言うわけにはいかないのは明白です。

アレーグリやヴェネーボリは、派手な器楽伴奏などはそれほどつきませんが、大聖堂の空間的特性を利用した、元祖5.1chステレオとでも言うべき、コンチェルタート様式の使い手でした。

それ以外の都市ではもっとそれは顕著になります。

例えばヴェネツィア派のオペラ作曲家は、たいていの場合同時に宗教音楽も作っていました。そのため宗教音楽といえどもオペラなどの音楽の影響を免れることはできませんでした。

例えばオペラ作曲家カヴァッリの作ったミサ・コンチェルタータ(1757)などは、きわめて雄弁なバロック的傑作です。

そして後のアントニオ・ロッティ(1667-1740c)などもヴェネツィアの人です。彼は間違いなくゼレンカに大きな影響を与えていますが、そのオーケストラによるきらびやかな響きは、まごうことなくバロック音楽そのものでしょう。

ヴィヴァルディもまたかなりの数の宗教曲を作っています。それは真摯でありながら、同時に彼独特の旋律美に満ちた、すばらしい音楽となっています。

またナポリ派が活躍する時代のナポリではまずアレッサンドロ・スカルラッティがオペラの他にたくさんの宗教曲を書いています。またレオナルド・レオ(1694-1744)、フランチェスコ・ドゥランテ(1684-1755)なども活動しています。特にドゥランテはオペラは書かずほとんど宗教曲と器楽曲だけ書いていましたが、注目すべき人でしょう。

もちろんその他のオペラ作曲家も、多かれ少なかれ宗教曲を書いているようです。

そしてもっと離れたウィーンではヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)やアントニオ・カルダーラがいました。フックスはオペラも書きましたが、やはり宗教音楽の権威として名を馳せていました。

そしてここでは説明するまでもなく、ドレスデンにはゼレンカやハイニヒェンがいました。

この辺の作曲家の作品になると、混合様式として知られるように、古風な合唱曲や新式のオペラアリア風歌曲、協奏曲様式など当時知られていたあらゆるスタイルを自由自在に駆使した作品になります。

ゼレンカの後期作品はまさにこの究極のバロック音楽とも言うべき作品でしょう。同時にバッハのロ短調ミサ曲はこのような伝統なくしては決して生まれることはなかったでしょう。

オラトリオ

カトリックでもプロテスタントでもイースター前の受難節には、まあ当然ですが、オペラのような派手な見せ物は禁止されていました。しかしオペラというのは当時の人々にとっては人生最大の娯楽でした。当然受難週でも何かそういった物は見たいわけです。そしてその代わりとなる物として受難オラトリオが発展していきます。

このオラトリオという音楽形式そのものは、ほとんどオペラと同じような物です。ストーリーのある台本があって、それにオペラのように音楽を付けていった物です。

ただ舞台で演技をしないこと、その代わりに合唱がもっと重要な役割を果たしているところが違います。合唱が演技や舞台装置の代わりになっていたと考えてもいいでしょう。

この形式は最初ジョバンニ・フランチェスコ・アネーリオ(1567c-1630)によって開拓されましたが、それを完成させたのはなんといってもローマのジャコモ・カリッシミ(1605-74)でしょう。

彼に完成されたオラトリオは、アレッサンドロ・ストラデッラ(1644-82)、アントニオ・ドラーギ(1634/35-1700)、マルク・アントニエ・シャルパンティエ(1645/50-1704)などの手によってヨーロッパ各地に広がっていきます。

そしてバッハやヘンデルなどが作ったレシタティーヴォとアリア、それから合唱からなる教会カンタータや受難曲は、形式的にはオラトリオそのものと言えます。

知られざる教会音楽作品

というわけで、バロック期のミサ曲に代表されるカトリック宗教音楽も、みんなバロック的な当時における「最新」の作品であり、パレストリーナの亜流ではありません。

しかしそういった誤解が生まれる背景には、実はこの時期の音楽の紹介がとてつもなく遅れているという事実があるでしょう。

実際驚くべきことに、これらの曲は紹介されていないというよりは、そもそも研究さえされていないのでどんな曲があるか、どんな作曲家がいるのかさえよく分からない、というのが現実のようです。

その理由はいろいろあるでしょうが…まあ音楽学者などになろうという酔狂な人は滅多にいないので間違いなく人手が足りない上、金とも縁がないので、だとしたら少しでも金になりそうなバッハ研究などに走るのは仕方なく、そうすればプロテスタントだし、大体カトリックだとラテン語とかを勉強しなきゃならないのでますます人気薄…といった感じで後回しにされてるってところでしょうか。

ともかくイタリアに限らず各地の大聖堂には17~18世紀の音楽の手稿譜が大量に未整理のままに眠っているそうです。

このため、ゼレンカのようにちょっと田舎で宗教音楽専門でやっていた人は、ほとんど陽の目が当たっていない可能性は極めて大でしょう。

ともかく今後は本気でがんばってほしいところです。

プロテスタント教会音楽

プロテスタントの場合、バッハ研究の関連でカトリックより遙かに研究は進んでいます。

プロテスタントの場合、これがまた宗派によって異なりますが、音楽を積極的に振興したのはルター派でした。

ルター派では礼拝の形式はかなりカトリックに近い物があって、ミサ曲のキリエとグローリア部分はそのまま使用されます。しかしルター派では会衆が礼拝に直接参加するところがカトリックとは異なっており、そのために誰でも簡単に歌えるようにした聖歌である「コラール」が発展しました。

同様にドイツ語の宗教カンタータも礼拝に導入されます。これの形式はほとんど宗教オラトリオの形式そのままです。

これらの音楽は前述の北ドイツオルガン系の人々は大抵手がけていると思っていいでしょう。こういった音楽にオルガン伴奏を付けるのが彼らの最大の職務であったからです。

プロテスタントでは受難週には受難曲が演奏されていました。これは最初は聖書の受難に関する部分を朗唱する物でした。

ハインリッヒ・シュッツ(1585-1672)の受難曲はそういった形式の傑作です。

しかし時がたつにつれて受難曲ももっとドラマチックな要素を高めていき、後には宗教オラトリオと変わらない物になっていきます。

そういった受難曲を作った人にハンブルグオペラの総帥であったラインハルト・カイザー(1674-1739)がいて、彼の作品がバッハやヘンデルに大きく影響を与えています。


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