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霜野山延寿院康平寺
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Copyright2005
角田 豊子
Allrighits reserved
 康平寺(こうへいじ)
  熊本県山鹿(やまが)市鹿央(かおう)町霜野にある山岳密教寺院
  です。
  
平成24年4月からは、メンバーの少なくなった霜野老人クラブに代
  わって、霜野区康平寺管理組合が、清掃・供花・ガイド・管理をする
  
ことになりました。
  康平寺の歴史でわからない部分が、まだたくさんあります。今後、少し
  でも康平寺のことが明らかになっていけばと願っています。
 九州ウェブサイト大賞2009審査員特別賞

 学問と 修行と 救済をめざした 康平寺

平安時代初期(真堂浦に建立)
 真堂廃寺(真言系の山岳密教寺院)
  9世紀のもので現存するもの

   
地蔵菩薩立像・布目瓦・越州窯磁器etc

平安時代前期(真堂浦)
 康平寺(天台系の山岳密教寺院)
  康平元年(1058)建立

   
本堂と東西南北に四つの法塔(ハットウ)
   九十九院
(学問・修行する僧の住まい)
   
千手観音と二十八部衆

鎌倉時代(真堂浦)
  院主禎久や、禎賀たちの努力で興隆

南北朝時代(真堂浦)
  中世城主内空閑氏の保護を得る

室町時代末期(真堂浦)
  天正15年 内空閑氏の滅亡により衰退

江戸時代(本堂口に移転)
  寛永年間 
   
真堂浦(しんどううら)から本堂口に
   康平寺を縮小移転、現在に至る

 
4月27日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その九「鎮資夫婦病死之事」を書きました。
3月29日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その八「虎ノ歯(このは)三郎、并(ならびに)増田河内を討取事」を書きました。
2月24日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その七「虎ノ歯(このは)三郎入道夜討ニ寄事」を書きました。
1月27日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その六「同士軍之事」を書きました。
2012年
1月4日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その五「赤星道雲敗軍之事」を書きました。
11月27日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その四「菊池騒乱之事」を書きました。
10月23日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その三「岩野ノ城主宗久隆出奔之事」を書きました。
9月25日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その二「津奈木ノ城合戦 附 親貞討死之事」を書きました。
8月23日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その一「六殿社 來歴之事」を書きました。
7月24日 「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その十二「竹ノ下 城ノ尾(じょうのお)ノ城ニ移ル事」を書きました。巻の一は、これで終わりです。
6月12日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その十「内空閑重載薩摩勢ト戦事」と、その十一「寄手大塚ノ陣没落之事」を書きました。
5月15日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その九「城ノ尾(じょうのお)ノ城落ル事」を書きました。
4月8日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その八「二田原軍ノ事」を書きました。
3月20日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その七「生ノ松原合戦之事」を書きました。
2月25日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その六「霜野山來歴之事」を書きました。
2011年
1月5日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その五「今宮縁起之事」を書きました。
12月11日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その四「嚴嶌宮来歴之事 附 山本郡来由之事」を書きました。
11月21日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その二「服部伊賀守基貞 菊池エ着陣之事」と、その三「内空閑邑ノ城 并諸寺諸社造営之事」を書きました。
10月20日  「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一を書き始めました。今回は、その一となる「服部伊賀守肥後下向之事」を書きました。この末尾には、祖父の竹下良則と、正運(まさゆき)、つまり、著者自身である竹下泰菴(たいあん)のコメントがついています。
9月4日  「古文献史料」の中の、「内空閑(うちのこが)傳記」を書き始めました。
これは、江戸時代に、竹下泰菴正運が、祖父や兄が記述した内古閑氏のことを撰録して記したものです。全部で五巻あります。
8月15日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「12、内空閑鎮照、最期之合戦之事」を書きました。
7月16日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「11、内空閑政利之妾、初房合戦之事」を書きました。
6月19日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「10、親長一族有働、為退治安国寺又下給事」を書きました。
5月14日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「8、佐々与左エ門尉 山本今藤ニテ討死事」と、「9、山鹿有働(うどう)就合戦(合戦につき) 従天下(天下より)上使下リ給事」を書きました。
4月8日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「7、陸奥守ト親安合戦之事」を書きました。
3月22日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「6、関白秀吉公九州江御出陣薩摩入被成候時 肥後国侍 殿下ニ随申事」を書きました。
2月20日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「5、霜野城 薩摩勢不責落 牧野合戦事」を書きました。
2010年
1月6日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「4、同九代目鎮房 霜野山内権現岳茶臼山居城取建ノ事」を書きました。
12月5日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「3、同八代目無男子故 隈部親長之御子養給事」を書きました。
11月12日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「2、内空閑中務太輔 於津奈木(津奈木に於いて)討死之事」を書きました。
10月12日  「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」の項を書き始めました。
これは、江戸時代の前期、寛文11年(1671)に、荒木鎮実(シズミ)が、康平寺を菩提寺として守護した
内空閑(うちのこが)氏のことを記したものです。内空閑氏は、14世紀末に伊賀の国から下向して山本村(含む霜野)を所領した中世の小城主で、肥後の国衆一揆の時に滅亡するまでを書いてあります。
9月5日  「古文献史料」の中の、「康平寺延寿院坊舎略記」の項を書きました。
 「霜野山来歴略記」と併せて、安永8年(1779)、当時の康平寺住僧、
釈雙圓(しゃくそうえん)が、康平寺関係の坊舎について記してくれたものです。二つの「略記」は、『内空閑傳記』の中に収められています。
8月5日  「古文献史料」の中の、「霜野山来歴略記」の項を書きました。
 安永8年(1779)、当時の康平寺住僧、
釈雙圓(しゃくそうえん)が、それまでの康平寺の歴史を辿って、簡潔に書き残したものです。
7月7日  「古文献史料」の中の、「院主禎賀(ていが)を弔う碑文」の項を書きました。
 天正 2年(1574)に、弟子が
康平寺の禎賀法印のために建てた墓石に書かれたものです。院主禎賀は、天文15年(1546)に、康平寺の開基と伝えられてきた「暁圓上人」の立派な位牌を造って祀った人です。
 ところで、霜野の里人は、箕の形をしたこの墓石を「
ミースさん」と呼び、長年、歯の神さまとして敬ってきました。
6月7日  5月29日の熊本日々新聞で、鹿本郡植木町の「向原(むかえばる)遺跡」から9世紀後半ごろ(平安時代初期)と見られる「金銅製の錠前と鍵」が全国で初めてそろって出土したと報道された。金銅製のものは、国府クラスの遺構から出土しているとのこと。
 貞観元年(859)、合志(かわし)郡から「山本郡」が分立(ぶんりつ)していることが分かっているが、向原遺跡には、多くの柱跡があり、須恵器・土師器の他、中国からもたらされた磁器の破片も出土していることから、「山本郡」の重要施設があり、「錠前と鍵」はそこで用いられていたと考えられるという。
 実は、このころ「霜野の荘」はこの「山本郡」に属していて、康平寺の前身「真堂廃寺」のものと見られる「地蔵菩薩立像」や、布目瓦、中国伝来の磁器類は、平安時代初期のものと推定されている。なお、真堂廃寺の開基「暁圓上人」は、861年ころ、唐へ渡るため博多で造船中、あちこち修行して、この霜野へも来られ、真言宗の寺院を開かれたという言い伝えが、康平寺に残っている。
植木町の向原(むかえばる)遺跡
金銅製の錠前と鍵
5月12日 「古文献史料」の、「面山和尚の漢詩(七言律詩)と、その前文」を書きました。
享保年間(1730年前後)、熊本の玉竜山禅定寺の面山和尚が康平寺を訪れ、あまりの荒廃ぶりに感慨に堪えず、思わず作った漢詩です。
康平寺は、その後、宝暦年間(1850年代)に補修されました。
3月22日 「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、「中浦村」まで書き終えました。
昔の「霜野村」は、今の「霜野」、「仁王堂」、「北谷」、「梅木谷」、「大浦」、「中浦」の六区を含んでいて、その広い霜野村が、「康平寺領」ともなっていた時代があったと思われます。
2月21日 「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、「北谷村」の最後の部分を書き終えて、次の「梅木谷(うめのきだに)村」へ入りました。
2009年
1月3日 「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、まだ「北谷村」を続けています。
菊池十九代持朝の弟、
新宮次郎忠親が、兄との不和で、北谷村で内空閑氏の庇護をうけて住んでいましたが、わずか21歳で、生害(自殺死)せざるをえなかった悲劇が描かれています。
12月13日 「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、「北谷村」を書いています。康平寺の四つの法塔の一つだった「長福寺跡」の項に、「當寺開山慧公(恵公)和尚」の名が出てきます。この人こそ、康平元年(1058)建立の「康平寺の開山」ではないかと考えられます。
10月17日 「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「康平寺」の記事に続いて、「鐘ガ淵并堂床」を書きました。さらに、昔、霜野村に入っていて、後に独立した仁王堂・北谷・梅木谷・大浦・中浦の村の記事も書きます。
8月23日 「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「康平寺」の記事を書き始めました。
8月8日 「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「霜野城跡」、「國見山」、「白山宮」、「不動堂」、「彌陀堂」、「地蔵堂」など書き終わりました。いよいよ、次は「康平寺」の記事を書きます。
2008年
3月23日 「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「霜野城跡」の記事を書き始めました。
11月11日 「二十八部衆」の、「No.1」から「No.3」へ進むと、二十八部衆のある、東京青梅市塩船の「塩船観音寺」と、千葉県安房郡丸山町の「真野寺」の写真が見られます。
10月6日 「二十八部衆」の、「No.1」から「No.2」へ進むと、二十八部衆のある、京都の「三十三間堂」と、滋賀県常楽寺の写真が見られます。
7月16日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野谷寺社之事」を加えました。
これでやっと『霜野来由記』を終えることができました。
大石真麿が『肥後古記集覧巻十六』に書き入れた『霜野来由記』(小野彦次郎宇治兼将が古老から聞いたものなどを書きとめた作品)の古文書を、できるだけわかりやすい文にしてみましたが、うまく読めたか少し心配です。
6月16日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野庄之事」を加えました。
5月21日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野山康平寺之事」を加えました。
4月30日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内空閑鎮照討チ死ニ之事」を加えました。
4月 2日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内空閑鎮房滅亡之事」を加えました。
3月10日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「同搦手軍之事 付 牧野弾正討チ死ニ之事」を加えました。
2月18日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野城合戦之事」を加えました。
2007年
1月14日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑氏系図並ビニ定紋花押」を加えました。
11月28日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑一族並ビニ郎従之事」を加えました。
10月 7日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑親貞討チ死ニ之事」と、「内古閑鎮房・鎮照本領安堵之事」を加えました。「来由記」は、まだまだ長いです。
 9月13日 「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑基貞肥後国下向、並ビニ霜野城之事」を加えました。
 9月 5日 「昔話と伝説」の中に、「翁が淵」のページを作りました。
 8月24日 「古文献史料」に、「霜野来由記」のページを作りました。
今は、序文だけですが、そのうち、長い全文(書き下しの漢文形式)を、少しずつ、読みがなも加えて書いていきます。
 7月22日 「仏像を描く」のページを作りました。
銀光展で会員賞をとられた中尾さんの描かれた「観音立像」(100号の油絵)が、7月18~8月15日まで、康平寺で展示されました。
 6月17日
「昔話と伝説」の中に、「泉山の養老の滝」のページを作りました。  
 6月12日 「古文献史料」に、「天文の法華妙典の碑」のページを作りました。
 5月27日 「古文献史料」に、「法印重厳の墓碑銘」のページを作りました。
 5月12日 「古文献史料」に、「開基暁圓上人の位牌」のページを作りました。
 4月26日 「昔話と伝説」の中に、「入定仏となった明乗院さん」のページを作りました。
 4月17日  「日吉山王宮」のページを作りました。

この日は、康平寺の「十七夜」の行事があり、多くの人が集まり、真言密教の作法に従って、「百万遍」(大きくて長い数珠をみんなで、観音の真言を唱えながら回すこと)がありました。

2006年
4月 8日 「古文献史料」に、「如法経塔の銘文」のページを作りました。