「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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夢見る力(2) (初出 2010.9.12 renewal 2019.9.15)

【補注】
「大人になりきれていない大人」というものが問題視された時代だった。
その後、あまりにも雇用情勢の氷河期が厳しかったため、少年少女の時代から、生きることが厳しいということが、少しはわかることになったような気がする。
だが今は、また雇用環境が軟化し、「ゆとり教育」で育った世代が、わがまま言い放題できる環境ができている。
もちろん、そんなことは一時的な現象だ。だが、想像力=夢見る力がないと、手遅れになるまで、それに気づかない。
大きくこけたら、もう元のところには戻れない。つまずいた場所からリカバリーしていくしかないのだ。でも、そこからの道は険しい。
昨今の、ツイッターの投稿問題などを考えると、つくづくそう思う。

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2009年、豚に由来の新型インフルエンザが世界を席捲した。
大きな厄災をもたらすものと、世界は震撼した。確かに、その犠牲は大きかった。 現実には日本でも100人を超える死亡者が出た。その爪痕は大きい。
しかし、人類が壊滅的な打撃を被るには至っていない。 身内に犠牲者が出なかった人なら、「なんだ、大騒ぎしたのにこんなもんか・・・」というのが実感だろう。
新型インフルエンザが猛威を振るう前に終息した最大の理由は、感染が子供中心で、大人にはさほど及ばなかったことにある。
その理由は、大人の場合、過去にそれとよく似たウイルスに感染した経験があって、 そのため自然に抵抗力ができていたためではないか、と考えられている。

ゆとり世代の若者たちは、イコール、ゲーム世代だ。
私たちだって、かつてはゲーセンでインベーダーをずいぶんやったが、今のゲームをあの頃と比べると格段に進化している。
インベーダーゲームは、やっつけるかやられるかしかなかった。 やられれば、また100円を投入しなくてはならない。 少ない小遣いに、これは大打撃だった。 今のゲームは家庭内でできるから、時間の許す限り何度でもできる。

今のゲームでは、死んだ登場人物が何度も復活してくる。アニメもそうだ。
現実世界では、そんなことはない。
こういう“リアリティのある非現実”が、子供の情緒に悪い影響を与えるのではないか、と心配している。
昔のような大家族だと、やさしかったおばあちゃんや、おじいちゃんが他界していくのを目の当たりにして、 人のはかなさを知る機会もあっただろうが、核家族化が当然の現代では、そういう貴重な経験を積む機会も少ない。

もちろん、子供の世界での出来事なら、これはこれでいいだろう。
私たちの世代だって、最終回にゼットンに倒されたウルトラマンはゾフィーに命を分けてもらったし、瀕死のセブンもなんとか光の国に戻った。 ボロボロになったマジンガーZは、土壇場でグレートマジンガーに助けられる。
そうでなければ、救いがない。

しかし、人はいつかは、そういうご都合が現実には通用しないということを知る。
そうして、自分に許されている現実の中で生きるようになる。それが「オトナになる」ということだ。

ところが、最近はそうなりきれていない人が増えているように思われる。
「人間は、生物としてはひじょうに未成熟な状況で生まれ、自活できるまで長い時間をかけて成長する」と言われるが、 最近の社会人も同じで、「ひじょうに未成熟な段階で就職し、企業に適応できず短い間に転職する」というのが、社会の実情となっている。
自営業者が減りサラリーマンが増えて、親は子供に自分の働く姿を見せられない。そういう学習機会を得ないまま成熟した子が社会人になる。

専門家の話では、今の若者は決意を固めて就職するのではなく、たまたまその会社に籍を置くだけ、という感覚なのだという。
だから、ネーミングや風潮だけで就職先を決め、ちょっとでも気に入らないことがあれば、すぐに辞めてしまう。 学校の延長のようにしか職業生活を受け止められないと、「気に入らないなら辞めよう」という判断も早い。
苗床代わりに就職されたんでは、企業も人材育成の意欲を失う。
だから、「新卒は即戦力で使い捨て」「本格雇用は第二新卒から」という方向になる。

最近では社会人としてのマナーとかプロトコルとかを教えてくれるセミナーも多い。
しかし、会社における一人一人の構成員の「立ち位置」の違いまで、教えてくれるところはあるだろうか?
そうした「人間関係の学習機会」として捉えると、とりあえず派遣で働くということも、“社会人としての初期の段階に限っては”(という、括弧付きで)、 有効な選択肢だといえる。
要するに「就職とは思わず、社会勉強だと思って働く」ということだ。
文化人類学や精神医学の分野には、参与観察(participant observation)という言葉がある。
対象物を知るために、そのメンバーの一人として行動する調査手法などをこう呼ぶ。
そういった社会観察の手法として「派遣という働き方」を吟味してみると、社会人としての成熟過程において、ひじょうに役に立つ手段なのかもしれない。
そういう心構えで望めば、派遣労働の日々は「しごとを通じて自分を成長させるプロセス」として再評価できるようになる。

まだ雇用不安が顕在化する前のことだが、電車の中でこんな会話を聞いた。
「ぼちぼち、貯金も30万円を切ったし、そろそろプー(※無職のこと)をやめて仕事でも探そうかと思ってる・・・」
この若者は、仕事がいつでも簡単に見つかるとは限らないことや、最初の給料をもらうまで暮らすための資金が最低でも必要であることや、 いつまでも親の援助が保証されているものではないことなどを、想像する力が不足しているものと思われる。

私たちが子供の頃だと、「大人になったら何になりたい」と聞かれれば「パイロット」とか「野球選手」というのが相場だった。 もう少し大きくなると、「科学者」とか「商社マン」とか、話が具体的になるが、 少なくとも個人の気持ちとして<目指したいベクトル>のようなものは、忘れてはいなかった。
しかし、今の子供たちは、あっさり「希望は公務員」という。「将来、何になりたいかわからない」という目標がはっきりせず、 社会状況も先行き不安定であるとすれば、第一志望は公務員であっても不思議はない。
たしかに公務員の身分は安定している。しかし、「すまじきものは宮仕え」という状況は、今も昔も変わらない。 小学生の頃から公務員志望の“ボクちゃん”がどこまで保つかとなると、いささか心配だ。

目先のことだけに関心が集中し、長く我慢することもできず、ジョブホッピングを続ける。
病気でもして働けないことがあると、奈落の底へまっしぐらだ。 ちなみに、今日日、自己破産するにも30万円くらいのお金が必要である。その資金すらない。

昨年(初出は201年なので2009年のこと)、「派遣切り」が社会問題になったが、そもそも“有期雇用”というものは、文字通り“有期”であって、 期間が終了すれば雇用関係が切れるのが当然だ。 だらだらと更新を続けていた企業側にも問題があるが、あらためて驚く労働者側も、社会勉強が足りない。

「赤ちゃん返り」という現象がある。自分から遠のいた親の関心を引き戻すための子供の反応だ。
弟や妹が生まれたとたん、哺乳瓶でミルクを飲みたがったり、おもらしをしたりと、 突然赤ちゃんに逆戻りしたような行動を起こすことらしい(チビダスhttp://chibitus.allabout.co.jp/keyword/k162.htmによる)。

大人にも、「境界性パーソナリティ障害」というものがある。 「見捨てられることを避けようとする気も狂わんばかりの努力」、「理想化と脱価値化との両極端を揺れ動く」、 「自己を傷つける可能性のある衝動性」(Wikipediaによる)などがその特徴だが、これは「赤ちゃん返り」をかなり極端にしたものと、よく似ている。

「周囲の人々は、すべての愛情を自分に注いではくれない」 「どんなことでも、自分の思い通りになるとは限らない。むしろ、自分の思うとおりになることは少ない」――それが、大人の世界では、当然の前提だ。
だが、「愛情は自分に注がれるべき」「願いは常にかなうはず」との前提で社会が成り立っていると考えると、 当然、周囲の人たちの自分に対する態度は、とても理不尽で許せなく感じるようになる。

ひょっとしたら、社会全体が、こうした傾向を強めているのではないだろうか。それが自殺者3万人の背景にあるのではないか、と私は考えている。

夢を見ることは大切だ。だが、その夢がかなう人はきわめて希である。それを知ることで人は大人になる。
「好きなこと」と「できること」は違う。アニメが好きでも、アニメーターに誰もがなれるわけではない(能力+体力の両方が求められる)。 「お笑い」が好きでも、生活できる収入を得ているのは、一握りだ。

亀井勝一郎だったと思うが、人間が大人になるためには、失恋とか自殺未遂とか経験してみることが必要だという言葉がある。 つまり、ある種の憧れを持ち、そしてそれがかなわないことであることを知らねば、人は一人前になれないということだ。
現実を見つめることは、自己を否定することになる。そこで、絶望の淵に立ってはじめて、本当の人生を歩き始めることができる。

現実逃避の手段として自殺に走る人は、夢を見、その夢を捨てざるを得ない現実を経験してこなかった人ではないか。

「夢を捨てること」を受け止める勇気こそ、人生の苦難を受け入れるための免疫である。

ただし、その免疫は「夢を持つ」というワクチンなしには、体得できない。
だから、かなわぬことと知っていても、夢を持つことが大切になってくるのである。(終)