ADDは言い訳の理由にならない。

普通の人間が普通に出来る事が、ADD者には大変な努力を要する。どのような苦労なのかは、説明が難しいが、一つの例で説明してみる。

人間は起きている間、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚を通して絶え間なく膨大な情報に接している。今の私にもパソコンディスプレー、キーボード、自分の指、パソコン本体、時計、モデム、マウス机、壁、カーテン、ライトなどなど無数の物が見えている。湿って多少かび臭い空気のにおい、私自身の体臭、口臭も注意を注げば感じる。口の中の唾の味を感じることが出来る。指がキーボードをたたき、足は絨毯に触れ、尻は椅子のクッションの上にあり、着ている物が全身に触れ、眼鏡がかかっていていて、エアコンの風のながれも感じる。エアコンの音、パソコンのHDDやファンの音が聞こえ、キーボードをたたく音が聞こえ、椅子のきしみが聞こえ、さらに気をつけてみると自分の呼吸音、鼓動も聞こえる。

人間の感覚器官は、外界の情報を取り入れ脳がそれの一つ一つをチェックし、必要があれば外界にフィードバックするためについている。しかし、上記にあげたような刺激を私の脳がすべて刻々チェックしていて、しかもそれを私が意識していたら、それだけで疲れ切って、文章を綴ることなどできない。つまり、私が今利用している外界の情報は、視覚から得ているディスプレーと、キーボードをたたく指先の触覚だけだ。それ以外は不必要なので自動的に切り捨てている。しかし、依然全感覚器官を動員して監視だけは続けている。だから、もしここにあるはずのない煙のにおいを感じれば、私の脳は直ちに最大限のアラームをならすだろう。下手をすれば火事で逃げ遅れて焼け死ぬかもしれないからだ。もし通常の椅子のきしみ以上の振動を感じれば反射的に私は立ち上がり、避難する必要があるかどうかを判断するため、視覚聴覚触覚を動員して周りを観察するだろう。それが出来なければ、もしかしたら地震で崩壊した家屋の下敷きになるかもしれないからだ。

これは普通の人間が普通にやっていることだ。そして私にも出来る。私の問題はその延長として、普通の人間が今必要な情報以外はフィルターをかけて現在の作業に集中できるのに、私には出来ないという点だ。普通の人なら、食事をしているうちに、昔見た映画のことを思い出し、その主演俳優が誰だったかが気になって食事を続けられないという事はないはずだ。仮にちょっと気になったとしても、食事がすんでから調べれば良いだけのことだし、別に知らないままでもかまわないことだ。が、私は、それが一度頭の中に浮かんでしまうと、食事のことが頭から消えてしまう。で、その映画のことを書いた資料を探すことになる。運良く直ぐ見つかる事などあるはずが無く、前に作りかけて放り出してあった試作品のスケッチが運悪く床の上に散乱した山の中にあったりすると、たちまちそのスケッチを検討し、図面を書き直す作業が始まる。映画のことも主演俳優のこともきれいに頭から消えている。図面を書くためにテーブルに載っている食器を押しのけようとして自分が食事中だったことを思い出すが、いまは図面を描いて、終わってから食事を再開しようと思う。その図面の試作器が、もう必要が無くなっていて図面を書く必要もなくなっていることも理解しているのだが、止められないのだ。なにしろ、前回放り出したときはともかく、今は気に入った作業だからだ。このように、私はそのとき瞬間的に意識に上った物に、食いつき瞬間的に集中してしまう。継続して一つのことに集中することが出来ないのだ。そして、普通の人間が当たり前にかけている感覚器官のフィルター、意識のフィルターが普通に機能していないから、何でもが脈絡なしに意識に上ってしまうのだ。もし私がダボハゼだったら、直ぐに釣られて長生きは出来ないだろう。

次の食事の時、食器がないことに気づき、探し回ったあげくテーブルの上に食いかけがこびりついたままの食器があるのを見つける。前回図面描きで中断したままになっていたわけだ。ただし、その図面も中途半端になって今は書きかけがどうなっているかもわからない。

私は物事の優先順位が意識しない限り決められない。誰でも無意識に雑用の中でやっている,物事を整理して要不要で実行するかどうかが決められない。そのとき気になった件以外が頭から消えてしまい、次の瞬間別の件が頭に浮かんでくるので一つのことをやり通せない。膨大な量のto do listを前にして、何からどうやって手を着けて良いかわからず、混乱し、結局何もできない。

ADD者の特徴だが、総じて物を片づけることが出来ない。訓練することでかなり出来るようになるが、決してうまくはならない。それ以前に、普通の人には理解できない理由で異常に散らかしてしまうのだ。

普通の人は、何かを使い終わったら無意識に元に戻す。私は、そこに置きっぱなしにする。他のことに気を取られていて、使用し終わった物など私にとっては存在しないからだ。もっとわかりい例を挙げれば、コンビニのおにぎりを食べるために包装を剥く。普通の人はむき終わった包装材をゴミ箱に入れる。あるいは、開いたコンビニ袋にまとめて入れ、後でゴミ箱に入れる。それに苦労している人は、普通は居ない。

私は、おにぎりの包装をはがすと、関心はおにぎりの中身に向かっていて、包装材のことは意識に存在しなくなる。包装材は床かテーブルの上に置きっぱなしになる。むろんおにぎりと一緒に飲むお茶の空き缶も同じ運命をたどる。

その私も訓練して掃除は出来るようになった。置きっぱなしも前よりは減った。いっぱいになったゴミ箱が空になるのは物理的に入らなくなったときか。置きっぱなしのゴミも多いので、ゴミ箱がぎゅうぎゅう詰めになるまでの期間はかなり長い。ぎりぎり必要になるまでは掃除に着手できないし、出来たとして、完全とはほど遠い。もし私が居間を完全に、普通の奥さんがやっているように掃除をするとなると、一週間はかかる。その間、掃除以外で私はその部屋に立ち入ってはならない。なぜなら片づけている最中に散らかしてしまうからだ。現実には狭い家で居間に入らないわけには行かないので片づけるそばから散らかすことになり、まともに掃除をしていたのでは絶対に片づかない。それを解決するには二つの優れた方法がある。

一つは、とにかく散らかっている物を何でもかんでも押し入れ、タンスに押し込み、入りきらない物は台所に段ボールをおいてその中に詰め込む。見た目にはきれいになる。人が来るときには欠かせないテクニックだ。欠点は、いつまでも押入に入ったままになり、押入をあけると雪崩が起きること,そしてもしかした二時間の捜索で見つけられた筈の品物が永久に姿を消すことだ。とにかく目に見えない処に物を押し込む事で、冷蔵庫の中には十年物のカビだらけの食い物が未だにある。冷凍御飯は、三年くらい経っても、味はともかく食える物だと知った。他にも決してふたを開けてはならない鍋があり、そばを通るときは目をつぶる必要のある怖い物が台所にたくさんある。

二つ目は、散らかっている物をとにかくゴミ袋に突っ込み、否応なく外に出してしまう。実に素早く片づけることが出来る優れた技だが、欠点もある。必要な物まで捨ててしまうのだ。買ったばかりでまだ読んでいない本、人から借りたCD、中身を出していないスーパーやコンビニの袋、脱ぎ散らしておいた服が犠牲になる。二、三度財布がなくなって大困りをしたことがあるが自分で捨ててしまった可能性も否定できない。

余談になったが、物を片づける事が出来ないように、私は情報を整理することが出来ない。食事、洗濯、入浴、洗顔などなど、毎日機械的に繰り返す作業は身体が覚えるので意識しないで出来る。もちろん完全ではないが、致命的な事までには至っていない。何が致命的かは各人で判断が違うだろうが。が、この機械的がくせ者なのだ。会社勤めをしていたとき、休みの日に全く別なところへゆく必要があり家を出るのだが、気がついたら通勤ルートの駅で降りていることなど日常茶飯事だ。エアコンをテレビのリモコンで操作しようとしたり、漬け物の小鉢に卵を割り入れてしまったりのたぐいは、いちいち数えていない。(卵をかけた漬け物はまずい。やらない方が良い)

私がやるような失敗をまたしてしまったと会社の同僚などが愉快そうに話すのをよく聞いた。私もみんなと一緒にへらへらと笑った。が、内心は情けなかった。彼はそんな失敗を年に一,二度やるのだろう。だから笑い話に出来る。私に一日に、二、三度それをやるのだ。

物事を整理できない。普通の人が無意識にほんの短時間だけ記憶しておけることが全く出来ない。意識すれば、普通の人以上の記憶力はあるのだが、それはたいがい無秩序に、何の理由もなく思いついた、生活上無用な知識の断片の場合が多い。私がリスだったら、冬に備えてあちらこちらにドングリを埋めるなど出来ず、きれいな小石や蝉の抜け殻でもため込んで、結局冬のはじめに飢え死にする羽目になる。そのとき理解のある女房リスでも居れば、私の分のドングリも確保してくれるのだろうが。その前に、何かに気を取られている間に梟にでもおそわれて一巻の終わりか。




どうして普通の人間は当たり前に物事を順序立て、優先順序を決めて処理でき、多少の雑音や邪魔が入っても直ぐ本来の仕事に戻って何事もなく片づけられるのか理解できなかった。同じ事をするために私はへとへとになるまでエネルギーを費やさなければならないのだ。結論として私が導き出したのは、私には知能障害があり、小学校の時IQテストの点が高かったのは判定のミスだということ。中学高校で割合うまくやっていたのはよほど人がカバーしてくれたからだ。社会ではみんなライバルなのだ。

こんな事も考えた。私は子供の頃から本が好きで、一時期は自分に毎月百冊の本を読むことを課した。そのころはそれだけの時間があったためもあり、短期間だが実行できた。また、私はかなりの速読で、普通の文庫本をじっくり隅から隅まで読むのも一時間あれば充分だ。内容をとりあえずつかむだけなら十分で良い。それは今でも変わらない。だから、大抵の本は本屋の立ち読みで良い。読むだけの本はとても買いきれないし、今でさえ押入の半分と壁の一面は本で埋まっている。図書館から借りて読んだ。返還期限を大幅に過ぎて催促電話を受けるのは再三だったので、その管理能力も多少付いてきた。そんなわけで、雑学はかなりの物だ。仕事に必要な知識も細切れに持っている。好きなことに限ってだが、理解もできている。

私には特に小鳥を眺める趣味はないが、先のアルバイトで一緒につとめた年輩の人は若い頃からバードウォッチングが好きで、他に何の趣味もないが小鳥のことだけは知っていると得意そうに言っていた。私は小鳥を話題にして彼と親しくなろうとし結局彼の反感を買った。もちろん小鳥全般に対する知識は私は彼の足元にも及ばないが、それでも、ロクスケさんは何か専門の勉強をされたんですか、と言わしめた。むろん、お世辞もあったろう。例えば鳴禽類だけが人類以外に唯一複雑な音声言語を有していて、人間の言語障害の研究に役立っていること、ガラパゴス島のフィンチは棲み分けによりくちばしの形が異なり、ダーウィンはそれで進化論を思いついたなどは彼の知らないことだった。アフリカ象のラテン分類名がロンソドンタ・アフリカヌスだと言ったときの彼の言うに言われぬ表情を今も思い出すことが出来る。

私には知識があったが相手によってそれを出して良いかどうかの区別を考える前に口に出してしまう。小鳥に全く関係のないロンソドンタ云々を口にする必要は全くなく、相手は今小鳥のことを話題にしているのだという事実を思い出す前に口にしてしまうのだ。まして、他の誰かがコンピューターの話をしている処へ私が行き会わせて、話に刺さり込んで彼らの間違いを指摘し、どうでも良い雑学で正しい知識を与え、いつの間にか天文学へと話題を振り向けてしまう権利はない。もちろんそれは私も知っている。が、知っていることと、やってしまうこととは私において全く別物なのだ。

私が本を速く読め雑学を得ることが出来たのは、サバン症候群だとの考えも、納得できる結論だった。サバン症候群とは、知能レベルの低い人たちの中に、常人の及ばない記憶力や計算力を見せる状態だ。放浪の画家といわれた山下画伯もその一例だろう。私は、この年齢にしても相当記憶力に自信がある。

かなり前からIQとはかなり胡散臭い物で、頭の善し悪しの指数にはならないと思うようになっていた。頭がいいというのはどのような状態なのかは定説がないが、詰まるところいかに効果的に情報を取り入れ、理解するかどうかだと思う。そのためには、記憶力が良いことも必要だろう。そこまでは私は条件を満たしていると思う。頭の良い条件の最大の項目は、理解した情報を効率よく組み合わせ利用する能力だ。その点については、私は全く当てはまらない。いくら情報を取り入れても整理することが出来ず、まして利用することが出来ないのであれば、私は白痴なのだと結論を出した。

当然その結論はその後の私の人生に暗い影を落とした。何をやっても完成させられない、せいぜい人並みの半分位を目指すしかないし、それくらいだったら全エネルギーを費やせば出来る。それ以上のことを目指すのは時間の無駄だし、どっちみち後で苦い思いをすることになる。つまり、徹底した悲観論者になった。最初から結果をあきらめていれば、出来るはずのことも出来るわけがない。今は、いや、何とか方法があるはずだと自分を鼓舞している。しなければ自分でも望ましくない終焉を迎えることが目に見えているからだ。それでも、その背景に悲観論が横たわっている事には変わりない。途中ははしょるが,私もひどい自己嫌悪を持つようになり、またすべてに自信を失い、何をやってもどうせうまく行くはずがない、と最初からあきらめるようになった。一時は、生きていても仕方がない、なんとか楽に死ねる方法はないかとその方法を探すことに熱中したりした。ただ、幸いなことに、方法を探すことに熱中しすぎて実行するのを忘れた。


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