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4月27日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その九「鎮資夫婦病死之事」を書きました。 |
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3月29日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その八「虎ノ歯(このは)三郎、并(ならびに)増田河内を討取事」を書きました。 |
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2月24日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その七「虎ノ歯(このは)三郎入道夜討ニ寄事」を書きました。 |
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1月27日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その六「同士軍之事」を書きました。 |
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2012年
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1月4日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その五「赤星道雲敗軍之事」を書きました。 |
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11月27日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その四「菊池騒乱之事」を書きました。 |
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10月23日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その三「岩野ノ城主宗久隆出奔之事」を書きました。 |
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9月25日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その二「津奈木ノ城合戦 附 親貞討死之事」を書きました。 |
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8月23日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の二のうち、その一「六殿社 來歴之事」を書きました。 |
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7月24日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その十二「竹ノ下 城ノ尾(じょうのお)ノ城ニ移ル事」を書きました。巻の一は、これで終わりです。 |
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6月12日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その十「内空閑重載薩摩勢ト戦事」と、その十一「寄手大塚ノ陣没落之事」を書きました。 |
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5月15日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その九「城ノ尾(じょうのお)ノ城落ル事」を書きました。 |
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4月8日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その八「二田原軍ノ事」を書きました。 |
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3月20日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その七「生ノ松原合戦之事」を書きました。 |
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2月25日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その六「霜野山來歴之事」を書きました。 |
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2011年
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1月5日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その五「今宮縁起之事」を書きました。 |
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12月11日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その四「嚴嶌宮来歴之事 附 山本郡来由之事」を書きました。 |
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11月21日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一のうち、その二「服部伊賀守基貞 菊池エ着陣之事」と、その三「内空閑邑ノ城 并諸寺諸社造営之事」を書きました。 |
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10月20日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑傳記」巻の一を書き始めました。今回は、その一となる「服部伊賀守肥後下向之事」を書きました。この末尾には、祖父の竹下良則と、正運(まさゆき)、つまり、著者自身である竹下泰菴(たいあん)のコメントがついています。 |
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9月4日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑(うちのこが)傳記」を書き始めました。
これは、江戸時代に、竹下泰菴正運が、祖父や兄が記述した内古閑氏のことを撰録して記したものです。全部で五巻あります。 |
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8月15日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「12、内空閑鎮照、最期之合戦之事」を書きました。 |
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7月16日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「11、内空閑政利之妾、初房合戦之事」を書きました。 |
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6月19日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「10、親長一族有働、為退治安国寺又下給事」を書きました。 |
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5月14日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「8、佐々与左エ門尉 山本今藤ニテ討死事」と、「9、山鹿有働(うどう)就合戦(合戦につき) 従天下(天下より)上使下リ給事」を書きました。 |
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4月8日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「7、陸奥守ト親安合戦之事」を書きました。 |
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3月22日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「6、関白秀吉公九州江御出陣薩摩入被成候時 肥後国侍 殿下ニ随申事」を書きました。 |
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2月20日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「5、霜野城 薩摩勢不責落 牧野合戦事」を書きました。 |
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2010年
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1月6日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「4、同九代目鎮房 霜野山内権現岳茶臼山居城取建ノ事」を書きました。 |
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12月5日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「3、同八代目無男子故 隈部親長之御子養給事」を書きました。 |
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11月12日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」で、12章のうち、「2、内空閑中務太輔 於津奈木(津奈木に於いて)討死之事」を書きました。 |
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10月12日 |
「古文献史料」の中の、「内空閑記(うちこがき)」の項を書き始めました。
これは、江戸時代の前期、寛文11年(1671)に、荒木鎮実(シズミ)が、康平寺を菩提寺として守護した内空閑(うちのこが)氏のことを記したものです。内空閑氏は、14世紀末に伊賀の国から下向して山本村(含む霜野)を所領した中世の小城主で、肥後の国衆一揆の時に滅亡するまでを書いてあります。 |
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9月5日 |
「古文献史料」の中の、「康平寺延寿院坊舎略記」の項を書きました。
「霜野山来歴略記」と併せて、安永8年(1779)、当時の康平寺住僧、釈雙圓(しゃくそうえん)が、康平寺関係の坊舎について記してくれたものです。二つの「略記」は、『内空閑傳記』の中に収められています。 |
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8月5日 |
「古文献史料」の中の、「霜野山来歴略記」の項を書きました。
安永8年(1779)、当時の康平寺住僧、釈雙圓(しゃくそうえん)が、それまでの康平寺の歴史を辿って、簡潔に書き残したものです。 |
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7月7日 |
「古文献史料」の中の、「院主禎賀(ていが)を弔う碑文」の項を書きました。
天正 2年(1574)に、弟子が康平寺の禎賀法印のために建てた墓石に書かれたものです。院主禎賀は、天文15年(1546)に、康平寺の開基と伝えられてきた「暁圓上人」の立派な位牌を造って祀った人です。
ところで、霜野の里人は、箕の形をしたこの墓石を「ミースさん」と呼び、長年、歯の神さまとして敬ってきました。 |
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6月7日 |
5月29日の熊本日々新聞で、鹿本郡植木町の「向原(むかえばる)遺跡」から9世紀後半ごろ(平安時代初期)と見られる「金銅製の錠前と鍵」が全国で初めてそろって出土したと報道された。金銅製のものは、国府クラスの遺構から出土しているとのこと。
貞観元年(859)、合志(かわし)郡から「山本郡」が分立(ぶんりつ)していることが分かっているが、向原遺跡には、多くの柱跡があり、須恵器・土師器の他、中国からもたらされた磁器の破片も出土していることから、「山本郡」の重要施設があり、「錠前と鍵」はそこで用いられていたと考えられるという。
実は、このころ「霜野の荘」はこの「山本郡」に属していて、康平寺の前身「真堂廃寺」のものと見られる「地蔵菩薩立像」や、布目瓦、中国伝来の磁器類は、平安時代初期のものと推定されている。なお、真堂廃寺の開基「暁圓上人」は、861年ころ、唐へ渡るため博多で造船中、あちこち修行して、この霜野へも来られ、真言宗の寺院を開かれたという言い伝えが、康平寺に残っている。
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5月12日 |
「古文献史料」の、「面山和尚の漢詩(七言律詩)と、その前文」を書きました。
享保年間(1730年前後)、熊本の玉竜山禅定寺の面山和尚が康平寺を訪れ、あまりの荒廃ぶりに感慨に堪えず、思わず作った漢詩です。
康平寺は、その後、宝暦年間(1850年代)に補修されました。 |
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3月22日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、「中浦村」まで書き終えました。
昔の「霜野村」は、今の「霜野」、「仁王堂」、「北谷」、「梅木谷」、「大浦」、「中浦」の六区を含んでいて、その広い霜野村が、「康平寺領」ともなっていた時代があったと思われます。 |
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2月21日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、「北谷村」の最後の部分を書き終えて、次の「梅木谷(うめのきだに)村」へ入りました。 |
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2009年
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1月3日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、まだ「北谷村」を続けています。
菊池十九代持朝の弟、新宮次郎忠親が、兄との不和で、北谷村で内空閑氏の庇護をうけて住んでいましたが、わずか21歳で、生害(自殺死)せざるをえなかった悲劇が描かれています。 |
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12月13日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」の「康平寺」の項で、「北谷村」を書いています。康平寺の四つの法塔の一つだった「長福寺跡」の項に、「當寺開山慧公(恵公)和尚」の名が出てきます。この人こそ、康平元年(1058)建立の「康平寺の開山」ではないかと考えられます。 |
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10月17日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「康平寺」の記事に続いて、「鐘ガ淵并堂床」を書きました。さらに、昔、霜野村に入っていて、後に独立した仁王堂・北谷・梅木谷・大浦・中浦の村の記事も書きます。 |
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8月23日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「康平寺」の記事を書き始めました。 |
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8月8日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「霜野城跡」、「國見山」、「白山宮」、「不動堂」、「彌陀堂」、「地蔵堂」など書き終わりました。いよいよ、次は「康平寺」の記事を書きます。 |
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2008年
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3月23日 |
「古文献史料」の、「肥後国誌」に、「霜野城跡」の記事を書き始めました。 |
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11月11日 |
「二十八部衆」の、「No.1」から「No.3」へ進むと、二十八部衆のある、東京青梅市塩船の「塩船観音寺」と、千葉県安房郡丸山町の「真野寺」の写真が見られます。 |
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10月6日 |
「二十八部衆」の、「No.1」から「No.2」へ進むと、二十八部衆のある、京都の「三十三間堂」と、滋賀県常楽寺の写真が見られます。 |
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7月16日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野谷寺社之事」を加えました。
これでやっと『霜野来由記』を終えることができました。
大石真麿が『肥後古記集覧巻十六』に書き入れた『霜野来由記』(小野彦次郎宇治兼将が古老から聞いたものなどを書きとめた作品)の古文書を、できるだけわかりやすい文にしてみましたが、うまく読めたか少し心配です。 |
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6月16日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野庄之事」を加えました。 |
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5月21日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野山康平寺之事」を加えました。 |
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4月30日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内空閑鎮照討チ死ニ之事」を加えました。 |
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4月 2日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内空閑鎮房滅亡之事」を加えました。 |
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3月10日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「同搦手軍之事 付 牧野弾正討チ死ニ之事」を加えました。 |
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2月18日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「霜野城合戦之事」を加えました。 |
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2007年
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1月14日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑氏系図並ビニ定紋花押」を加えました。 |
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11月28日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑一族並ビニ郎従之事」を加えました。 |
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10月 7日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑親貞討チ死ニ之事」と、「内古閑鎮房・鎮照本領安堵之事」を加えました。「来由記」は、まだまだ長いです。 |
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9月13日 |
「古文献史料」の、「霜野来由記」に、「内古閑基貞肥後国下向、並ビニ霜野城之事」を加えました。 |
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9月 5日 |
「昔話と伝説」の中に、「翁が淵」のページを作りました。 |
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8月24日 |
「古文献史料」に、「霜野来由記」のページを作りました。
今は、序文だけですが、そのうち、長い全文(書き下しの漢文形式)を、少しずつ、読みがなも加えて書いていきます。 |
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7月22日 |
「仏像を描く」のページを作りました。
銀光展で会員賞をとられた中尾さんの描かれた「観音立像」(100号の油絵)が、7月18~8月15日まで、康平寺で展示されました。 |
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6月17日
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「昔話と伝説」の中に、「泉山の養老の滝」のページを作りました。
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6月12日 |
「古文献史料」に、「天文の法華妙典の碑」のページを作りました。 |
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5月27日 |
「古文献史料」に、「法印重厳の墓碑銘」のページを作りました。 |
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5月12日 |
「古文献史料」に、「開基暁圓上人の位牌」のページを作りました。 |
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4月26日 |
「昔話と伝説」の中に、「入定仏となった明乗院さん」のページを作りました。 |
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4月17日 |
「日吉山王宮」のページを作りました。
この日は、康平寺の「十七夜」の行事があり、多くの人が集まり、真言密教の作法に従って、「百万遍」(大きくて長い数珠をみんなで、観音の真言を唱えながら回すこと)がありました。

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2006年
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4月 8日 |
「古文献史料」に、「如法経塔の銘文」のページを作りました。 |