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このページは、ALSの発病からの経過を書いたものです。皆さんの参考になれば幸いです。

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ALS Kokuchi!

私は昭和30年生まれの、享年52歳のALS患者です。平成15年に人工呼吸器で命を繋げています。

発病は平成9年の秋で、右手の親指の動きが悪く攣ったような感じから始まりました。告知は平成10年の9月に病院から呼び出され、私一人で神経内科の主治医に告げられました。そこから私の痛みとの戦いが始まったのです。
発病するまで病気らしい病気はしたことのない私ですから、告知の意味さえ理解できませんでした。痛みは2種類あって「精神的な痛み」と「肉体的な痛み」が交互に襲ってくるのです。
主治医からは、いずれ人工呼吸器を着けないと、死を迎える事になるといわれ。その時から精神的な苦痛との闘いの始まりでした。それからの7年の間は、自分との自問自答の繰り返しでした。
でも人間はそんな時も、いい方に考えを持って意向と思いを巡らせ。自分だけは呼吸器なんか着けっこないと、鷹尾括っていた時もありました。

1年目〜2年目の病状

それが1年過ぎる間に右手の親指から肩まで麻痺が来てコップが右手だけで口元まで運べない状態まで病気の進行が進みました。2年を過ぎると両肩と足まで進行がすすみ、この年が一番精神的にも肉体的にも痛みを感じたときだと想います。
1年目は食事だけ不便なだけで、仕事にも車の運転をする時もそんなに支障は起きなかった。
それが2年目を過ぎると足まで進行して、歩いても少しの段差にも躓いて、顔を25針も縫うけがをするし、自転車に乗ってもバランスを取るのもむつかしくなって、止まると足の踏ん張りが利かないために倒れて、そのたびに他人の力を借りて起してもらうのが1番恥ずかしかった事を憶えています。
そんなことを繰返している内に、外にも出なくなり家に引きこもりがちになってしまい、仕事にも支障が起きるようになり、生活の目途をどうするかで悩み、生活の糧になる車の運転も難しくなり悩む毎日が続きました。

3年目〜5年目の病状

3年目からは車椅子の生活が続き、家族全員で仕事をやりくりをして、家族の絆も強くなり妻の運転する車で、家族で出かける機会が増えました。その頃から車椅子に座っている時間より、ベッドにいる機会が多くなり、床ずれと体位の保持を考えないと行けなくなりました。
今振り返って考えて見れば、私の人生が変わってきたのは、この頃からではないかと思います。
今まで築き上げた人生をみんな切り捨てて、新しい人生を送ることになるのですが。 それはどういう事かと言うと、今まで作り上げた仕事、長年親交を深めた友人が見事に離れていって、今迄の人生が何だったのだろうか考えさせられる時期でした。
脆くて崩れ落ちていなくなるものなんだと言う事を、ツクヅク思い知らされたものでした。
健常者の頃は地域活動や友人達との豪遊、私の周りにはいつも何かしらの行事があって多くの人が集まる状態でした。 それがこの時期から、仕事の取引先からは見放され地域活動も出来ないようになり、今までの人生を考えさせられる時期でした。
この45年間、何のために世間と接してきたのか。今まで作り上げてきた友人関係は難だったのか、財産も友人も仕事もなくして、気持ちが一番落ち込んだ時期かもしれません。

在宅介護

この5年間で少しずつ強くなってきて、家族のことや在宅介護でどう生きていくかをのことを考えられるようになった。でもこの時期が家族の結束と絆が、一番強かった頃かも知れません。
ヘルパーも入ってない時期で訪問看護師が、週に二日入ってもらって入浴介助をしてもらい、その他にはOTさんに週一で訪問してもらっていました。
OTさんが良くしてくれて、このあと体にあった物を見付ける為に7台もベッドを変えて、マットレスとエアークションは15枚も変えてようやく今のベッド(楽勝)とマットレスにたどり着いたのです。
長時間同じ体制を取っているので、それに耐えられないと苦痛な毎日になります。自分の体に合う物を根気よく見つけることが大事です。特にギャヂアップした状態で長い時間その体勢でいると、なんと表現したらいいか分からないほどの痛みと痺れが襲ってくる。
『体勢を変えないとこの痛みと痺れは取れない。』
体勢を変えることは自分ひとりで変える事が出来ないので、助けが来るまで我慢しなければいけない。この痛みは車椅子にもいえると思います。

  1.     1 市販の車椅子だとお尻と太ももに痛みが走る。
  2.     2 ズボンの皺だけでもお尻が痛くなる。
  3.     3 長時間据はわっていると足がしびれてくる。

車椅子に関しては、いろんな物を試して見る必要がある。
『なんでも遠慮しないでどんどん試すことをお勧めします。どうしても知識がないと、遠慮がちになって何も言えない。』

摂取機能の低下

それから1年余りで、呼吸器を着けることになった。その1年は飲み込みの力が衰え、声はか細く力強さが無くなって来た時、食事は一般食から流動食に移らざるを獲なく成りました。一般食ならうどんとか牛乳に浸したパンとか、滑らかに入るものしか受け付けなかった。
 ご飯類はどの様にしても駄目だったし、雑炊やおかゆにしても、ご飯粒がのどに引っかかるとベッドの端から、仰向きで床に頭を下げた状態で胸を叩いて貰う。
それか側臥位をとって唾液と一緒に吐き出すまで、背中を叩くか擦るかを繰り返す。その時の嗚咽の苦しさと唾液の量は、並み大抵なものではなかった。食事がこんなに苦しくて、苦痛なものだとは想わなかった。だんだん食が細くなり何を食べても美味しくないし、食べるための貪欲さがなくなりました。
それから妻が、作った料理や野菜をミキサーにかけゼリー状に変えて食べさせて貰うようになり、味噌汁も具をゼリーに混ぜ食べていたと言うよりは、飲み込むと言う方がいいかも分らない。
後の栄養はけいかん栄養食[エンシュワリキッド]を口から太目のストローで補充していました。これが甘くてドロドロして飲むのに苦労してました。エンシュワと野菜のゼリーの生活が、6ヶ月ぐらい続いた後、突然夜中の12時半頃に呼吸困難になり、救急車で病院の方に搬送されることになりました。

人工呼吸器 装着!

その日は普段通りの夕食をとって、家族でテレビを見ていた時までは何も変わらない普通の日でした。
それまではベッドをギャヂアップしていたのを仮眠するために、フラットにして眠ろうと横になったのですが。その夜は眠気が起きるけれど、何か眠気を打ち消すような寝苦しさを感じ、20分おきに妻に対向して貰い。それを2,3回繰り返した後、どうしようもないので車椅子に、移乗させてもらいテレビを見ていました。
その時、突然胸を締め付ける苦しみと息苦しさ、これはおかしいと想いながらも、治まるだろうと鷹尾括っていたのですが、いままで経験したことのない苦しさに、車椅子の横で眠っていた妻を必死でお越し、起きた妻はいつもと違う様子に、慌ててどうしていいか解らずただ胸と背中を擦るだけでした。様子を見ているうちに、10分ぐらいはたったと想います。だんだん意識が遠のいてくのが解って来て、覚えている妻の最後の言葉が救急車呼ぼうか?

緊急入院

それを聞いて頷いて意識がなくなった。でも、時折意識が戻るみたいで、記憶が切れ切れに残っているのは不思議でした。声は聞こえても遠くで呼び掛けている様で、目の前は真っ白で返事を返したくとも返せない。意識がまた遠のく、その繰り返しだったのは覚えています。
後で妻から聞いた話では、意識が戻ったのは翌日のお昼過ぎだそうです。ICUの看護師さんから(大丈夫ですか)と声を掛けられて頷いたのは、はっきり憶えております。意識がまだ薄らいで要る時に、主治医に人工呼吸器を付けるかどうか問われ、「はい」と答えた。今になってどちらが正解だったか解らないが、これも運命なのかなーと思います。
呼吸器を着けるのを決め手から、1週間過ぎて気切の手術になりました。それも手術室で遣らないで、なんと病室で気切の手術を行ったので、家族も私もこれにはビックリしました。
胃瘻の手術も胃カメラ室で行うなど、思ってみないほど短時間で簡単なものでした。入院も2ヶ月続き、アル程度落ち着き、そこから在宅の許可が下りて、いよいよスタートし始めたのです。

人工呼吸器での在宅介護

平成15年1月10日退院。
在宅介護の始まり。家に帰りホッとする暇もなく、訪問看護師、在宅医、との今後の方針と顔合わせ。それに一番苦労したのはヘルパーの吸引指導、家事援助しか遣っていない何も知らないヘルパーを、イチから教え込むのは本当に苦労する。実際どの事業所も、支援費と介護保険の認可を貰っていても、何一つ難病患者へのケアに対しての、こころえやどのように利用者と向き合うか、その病気がどの様なものか何も知らされないで送り込まれてくる。こんな無責任なことはない、 これはどの利用者も思いは、いっしょだと思いますが、体交も着替えさせることも出来ないヘルパーを、送り込まれて家でイチから押し込むか、此方が我慢しているかのどちらかの選択になってしまう。こんな選択しか出来ない利用者の立場を何も考えていない、事業主が多いのには腹が立ちます。私に声が出せたらいくらかは楽だと思うけど、文字盤で会話する分、此方で言っていることの意味の半分しか理解してないし,声を出したときの5倍は時間がかかる。文字盤で言いたいことを言い終わっても、相手が何も理解していないときの、「脱力感とむなしさ」これは諦めより、怒りに近い感情がこみ上げてくる。

ヘルパー指導

この気持ちを抑えて、初めから遣り直して此方の言いたいことを再度伝える。この苦労は精神的に絶対に良くないに決まっている。ついつい気持ちに負けて会話をしなくなる。いい大人が大人気ないことをしているのは、わかっているけど気持ちが落ち込んでしまう。一人のヘルパーを何とか使えるところまで、技術を引き上げるのに1ヶ月。在る程度吸引が出来て、訪問看護師の対応が出来るようになるのが3ヶ月位はかかる。後輩の指導やアドバイスが言えるようになるのが、6ヶ月は経験してないと、ピンポイントで的確なアドバイスが言えない。今呼吸器を着けて、1年10か月その間に40名を越すヘルパーが家に入って、ケアを行なったがヘルパーに向き不向きがあって、そこは二日で解るようになった、 内訳は、1件目の事業所からは、私からこのヘルパーさんは難病患者の介護には向かないと思ったヘルパーさんが7名、ヘルパーさんから介護に付いていけないと根を上げた人が5名、家から育って他の利用者さんに移ったヘルパーが12名、施設や福祉大学に行ったヘルパーさんが5名、二軒目の事業所に変えたときのヘルパーさんが8名、今、入って貰っているヘルパーさんが7名、事業所はいままで5軒入って貰った内、今は、3軒と利用者契約を結んでいる。契約を断った2軒は、ヘルパーには問題はなかったが事業所事態が、お金のほうに執着心がいって介護とは何か忘れている会社で付いていけなかった。

病状とケア

私の体のことと病状について話を戻すことにしよう。退院をした当時は、訪問看護師が週に5日入ってもらい、それも一日に2回午前と午後に入ってもらってました。在宅医師による往診は週に3回、月曜、水曜、金曜の午後に来てもらっていた。そのほかには、歯科衛生士が週に1回、作業療法士も週に1回のペースで訪問してもらえました。この期間のケアが1年続き、在宅にもなれ病状も落ち着いてきたのを見計らって、訪問看護師の回数を1日に2回の訪問を一回に調整しなおした。医師の往診も週3回を調整して2回に減らしてもらうように、スタッフで話し合いをもったのです。 病状はいまも緩やかな傾斜で進行は進んでいます。四肢麻痺の進行は今止まった状態ですが、少しずつ進行が進んでいるのは舌の動き、現在飲み込みのほうは半年に一度VFの検査をして誤嚥をしてないかを調べています。いま食しているのは野菜をミキサーにかけゼリー状に固めて食べて、「プリン、ヨーグルト、アイスクリーム、フルーツゼリー、グミ、キャラメル、ガム」はそのまま食べています。ガムとキャラメルは舌の運動を低下させないために訓練を目的に行って、舌でガムを左右に動かして舌の麻痺を遅くしようと努力しています。



QOL!

咽頭部の動きはぜんぜん衰えてはないので、飲み物はもちろん流動系のものならOk、今も欠かさず夜寝る前は晩酌を欠かさず遣っています。この楽しみは今だから遣れる事で、いずれ病状が進めばいずれは、飲み込みも出来なくなるのは分っていますが。今の時間を大切に考えて、楽しく生きていかないと残り少ない時間を充実させ今遣れることをやる。後になって後悔するよりは、したいことがどれだけのリスクを負わないと行けないのか。そこを良く調べてから行動に移ることが、基本になると思います。リスクは何に対しても発生するのは間違いないし、そのリスクをどれだけ少なくするかを、私のスタッフの皆さんが知恵を出し合って、QOL高めることに努力してもらっています。昔ながらの伝説が今もなお信じられているなか、一部の医師はその伝説を守り通している方も多くお見えになる。 いまALSに携わっている医師は、今までの常識をかなぐり捨てて、新しい事にどんどん挑戦して取り入れている。ALS患者を一人の人間と認め、より高いQOL(生活と精神)の安定がはかれるように考えている。カニュ−レでは、昔はカフ付じゃないと駄目だとされてきました。今では、誤嚥 (誤嚥はVF検査を行うことで判る) がなければ、スピーキングバブルとスピーキングカニューレを使って、人工呼吸器がついていても声を発声することも出来るようにもなります。従来通りのカフ付きカニューレを使っている時は、どうしてほしいと言う事を、誰にも伝えることができないので、まわりの人は私が言いたいことを一生懸命想像して、読み取る努力をしていくしかしょうがないのです。だからこれから、どんなに愛していようとも、それを伝えることができない暮らしになるのだろうか。そんな不安が過る事になります、 不安をどの様に取り除くかその手段を見つけるのが大事だと思います。現在の医学の常識では、こんな神話(人工呼吸器を着けたら食べる事も話をする事も出来ないという)は、誰も信じない様にしないといけない。まだほかに『音楽療法』という新しい分野が開きつつある。これからは医療チームの技術的サポートと、音楽療法士による精神的なケアサポートの両面から、治療が行われることで進行が少しでも遅れことと痛みが緩和されると良いといわれています。

     

在宅ケア&緩和ケア

それから生活する上での緩和ケアで一番大切なのは、自分に会うヘルパーと出会うこと、それが日常生活のQOLを高めるのが心の安定を作り出す事になります。その為にも、自分のニ−ズにあったことをしてもらうために、ヘルパーを自分で教育します。私たちがいちばんよくニ−ズをわかっているわけです。だから、自分で雇う方は、自分のニ−ズをヘルパーに伝えて、教えていくべきです。リハビリテ−ションということから言うと、自分の体についてよく知っていなければいけないし、自分の体のことを人に話して教えることができなければいけない。つまり、利用者であると共にコーチでもあるという二つの役割を持つわけです。このことを身に付けることが非常に大事だと思います。自分で独立した人格と、自立したライフスタイルが送れるように、他人に任せるのではなく自分の事は自分しか分らないので、ヘルパーさんを自分で教え込むしか方法はないと思います。だから、上手に教えれば、ヘルパーの方も上手に学んで、いろいろなことがよくできるようになります。ヘルパーはお世話をしてくれるためにいるのではなく、助けてくれるためにいるのです。あなたが自分のニ−ズが満たせるように、そこでサポ−トをするための人になるのです。 ヘルパーはケアをする人といういちづけになるかもしれません。しかし、病院の状況と在宅の状況は違います。在宅においては、完全に自立したライフスタイルが送れるように、そのヘルプをするのがヘルパーです。 よく間違いやすいのは、経験があって以下にも私は出来ますと自身たっぷりした人ほど見掛け倒しで、すぐにネオ上げてしまう。そういう人はいちばんほしくないのだということがわかりました。 態度がよくて、非常に学ぶ意欲があって、一緒にいて楽な方がいい。例えば、自分の右手と左手が一緒にいるのを嫌がったらとても困りますよね。だから、私がヘルパーを採用するときは、経験は全く問題にし内で、学びたいという態度があるかどうか、一緒に居て楽かどうかを基準に選びます。



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