| −書くこと2ー 書くことは考えることです。だから子どもは(大人も)嫌がります。「何を書いていいか分からない。」と。これは,テストをすると言われて「えー!」と言うのと同じ感覚です。普通の授業だったらじっと座ってただ時間が過ぎていくのを待っていればいいこともありますが,テストはどうしても自分がいくらか頭を働かさなくてはなりません。ここに苦痛を感じるのです。しかしこの頭をしぼる苦労こそが思考力を生み出していく元になります。またそういう苦しい作業を通した先にだけ一段上の聡明さ,賢明さ,鋭さが生まれてくるように思います。どんな子でも最初から書くことを喜ぶようなことはありません。そこをどのようにして「書こう」「書きたい」に変えていくかというところに教師としてのやりがいや面白味もあります。 −書くこと3− 「書くことを鍛える」ということの捉え方には2つの道があるように思います。1つは「作品」としての文をめざす道です。確かにこの道でいくと構成や表現の力量を伸ばしていくことができるでしょう。作文の時間にまず構想メモから始め,下書き,推敲,チェック,再度の書き直し等で1つの文を極めていきます。私が力を入れているのはそれとはちょっと違うもう1つの道です。 −書くこと4− 子どもを画家にするために図工があるわけではないように,子どもを作家にするために作文があるわけではありません。一度書いた文を何度も何度も推敲して,上手な作文が書けるようにしていくことも大切かもしれませんが,私は「書く」ことの価値はもっと他にあるように思います。つまり,「書こうとすることで考える」ことです。そして,「書いているうちに考えは深まる」はずです。大げさに言えば「思考する」「哲学する」ための手段と考えています。 −書くこと5− 「書く力」をつけることを通して「思考する力」をつけたいと思って取り組んでいるのが毎日の日記です。日記指導には教師によっていろいろなねらいがあります。私の場合は「思考の日常化」を気にしています。自分なりの考えを持つ手段として日記を利用します。「もし日記を書こうとしなかったら考えられなかった」という状況が理想です。自分の日常が目の前を流れていく小川のようなものとすれば,若い時にそれを何となく見過ごしていくのと,1日一度は手にすくってその温度や色,味を感じ,比較や吟味を行うのとでは「思考能力」の発達に違いが生まれてくるように思います。書くことが嫌われるのは,この「思考」を伴うからですが,今までの経験からすると,子どもたちは最初こそ嫌がりますが,毎日やらされているうちにそれなりにコツを覚え,時々は思考のヒットを飛ばすことも生まれてきます。もしずっと嫌々であったとしても,1年,2年と取り組んだ後にはきっと大きなお土産ができているはずです。 −書くこと6− 貴花田全盛の時代に,5年生の時から毎日毎日日記を書いてきた女の子の日記を1つ紹介します。この子は「日記への一言」で紹介している「地球は今」を書いた子です。「書こうとすることで考える」の1つの見本ではないかと思います。また「日記2」で紹介している子も,書くことを通して考える力を伸ばしてきているように思います。 −書くこと7− 哲学者のノートは読めないと言います。「思考」の成長をめざす日記指導をする場合ならば,日記自体はメモ帳のようなものでしかなくなります。書くこと(作品づくり)を目的にするのでなく,日記を「利用」して,毎日毎日考えて,書いて,書いて,書いて,その後に身についていくものの見方,考え方,判断の仕方に期待をしたいのです。 −書くこと8− 日記はメモ帳のようなものではあっても,こだわる点も必要です。野球では,キャッチボールを基本に忠実に何回も行うことでレベルアップが図れるように,思考力のレベルアップにおいてもまずは基本的な作業の積み重ねが必要だと思います。最初から哲学者の書く意味不明のようなものを書いていては意味がありません。毎日書く日記でも,言葉遣い,改行,主語述語,文節の長さ,字形等の基本を大切にするのは当然のことです。その上に表現や文章の構成の工夫をし,必ず自分の考えを入れるという習慣を身に付けさせ,少しはそういう思考や作業を楽しめるようになった後に「日記を利用した」といえる思考力の成長がみられるのではないかと思っています。 −書くこと9− 読むことは「受信」することです。書くことは「発信」することです。この関係はコミュニケーションとよく似ています。コミュニケーション能力という場合それは大きく分けて3つの分野に分かれます。1つは「聞く力」としての「受信能力」。2つ目は「話す力」としての「発信能力」です。しかし一番コミュニケーション能力として大事だと思うのは,そもそも人と関わり,話したり,聞いたりしようとする関心・意欲のエネルギーです。これが3つ目の能力だと思っています。これと同じように,様々な効果の必要十分な条件になるはずの「読み」「書き」についても,まずはそういう活動を行おうと思える気持ち,または楽しいと感じられる経験が必要になると思います。 −書くこと10− 読書だけでは力として頼りないものを感じて,何となく「書くこと」について書き始めてもう10まで来てしまいました。もう止めます。最後に「楽しめる」ということについて。今までの経験では,これはまず雰囲気作りにあると思っています。最初はどうしても「いや〜なもの」として,書くことが子どもの目の前に現れるはずです。それでも毎日続ける中で,ちょっとした表現や工夫,考えを教師が無理矢理見つけ出し,ほめ,驚き,感心し,喜んでいきます。そうすることで「嫌でやらされるもの」が「これでどうだ?」的な感覚になっていくこともあります。まず教師が子どもが書いたものを見ることを楽しみ,喜んでいく姿を見せていくこと。大きな目標は腹の底にしまって,肩肘張らず,気楽に粘り強くやっていきたいものだと思っています。 −はなし− ちょっとお間抜けな話を聞きました。その人は金曜日に歯を抜いたそうです。その晩何となく気になりながら,休日前ということでビールを飲んで寝たそうです。するとその晩,急に寒気がしてきて,クーラーをつけていても暑い部屋の中で毛布を3枚も掛けて寝たそうです。次の日は1日中身体の節々に痛みが走り,咳は出ないのに完全なインフルエンザ状態だったそうです。夕方にはとうとう病院に行く始末。「歯を抜いた時はアルコールはよくない」なんて常識です。本当に辛くて,死ぬかと思いました。いや,思ったそうです。 −リアリズム− 「単純明快にいって,すべての答えとはリアリズムである。」 これは最近読んだ,集英社「空に向かって打つ!!」(著者 本宮ひろ志氏)の本の中に出てくる一節です。いいですねこの言葉。教育界に必要な言葉ではないでしょうか。100の理論より1つの実践です。もう少し引用を続けると, 「すべての答えとはリアリティーであり,それは,野太く,決定的なものである。そこを,何の意味があって嘘で塗り固め,体裁ばかり整えようとするのか。無難に体裁を整えても,嘘であれば何の答えにもならない。」 「経済のことも,文化も,科学も・・・・。そこに出てくるのは,本当の意味でのリアリティーだ。やらなければ,残るのは敗者の愚痴だけである。」 −お兄さん1− ある日,中華料理店に入ろうと駐車場に車を止め,カバンの中の財布を捜していると(実はその時,財布を忘れていて店には入らないことになるのですが・・・)その店からすごく体格のいいコワモテのお兄さんが出てくるのが見えました。一瞬ヤバイゾと思い,目を合わせないようにしてまたカバンの中を探っていました。すると視界の端にそのお兄さんがこちらに向かってやってくるのが見えました。それも真っ直ぐ。マサカ・・・と思いながら少し緊張していると,とうとう私の車の横まで来て,何と窓ガラスをノックするではありませんか。 −お兄さん2− ノースリーブのシャツから出た,太い腕の先でガラスをノックする表情がまた変にニヤけているのがよけい不気味でした。意を決してドアを開けると,「センセイ。」・・・エッ???と,初めて正面からよく見ると,面影があります。「ひょっとして○○君?」 「はい。お久しぶりです。」にこにこしています。それからは,しばらくの間,私がどれだけ車の中で緊張したか説教のような笑い話を続けました。彼は同級生たちのその後の様子をいろいろ教えてくれました。教師になって2校目の学校で5,6年と担任した子でした。ということで,これからまた「再会シリーズ」を続けます。 −再会3− 県の端から端に転勤して何年目かの夏,新採の時に担任した子の「保護者だけ」が両親揃って2人でわざわざ私の自宅まで訪ねて来て下さったことがありました。「その節はお世話になりました。○○で3,4年と教えて頂いた○○です。」と挨拶され思い出しました。何年も経って何百キロも離れた所までわざわざ・・・ととても嬉しく思い,しばらく話していると,おもむろに「先生,この度の衆参同日選挙では是非○○に。」とのことでした・・・。 −再会4− ある年に担任した卒業生が成人式を行う年に,その式の来賓として呼ばれたことがありました。久し振りに行く地域で,葉書に書いてある会館も新築されたもので,どこにあるのかよく分かりませんでした。それらしい建物の近くに車を止めて探していると,隣にもう1台車が止まり,中から青年が出て来て,「先生。お久しぶりです。」と急に握手してきてくれました。その子は成人式に出席する教え子の一人でした。小学校を卒業した後,中学ではほとんど登校せずに卒業していました。定時制高校に通い,四国をバイクで一周すると年賀状に書いて送ってくれた夏に本当にバイクの旅をし,写真つきの便りをくれていた子です。実際に会うのは8年振りでした。繊細で鋭い感覚を持った子で,私が発表会の演技指導で一言言うと,その意味をはっきりつかみ,私のイメージ通りの演技を即座にやってのけるような才能を持っていました。 −再会5− 新採3年目に1年間担任した子が社会人になって,私の自宅まで訪ねて来てくれたことがありました。その子の家からはずっと離れていましたが,仕事の出張の関係で聞き覚えのあった私の住所の近くまで来たそうです。その町の学校を訪ねて,こういう名前の先生が近くに住んでいないかと職員室で聞いたそうです。私はその学校に勤めたことはありませんでしたが,私と以前同僚だった先生が偶然おられて,わざわざ車で先導して家まで連れて来て下さったそうです。私が家に帰ると,その彼が部屋に座って待っていました。彼は造園関係の会社に勤めていると言うので,いつかお願いすると予約しておきました。「新採日記」で紹介したスキーに行ったり,蛍を見に行ったりした子です。実はこの子も小学校卒業後,随分学校に行かない時期がありました。 −再会6− 出張の仕事の合間に来てくれた青年に,今だから聞けるということを聞きました。それは,中学校で不登校から登校するようになったきっかけは何だったのか?ということです。彼はあっけらかんとして「好きだった子が迎えに来てくれたから。」と答えました。不登校の原因は複合的なものだと言われています。きっと彼の場合も時間が経っていくらか機が熟していた時に,タイミングよく1つのきっかけを得ることができたということだと思います。それにしても,このようないわゆる「生きる力」は十分ありそうな2人の子がなぜ?と不思議でなりません。 −再会7− 一人で遠くにある教師の家まで行き,泊まって帰ったり,見知らぬ学校に入って職員室で住所を尋ねることができるような人間には十分「生きる力」があるはずです。また,成人式で8年振りに会った青年は,小学生の時に国語の時間に私が用事で遅れて行くと,前に出て来て文章の要約の授業を進めていたことがありました。黒板を見ると,前日の続きの段落の要約が書かれているのです。その子は,前日までの要約の授業を真似して,「段落の中のトピックセンテンス(話題文,重要文)を見つける→その文の中の重要な単語を見つける→その単語が最後になるように要約文をつくる→何人かが黒板にその要約文を書く」という流れをクラス全員に友達の助けも借りながら指示していったようです。また発表会で見せたイメージ豊かな演技力もあります。こういった子たちが,一時期学校に行けなくなったという事実が不思議でならないのです。 −再会8− 新採の時から3,4,5年生と3年間担任した子が大学生になって,かっこいい自分のスポーツカーで私の自宅まで訪ねて来てくれたことがありました。テニス同好会の夏休みの合宿でこちらの方に来たからということでした。彼も中学生の頃,何回か新幹線で私の家まで泊まりに来て,凧揚げなどをした一人でした。小学校で教えていた当時,算数などの問題を解かせると,教科書にない解き方をしてくる聡明な子で,いつも笑顔で素直,そして何事にも意欲的に向かっていく明るいガッツがありました。彼はまず東大に入り,1年して地元の大学の医学部に入り直したという羨ましい経歴の持ち主です。 9月へ |