INDEX
夢見る力(1) (初出 2010.9.12 renewal 2019.9.15)
【補注】
本稿を掲載した頃は、毎年の自殺者がコンスタントに3万人を越えていた。そして、それは、完全失業者数と見事なまでの相関を示していた。
できれば、そんな時代は、もう来て欲しくはない。
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この10年以上、日本では自殺する人が毎年3万人出ている(【補注】現在は3万人を下回っている)。
東京都中央区の人口が約10万人だから、3年で中央区が一つずつ無くなっている勘定になる。これはかなり大きな数字だ。
交通事故で死ぬ人は、以前よりだいぶ少なくなって年5,000人程度にまで下がった。
ニューヨークの9.11テロの犠牲者は3,000人。阪神淡路大震災の死者は6,000人。
東京大空襲の死者は8万人。
関東大震災の死者が14万人。
広島の原子爆弾の被害者が14万人。
第二次世界大戦の日本での死者は一般人を含めて300万人(数字はいずれもWikipediaから)。
そうしてみると、10年で30万人を超える自殺者は、世界大戦ほどではないにしろ、大きな自然災害や大規模なテロよりは、はるかに深刻だということになる。
60年以上も人生を生きてくると、鬼籍には入る友人もぼちぼち出てくる。
振り返って見ると、『人生はそんなに長いものではない』。
せめて、そのことを想う心があれば、死に急ぐ3万人は、ずっと減るのではないか、と思う。
私たちが小学校のとき、担任の先生は「日本はほぼ20年に1度の割合で、戦争をしてきた」と語った。
私は、戦後11年目の生まれだから、終戦20年目だとバリバリの若者になってしまう。だから、恐ろしくて震え上がった。
まったくもって幸いなことに、「戦争を知らない子供たち」は、そのまま中年を過ぎ高齢者になり、間もなく人生を全うしようとしている。
生きていくことについて不安があるから、人は何とか生きていこうとするのだ。
今の若者に、自分が「戦争で死ぬ」ことなど、想像もできまい。だから、自ら命を絶つ。
自殺者と雇用問題とは無関係ではない。
完全失業者数(※失業率ではない)が増えると自殺者も増える。前途に悲観する人が増えるわけだがら、当然といえば当然だ。
とすれば、失業者を出さない、あるいは、失業者をすぐ雇用するシステムを作ればいいのだが、これはこれで簡単にはいかない。
仮に従業員10人の会社があったとしよう。売上は最盛期の7割くらいに落ちている。その会社で従業員が1人退職した。経営者はそれを補充するだろうか。
否である。経営者は9人で企業運営する方策を考える。
仮に従業員7人の会社があったとしよう。売上は、従業員が10人だった最盛期の7割に落ちている。その会社で従業員が1人退職した。
経営者はそれを補充するだろうか。
やはり否である。経営者は、取引を減らすことになったとしても、従業員6人で企業運営する方策を考える。
その経営者に「せっかくだから、取引を減らさずに従業員を補充したらどうでしょう・・・」と持ちかけたとしても、躊躇する可能性が高い。
社会が縮み思考になっているときは、そういうものだ。
ここからが問題だ。なぜ、経営者は従業員の欠を補充しないのか。それは「不安」だからだ。何が不安なのか。
もちろん会社の将来に対する不安は大きい。自分も高齢になっている。
だが、不安のもう一つの原因となっているのは、新しい従業員そのものだ。
得体の知れない新人を採用するよりも、事業規模を縮小し、気心の合った仲間で続けられるところまで経営を続けていきたいと思う。
それが、小規模企業経営者の偽らざる心境だろう。
中小企業のオヤジにしてみると、夜ごと日ごと携帯電話をピコピコさせている若者と、どう接すればいいか見当が付かない。
「今の若いモンは・・・」などということを口走ると、自分がひどく年寄りになったような気がして嫌だが、
高度成長期の若者と比べると、率直に言ってゆとり世代は、かなり頼りない。ずっと幼い。
高度成長期の学生は、とにかく議論好きで、何かというと喫茶店で『世の憂い』を語り合っていた。
ただの背伸びで、それで自己満足していたのかもしれないが、「ものを考える」という習慣が自然と身についた。
もちろん、自分の20代だってたいしたものではなかった。
当時の私と今の若者を比べるならば、客観的にいって、どっこいどっこいといってもいいかもしれない。
器用にものごとを仕立てていく力は、今の若者の方が遙かに上だ。
「なんで、そんなことがわからないんだ」というボヤキは、おそらく我々の若い頃も言われていたのだろう。
一例を挙げれば、「新人は誰よりも早く出勤して、先輩の机を拭くんだよ」と言われ、「なぜです?」と聞き返したならば、「なんで・・・」というお叱りを受けた。
だが、今のオジサンである私が、「なんで・・・」という台詞を吐く場面は、昔とはシチュエーションが違う。
今、この言葉は“空想力”の差を感じるときに、つい出てしまう。
「これとあれをこうすると、こういう具合になって、こんなものができるが、そうするとこういう問題が起こるので・・・」、といったストーリー展開をする力が、
自分達世代に比べると、かなり心もとない。
最近の映画にはCGが駆使されている。
今の若者は、ヴィジュアルな環境の中で育ってきた。
それゆえ、クリエーターやアニメーターと呼ばれる人の能力は、当然昔よりも高い。
しかし、その反面、そういう能力の高い人たちが作っはずなのに、映像のすばらしさのわりには、ストーリーが「つまらない」作品も多い。
シナリオが面白くない。昔流に言えば、「いいホンに仕上げっていない」のだ。
人は誰でも、シナリオライターである。「自分の人生」という作品を書くという点に関しては。
いいホンを書くには、空想力がどうしても必要だ。
人生の中で、人はいろんな困難に直面する。
(1)進むべき方向は決まっているが、それを達成するのがとても難しい――実は、こういう問題は比較的簡単な部類に入る。
(2)AかBか、どちらかを選択しなければならない。Aを選べばBは犠牲になる。Bを選べばAは犠牲になる。
両方を選択する、あるいはどちらも選択しないという道は選べない――こういうのが、ほんとうに難しい問題だ。正解はない。
しかし、人生においてこういう岐路に立たされることは、しばしばある。
今の若者は(1)の課題には強い。
しかし、(2)のような課題に対し、「仮に・・・」といった論理展開をする力は、弱いように思えてならない。
「AかBか」のような決断を迫られたとき、頼りになるのは“空想力”しかない。私はそう信じている。
できればいいシナリオを書きたいものである。
続く→