「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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白と黒の狭間で:過労死 (初出 2019.9.15)

【補注】
本稿はほぼ新作。元は労働時間関係の話だった。
しかし、労働時間関係の説明を始めると、それだけで終わってしまう。旧稿も大部分それに費やした。
労働時間をいくら説明しても、あまり意味が無いと思い。書き換えた。

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我が国の労働基準法の歴史は、労働時間関係の既定変更の歴史でもある。
戦後すぐ、1日8時間労働の基本が作られ、時間外労働の考え方が確立し、長らく改訂されなかった。その必要もなかった。
なぜなら、高速道路で制限時速を守る車がいないのと同じように、労働基準法の労働時間規定は「守られないのが当たり前」のまま放置されてきたからだ。
昔、有名だったのは「1日2時間、週6時間、年150時間」という“女性のみ”に適用された残業時間の制限だろう。 今ではそんな規制があったことも忘れられてしまったかもしれない。
本稿は、あまりにも煩雑な労働時間関係の規定を説明するために書いたが、先頃の“働き方改革”の流れで、さらに規制は複雑になった。 もはや、ここで述べる域を超えている。説明したとしても、解説書コピペでしかない。そこで、全面改訂することにした。

NHKの女性社員(当時31歳)が、2013年に過労死した。心不全だった。ピーク時の時間外労働は月150時間を超えていたそうだ。
私が都庁を退職した年だから2011年(平成23年)のことだ。NHKから職場で開催している「働く女性のための労働セミナー」の取材をしたいとの依頼が来た。
夜のセミナーだった。大きなカメラを背負ったスタッフが来るものと思っていたところ、女性の記者がハンディカメラを持参して1人で来た。
名前は聞かなかったが、過労死された方だった可能性が高い。
8時半くらいまで、会場の様子を取材されていた。
これから局に帰って、内容を編集する、という。
女性のためのセミナーだから、当然、家庭と職場の両立や、労働時間の短縮がテーマになる。私は、帰り際の彼女に意地悪な質問をした。
「ご自分の働き方について、どうお考えになりますか?」と。
「それを考えたら、仕事ができなくなります。考えないことにしてます。」と、彼女は答えた。

街角で街頭労働相談を行うこともある。
年配のお母さんが、息子の職場について相談に来た。
「息子の職場で、同僚の方が自殺した。息子のことが心配だ。」
勤務先を尋ねると、霞ヶ関だという。労働基準監督署の相談員は「管轄外で残念だ」と悔しそうにつぶやいた。

先般、国の厚生労働省の若手チームが職場の労働実態についての報告を行った。仕事に対するモラールは高い。
「厚生労働行政は、『自分がこの職場から逃げてしまえば、我々の行政の際にいる人たちが救われないのではないか』という職員の想いによって支えられているのが現状」
「残業することが美学(残業していないのは暇な人)という認識があり、定時に帰りづらい。」
その一方で、若手の41%が「やめたい」と思うことがあり、4人に1人は「将来に希望が持てない」といっている。
「生きながら人生の墓場に入った」「毎日終電を超えていた日は、毎日死にたいと思った」「家族を犠牲にすれば、仕事はできる」という声もあったそうだ。

この報告書を公表した厚生労働省は偉いと思う。通常、「こんなのを出したら、来年の入省希望者が減る」と言われて、握りつぶされる。

私の都庁時代も残業が多かった。
衛生局(現.福祉保健局+病院経営本部)は、当時「不夜城」と呼ばれていた。
都庁移転の時だった。隣の建物の建設局の職員が、衛生局庁舎の窓明かりが夜、消えていたのを見て、 「あそこでも残業しないことがあるんだ!」と驚いていたという話がある。
実は、建設局よりも1日早く新宿に移転しただけのことだった。
民間の警備会社のCMで早送りで夜通しの都庁の風景を流したものがあって、本当に私たちのいる階だけ灯りが消えていなかったのは、情けなかった。
あの頃、福祉局の若手職員が職場で亡くなったことがあった。「少しソファーで横にならせてください。」と言って、そのまま目覚めなかったという。
「ウチには都立病院がついてるから、大丈夫」だと、上司は言った。
まだ、“過労死”という言葉もなかった時代のことだ。

あの頃からだいぶ年月が経つ。職場環境もだいぶ良くなったと思う。
だが、それでも都議会の間は、かなりの時間拘束されているはずだ。
私たちは、議員の先生から「こんな質問をするよ」という連絡が来るのを待っている。 これを見て、あ~だの、こ~だの言いながら、何度も読み合わせをし、答弁資料を作る。
通告なしで質問される場合もあるが、幹部職員だって何でもかんでも知っているわけじゃないから、立ち往生してしまう。
現在の知事は、通告制度の廃止を命じたが、その知事だって、というか、知事だからなおさら細かいことは知らないわけで、議事が進まなくなってしまう。
そして、当時はその質問通告が来るのが遅かった。
特に特定政党が、遅い。答弁資料の作成は、日にちをまたいで続く。
私たち下っ端の職員は自分たちを「公務員労働者」だと思っていたが、こういう時には「官僚」と称されることを知った。
タクシーで自宅に帰る前に、朝日が昇ったこともあった。帰宅後、シャワーを浴び、シャツを新しくして出勤。睡眠時間ゼロだ。
それでいて、翌日の議事進行がうまく進まず、議員がその質問に行き着く前に、質問時間が終了することもあった。

その前の労働経済局時代、風邪をこじらせて、自宅で39度近い熱でうなっていたときに、電話がかかってきて「質問が出たから、出勤しろ」と言われたこともある。 まともじゃない、人の道に外れている、と思った。それでも、昼頃には出勤した。
フラフラになりながらも資料を作っているうち、質問通告の意図するところと、作っている資料とでは、何かズレがあるのではないかと気づいた。
翌日、議会のやりとりを聞いたら、やっぱりそうだった。通告の中身が抽象的だったので、受けた担当が違う解釈をしていたのだ。

議会が終わると、幹部職員が「皆さん、ご苦労だったね。ありがとう」と声をかける。
しかし、私たちは、議会中停滞していた日常業務の遅れを、そこから取り戻さなければならない。
だから、休めない。

役所って、実のところ、本庁はどこもそんな状態だった。
私は、残業ばかりしていたが超過勤務手当を申請すると自分の能力がないみたいに思われる(←事実、能力は?)のが嫌で、 超過勤務手当を原則として申請しなかった(←この考え方は間違い)けれども、議会の開催日の待機時間だけは、不愉快なので しっかり超勤を申請させてもらった(←これは正しい)。

でも、そんなところばかり繰り返していると、職員は壊れてしまう。そこで、人事異動で出先事業所に出る。いろいろと事情がある職員も出先に配属されることが多い。
ところが、リストラで出先をどんどん廃止してしまった。
そのうえ、新しい仕事を次から次へと作って、出先に下ろす。もともとパワー不足なのに出先の仕事が増える。どこもかしこも、オーバーロードになる。

もちろん民間とて、同じようなものだ。
私の友人は、大手の有名企業に勤めていた。毎晩、残業で煌々と明かりがついていた。その企業のビルが、少し離れた大規模住宅地からよく見えた。 このため「息子を就職させたくない企業ベストテン」という週刊誌の記事に、その会社が実名で上がってしまった。
以来、厚手のカーテンで光が漏れないようにしたり、夜間は地下室で仕事をするようにしたり、というようなことをしていたという。

どれも、かなり昔の話。巷では「24時間戦えますか~♪」というTVCMが流れていた頃のことだ。
今は、もう少し改善されていると思う(たぶん。そう信じたい)。続く→