「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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はじめに

ずいぶんと昔になります。新聞の人生相談欄に、こんな質問がありました。 「私の趣味は囲碁です。碁会所を開業したいのですが、大丈夫でしょうか・・・」
回答者は、こう答えました。 「開業すべきです。ただし、一つだけ条件があります。開業後は、碁を打つのはお止めなさい」
このやり取りは、その後も心に引っかかって、私の記憶から消えませんでした。

齢を重ねると気分が昔に戻るせいか、最近、私はプラモデル作成にはまっています。老眼で細かい作業は大変ですが、集中していると時間の経つのを忘れます。
しかし、考えてみれば、これもある種の労働であり、労働がなぜ「楽しみ」になるのかと問われると、にわかに答えることができません。
今、こうしてホームページを作っているもの、かつての仕事とあまり大差ない作業なのですが、やはり、職場で文章書きを強いられるのとは、かなり気分が違います。

「しごとが忙しくって休めないよ」とサラリーマンが愚痴るときの「仕事」と、 「対価として賃金を得るために労働する」という時の「労働」は、その内容がまったく同じであっても、いささか趣きが異なるようにも思えるのです。
所詮、私たちは、賃金という動力で動く歯車です。 与えられた仕事を拒否できるのは、それが法令に反する行為である場合のみ。 理由もなく「私、この仕事はやりません」と言えば、業務命令違反として処分されます。 「やったけど、できませんでした」と言えば、力量不足として、配置転換になります。
みんながみんな自分の好き勝手なことをやって、それでも企業が儲かっているならいいのですが、それは理想論でしょう。
そう思えば、仕事は100%「嫌なもの」になるはずなのです。にもかかわらず、「喜んでやる仕事」が存在するのはなぜなのか?

その昔、マックス・ウェーバーは宗教と労働との関連を説き、渋沢栄一は道徳と経営を結び付けようとしました。 私も、「しごと」には、やはり、単なる「収入を得るための手段」以上のものが含まれているように思われるのです。

私はかつて労働相談を担当していて、このサイトに労働相談関連の資料を掲載していました。 「少しでも労働関連の知識が普及すれば、労使間のトラブルも未然に防止できるのでは・・・」と、目論んでいました。
事実、水面下で紛争を未然に防いだケースもあったように聞きました。

しかし、反面、知識があるが故にトラブルが発生する場合も多々あることに、気づきました。 そう思うと、頑張ってサイトを維持していくだけの心の張りが保てなくなります。 たくさんの方からアクセスいただきましたが、人事異動をきっかけにして、ページを閉じました。

とはいえ、<人の意識におけるしごと>と<生活の糧を得る手段としての労働>との関係について、今だ、心にひっかかっているものはあります。
「しごと」と「労働」・・・その狭間にどんな違いがあるのか?
そんな疑問を軸に据えながら、今一度、このテーマに取り組んでみたいと考えています。

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【改訂版に寄せて】
本稿を掲載したのは、2010年から私が都庁を退職する2012年のことでした。
時代も変わり制度も変わっていますし、労働関係の情報サイトもごくありふれたものになりました。 そこで、ホームページのリニューアルに際し、本稿を閉じようかとも思いましたが、やはり普遍的に変わらない部分も多いように思われます。
なので、まぁ、自己満足に過ぎませんが、難しい法解釈やデータの部分、自分の身の上話、トピック的な話題は捨てて、 他の項目と重複する所も割愛し、使えそうなものは掲載しておこうと思います。
新たに、加筆した部分もあります。そのあたりは【補注】として補いました。
ちょっと説教じみたものもありますけど。お役に立てれば幸いです。

2019年9月15日     tsudax99