私は17年2月に住み慣れた自宅を処分して、新しい新居での生活が始った。子供がまだ小学校に通っていた為に、前の持ち家から500mも離れてない借家を借りる事にした。
子供は、今年の4月に小学校5年生になる長女と小学校4年生になる次女、今年新1年に入学する長男が居る為に、家は手放しましたが生まれた土地から離れなかったことは、私にとっては精神的に幸いしました。
生まれてから50年の間、この地を離れずに両親が築き上げた家を、私の代で途絶えるのは本当に忍びなかった。
こんな病気にならなければ、安定した暮らしも出来ただろうし、子供にも生まれた土地を受け継いで貰えたかも知れない、そんな思いで一杯でした。家を手放したのは、本当に正しい判断だったのかは、私が死間際にしか判らないと思います。
ALSの病状は安定期に入った様で、そんなに極端に悪くなる事はありませんでした。でも、筋肉が衰えていないのは、顔の表情を表す筋肉と飲み込みを助ける筋肉、排便と尿をする時の腹筋はまだ機能を果たしては居ました。耳の聞こえの悪さや眼球の動きと目蓋の動きは、今の所は以上がありません。ALS患者さんによっては、ALSの病状の進行が止らずに進んでしまい、顔の表情も作れずに目蓋まで開かなくなった方もお見えに成ります。私もこのまま生き続ければいずれそうなるでしょう。その覚悟はして置かないといけません。
「長男の入学式」
4月に入って、長男が小学校に入学する事になりました。
『早いものですね! 人生って!!』
私が発病した時は、まだ妻のお腹に居た子がもう小学校に入学するなんて信じられません。親として自覚しないといけないと感じました。長男には生まれた当時に抱いただけで、保育園の時にも運動会に出て遣れなかった。父親らしい事は何一つ遣れなかった。『こんな父親は要らないと思っているだろう』といつも思っています。
そう思いながらも、私の足を広げてベッドに登り、私のまたの間で眠るこの子が愛おしくてたまりません。
今年の夏は暑かった。クーラーを付ける回数が多くなった。長男も学校に慣れて、初めての夏休みに入ったが、友達が女の子ばかりで部屋でゲームやら御まま事を遣る日々が続いて、上二人の姉の影響が大きいのかも知れません。私の身体はそんなに変化はないのですが。ただ太り始めた事が少し気がかりでした。エンシュワリキッドを1日に1000カロリー取っていました。その他に豆乳400ml.と野菜ジュース400ml.とジュースを400ml.とお茶を600ml.を1日に摂取していれば太るはずです。夏の終りからダイエットに取り組む事にしました。主治医からは猛反発を受けましたが。血液検査の結果は中性脂肪が、標準値の2倍の400もあり、あと諸々の値も上の値を示していました。主治医の意見は極端なダイエットは控えてほしいと言ってましたが。 私は、まずエンシュワリキッドの量を半分にしました。その後に豆乳と野菜ジュースを半分にして、ジュースを止めてお茶だけにしました。その結果少しづつ痩せてきて、あごの肉も取れてきて顔の脂肪油も噴出さなくなった。お腹周りも減って皮膚の湿疹もなくなり始めた。ベッドで寝たっきりの私達にとっては常識が通用しない、私独自の調整を模索していかないといけない事が判りました。
「1月」
新年を迎えて、この家と地域にもなれて子供たちも落ち着きました。今年は私の飛躍する年です。「2月」
私なりに、ALS患者さんに何か出来ないかと考えて、日本ALS協会愛知県支部に私の考えた日本ALS協会愛知県支部5年計画という物を作ってみました。
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「1月」
温かいお正月を迎えました。例年になく過ごし易い冬を迎えた。ストーブも日中はつけずに済んだ。こんな有り難い事はなかった。今年は長女の小学校の卒業式と、中学校への入学が控えています。忙しい年になるでしょう。
2月
今月になって自分の気持が固まりました。日本ALS協会愛知県支部の支部長を正式に止める事を心に決めました。たった1年という短い任期でしたが、私自身背いっぱい務めたつもりです。人からはもっと続けるべきだ! と言われましたが私にとってこれが限界と感じました。2月の中半に自立支援法の抗議に嘆願書を持って、名古屋市市役所を訪れました。保険課の局長と部長との面談が叶い45分に渉りALS患者の実情を話してきました。その時にALS患者の現状は理解している出来るだけの事はさせて頂くと言う言葉を貰いました。確約とは行きませんが大いなる収穫が在ったといえます。
「3月」
初月に滋賀県支部の設立総会に行ってきました。愛知県支部からALS患者さんが私を含めて3名参加されました。今回初めて福祉車両のレンタカーを借りて、ヘルパーさん2名(1名は運転手)に同行してもらい、滋賀県まで3時間のドライブになりました。妻がいかない長距離の旅は初めてです。不安は在りましたが、ベテランヘルパーが2名居るので、私の指示を的確に行動してくれるので安心していました。設立総会には、少し遅れましたが多くの患者さんとお話しができたし、日本ALS協会本部の幹部の方々ともお話しが出来て実りある時間を過ごさせて頂きました。帰りも3時間掛けて名古屋市に戻ってきました。
中旬、長女の小学校の卒業式、妻はてんてこ舞いしています。こんな時妻を手伝ってやれない事がとても不憫で生りません。長女の卒業式に出たくとも、行けば学校に迷惑と要らない神経を与える事になる。
長女が肩身の狭い思いをしないかと、先走って考えてしまう。愚かだと思いつつも妻と娘には言えない。いえばきっと妻からも娘からも何かの言葉は返ってくるのは、判っていても言う勇気がない。見たい気持ちが在るのに押し殺してしまう、死を前にしているのに何の遠慮をしているのか判らない。
「4月」
初旬、いよいよ長女の中学校への入学式、感無量というしかない。制服を着た姿を見ると生きてて良かったと思う。娘を抱きしめてやる事もできないが、声を出して「おめでとう」とも言って遣れない辛さ、それでも長女は私のベッドの脇に来て、写真をいっしょに取るといってくれた。私は、涙が溢れんばかりの笑顔を作って写真に写っている。こんな父親でも長女は認めているんだと思う。生きている価値があった思いがします。
中旬、カナメ病院を通じて、南生協病院に検査に行きました。目的は、VF(飲み込み)の検査、CTの肺の検査、
MRIによる臓器の検査、レントゲン検査を行いました。検査の結果肺にも臓器にも以上がなく、健康体だとお墨付きを貰いました。でもそれは意味が違うだろ!と反論しました。
「5月」
中旬、名古屋市昭和区の昭和保健所で、日本ALS協会愛知県支部の主催で、介護者を対象に吸引講習会が開かれました。定員は、35名で申し込みから2日で定員を締め切る事態になり、ヘルパーさんの積極制が伺われます。講習は、神経内科の医師による講演が1時間、人工呼吸器の説明と注意事項が1時間、吸引講習が1時間というカリュキュラムで行いました。講師の先生方もお話しに力が入りついつい時間がオーバーしてしまって、受講した皆様や昭和保健所に迷惑をお掛けしました。
「6月」
初旬、日本ALS協会愛知県支部の平成19年年次総会がALS協会本部の橋本会長をお迎えして開かれました。平成19年度の総会で支部長の席を退任する事に成り、
平成18年度の年間行事に参加していろんな方と、御会い出来て勉強になりました。運営委員会での私の発言は、運営委員を困らせた場面もありました。私としては、患者側から見た要望を日本ALS協会愛知県支部に上げただけです。しかし、それが私の我が侭と、取られた面が在ったかも知れません。ALS患者の私が全力で走った一年ではありました。ALS患者さんの為に何が出来るのか、何を求めてみ得るのか、必要としているのは何なのか、自問自答をしていました。支部長になって、何度壁にぶつかったか判りません。そこで手を差し延べてくれたのが、患者・家族の皆さんです。たいした事をしてない、私を後ろから支えてくれて、後押しまでして下さいました。本当に御礼を申し上げます。今の段階では支部長を退任してホット息を付いた状態です。これからも私で役に立つなら、ALS患者さんの為に動く積りでいます。
「7月」
初旬、私の高校時代の同級生と、スキー仲間が集まって、私と家族を昔仲間とよく行った岐阜県の飛騨のスキー場まで1泊で連れて行ってくれました。総勢14名の団体です。車3台に分かれて、私は、福祉車両のレンタカーを借りて友人が交代で運転してくれました。家族は、妻と長男が一緒に付いて来てくれました。妻の補助にヘルパーさんの同行を頼みました。行きは、朝8時に自宅を出て、愛知県一宮市に友人達が集まり、そこから東海北陸高速道路で、岐阜県飛騨高山市に行きました。高山市に着いたのは、11時ごろで昼食を取りながら、高山の町を見学しました。14時にスキー場に向かい、着いて皆で記念写真を撮って皆でいい空気を吸って旅館に向かいました。
下旬、西尾リハビリ介護訪問看護ステーションの訪問看護師5名が、私の家に見学しに来ました。お昼過ぎから3時間に渉り妻と私に質問をしてきました。名古屋市より情報が少なくて御困りのようでした。特に必要な情報は、外出に対しての心得はとお聞きになったので、それは経験を重ねるしかない。とお答えしときました。近くから出かけて経験を積むこと、出掛ける時は2人のヘルパーと家族一人が付き添って出かけて経験が積んだら一人抜ける。家族でもヘルパーさんでも外出する時は二人は付き添いが要ります。一人は車椅子を押してもう一人は荷物持ちに要ります。患者さんを含めた3人で出掛けるのが理想です。患者さんと家族一人とか、患者さんとヘルパーさん一人とかは、とても危険だと思います。患者さんと特別コミュニケーションが取れる方ならいいですがリスクが覆いと思います。とお答えしときました。
「8月」
下旬、西尾保健所の主催する、ALS患者のつどいに講師として呼ばれました。お昼1時から始り午後3時30分まで開かれました。私の病歴の経緯と思いを書きヘルパーさんに代読して頂きました。その後は患者・家族との交流会です。その時間の方が大切です。交流会には、3組の患者・家族が来られて充実した時間を過ごさして貰いました。西尾リハビリ訪問介護ステーションからも多くのスタッフがお見えに成っていました。私の話を熱心に聞いていただきました。
「9月」
初旬、京都に行ってきました。この目的は、上田リハビリテーション診療所の視察が目的で行きました。交通手段は、福祉車両レンタカーを借りて出かけました。片道3時間の道のりです。朝8時30分に名古屋市の自宅を出て、高速道路を乗り継いで京都に着いたのは11時でした。上田リハビリテーション診療所に直接向かいました。お昼前の時間を割いて上田院長が、私達の対応して頂きました。診療所は3階建てで、1階は診察室と待合室が一つに区切られていて、もう一方にリハビリの部屋がありました。2階は、リクレーションルームと食堂に分かれていて、皆さん楽しく過ごされていて、スタッフの方はお昼の準備にてんてこ舞していました。3回は、風呂とリビングルームとスポーツジムがありました。患者さんは75名から85名が通常だそうです。それに対するスタッフは45名もいまして、ちょとしたデイサービスではなくて施設と同じだと思います。
上田院長ならびに先生方とスタッフの方々には大変ご迷惑を掛けました。上田リハビリテーション診療所を出たのが、午後2時ごろでお昼ご飯を食べようと思ったのですが、急遽金閣寺に行く事になってお昼御飯は抜きという事に決まりました。金閣寺を30分ぐらい散策して、京都にお住まいのALS患者さんに会いに行きました。いろんなお話をお聞きして、楽しいひと時を過ごしあっと言う間に午後5時になってしまいました。慌てて帰ったのですが、名古屋市の自宅に着いたのが夜の9時になってしまいました。とても充実した1日でした。
「12月」
初旬、第4回エダラボン(ラジカット)署名運動をナゴヤドームイオンで12月8日に行ないました。署名運動は、午前10時から午後4時まで行なって3,000名近くの署名が集まりました。朝早くから出かけるので、体調を整えておかないといけないと思っていましたが、少し風邪を引き始めてたようで、身体が優れないまま出掛けてしまいました。署名会場では6時間車椅子に座りっぱなしで居らないといけないので正味10時間車椅子になります。午後になってどうも身体がおかしいのに気が付いて、額から冷や汗をかいていました。人と喋る気にも成れず目で文字盤を追う行為が出来ませんでした。署名運動が終わり家路に着いたのが午後5時で着替えさせて貰って落ち着いたのは午後6時でした。食事も入れずに風邪薬を胃瘻から入れて寝て朝の6時まで寝てました。たぶん相当疲れていたのだと思います。
2日間体調は戻りませんでした。やはり歳には叶わないと言う事です。
「年の暮れ」
今年も一年が過ぎ様としています。この一年いろんな事がありました。このALSと言う病気と向き合ってみて、私は世の中の人達に生かされている事をつくづく思い知らされます。今年も生きてこられた。また家族と新しい年が迎えられる。そう云う実感が湧いてくる。あと何回家族とこう言うけじめの日が迎えれるか、これは自分の体から吹き上げてくる心の叫びだと思います。来年のことは判りませんが、1日1日を生きて行くだけです。